■ 18 誓い
茜色に染まった夏雲がのんびりと浮かんでいる。一日の仕事を終えた夕日は、山の稜線に静かにその姿を隠そうとしていた。
--湖の残照
ほの暗い湖面に夕日が溶けだし、橙色の道がさざ波に揺れて輝いている。
ゆるやかに漂うボート。その中にわたしは身を横たえている。ボートに当たる水の音。暮れなずむ空には星がまたたき始めていた。
ただこの大自然に身をゆだねていたかった。この湖に包まれていたかった。そして、先生を感じていたかった。
四日前にもちょうどわたしはここでこうして藍色の空を見上げていた。あの時は先生のことを想いながら思わず涙が流れた。
先生のことをわかっているようでいて、でもやっぱりわからなくて。自分のイメージの中だけで先生をわかったような気になっている自分が不安で、寂しくて……。
(神様は、そんなわたしにこの四日間を与えて下さったのね)
事故に遭い記憶を失ったことは不幸なことだったが、そのことで先生の想いがわたしに届いた。
(これは奇跡? それとも、わたしと先生の絆が引き合った必然? --泣かないわ。もう不安じゃないもの……)
先生は心からわたしのことを想ってくれていた。大切に考えてくれていた。それがわかったから……。
藍色の空は、まばたきするたびにその色を濃くしている。
(もうボートを桟橋に戻さなくては)
時刻は過ぎていた。
(またこの前と同じようなことになってしまったら大変)
あたりを見回してみた。大自然がわたしを取り囲んでいる。聞こえるのは自然の音だけ……。
(でも、もしまた同じようなことが起こっても大丈夫。記憶を失ったって平気。わたしと先生は必ずまた惹かれ合うはずだもの。そんな気がする。だって、わたしと先生は……)
「先生…、直江先生。今、わたしと一緒にボートに乗ってくれているんですよね」声に出してみた。
その声は静寂に吸い込まれていった。
わたしにはわかっている。先生が、今、ボートに乗ってくれていること、そして、いつもそばにいてくれることが……。
(先生は日記の中で「ボトルを湖に戻して欲しい。僕の想いを湖に戻して欲しい」と言っていました。でも、この日記はわたしが持っています。だって、わたしは「何かの偶然でこの文章を読んだ人」ではなくて、先生の想いとわたしの想いが通じ合って、必然としてこの日記を手にしたのですから。先生の想いを受けとめるべき唯一の人がわたしなのですから……。その代わりに、今度はわたしの想いをこの湖に置いていきます。先生と同じように……)
ボートに乗る前に購入した五百ミリリットルのペットボトル。その中身を空け、そこに先生のレポート用紙の余白をちぎって書いたメッセージを入れ込んだ。
まだ真新しい透明のポリエチレンごしにメッセージの文字を確かめた。
わたしはいつも先生と一緒にいます
先生のそばに、これからもずっと……
ゆるやかにうねる湖面。その上にそっとボトルを置いた。
うねりに合わせながら、徐々に徐々にボートから離れていく。湖に抱かれるようにしてほの暗い湖面を漂うボトル。
湖は間もなく訪れる漆黒の闇を迎い入れようとしていた。そして、どこまでも穏やかだった。
<終わり>
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