知られざる小林多喜二の周辺

 
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太郎と北方領土とシベリア抑留



昭和16年(1941年)10月10日に大陸から帰国(大阪港に上陸)した太郎は、苫小牧には戻らず第七師団がある旭川に滞在しました。そして12月1日に陸軍大尉になりました。任命したのは内閣総理大臣の東條英機です。12月8日(日本時間)のマレー上陸作戦で対英国戦が、真珠湾攻撃で対米国戦が始まりました。これによって戦いは新たな局面に突入し、それまでの「支那事変」は「大東亜戦争」と呼ばれるようになりました。最初は破竹の勢いで勝ち進んだこともあってか太郎は戦地に向かうことはなく、翌年の昭和17年(1942年) 7月16日に召集解除となって苫小牧に戻りました。苫小牧では王子製紙の七星寮や北光寮の労務係を担当しました。大東亜戦争が終盤にさしかかり、太郎は昭和19年(1944年)5月に再び召集されました。5月17日に王子製紙の七星寮を出発して旭川第七師団に向かいました。翌年(昭和20年:1945年) 3月27日に第89師団司令部付となり南千島に向かい4月10日に択捉(えとろふ)島の天寧(てんねい)に着任しました。単冠(ひとかっぷ)湾から上陸したと思われます。この第89師団は「摧兵団」とも言われ複雑な編組・改編を重ねています。この稿の後の方で示します。天寧は単冠湾の近くにあり海軍の飛行場があります。真珠湾作戦のために昭和16年(1941年)11月26日には、この単冠湾から6隻の空母と護衛艦がハワイに向けて出港していました。空母6隻とは「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」です。12月8日に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号が発せられたため、そこから飛行部隊が飛び立ちました。

赤城


加賀


蒼龍


飛龍


翔鶴


瑞鶴


戦地から届いた葉書(軍事郵便)の差出人は「北方派遣北部第百部隊 川口隊 小林隊 小林太郎」とあるので、太郎は川口隊(大隊)に属する小林隊(小隊)の隊長だったと思われます。手元に自費出版の「択捉從軍始末」<52>という書籍があります。これを書いた藤田八束氏は昭和20年(1945年) 4月〜5月に東京第三陸軍病院で軍医としての教育を受けました。その後、昭和20年7月11日に太郎と同じく第89師団司令部に着任となりました。この本には短い期間ながら択捉島での生活と、その後のシベリア抑留のことが書かれています。太郎と同じような経験をしたと思われます。

敗戦が濃厚となってからの 8月6日、広島に新型爆弾が投下されました。ウラン型原子爆弾(通称リトルボーイ)です。さらに 8月9日には長崎にプルトニウム型原子爆弾(通称ファットマン)が投下されて、日本は降伏しました。このような状況で日本の戦争は昭和20年(1945年) 8月15日に終わりました。「北方領土とシベリヤ抑留」<53>によると、根室から択捉島まで海底電信ケーブルが敷かれていました。この通信設備は明治30年から整備されたものです。次の写真は「北方領土とシベリヤ抑留」<53>に載っている写真です。小さな船の上で電線の補修作業をしているところです。このような船のことを「川崎船」と言います。川崎船は小林多喜二の「蟹工船」でも登場します。この本では、その他にも小学校の運動会の写真が紹介されていたり、択捉島にはごく普通の日本人の日常がありました。


このような通信網が充実していたため択捉島の通信事情は良かったはずです。8月15日には択捉島の司令部の将兵は整列して玉音放送を聴きました。「択捉從軍始末」<52>には、玉音放送の後になされた斯波閣下の訓示が書かれています。

我が千島特に南千島の軍は少なくとも戦に敗れたのではない。命に依り正々堂々と戦をやめたのだ。敵が上陸する迄に機密書類や(秘)の印の押された本や印刷物は勿論特殊兵器は焼却又は完全破壊し破棄せよ。武器は整然と提出して、いらざる疑いを受けるべからず。今後は体をいたわり全員無事帰国して、日本再建の為に全力を尽すべし。又島に在る限り軍紀は常に厳正たるべし。

8月15日に日本は降伏したのですが、降伏の実効は 9月2日の戦艦ミズーリでの調印式の時に発生しました。この灰色期間、すなわち日本側としては戦争は終了したのに対して、「まだ正式に終了していない」というソ連側の屁理屈とも言える解釈によって千島列島はソ連に征服されました。「戦時の常識」と言ってしまえばそれまでですが、これが北方領土問題の発端です。

択捉島にいた第89師団は上陸してきたソ連兵により昭和20年(1945年) 8月30日に天寧飛行場にて平和裏に武装解除されました。玉音放送は天皇陛下自らの声で武装解除を命じたものですから何の抵抗もせず武器を手放しました。そしてソ連兵に「東京へ帰る」という意味の「ダモイ・トーキョ」と言われて船に乗り込みました。太郎の船は9月23日に択捉島を出発しましたが、東京へは向かわずに9月26日にはソビエト連邦のポートワニーに着きました。ポートワニーとは「ワニノ市にある港(ワニノ港)」という意味だと思われます。軍歴にも「ポートワニー」と書いてあります。ワニノ市の南約15キロメートルのところにソフガワニ(ソビエツカヤガバニ)があります。ここには軍港(ソフガワニ港)があるのですが、ここに入らなかったのは、「戦争捕虜とは別の意味」にしたいからと考えてしまいます。ソフガワニ(ソビエツカヤガバニ)は、いわゆる「シベリア抑留」の拠点のひとつです。「択捉從軍始末」<52>を書いた藤田八束氏は 9月23日にポートワニーに着きました。太郎の出帆が 9月23日ですから、少し前の船に乗ったのでしょう。産経新聞(平成28年11月24日)に掲載されていた図を示します。ソ連からの千島および樺太侵攻の図です。侵攻は2系統ありました。(1)カムチャッカ半島から占守(シュムシュ)島〜得撫(ウルップ)島までと、(2)ソフガワニ(一部はウラジオストク)から樺太(サハリン)〜国後(クナシリ)島・色丹(シコタン)島・択捉(エトロフ)島までです。太郎らが乗った船は、この侵攻(2)の逆路でソフガワニに向かったのでしょう。この2系統の侵攻について、「旭川第七師団」<59>には引用があります。北海道史編集所が発行している「新しい道史」の第22号に書かれている内容です。その部分を引用します。

"終戦余談" (北海道相互銀行常務・渡辺行夫氏)
終戦後、千島はソ連軍が武装解除をした。これには日本側から師団参謀の水津少佐が同行し、各部隊を説得して歩いて事なきを得、カムチャッカに近い占守島から順次島々を南下した。ソ連軍は中千島までを千島列島と考えたのか、南千島は日本固有の領土と考えていたらしく、ウルップ島までを武装解除していったん引き返した。おそらく南千島、色丹・歯舞諸島は米軍が武装解除をするものと考えていたらしい。しかし米軍は北海道を抵抗なく、無血占領したため、安心(?)して南千島方面に動かなかったので、ソ連軍はそれを見て、すぐ南千島、さらに色丹島まで進駐したのかもしれない。そのことはソ連自体、南千島を日本固有の領主であると考えていた証拠であると思っている。

当時のソ連には島嶼上陸のノウハウはありません。米国が全面協力した「フラ作戦(Project Hula)」によって達成できたものです。米国は145隻の艦船を無償貸与しています。このフラ作戦については別稿で示します。

産経新聞 (2016/11/24)


択捉島(中央の凹が単冠湾)





「旭川第七師団(示村貞夫)」<59>によると、昭和20年8月15日の時点で北海道・千島・樺太に展開していた陸上部隊は、(A)第五方面軍隷下部隊125,131人と、(B)北部軍管区隷下部隊49,319人の合計174,450人でした。さらに(A)第五方面軍隷下部隊は、(A1)在北海道部隊と(A2)在千島・樺太舞台に分けられます。それぞれについて部隊名・所在地・人数を記します。(B)北部軍管区隷下部隊は省略しますが、札幌・旭川・帯広・根室・網走に展開された飛行師団や船舶関連です。

(A1) 在北海道部隊(合計71,506名)
第五方面軍司令部 札幌 230名
第七師団 帯広 11,525名
独立混成第101旅団 苫小牧 5、697名
戦車第22連隊 帯広 1,234名
高射砲第24連隊 帯広 1,694名
電信第25連隊 止若 1,322名
宗谷要塞司令部 宗谷 104名
宗谷要塞重砲兵連隊 宗谷 613名
津軽要塞司令部 函館 136名
津軽要塞重砲兵連隊 函館 683名
第42師団 稚内 14,962名
その他の部隊 33,306名

(A2)在千島・樺太部隊(合計53,637名) (注)書籍には53,626名となっている
第88師団 豊原・敷香(樺太) 15,383人 (豊原=ユジノサハリンスク、敷香=ポロナイスク)
第89師団 択捉島(エトロフ) 11,454人
第91師団 幌筵(ハラムシル) 14,510人
独立混成第129旅団 得撫島(ウルップ) 4,295人
独立混成第41連隊 松輪島(マツワ) 2,601人
戦車第11連隊 占守島(シムシュ) 561人
その他の部隊 4,833人

(A2)在千島・樺太部隊(53,637名)の内、終戦時に復員となったのは「その他の部隊」にいたうち3,540名のみです。それ以外は全員がシベリア等に送られました。太郎が所属した択捉島の第89師団は11、454人いました。ポツダム宣言には「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的且つ、生産的生活を営む機会を得しめられるべし」とあるにもかかわらず、連れ去られて劣悪な環境で重労働を強いられました。太郎の抑留期間が終わったのは昭和23年(1948年) 6月19日です。この日にナホトカ港を出港、6月21日に舞鶴港に上陸しました。復員の時は47歳でした。太郎は昭和28年(1953年)の52歳頃には病気がちとなり病床につくことも多くなりました。昭和33年(1958年)に57歳で亡くなりましたが、シベリア抑留について語ることはなかったようです。



ここからシベリア抑留について書きます。兵士が強制連行されて抑留を受け、各地で強制労働させられました。一般的に「シベリア抑留」と言われますが、シベリアの他に、モンゴル・中央アジア・北朝鮮・ヨーロッパロシア等も含まれます。主に満州、南樺太、千島列島の軍人が送り込まれましたが、民間人も含まれていたようです。連行された捕虜は日本人だけで約65万人とも言われます。栄養・衛生の劣悪状態におかれ、死亡者は膨大な数になります。日本人は約1割が死亡したとも言われています。

拠点のひとつであるソフガワニ (ソビエツカヤガバニ)は、もともと囚人の流刑地でした。囚人と言っても殺人者とか極悪人という訳ではありません。ソビエト連邦の刑法第58条による「祖国に対する反逆者(反革命者)」が多かったようです。ソビエト連邦は、このような囚人に対して重労働を科していました。ウィキペディア(反革命罪)によると、「反革命」とは「ソ連のプロレタリア農民政府を転覆・破壊・弱体化させる行為、対外的な安全を脅かす行為、プロレタリア革命の経済および政治の成果を破壊・弱体化させる行為」のことです。反革命の目的で政府に抵抗すること、文書を作成すること、民衆を扇動すること、反革命の目的をもった団体に参加したり反革命の目的を持った活動者を幇助することは、目的を知らない場合であっても犯罪とみなされました。日本人捕虜はソ連国内法の「囚人」には該当しません。しかしながら意図的であれ結果的であれ労働という利用目的は同じことです。捕虜になって連行されたのは日本人だけではありません。総数200万人とも言われ、ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・イタリア・スペインからも送り込まれていました。

労働は各地で行われました。例えば第2シベリア鉄道(バム鉄道:バイカル・アムール鉄道)建設は、全長4,200キロメートルに及びますが、このうち日本人捕虜(約4万人)が受け持った区間は220キロメートルだったそうです。この鉄道の建設コストは戦後の間もない頃の試算で、日本円にして 1 キロメートル当たり約6億円に相当するそうです。この鉄道の分だけでも約1,300億円ということになります。これは現在の価値ではありません。戦後の価値で換算したものです。シベリア抑留の日本人捕虜が全部で約65万人として、各地で行われた作業の対価合計は単純計算でも計り知れない金額になります。ソ連の至る所で、農作業・鉄道敷設・港湾建設・鉱物採掘・道路工事・町の建設などに従事させられました。日本人の仕事は正確で丁寧でした。大東亜戦争においてソ連が日ソ不可侵条約を破棄して日本に宣戦布告したのは、終戦ギリギリの1945年(昭和20年) 8月9日未明です。8月6日には広島に原子爆弾が投下され、誰が見ても日本の敗戦が確実になってからです。さらに9日には長崎にも投下されて日本は15日に降伏しました。裏にはヤルタの密約があったようですが、ソ連はギリギリの参戦で戦勝国に加わったおかげで、自分たちの国家建設に必要な労働力を簡単に手にしました。別稿で「大陸での太郎の足跡は近衛文麿内閣の期間に連動している」と書きました。シベリア抑留についても近衛文麿が大いに関係しています。終戦直前の昭和20年6月、「ソ連を仲介とした和平交渉」をすることになり近衛文麿が特使に任命されました。この時の近衛文麿は首相ではありません。第三次内閣は昭和16年10月18日に総辞職していたからです。この交渉は、昭和20年2月のヤルタ会談によってスターリンが対日参戦を決めたため実現しなかったのですが、その交渉のために日本が準備していた「対ソ交渉案」があります。「近衛文麿 野望と挫折」<48>から引用します。

近衛が陸軍中将酒井鎬次の草案をベースに作成した対ソ交渉案では、国体護持のみを最低条件とし、すべての海外の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、「やむを得なければ」軍隊の一部を当分現地に残留させることとし、また賠償として労働力を提供することに同意することになっていました。満州にいる近衛の長男文隆はどのように扱われると想定していたのでしょうか。さきに述べました戦争末期の米内(光政)海相の海軍の著しく楽観的な親ソ傾向とも一脈通じるものを感じざるを得ません。

この交渉案が大使館を通じてソ連に伝わっていた可能性がありそうですが、実際のところ、その通りになりました。日本を守るために戦った軍人は国体護持という大義名分はあるにしても「売られた」のです。終戦時に満州にいた近衛文麿の長男(文隆)もシベリア抑留されました。

1917年(大正6年)のロシア革命によりロシア帝政が崩壊し、その後の内戦を経て1922年(大正11年)にソビエト社会主義共和国連邦が誕生しました。1924年(大正13年)にはレーニンが死亡し、スターリンの独裁政権となりました。多喜二の「蟹工船」には、遭難した川崎船の船員がロシア人に助けられて親切にされる場面があります。その中で、村にいた支那人が片言の日本語で、共産主義の素晴らしい点は「平等」であって「資本家の搾取が無い」ということを力説しています。それはそれで理想として素晴らしいものです。しかしながら「囚人や抑留者による労働」というような対価を必要とせず、とうてい平等とも言い難い闇の部分がありました。「祖国に対する反逆者」は簡単に作り出すことができます。たとえば「シベリヤ抑留兵よもやま物語」<54>には、ウクライナから送り込まれた若い娘たちのことが書かれています。1941年ドイツ軍がソ連に攻め込み、秋にはウクライナを占領しました。その時、彼女らはウクライナの村を通ったドイツ兵にコップの水を与えました。それが終戦後に「ドイツ軍に協力した罪」を問われ、シベリア流刑と強制労働になったそうです。いくらかの賃金が発生したのかもしれませんが詳細は定かではありません。

この稿の後半はウィキペディア(シベリア抑留)および「ポートワニの丘−帰還抑留者からの聞きがき−(佐藤隆子)」<55>によるものです。佐藤隆子氏はシベリア抑留で父親を亡くしました。これは追悼の意味で書いた本です。お会いした時、色々なことを教えてもらいました。父親というのは支那事変において太郎の部下だったそうです。私が「支那事変記念写真帖」<50>を見せてもらったのは、この時です。この写真帖については別稿で示しました。また「択捉從軍始末」<52>のことを知ったのも、この本からです。「ポートワニの丘」<55>に引用されている「択捉從軍始末(藤田八束)」<52>は、若い軍医の目を通しての択捉島での生活と、その後のシベリア抑留の記録です。これによると抑留生活は過酷には違いないのですが、収容された施設や労働内容によって状況は随分と異なっていた様です。軍隊での地位によるかもしれません。たとえば農作業の風景が描かれています。芋の収穫です。農作業隊は何となく楽しそうに出掛けているのです。軍医は屋外作業がないので現場を知らないのですが、ある日、作業現場について行きました。昼休みには焚き火に芋を投げ入れて食べます。ロシア人の見張りにもお裾分けするので見逃してくれます。帰路には、外套に隠し持って別の作業に行った仲間への土産とします。ソ連の集団農場なので、栽培する芋は果てしない長さで列をなして並んでいます。秋になって収穫の際、現場のロシア人からの指示により数列の芋を掘り出しては一列はそのまま、また数列を掘り出しては一列はそのまま・・・というように作業を行うのだそうです。なぜそうするのか理由は告げられません。一同は不思議に思いながらも、言われた通りにしました。その翌年、雪が融けて分かった事があります。厳しい冬を土の中に放置された芋は、凍りついてしまいます。暖かくなると、ふやけてしまって食用にならない芋が地中から出てきます。新しい年の収穫のためには、どうにもならない芋は掘り出して処分しなければなりません。これらを現場のロシア人達は持ち帰るのです。そのままでは食用になりません。ところが、ある処理をすることで澱粉を取り出すことができるのだそうです。集団農場で作られる作物は「国家の所有物」です。それを収穫時に横流しするのは明らかな犯罪であり、「祖国に対する反逆者」ということになります。しかしながら前の年に収穫から漏れてしまって「残念なことに腐ってしまった芋」を処分することは窃盗には当たらない・・・というのが彼らの理屈なのでしょう。共産主義社会で生きていくための生活の知恵と言えます。

「ポートワニの丘」<55>から読み取れる抑留者の栄養の状況を示します。主食は黒パンですが、施設により 1人当たり 1日300グラムだったり、200グラムだったり、100グラムのところもあったようです。大きな黒パンを、何人で分けるかによって決まります。黒パンは正確に計って各自に毎朝配られます。これを各食 1/3 ずつ食べるとすると、たとえば食事の献立の場合は、
<朝食> 黒パン100g、塩スープ少々(ほとんど固形物なし)
<昼食> 黒パン100g、乾パン(日本製)16個、金平糖 1〜2個
<夕食> 黒パン100g、塩味スープ(内容はイカの足2本程度、時により鱈肝の缶詰が少々)・・・です。

このスープは「ワダースープ」と言って、水で一杯にしたドラム缶に塩漬けのニシン5〜6匹を放り込んで煮立てたものです。「ワダ―」というのは「水」のことなので「塩味付き水スープ」と言ったところでしょう。一方、「択捉従軍始末」<52>によるとソビエト連邦が標準としていた「捕虜への1日当たりの食糧」やその他の配給物は次のごとくです。黒パン300g、砂糖30g、米300g、肉75g、魚80g、野菜600g、バター20g、味噌50g、塩20g、茶3g、煙草15g、石鹸80g。これでは公表と実際が全く違います。収容所の存在する場所によっても異なっている可能性があります。また物資の潤沢さによるかもしれません。ソビエト連邦の政治の中心はモスクワという西の端ですが、極東(例えばソビエツカヤガバニ)には中央の管理が行き届きません。物資は現地調達かもしれませんが、途中で抜き取られ、横流しされ、末端まで届かないという現状があったようです。届いたとしても施設長が抜き取る例もあったようです。「シベリア抑留兵よもやま話」<54>に書かれている食糧事情は、前記の内容より良いもので、砂糖や煙草も配られています。

約1年たってから収容所の一部の人間が、列車(客車ではなく貨車)に詰め込まれて西へと運ばれました。途中あちこちで将校(少尉以上の軍人)が次々と加えられました。最終的にモスクワより250キロメートル南のマルシャンスクに着きました。ここの収容所は巨大な施設で、各国の捕虜がいました。ここでの待遇はソフガワニとは全く違っていて、運動会やら演奏会やらが開催されていました。ここでは思想教育がなされました。成績優秀な者たちが第一陣(第一民主梯団)として昭和22年11月から順次、日本に返されました。大部分が面従腹背だったようですが中には「赤い帰還者」となった人もいて、日本人同士が反目することもあったようです。思想教育のため「日本新聞」が1945年(昭和20年) 9月15日に創刊されました。日本新聞については「シベリア抑留 未完の悲劇」<56>に詳しく書かれています。イワン・コワレンコを編集長として、ハバロフスクで作られました。約4年間で 662号が発行されました。平均すると週3回位です。タブロイド判の2〜4ページ、編集スタッフは日本人50名、ソ連人15名位です。内容はもっぱら共産主義の礼賛とソ連の宣伝だったようですが、娯楽欄もあったようです。数少ない情報源なので活字に飢えた抑留者は、むさぼるように読みました。「シベリヤ抑留兵よもやま物語」<54>には、この日本新聞について書かれています。

いずれにしろ、この新聞によって、いままで知らなかったことを知り、そして学ぶべきところもあったことは事実である。戦前の悪法である治安維持法によって、小林多喜二が特高の手にかかって死んだことや、治安維持法に反対した労働農民党代議士山本宣治が、右翼に刺し殺されたことを知ったのもこの新聞であった。そして、こんどの戦争に一貫して反対しつづけたのが日本共産党であることを知り、いまさらのごとく、わが無知にあきれたのである。

この記事は太郎も読んだはずです。自分が多喜二の従兄であるという事は誰にも言わなかったと思います。抑留者の中に「小林多喜二の従兄」がいる事は、太郎から話し出さない限り分かりません。もしそれを口にしていたら、「赤化のシンボル(民主化のシンボル)」として広告塔にされ、特別待遇を受けることになったかもしれません。太郎の復員は昭和23年(1948年) 6月21日ですから抑留期間は約3年です。通常の復員と変わるところはありません。近衛文麿の長男(文隆)がシベリア抑留を受けたことは触れました。近衛文隆は11年もの抑留を受け、結局は日本に戻れずに亡くなりました。このように長くなったのは、ソ連が文隆に「ソ連のスパイ」になるように執拗に求めていたからのようです<48>。もし太郎が小林多喜二の身内であることが知れてしまったら、似たようなことが生じた可能性もあります。

2014年1月29日の読売新聞に、この日本新聞が載っていました。帰還の際、靴底に隠して持ち帰ったものだそうです。

シベリア抑留から帰還した後、今で言う PTSD (Post-traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)に悩む人は多かったはずです。その頃はまだそのような概念はありませんから、心のケアがなされたとは思えません。ただでさえ心の傷が大きいのに「シベリア帰りはアカ」と言いふらす心無い人も、帰還者を迎える側にはいたようです。帰還後の太郎は塞ぎ込むことが多かったようです。苫小牧の実家には函館の病院の診療記録や、友人からの励ましの手紙などが残されていました。その手紙の中には「ノイローゼ」という記載があります。周囲からそう見られていたということです。太郎にはPTSDがあったと考えられます。抑留中の過酷な体験が頭から離れなかったものと思われますが、周囲には話さないでいたようです。私は父からもそのような話は聞いたことがありません。将校たちは赤化教育を受けました。そして成績の良い順に(すなわち従順な順に)返されたようです。太郎は赤化されることなく帰還してますから、面従腹背の日々だったと思われます。太郎のPTSDは、日々の重労働もさりながら、こちらの方も原因かもしれません。赤化教育については次のような話もあります。1949年10月に中華人民共和国が成立しました。旧満州国の撫順にあった監獄は、「撫順戦犯管理所」として利用されることになりました。スターリンの提案があったようですが、ソ連のハバロフスクにいた抑留者の969人の日本人が1950年7月に撫順戦犯管理所に引き渡されました。軍人だけでなく満州にいた民間人も含まれます。そこで毛沢東の「正しい思想を正しい方法で教育すれば人間は変わる」という改造政策に従って教育されました。「戦争論(小林よしのり)」<74>によると、それらの教育システムは「カルト宗教の洗脳システム」そのものであり、教材(もしくは教育外の娯楽)として小林多喜二の「蟹工船」も使われたそうです。

「シベリア抑留兵よもやま話」<54>には、帰国にあたって「ソ連から聞かされた日本の様子」が書かれています。

敗戦によって日本は廃墟となり、家もなく、食うものもない人たちは日本中にあふれ、ただ一人ミカド(天皇)だけが、焼けのこった家に住み、たらふく食っている。それが現在の日本であり、日本とは天皇の支配する天皇島である。


「択捉従軍始末」<52>に書かれている「ソ連の政治部将校の訓話」を引用します。

諸君は民主梯団として民主教育を充分受けられた方々だ。日本に帰ってからそれぞれの職場でそれぞれの地区で活躍されるのであろうが、そこでこの民主主義の勢力を進めて頂きたい。それを心から希望し、期待するものである。・・(中略)・・ 今迄ソ連は諸君を一日も早く帰還させるべく努力していたのだが、日本の受入態勢が全く出来ておらず、止むなく今日迄のびのびになってしまった。


シベリア抑留については、1991年(平成3年)4月にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフは「歴史の中には悲しみと遺憾の念を引き起こすようなものがたくさんあった」と述べました。この1991年(平成3年)の12月に「ソビエト社会主義共和国連邦」が崩壊しました。その後の1993年(平成5年)にロシア連邦大統領ボリス・エリツィンは「ロシア政府、国民を代表し、このような非人間的な行為を謝罪する」と述べています<56>。エリツィンが1999年(平成11年)12月31日に辞任した後は、現在に至るまでロシア連邦の大統領はウラジミール・プーチンです(一時的にメドベージェフ)。シベリア抑留問題について、日本共産党の考え方が 2007年(平成19年)4月14日の「しんぶん赤旗」に載せられました。これはネットで見ることができますが引用します。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-14/2007041412_01faq_0.html

2007年4月14日(土) 「しんぶん赤旗」

シベリア抑留問題とは?

<質問>
シベリア抑留者問題はいまどうなっているのですか?(大分・一読者)

<答え>
シベリア抑留問題とは、第二次世界大戦の終結の時期に、中国東北部にいた約60万人以上の日本軍兵士や民間人がソ連の捕虜として連行され、シベリアでの強制労働に従事させられた問題です。強制連行は、1945年8月にスターリンが拘留指令を出したためであり、この結果、抑留者の帰国が終わる56年までの間に、6万人以上が厳寒の地で命を落としました。
この行為は、捕虜のすみやかな送還を明記したハーグ陸戦規則にも、武装を解除した日本軍兵士が「各自の家庭に復帰」することを定めたポツダム宣言にも反するものです。このように国際法を乱暴に踏みにじったソ連側に、シベリア抑留の悲劇を生んだ最大の責任があることは明白で、93年にエリツィン大統領が謝罪しています。
日本政府は、「ソ連」への請求権は56年の日ソ共同宣言で相互放棄されたとしていますが、抑留者は日本軍に徴兵・徴用されたものであり、強制労働に対する未払賃金は日本政府の責任で行われるべきです。
79年に、全国抑留者補償協会(全抑協)が設立され、抑留者への未払賃金を払えなどの運動が始まるなかで、政府は88年、「平和記念事業特別基金等に関する法律」を制定し、この「基金」で、抑留者に10万円の慰労金(国債)、銀杯を贈呈、これで決着済みとしました。しかし、死に直面し苦労を重ねてきたシベリア抑留者に対して、わずか10万円支給しただけで、戦後処理は終わったなどというような態度をとり続けることは到底認められません。
この「平和記念事業」法も昨年12月に廃止され、2010年9月末には基金が解散されることになっています。基金の解散を機に、現行の書状や銀杯などの贈呈事業は終了し、この4月から「慰労品」(強制抑留者には10万円程度の旅行券など)を贈呈することになります。「全抑協」は「平和記念事業」をやめる場合でも、対象者が高齢化しており、旅行券ではなく使い勝手の良い現金を支給すること、資料や文献、遺品などの保存・管理をしっかりすること、などを要求しています。
シベリア抑留者の賃金未払い問題は、超党派で解決の道が探られ、共産、民主、社民3党が05年7月に「戦後強制抑留者特別給付金支給法案」を提出し、特別給付金の支給などで解決を図ることを提案してきました。しかし、与党が消極的なため、法の制定にはいたっていません。
シベリア抑留者の未払い賃金問題の解決は、旅行券を配って幕引きとするのではなく、少なくとも野党3党が出した「特別給付金支給法」の実現を土台に、新たな立法措置で抜本的な解決が図られるべきです。(吉)
〔2007・4・14(土)〕


Q&Aの中で書かれている造幣局製の「銀杯」が平成3年(1991年)に苫小牧に送られてきました。書状は平成3年 2月14日の日付であり、太郎の没後33年の時です。海部俊樹が内閣総理大臣の時です。ソ連大統領ゴルバチョフが訪日してシベリア抑留について発言したのが4月ですから、その前の国内向けおよび対外的な政治決着ということでしょう。





多喜二は幼い頃に住んだ若竹町の近くで行われていた「タコ部屋労働」の悲惨さを原体験として持っており、その後の作品に多大な影響を与えています。シベリア強制抑留は多喜二の死後のことであり、多喜二は知る由もありません。比較するような問題でもないのですが、シベリア等で行われた強制労働は、環境・内容とも「タコ部屋労働」よりもはるかに過酷でした。多喜二は「蟹工船」の中でも触れているように、共産主義体制を理想の国家形態と考えていたようです。そこでも過ちは生じていました。別稿で示したように支那事変の戦地の写真はたくさん残されていますが、択捉島のものは全くありません。志那事変の時と同じように記録班がいたはずです。全員がシベリアに連行されたために、カメラを含む貴重品はすべて没収されたと思われます。そのため写真は無いのですが、ここから送られてきた手紙が残されています。太郎は4人の息子の後、年が離れて生まれた娘(初子)のことばかりを気にしていました。「歩いたのか? 手紙を送れ・・・」との催促の手紙ばかりです。これらの手紙の送り元の住所は書かれておらず、任地は極秘だったと思われます。軍を介しての手紙のやり取りなので、非常に時間がかかったでしょう。その手紙の中には玉砕の覚悟も書かれていました。

<附記>
藤田八束氏は抑留から無事に帰還し、北海道大学の産婦人科に入局したようです。


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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
知られざる小林多喜二の周辺