知られざる小林多喜二の周辺

 
 035 ( 2024/01/31 : ver 01 、 2024/03/31 : ver 02 )
手塚英孝の「小林多喜二」は多喜二研究のバイブル



終戦の翌年、1946年(昭和21年)に小林多喜二の全集編纂委員会が作られました。編纂委員だった手塚英孝氏は1946年(昭和21年)もしくは1947年(昭和22年)の秋に小樽に行きました。青函連絡船の甲板の上でDDTを散布されながらも朝里の佐藤チマさん(多喜二の姉)に会って多喜二が使っていた数冊の原稿帳を受け取りました。その時にセキさん(多喜二の母)は北海道にいなかったようです。手塚英孝氏は帰路、秋田に寄ってセキさんに会って多喜二に関する種々の承諾を得たようです。以上のことは,2012年2月小樽での「小林多喜二シンポジウム」の時に宮本阿伎さんから教えていただきました。あわせて下記のサイトも参考としましたが、2024/1/31現在、この記事はなくなっています。

http://www7.plala.or.jp/tian/news_2011.htm

1974年の映画「小林多喜二」がDVDとなって2018年に発売されましたが、それに当時のパンフレット<7>が付属しています。この中に、手塚英孝氏は「小林多喜二と私」という文章を寄せています。その中の関連部分を引用します。
戦後一年半たった頃、私はそれまで勤めていた共産党の文化部をやめて、それまでの仕事をひきついで完全な小林全集をつくる仕事に専心するようになりました。四十一歳のときです。その秋、北海道へ資料の調査にはじめてでかけましたが、ゲートルを巻いて、リュックを背負い、握飯を用意する状態でした。

1948年(昭和23年) に「小林多喜二研究」<5>が出版されました。これは蔵原惟人と中野重治が編集したものです。この中に「小林多喜二の生涯」という手塚英孝氏の文章が載っています。これは1947年(昭和22年) 9月に書いたとあり、北海道から帰ってすぐに書いたものです。その後、「小林多喜二」という書籍が手塚英孝氏の単独著書として出ました。まずは筑摩書房版(昭和33年:1958年)<8>があります。次に新日本出版社版(昭和38年:1963年)<72>、さらに新日本新書版(昭和45年:1970(上巻),昭和46年:1971年(下巻))<73>、そして新日本出版社版(平成20年:2008年)<1>です。それぞれの「あとがき」を全文引用します。平成20年:2008年版<1>では手塚英孝氏が亡くなった後の出版なので編集部が書いています。


1958年(昭和33年)版<8>のあとがき(筑摩書房)

小林多喜二の二十九年の生涯を再現しようとつとめ,私はかなりの年月をかけた.そして,没後二十五周年にあたって,ようやく一冊にまとめることができた.しかし,私の力のとおくおよばぬところも,また大きいように思う.私は今後も努力することによって,いくらかでも真実の姿に近づくことができればと思っている.

ここ十年らい,私は全集編纂の仕事をかねてではあったが,直接あるいは間接に,小林と関係のあった多くの人びとと会うことができた.そして,それらの人びとから,私はいつも,小林にたいするかわらないふかい支持と愛情を知らされるのであった.生前から死後にかけて,あれほど国家権力の圧迫と抹殺をうけた全著作が,没後二十年に完全に復元されたのも,こうした多くの人びとの援助によるものであったが,私の伝記の仕事もまた,まったく同じである.私は,これらのかたがたにたいし,ふかい感謝をささげる.

この仕事をつうじて,私はいまさらのように心にきざまれる一つの現実にうちあたった.それは,小林と同時代に生き,彼とともに解放運動の戦列にあった人びとが,若くして多く死去されているということである.とくに北海道で,彼と密接な関係にあった人たちは,ほとんどといっていいほど故人となっている.

荒々しい時代に生き,たたかい,傷つき,若くしてたおれたこれら多くの人びとのことを,私は忘れることができないであろう.

本書の上梓にさいし,中野重治氏,近藤宏子さん,筑摩書房の原田奈翁雄氏から,それぞれ御懇切な御援助をうけた.

1963年(昭和38年)版<72>のあとがき(新日本出版社)

本書は,一九五八年二月,小林多喜二の没後二十五周年に筑摩書房から出版した伝記を,部分的ではあるが全体にわたって旧版の誤りと不十分なところを訂正補足し,その後にあきらかになった若干の事績を新たに加えたものである.

この伝記の仕事に長年の努力をかさねてきたのは,小林多喜二の生涯と業績をできるかぎり正しくつたえ,小林のすぐれた業績の,いっそうの普及と,その発展的研究と継承をこころから希うことによるものである.

1971年(昭和46年)版(下巻)<73>のあとがき(下巻;1974年の第4刷) (新日本新書)

本書は,小林多喜二の没後二十五周年にあたる一九五八年に筑摩書房から出版され,一九六三年に新日本出版社版,一九七一年に新日本新書(上下巻)に改版されました.改版のたびに部分的に補訂をしてきましたが,この新書判の三刷(上巻は四刷)で,一応定稿にしたいと思っています. 一九七三年九月

2008年(平成20年)版<1>のあとがき(編集部による) (新日本出版社)

本書は,一九五八年に筑摩書房から出版され,一九六三年に新日本出版社,一九七〇,七一年に新日本新書(上下巻),一九八三年に「手塚英孝著作集」(第三巻)に収録された.今回の刊行にあたっては,「手塚英孝著作集」版を底本とし,固有名詞や事項の誤記,誤植などの補訂をした.また,年譜は著作の遺洩を補った.なお,補訂については大田努氏の協力を得た.(編集部)


次に、それぞれの書籍に書かれている多喜二の年譜を示します。多喜二の誕生日についての記載を比べるためです。昭和33年:1958年版<8>巻末の「著作年譜」、昭和38年:1963年版<72>巻末の「著作年譜」、昭和46年:1971年(下巻)版<73>巻末の「年譜」、および 平成20年:2008年版<1>巻末の「年譜」です。途中改行の部分は調整し、注目すべき部分を赤線で示しました。

1958年(昭和33年)版<8>

1963年(昭和38年)版<72>

1971年(昭和46年)版<73>

2008年(平成20年)版<1>

手塚英孝氏は,多喜二自身が1931年(昭和6年)に書いた「年譜」も参考にしているはずです。多喜二が書いた「年譜」の中では「母は旧暦の八月二十三日 ( これは新暦では10月13日に相当する ) だと云っているが、村役場の帳面には十二月一日となっている。ゴーゴリーの主人公になりそうな、この上もなくのんびりした村長さんでもいたらしい」とあります。この文章は「新暦の10月13日に生まれたが、戸籍への登録が遅れたため 12月1日になってしまった」という意味です。

1948年(昭和23年)に蔵原惟人と中野重治によって編集された「小林多喜二研究」<5>に書かれている年譜には「戸籍には十二月一日届出」という記載がありません。手塚英孝氏が1958年(昭和33年)に書いた最初の「小林多喜二」<8>と次の 1963年(昭和38年)版<72>には,画像に引いた赤線のように 「 戸籍には十二月一日届出 」 の但し書きがあります。この但し書きは手塚英孝氏が加えたものです。一方、1971年(昭和46年)版(下巻)<73>では年譜記載の情報量が増えてますが、「 戸籍には十二月一日届出 」 の但し書きが削除されました。手塚英孝氏は1906年(明治39年) 12月15日に生まれました。1981年(昭和56年) 12月1日に満75歳になる直前、ちょうど多喜二の誕生日に他界しました。この 1971年版の出版は手塚英孝氏が64歳頃、亡くなる約10年前でした。「10月13日に生まれたが、戸籍への登録が遅れたため 12月1日になってしまった」というように、役場でこんなに長く放って置かれることや家族の届出が遅れたことは考えずらいと思います。さらに、この2つの日付が ピッタリ と「旧暦と新暦の関係」にあるとは偶然にしては出来すぎています。いくつかの「考えずらい点」があっても分かる範囲の情報すべてを記載した手塚英孝氏でした。しかしながら、初めて記載した1958年版の出版から13年後には、「戸籍には12月1日」という但し書きを自ら削除してした事になります。

多喜二が書いた「年譜」の中で、「母は旧暦8月23日と言っているが、戸籍上は12月1日・・・」と書かれている点に着目すると、多喜二自身は自分の戸籍謄本や戸籍抄本を見ていないことになります。なぜなら下川沿村の戸籍には「拾貮月壱日(12月1日)に生まれ、拾貮月五日(12月5日)に出生届があったこと」が記されているからです。同時に末治という弟の存在にも気付いたはずです。これについては別稿(No.022)で考察しました。

「母の語る小林多喜二」<3>は 2011年に出版されました。もともとは多喜二の13周忌(1946年:昭和21年)の時に、小林廣氏がセキさん(母)から聞き取った内容が土台になっています。<3>の中には,多喜二の誕生日に関して「旧暦で8月23日,戸籍上は12月1日」ということが明確に書かれています。1947年(昭和22年)に手塚英孝氏に会った時、セキさんは同じ事を説明したはずです。「小林多喜二」の1958年版<8>および1963年版<72>と、「母の語る小林多喜二」(2011年)<3>は出版年こそ50年も懸け離れていますが情報源は「同時期のセキさん」なのです。

蛇足ながら、すでに触れたように手塚英孝氏は1981年(昭和56年)12月1日に死亡しました。この日は小林多喜二の誕生日です。多喜二が死亡した日は1933年(昭和8年)2月20日です。この日は多喜二が尊敬する志賀直哉の誕生日です。


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多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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