知られざる小林多喜二の周辺

 
 034 ( 2021/07/17 : ver 01 )
「本能寺の変」の直後にあったグレゴリオ暦への改暦



新暦(太陽暦)と旧暦(太陰太陽暦)については前稿(No.033)で少し触れましたが、そこで割愛した分に書き足しました。西暦と旧暦の変換には「こよみのページ」というサイト<69>が便利です。この中の「CGI版:新暦・旧暦変換計算」というページを下に示します。ここでは西暦1582年10月4日以前はユリウス暦として、同年10月15日以降はグレゴリオ暦として表示されます。ユリウス暦とグレゴリオ暦の変換については別に対照表が用意されています。この対照表はメイン・ページの「新暦と旧暦」をクリックすると「和暦・西暦対応表示」として示されます。ここで変換される旧暦は日本で最後の太陰太陽暦である天保暦の置閏法に準拠したものです。この方式では知る人ぞ知る「2033年問題」が生じます。このサイトに詳しく書かれています。

【CGI版:新暦・旧暦変換計算】<15>
http://koyomi.vis.ne.jp/9reki/9rekicgi.htm

【こよみのページ】<69>
http://koyomi8.com/

暦を作るには天体観測だけでなく、天文学や算術の専門知識を必要としました。太陰太陽暦では大の月(30日)と小の月(29日)の順番は固定されてませんでした。2〜3年に一度ある閏月をどこに挿入するかについては、月の大小の順番によって微妙に変わることもありました。閏月が入った年を閏年と言いましたが、この閏年では1年が13ヶ月ありました。また今の常識では日本中が同一の暦を使うものと思いがちですが、宣明暦(西暦862年〜西暦1684年)の時には朝廷が頒布した京暦と、各地で用いられた地方暦が異なっている場合がありました。どちらも同じ宣明暦を基にしていたはずです。この宣明暦について主に「江戸の天文学」<70>より抜粋します。

古代中国には観象授時(かんしょうじゅじ)という思想がありました。「天象を観て時を民に授く」という意味で、天の意思が天文事象に現れるという考えです。太陰暦の基本は約28日周期で変わる月の形であり、暦は天の意思を示すものとされました。この暦を民に与えるのが為政者の任務であり権力の証でした。その暦を用いることは「為政者に従う」という事でもあります。この観象授時の思想は日本でも重要視され、暦を作る(編暦)権限は伝統的に朝廷が握っていました。暦博士が翌年の暦を作って中務(なかつかさ)省に提出します。中務省とは天皇の補佐や詔勅の宣下など朝廷に関する職務全般を担った部署です。暦は中務省から天皇に上げられます。そして11月朔日(1日)の「暦奏の儀」を経て、天皇から一般庶民へ頒布します。暦は「国家を支配している」という象徴でした。そのため暦を作る実権や頒布者が「朝廷から他へ移る」という事は、「国の支配者が天皇でなくなる」ということを意味しました。

天武天皇の時(西暦675年)に占星台(せんせいだい)が作られました。天文観測所のようなものです。ここには天文博士(てんもんはかせ)がおり流れ星や彗星などの天体観測と、それに基づく吉凶解釈を行いました。この天文博士は陰陽寮に所属してました。「寮」とは「役所」という意味です。この陰陽寮には4部門ありました。(1)前述の天文博士は土御門(つちみかど)家(安倍家)が世襲しました。平安中期(921年〜1005年)に生きた安倍清明は加持祈祷の役目を果たしていました。(2)暦博士は中国の暦を基にして日本の暦を作りました。加茂家が世襲しましたが1565年に断絶したそうです。 (3)陰陽博士は占術を行い、暦に「暦注」を付けるのが仕事でした。暦注とは「暦に書き入れる注釈」ということでしょう。「日の吉凶」や「方位の禁忌」など占い全般を行うことは陰陽道になっていき陰陽師を養成しました。(4)漏刻(ろうこく)博士は漏刻(水時計)を管理しました。漏刻とは、水海という壺に一定の速度で水が貯まることで水位から時刻を測るというものです。

宣明暦は貞観4年(西暦862年)の平安時代に唐より入ってきた太陰太陽暦のひとつです。この貞観年間には大きな自然災害がいくつか知られています。宣明暦導入の2年後、貞観6年(864年)には貞観大噴火と言われる富士山の噴火がありました。その5年後、貞観11年(869年)には大きな津波を伴う大地震が三陸沖でありました。貞観地震です。宣明暦までは中国の暦法をそのまま使っていました。初の和製暦である貞享暦(1685年〜)が作られるまで823年もの長い間、改暦されずに使われました。「江戸の天文学」<70>および「暦ものがたり」<71>によると理由は幾つかあります。(1)中国では宣明暦の後も改暦が行われたのですが、遣唐使の廃止(西暦894年)により新しい暦が入ってこなくなりました。これが決定的かもしれません。中国の符天(ふてん)暦に変更しようという話もあったようですが、符天暦は為政者が作ったものではなく民間人が作ったという理由で見送られたそうです。(2)暦を作るには精密な天体観測や高度な算術を必要としました。陰陽寮で暦を作る担当だった加茂家は世襲制であり、暦の根本的改定には熱心ではなくて学術的水準が低下していったようです。(3)藤原氏により政権が独占された摂関政治の時代に入ると、朝廷の政治は次第に形式的・前例主義になっていったようです。 (4)庶民の関心事は暦の正確性よりも吉凶や運勢を記した「暦注」でした。暦を秘術的に見る傾向が出てきて暦自体が「予言の書」のようになっていったようです。暦には日の吉凶、方位の禁忌、その日の運勢などが書かれました。祝い事が出来ない日があったり、行けない方角があったり、庶民の生活に大きな影響を与えました。

10世紀頃から暦の需要が高まり、各地で様々な暦が勝手に作られるようになりました。大もとは宣明暦に準拠していたはずですが、各地の暦師が独自の天体観測や計算によって暦を作りました。これを地方暦と言います。朝廷が頒布する京暦とは大の月と小の月の並びが違っていたり、それにより閏月を入れる場所が違っていたこともありました。このことで生じた騒動を後で書きます。地方暦として代表的なのは三島暦です。三島暦は伊豆の三島で発行された暦です。三嶋神社のために下社家河合家が編歴したものです。源頼朝以来、この三嶋神社と鎌倉幕府は結びつきが強いため三島暦は鎌倉幕府の頒暦だったと思われます。幕府の権威付けのためでしょう。後の江戸幕府も初めは地方暦としての三島暦を用いたようです。江戸幕府の場合も同様に、京暦とは別に権力の象徴として頒布したものでしょう。他にも伊勢暦や奈良暦などありました。

京暦と地方暦が異なる置閏をしていた場合に生じた問題として、「暦ものがたり」<71>は天正10年から天正11年にかけて生じた事例をいくつか紹介しています。「北条五代記」は小田原北条氏の歴史を書いた書ですが、その地にあった大宮暦と三島暦の違いにより生じた事件が書かれています。大宮暦は京暦と同じ置閏をしていたと考えて良いようです。大宮暦と三島暦の違いは、天正10年12月が大宮暦では小の月(29日)なのに対して、三島暦では大の月(30日)だったという事です。その頃の置閏法(閏月を入れるルール)は平気法に依ってました。季節としての1年を24等分したものが二十四節気です。これを季節の目印としていました。この二十四節気には「節気」と「中気」があり交互に並んでいます。このうちの「中気」が「各月に必ず含まれなければならない」というのが太陰太陽暦の前提です。月の大(30日)と小(29日)を並び替えて調節するのですが、どうしても2〜3年に一度は「中気」が含まれない月が生じてしまいます。この「中気」が含まれない月を「閏月」として挿入することにして、その年を13ヶ月にしました。その際、大の月(30日)と小の月(29日)の並べ方によって、「中気」がどちらの月に含まれるのかが変わってしまう事があったのです。これが1年の中頃にある場合は2ヶ月後には元に戻るので、それほど大きな問題になりませんが、年末の場合は大変なことになりました。大宮暦では、天正10年12月(小の月29日)→天正11年正月(1月:大の月:30日)→天正11年閏正月(閏1月)→天正11年2月というように、天正11年の正月(1月)と2月の間に「天正11年閏正月(閏1月)」を入れました。この場合は天正11年が閏年です。これに対して三島暦では、天正10年12月(大の月:30日)→天正10年閏12月→天正11年正月(1月)→天正11年2月というように、天正10年12月と天正11年正月(1月)の間に「天正10年閏12月」を入れました。この場合は天正10年が閏年です。このことで大宮暦では、天正11年の正月(1月)が三島暦よりも1ヶ月早く訪れます。天正10年12月最終日の次の日は、三島暦では師走気分の天正10年「閏12月」1日なのに対して、大宮暦では天正11年1月(正月)1日です。元旦の御祝をする際、どちらの暦に従うか?ということが大問題でした。結局、小田原城では三島暦に従ったそうです。

同じ問題が織田信長の周辺にも生じてました。明智光秀が謀反を起こした理由のひとつとして「信長が朝廷に暦の変更を要求したから・・・」というのがあります。京暦は当時の公的な暦でしたが、織田信長らは「三島暦に準じた暦」を使っていたようです。以下、三島暦と書きます。生じた事は小田原城と同じです。京暦では、天正10年12月(小の月29日)→天正11年正月(1月:大の月30日)→天正11年閏正月(閏1月)→天正11年2月というように、天正11年の正月(1月)と2月の間に「天正11年閏正月(閏1月)」を入れました。これに対して三島暦では、天正10年12月(大の月30日)→天正10年閏12月→天正11年正月(1月)→天正11年2月というように、天正10年12月と天正11年正月(1月)の間に「天正10年閏12月」を入れました。このことで京暦では、天正11年の正月(1月)が三島暦よりも1ヶ月早く訪れます。天正10年12月最終日の次の日は、三島暦では師走気分の天正10年「閏12月」1日なのに対して、京の朝廷では天正11年1月(正月)1日ということになります。従って信長が用いた暦ではまだ天正10年なのに、朝廷では新年(天正11年)の祭事が行われます。小田原城では京での新年祝賀行事とは関係なく1ヶ月遅れで新年を祝ったのですが、織田信長はそのような妥協案では納得できなかったのでしょう。このような馬鹿げたことは無くして全国統一すべきだと考えたと思われます。

その際に「自分が使っている暦に合わせろ」と言ったのなら自分勝手と思われても仕方がありません。実際のところ「暦ものがたり」<71>では、信長は三島暦に変更せよと命じたと書かれており、定説はそうなのでしょう。しかしながら、信長は宣明暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦、すなわち太陽暦に変えることを考えていた可能性もあると思います。織田信長が、ローマ法王グレゴリウス13世が行ったユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦を知っていたのではないかという仮説です。この改暦は天正10年(西暦1582年)の出来事でした。キリスト教(旧教)圏で西暦1582年10月15日にユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦がありました。太陽暦から「別の太陽暦」への変更です。西暦1582年(天正10年)は本能寺の変があったり、南部晴政と晴継が没した年です。日本史にとって節目の年でした。歴史に「もし〜していれば」と考えることがありますが、もし信長が天正10年(1582年)6月の本能寺の変で没してなければ、当時の最新式の、そして今でも用いられているグレゴリオ暦が導入されていたかもしれません。世の中が、がらっと変わっていた可能性があるでしょう。

ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦により10日間が消滅しました。ユリウス暦1582年10月4日の翌日は、グレゴリオ暦10月15日になりました。西暦1582年10月5日から10月14日までは歴史上の出来事として存在しないということです。改暦の事は庶民には1582年2月24日に発表になったようです。月火水木金土日という七曜の概念は、本来はユダヤ教のものがキリスト教やイスラム教に広がり中国にも入っていったものです。7の倍数ではない10日間が消滅するという事は、曜日が変わってしまうという事でもあります。「暦が変更される!」という事でヨーロッパは大混乱でした。実際のところ、最初は教皇領の他はスペイン・ポルトガル・ポーランドという旧教(カトリック教)圏内のみでしか行われなかったようです。ドイツのように南部と北部で新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)に別れている地域などもありました。しかしながら何といってもグレゴリオ暦には正確性・合理性がありますから、新教(プロテスタント)やイギリス国教会やギリシャ正教・ロシア正教圏も次第に従わざるを得ませんでした。

日本に入ってきた宣教師や改宗した吉利支丹(キリスト教徒)は、教会暦として西暦を用いました。クリスマスを祝うには必要です。宣教師は当然のことながらユリウス暦を使いました。グレゴリオ暦への改暦のニュースも入ってきたはずです。庶民への改暦の公表は2月だとしても検討が始まったのは、その5年前です。信長にとっては、ヨーロッパで起こった改暦の情報源はキリスト教宣教師だったはずです。既成概念に捕らわれない信長の事ですから、太陽暦の仕組みの説明を聞いて、その合理性を理解したかもしれません。ユリウス暦とは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がエジプト遠征の時に、その地で使われていた太陽暦の精巧さに驚き、それを改良した暦です。西暦前46年から使われており、これでもかなり精密なものでした。グレゴリオ暦はユリウス暦と基本構造は同じです。違いは「2月29日という閏日」を入れるか入れないかの条件のみです。詳細は別稿(No.007)に書きましたが、要するに閏日(2月29日)を「4年に1度挿入する」というユリウス暦の単純な定義に対して例外規定を追加しました。その方法さえ理解すれば実際の運用は実に簡単です。そして現在でも通用している精度があります。「実際の太陽周期と暦の誤差」すなわち「季節と暦の誤差」に関しては、ユリウス暦では約128年で1日、グレゴリオ暦では約2,621年で1日です<18>。「暦ものがたり」<71>では2,417年で1日の誤差とあります。

京暦は朝廷が決めていました。独占的既得権であり権力の象徴でした。昔は日食や月蝕は不吉なものとして忌み嫌われていました。それらが出現する日は天体観測や計算によって導き出されて、暦に書かれました。そもそも太陰太陽暦という方式の中で暦が次々と変わっていったのは、日食や月蝕の出現を正確に予知できなくなる誤差が生じてきたからです。宣明暦(862年〜)の後は、貞享暦(1685年〜)→宝暦暦(1755年〜)→寛政暦(1798年〜)→天保暦(1844年〜)と、太陰太陽暦のまま改暦されていきました。貞享暦の話は冲方丁氏の小説「天地明察」が面白いです。これは初めての和製暦を作った渋川春海の話です。映画にもなりました。和算の関孝和や囲碁の本因坊道策も登場します。映画で主人公を演じた岡田准一さんは、この映画の共演をきっかけにして宮崎あおいさんと結婚しました。日本では明治6年(1873年)になって太陽暦(グレゴリオ暦)になりました。日本で消滅したのは天保暦に換算すると明治5年12月3日〜12月30日の28日間です。7の倍数ですから曜日(七曜)の連続性は保たれました。蛇足ながら太陰太陽暦には「31日」は存在しません。明治5年(天保暦)12月は大の月であり30日まででした。

この稿の最後に、明智光秀が織田信長を討ったタイミングを考えてみます。なぜ天正10年だったのか?という事です。三島暦かグレゴリオ暦か、どの暦を採用せよと主張したのかはともかくとして、信長が朝廷に対して暦を変更するように要求していたのは本当だと思われます。その役割は明智光秀に任されていたのではないでしょうか? 文中で書いたように天正10年12月、そしてその翌月になると、暦の矛盾が明らかになります。従って、その期日を延長するような言い訳は不可能です。刻々と期限が迫る中で、明智光秀は朝廷と信長の間に挟まれて思い悩んだ・・・。これが単一の理由とは思えませんが、どんどん〆切が迫ってくる中での天正10年6月2日、信長が無防備で本能寺に滞在することになり、討つチャンスはこの時しかない!・・・という仮説です。本能寺の変は天正10年6月2日(宣明暦)でした。この時点での西暦はまだユリウス暦です。ユリウス暦では、西暦1582年6月21日に相当します。旧暦時代の出来事を今の季節感として厳密に合わせるためには、グレゴリオ暦に変換する必要があります。本能寺の変をグレゴリオ暦に換算すると西暦1582年7月1日となります。ヨーロッパで起こったグレゴリオ暦への改暦は、本能寺の変の3か月半後、10月15日でした。




【二十四節気】

正月節:立春
正月中:雨水→これを含むと正月(1月)
2月節:啓蟄
2月中:春分→これを含むと2月
3月節:清明
3月中:穀雨→これを含むと3月
4月節:立夏
4月中:小満→これを含むと4月
5月節:芒種
5月中:夏至→これを含むと5月
6月節:小暑
6月中:大暑→これを含むと6月
7月節:立秋
7月中:処暑→これを含むと7月
8月節:白露
8月中:秋分→これを含むと8月
9月節:寒露
9月中:霜降→これを含むと9月
10月節:立冬
10月中:小雪→これを含むと10月
11月節:大雪
11月中:冬至→これを含むと11月
12月節:小寒
12月中:大寒→これを含むと12月

これは平気法による月の決め方です。大の月(30日)にしても小の月(29日)にしても中気が含まれない場合は、そこを閏月としました。平気法はシンプルです。最後の太陰太陽暦である天保暦のみが、これと異なる定気法を用いました。定気法はケプラーの第2法則に沿うものです。ここでは省略しますが他稿(No.007)で簡単に触れてあります。定気法は理論としては平気法より優れていそうですが、そもそも太陰太陽暦は太陰暦で生じる季節の誤差を補正するものです。言わば後付けの方法なので無理があるのでしょうか? そのため2033年問題が生じてしまうのかもしれません。


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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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