しばし思い出に浸っていた倫子は、思わず拍手をしていた。
倫子:「ありがとうございます。とても素敵」
得田:「ふっふ。ベートーベンみたく耳が悪くなったら無理だったろうけど、僕はその点恵まれてるよ」
倫子:(恵まれてる? もう立てなくなるほどなのに、食事も通らなくてこんなに痩せて、皮膚をガン細胞が突き破って出てくるほど病状が進行している自分のことを?)
日差しを受けて亜麻色につややかなチェロを見ながら、倫子は人の持ってる力強さに改めて勉強させられる思いだった。
得田:「この楽器自体はね・・・貴女のお子さんよりもまだ赤ちゃんなんだ」
倫子:「え? 赤ちゃん?」
得田:「できて、まだ半年ってとこ」
倫子:「新しい楽器なんですねぇ」
得田:「ほら、ヴァイオリンとかチェロとかこういう弦楽器はね、300年、400年って使い込まれてる楽器もあるんだよ」
倫子:「あ・・・ストラディバリウスとか名前聞いたことあります」
得田:「ストラドや、チェロだとアマティとかね、モーツァルトがいた時代を知ってる楽器もある・・・何百人もの弾き手に弾き込まれ、ありとあらゆる音を鳴らしてきた楽器だからこそ、深みのある奥底から心に訴える力を持ってるよ。みんなその音色のすばらしさをよく知ってるから、無理して手に入れたがる」
倫子:「でも、これは赤ちゃん?」
得田:「そうさ・・・これから音色を作っていかなくちゃならない。弾いて弾いて弾きこんで、何年もいろんな音をならして」
倫子:(この人は・・・自分の残り時間とこの楽器の音づくりとどこまでいけるか、賭けているのかもしれない・・・)
倫子はふと、最期まで医者であり続けたいと病気のことを誰にも言わなかった直江の姿が浮かぶ。
直江:「死んでいく僕だからこそできる医療がある」
得田:「まだまだ、まだまだ、僕はもっとうまく弾きたいよ。もっともっとうまくなりたいね、チェロをもっとうまくなりたいよ」
思わず目を見開く倫子。
倫子:「誰もが認める素晴らしいチェリストのこの人が、もっとうまくなりたいと言い続けてる・・・本当に音楽一筋なんだ。なんて純粋な人なの!?」
でも、倫子は、何か訴えるように音とは呼べないようなざらついた弾き方をしていることもある得田の葛藤も何度も見ている。苦しさも辛さも恐怖も音の中で、音楽の中でこの人は自分を落ち着かせているんだな、自分を保ち続けることができるんだな・・・
弟子の一人から、得田がレッスン中に説いた言葉を聞かされた。
得田:「言いたいことがあるんだったら、音楽で表現したらいいんだよ。言葉で何か主張すると、それは時には他人を傷つけることもあるかもしれない。でも音楽で表現すれば、それは誰にも、何の罪にもならないから。そして、僕らには、楽器が最大の味方なんだよ」
私は・・・白い影の中で死と向き合っていた直江先生の最大の味方になれてただろうか・・・
3月31日。富士山が見渡せる素晴らしく晴れた一日
得田憲一の最期のコンサートがホスピスで行われた。
前日から40度近くの高熱が治まらず、もう車いすで、ベッドから車いすに乗ることすら自力ではできなくなっていた。楽器を支えるのも苦労するほどに進んでいる病状、当日も会場に向かう寸前、激痛が襲い、しばらくじっとして耐えていたほどで、もう末期の症状も相当進み、誰の目にも限界を感じさせる病状だった。
それでも、車いすと格闘しながらも彼はチェロを奏でた。弟であるヴァイオリニストとの弦楽三重奏、そして、チェロの神様と言われたカザルスが愛した「鳥の歌」。
「カタロニの鳥は、ピース(peace)、ピースと鳴くんだよ」とチェロの巨匠はこう語ったという逸話が残っている。内戦に常に翻弄された国に生きたカザルス。
この哀調を帯びた曲「鳥の歌」
これが得田憲一最期の演奏だった。
このとき、初めて・・・倫子も初めて見た・・・彼が弓を手に顔を覆う姿を・・・初めての、そしてそれきり二度と見せなかった、彼の涙だった。
この日の得田憲一の最期のコンサートの模様はビデオに収められ、のちに、テレビのドキュメンタリー番組にもなった。
倫子も・・・改めて、壮絶ともいえるガンとの闘いと、生きるための人の営みを思う。石倉さんの死の迎え方も、そして直江先生の死の迎え方も、そしてチェリスト得田憲一の死の迎え方もそれぞれに違っていた。結局、何を貫き通すか・・・それが生きることであり、死ぬことなのかもしれない。
5月17日 「ああ、水がうまい、次、水・・・」という言葉が最期の言葉だった。
チェリスト・得田憲一、享年56才。
彼の死を悼み、彼が長く首席奏者を務めたNN交響楽団では団員全員が立って演奏し、音楽葬として彼を送ったと聞いた。
続く 8話は2/7アップ予定です。