知られざる小林多喜二の周辺

 
 033 ( 2021/07/01 : ver 01 、 2024/04/15 : ver 02 )
小林多喜二と姉帯兼信と九戸政実



プロレタリア作家の小林多喜二と、戦国武将の姉帯兼信(かねのぶ)および九戸政実(まさざね)の血脈を考察します。多喜二は昭和4年(1929年)に発表した「自分の中の会話」の冒頭で、「大名と地主と武士、この三つを何百年前から両肩に背負わされて・・・」と書いています。地主の末裔であることは多喜二研究書が書いています。もし多喜二が武士そして大名だったという先祖を特定して何かに書いていたとしたら、必ず研究者の目にとまります。それが無いということは多喜二自身も具体的な事まで知らなかったと思われます。自分の家系の事については13歳で嫁に来たセキさん(母親)ではなく、末松さん(父親)から聞いたものでしょう。末松さんは国学や芝居を愛する教養高い人でした。小樽に移住する前は北秋田(今の大館)に住んでいました。本家の小林多治右衛門(たじえもん)家さらに総本家である小林重右衛門(じゅうえもん)家と何らかの交流があったのならば先祖について知っていた可能性があります。末松さんは多喜二が小樽高等商業学校を卒業して北海道拓殖銀行に就職が決まった年に他界しました。多喜二は詳細まで聞いてなかったと思われます。


学校で習う日本史では豊臣秀吉の最後の戦いは天正18年(1590年)2月~7月の小田原征伐という事になっています。相手は小田原城の北条氏です。その後は小田原攻めに参軍・参礼しなかった関東以北を攻めましたが、せいぜい平泉周辺までの侵攻でした。奥州仕置(初回)はそれらを含めた戦後処理です。この奥州仕置には(1)改易、(2)減封、(3)所領安堵、(4)新封がありました。たとえば伊達政宗は(2)減封です。これで取り上げた土地を蒲生氏郷へ(4)新封としました。津軽為信と南部信直は(3)所領安堵です。豊臣秀吉は東北地方に一度も足を踏み入れたことがありません。東北の武士らは、そのような秀吉の家来にはなりたくなかったでしょう。東北の地には京儀を嫌う雰囲気がありました。京儀とは「豊臣政権の政策」と同義です。しかしながら南部信直は時流に乗って配下になることにしました。そして南部七郡が所領安堵されました。天正18年(1590年)7月27日の事です。九戸政実は実力で南部信直を凌いでましたが、形の上で信直の家臣という事にされてしまいました。奥州仕置以降は、特に領主が変わった地域で強引な城破・刀狩・検地を含む悪政が行われたようであり一揆が勃発しました。代表的なものは天正18年10月末の葛西・大崎一揆です。背後から伊達政宗が支援していたようです。

豊臣秀吉朱印状
盛岡市中央公民館蔵


明けて天正19年(1591年)の正月に九戸勢は三戸の南部信直のもとに参賀しませんでした。九戸政実を始めとする欠席者が「九戸乃乱」<62>に書かれていますが、この中に姉帯大学兼興(かねおき)が含まれています。姉帯兼信の兄です。その前から確執はありましたが、九戸勢が新年参賀をしなかったことに端を発して南部信直と九戸政実の本格的な戦いが始まりました。詳細は略しますが、劣勢となった南部信直が豊臣秀吉に助けを求めました。そのことで秀吉勢の本格的な北への軍事侵攻が始まりました。いわゆる奥州再仕置(奥州奥郡御仕置)です。天正19年の夏に、秀吉の天下統一にとって最後の戦いがありました。九戸政実は豊臣秀吉に歯向かったことになります。わずか5,000という人数で、討手大将として蒲生氏郷が率いる6万5,000人と戦いました。これが「九戸政実の乱」です。「九戸の乱」とか「九戸一揆」とも呼ばれます。東北の田舎者と甘く見ていた蒲生軍は苦戦を強いられ、最後は「和議を装った騙し討ち」という武士道精神もへったくれもない結末でした。この騙し討ちの謀議は9月2日になされたようです。

ちょっと脇道にそれて旧暦と新暦について書きます。その頃の暦は宣明暦(長慶宣明暦)という太陰太陽暦でした。天正19年は閏年であり1年が13ヶ月ありました。1月(正月)と2月の間には「閏正月(閏1月)」があったのです。この天正19年について閏正月(閏1月)の前後をグレゴリオ暦(現在の西暦)に変換します。宣明暦の正月(1月)1日はグレゴリオ暦の1月25日です。その次月、宣明暦の閏正月(閏1月)1日はグレゴリオ暦の2月24日です。その次月、宣明暦の2月1日はグレゴリオ暦の3月25日です。つまり閏月が入る直前の1月(正月)は、グレゴリオ暦との暦上の差は約1ヶ月ですが、閏月が入った直後(2月)はグレゴリオ暦との暦上の差が約2ヶ月に伸びます。この約2ヶ月という暦上の差が、次の閏月(平均すると約2.7年後)が来るまで少しずつ短くなっていきます。蒲生軍の騙し討ち謀議があった天正19年9月2日はグレゴリオ暦では、10月19日に相当します。グレゴリオ暦に変換するという事は、現在の季節に合わせるという事です。それ以上にらみ合いが続くと冬になってしまう可能性がありました。兵糧の問題がありますし、蒲生軍もそれ以上は伸ばしたく無かったでしょう。「九戸乃乱」<62>には和議のための降伏勧告文が書かれています。出典は明示されていませんが「九戸軍談記」かと思われます。


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降伏勧告文
一筆申し伝え候。この度、大軍を引き受け堅固な籠城の働き驚き入り候。
然しながら、天下の敵を相手では、いかに戦っても本懐を告げることは
できないであろう。
やがて本城は押し潰され、家臣一同首を刎ねられること明らかであろう。
願わくば政實早く降参をして、天下に対し、全く逆心のないことを
京都に上って訴え申すべし。されば一門の郎党まで身命を助けられるで
あろうし、かつ又、武勇の働きを認められ領地知行せられるべく候。
これによって案内申し渡す候。
恐惶謹言
九月二日
 浅野弾正少弼長政
 堀尾帯刀先生吉晴
 井伊兵部少輔直政
 蒲生忠三郎氏郷
九戸左近将監殿

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配下の者は助けるという条件で自らの首を差し出した九戸政実ら8人でしたが、その後の九戸城では撫で斬りの惨状となりました。これについては「骨が語る奥州戦国九戸落城」<63>が詳しく書いています。平成7年(1995年)に九戸城二ノ丸跡から十数体の深手を負った頭部の無い人骨が見つかりました。この中には女子のものが最低でも2体ありました。実際に撫で斬りがあったことを示します。「骨が語る奥州戦国九戸落城」<63>の写真をひとつだけ示します。左寛骨(骨盤)の背面に付いた刀創です。明らかに逃げる人を背後から斬ったものです。この部分に刃先が到達する手前には分厚い臀筋や仙骨があります。簡易的なものであっても鎧を付けていたらこのような骨の傷はつかないでしょう。丸腰で逃げる人を背後から斬ったのは間違いありません。他にも一刀両断されたり何ヶ所も斬られている四肢長骨や銃創のある寛骨(骨盤)が見つかっています。後年この地を訪れた土井晩翠はこの悲劇を知って「荒城の月」にしたためたそうです。また九戸政実らは武士としての最期をとらせてもらえず、栗原郡三迫に連行された後は罪人として処刑されました。


その頃は、翌年の朝鮮出兵を控えて大変な時期でした。冬が近づくこともそうですが、小田原城を攻め落とした時のような時間的余裕など無かったものと思われます。この九戸城の謀略・撫で斬りがあった天正19年の翌年、天正20年(1592年)12月8日には改元があり文禄元年(1592年)となりました。最初の朝鮮出兵である「文禄の役」は、この年の4月13日でした。改元前なので、まだ天正20年です。

文久元年(1861年)に第15代盛岡藩主(利剛)に献上された「参考諸家系図」という盛岡藩士の家系図集があります。藩士2,700名余りも収録されており全部で88巻もあります。盛岡藩士の星川正甫によって編纂されました。これは岩手県立図書館のサイトの中にある「イーハトーブ岩手電子図書館」で閲覧することができます。この巻七には九戸氏、姉帯氏、中野氏、高田氏、辛氏、江刺家氏が載っています。この中から、九戸家の第8代目にあたる九戸連康からの4代を家系図形式で示します。これを系図Aとして示します。九戸筑後守連康(政実の曽祖父)の子として男子は九戸修理信実(政実の祖父)と姉帯蔵人兼実がいます。姉帯蔵人兼実の子に男子としては姉帯大学兼興と姉帯五郎兼信がいます。

系図A


秋田の小林重右衛門家は、系図Aの中の姉帯氏の流れを汲んでいるようです。これ以降は姉帯氏を中心として書いていきます。「近世こもんじょ館」<64>に収録されている奥南落穂集<66>には、「九戸左近将監政実叛逆之事」という項目があります。そこには「政実の一族11人」と、「政実一味党ならびに臣下181人」の名前が記されています。この中で「政実の一族」として姉帯氏が3人書かれています。


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(1)姉帯与次郎兼政
一族 刑部兼直男 姉帯城千五百石 若年両叔父後見 九戸一味
両叔父 諫を用へず宮野城に篭り 天正十八年討死
(2)姉帯大学兼興
兼政叔父 九戸逆意不同心
甥兼政を諫むと雖(いえど)も用へず篭城
兼興不本意 自ら城に篭り武勇討死
(3)姉帯五郎兼信
兼興弟 兄と同く討死

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この奥南落穂集<66>の内容を踏まえて、さきほどの系図Aに青字で追加したのが系図Bです。緑字の部分は後で示すように小林重右衛門家にあった古文書の内容を加えたものです。この系図Bでは姉帯蔵人兼実には女子の他に3人の男子がいた事になります。刑部兼直と大学兼興と五郎兼信です。兼直の子が兼政です。

系図B


この系図Bによると、九戸政実の祖父である九戸修理信実(のぶざね)には「兼実(かねざね)という弟」がおり、この人物が姉帯蔵人兼実です。兼実には3人の男子があったと考えられます。その男子とは兼直と兼興と兼信です。長男の兼直が早くに没したため、その子である幼い兼政が城主になったと考えられます。叔父の兼興と兼信が後見役でした。詳細不明ながら兼政は叔父(兼興と兼信)の言う事をきかずに天正18年に宮野城で討死したようです。その結果、姉帯大学兼興が姉帯城主になったのでしょう。この系図Bによれば、いくつかの書物に書かれている異説が整理できそうです。たとえば九戸政実の乱についての小説です。姉帯一族の系譜について混乱があります。高橋克彦氏の「天を衝く」では、姉帯兼政の弟が兼興ということになっており、兼信は登場しません。渡辺喜恵子氏の「南部九戸落城」では姉帯兼実の子が兼直(明示はない)と兼興、兼直の子が兼政と兼信となっています。すなわち兼信は兼興の甥という設定です。兼政は九戸城に篭り、兼興と兼信は姉帯城で討死した事になっています。安倍龍太郎氏の「冬を待つ城」では兼興・兼信に触れていません。

蒲生氏郷が率いる大軍との初戦は姉帯城の戦いでした。奥州街道については後で触れますが、この街道を北上してくると最初にあるのが姉帯城です。そこで討死を覚悟した姉帯兄弟の壮絶な戦いがありました。兄の姉帯大学兼興の人物像について「九戸乃乱」<62>には、兼興が九戸政実を諫める場面が描写されています。その部分を引用します。


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討閥軍の来攻に恐れをなした近隣の諸将たちは、反転して南部側に加勢するという情報を聞いた政實は、当然のこととして応戦体制の軍議を開いた。
政實は「信直は自分の非力をかくし、われを天下の反逆人だと訴え出たことは許せない。討閥軍がこの地に到着する前に信直親子を討取り、積年の望を果たし、しかるのちに討閥軍と対決したいと思うが如何であろうか。」と切り出した。
すぐに反対の声も出なかったが、しばらくして、姉帯大学兼興が、大軍が近づいているときである、その計画は考え直した方が良い、いま三戸に一矢をむくいるの、どうのと、騒ぎ立てている時ではない。もし、三戸へ出陣中に上方勢が攻撃を仕掛けてきたらどうなるか。それより、我が軍は英気を蓄えておき、天下の大軍を相手に戦い、九戸軍ここにありと意地を示すことこそ、武門の本懐と申すものである。いまは決戦の準備に万全を期すことが急務であろう。その上で武士の最後の花を咲かせ、天晴者と天下に名を上げることであろう。」とたしなめた。

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系図Bによると、姉帯大学兼興は九戸政実の父(信仲)の従兄弟にあたります。しかしながら年齢は兼興25歳に対して政実56歳です。何を出典とするかにもよりますが、実際にあった事のようには思えません。すでに引用した奥南落穂集<66>には兼興が「甥兼政を諫むと雖(いえど)も用へず・・・」とあります。兼政についてなら、叔父である兼興が後見役をしていた訳ですから、その時に姉帯城主だった兼政を諫めたことは有り得ます。姉帯兼政と九戸政実は、それぞれ姉帯大学兼興からすると甥および従兄弟ちがい(従兄弟の子)にあたります。その辺の混乱もしくは創作かもしれません。この兼興の最期の場面が「九戸乃乱」<62>で次のように描写されています。姉帯城に立て籠ったのは220人、姉帯城を攻めた蒲生勢は3,500人です。


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一方、兄兼興は愛馬に乗り、樋口・岩舘・月舘・高館・吉田・西法寺らの武将二十四騎を前後に従えて、轡(くつわ)を並べて敵の中へ切り込んでいった。(元来兼興は長刀の使い手であった。)
敵を追い回し、向かってくる者は鎧や兜を唐竹割りに切りつけて進めば、これを見て弱腰になって逃げる者は肩の上から胴の下まで切り下ろすなど、散々に切りまくれば、ついに太刀・長刀も打ち折れてしまい、大手をひろげて、かけ合わせ、組み合う武者をつかみ、小石のように投げ飛ばすなどの剛腕を振った。
蒲生軍は恐れて、手合い勝負は叶なわないから、引け引け、と下がり、弓・鉄砲での一斉射撃を命じた。
兼興は、いかに剛の者でも、その身体は鉄や石でもなければ、弓・鉄砲の傷を十四、五ヶ所も受けて、人馬ともに弱まり、早やこれまでと合点し、馬上より大声をあげて「姉帯大学兼興が、いま自害する、見ておき武士の手本にせよ。」と言うままに、腹巻を脱ぎ捨て(腹巻とは鎧のこと。大鎧を着ていては機敏な動作ができないため、動きやすいように軽武装用の胴丸(鎧)が流行した。)、馬上で腹搔切って、その刀を口に食わえ、馬上より眞逆さま倒れ落ちて戦死した。

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ここまで示したのは兼政の後に姉帯城主となった姉帯大学兼興の事でした。これ以降はその弟である姉帯五郎兼信について記します。「九戸乃乱」<62>には兼信についての描写もあります。さきほど蒲生軍との最初の戦いが姉帯城だと書きましたが、その前日に美濃木沢での合戦があったようです。待ち伏せしていた兼信が蒲生軍に480人の死傷者を出したというもので、姉帯勢は無傷です。これが真の意味で「九戸政実の乱」の初戦であり、蒲生軍の出鼻をくじいた大勝利でした。しかしながら、その後は多勢に無勢です。その翌日の兼信の最期は次のように書かれています。九戸軍記からの引用です。姉帯城主(兄)の兼興の描写もそうですが、このような大げさな表現は軍記物や芝居に出てくる「滅びの美学」を表現したものと思われます。


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兼信は、敵の群がる真ん中へ割って入り、東西南北へと縦横無尽に切り込み、名のある武士と思われる者の首を跳ね、雑兵どもは一太刀で切り捨て蹴散し、蹴散し駆け巡っていた。
その時、熊谷藤膳直氏と名乗る先陣の武将が大胆にも「大将と見参」と、挑戦してきた。「姉帯五郎兼信ここにあり」と名乗り、一騎打ちになった。兼信は長刀を振り回して戦い、その一振りが「エイ」と切り下せば、直氏の左の肩から馬の太腹まで真二つなり馬もろともドウと倒れる。なんと兼信の剛力は、前代未聞の出来事であると恐られたという。直氏四十一才の生涯を終えた。(直氏は武州七道の旗頭・熊谷次郎直實の二十一代目の子孫である。直實は源平合戦のとき一の谷の戦いで、平敦盛を討ち取ったことで有名である。)
これを見た、蒲生氏郷の甥の石黒喜内時春という武将が兼信の前に立ちふさがり、「兼信なるか、汝らごとき家中の者では、この喜内には叶うまい」と、啖呵を切った。
打ち合い、切り合いの一騎打ちとなり、互いに傷を負いながら、いざ組み合い勝負となって、取っ組んだまま、馬と馬の間に重なり合ったままドウと落ち、刺し違いて死んでいった。(別説には兼信は喜内を討ち殺したとも言う。)

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同じく「九戸乃乱」<62>に資料として載せられている図を示します。これは天正年間で、まだ九戸政実が挙兵する前頃の各城主の石高を示します。姉帯城主は姉帯兼政(1,500石)の頃です。安部龍太郎氏の「レオン氏郷」は蒲生氏郷を主人公とした小説です。「レオン」とは獅子王という意味の洗礼名であり、彼はキリシタン大名でした。天正16年の時点で蒲生氏郷の所領は12万石、これは年収約120億円に相当すると書いてあります。その3年前の天正13年11月29日に起こった天正地震の後の復興のために巨額の費用が掛かるという場面です。これは中部地方を襲った巨大地震でした。これと同じ割合で計算すると、姉帯兼政の年収は1,500石として約1億5千万円、九戸政実の年収は13,000石として約13億円ということになります。既に記したごとく「奥南落穂集」<66>によると、兼政は天正18年に討死したため、姉帯城主は姉帯大学兼興になりました。





現在の姉帯城跡は公園として整備されており、そこに東屋(休息所)があります。ここにいくつかの写真が展示されています。その中の1枚には、「平成11年(1999年)4月に大館市在住の小林重治氏(当時83歳)が一戸町教育委員会を訪れ、小林家の土蔵から出てきた古文書を見せていただいた」とあります。そしてその古文書が展示されています。小林重治氏は別稿(No.21)で示した「松峯山伝寿院は語る」<24>の編集者のひとりです。この中には重治氏が姉帯氏の子孫であることや姉帯城を訪ねて先祖の供養をしてきた事が書かれています。この書籍には小林重右衛門家系図が載っています。小林重治氏は小林重右衛門の第11代目にあたります。重右衛門は、その功績の為に天保6年(1835年)に永代苗字帯刀御免となりました。第6代目の時と思われます。

私は重右衛門家の古文書について10年ほど前に、ある人から聞いたことがあります。現在は音信が途絶えているのですが仮にSさんとします。Sさんの大学時代の先輩に小林重右衛門家のKさんがいました。SさんとKさんは室蘭で知り合ったようです。Sさんが古文書解読や家系探索を得意としていたため、Kさんは実家に伝わる古文書や家系図の解読をSさんに依頼したことがあったそうです。小林重治氏からのコピーでしょう。そこに小林多治右衛門のことが書かれていたため、Sさんは重右衛門家と小林多喜二との繋がりに気付きました。驚愕の発見だったと想像できます。Sさんの父親は支那事変の時に召集され、大陸にて私の祖父(太郎)の部下でした。北海道からも盧溝橋事件直後の派兵がありました。そのことがあって、Sさんから私の母に連絡を求めてきました。Sさんは、太郎と多喜二が従兄弟同士であるという詳細まで知っていたかどうか分かりませんが、血縁という事は知っていました。私にとっては、ほとんど偶然の出会いです。実際の古文書まで見てないのですが、Sさんからの話および手紙の内容は姉帯城跡に展示されている古文書の内容と同じでした。これは後で示します。

多喜二研究書にも書かれているように、小林多喜二は秋田で「タジェム」と呼ばれた小林多治右衛門の流れを汲んでいます。第3代目の重右衛門の時に多治右衛門家として枝分かれしたようです。しばらくの交流途絶の後は、協力し合って重右衛門堰(せぎ)を何世代もかけて作り上げました。堰とは要するに田畑に水を引く用水路です。荒地を切り開いてどちらの家系も大きな地主になっていきました。この小林多治右衛門の第10代目には小林多吉郎という弟がいます。この多吉郎の長男が小林慶義(私の曽祖父)です。多吉郎の次男(慶義の弟)が小林末松です。末松の子が小林多喜二です。慶義の子(4男)に小林太郎(私の祖父)がいます。多喜二と太郎は従兄弟の関係です。少し脱線しますが、第13代目の小林多治右衛門は小林市司と言います。多喜二が没した昭和8年には東京にいて、セキさん(多喜二の母)といっしょに築地署へ多喜二の遺体を引き取りに行きました。その後は故郷の下川沿村の村長になりました。私の実家にあった曽祖父(慶義)の除籍謄本(昭和26年)は、この小林市司氏が証明したものです。この除籍謄本とは別に、実家には昭和3年に発行された慶義(曽祖父)の戸籍謄本もありました。これを証明した村長は小林誠喜とあります。小林誠喜氏は第10代目の小林重右衛門であり、二戸町の教育委員会を平成11年に訪れた小林重治氏の父親です。

話を姉帯の系譜(系図B)に戻します。九戸政実の祖父(九戸信実)と姉帯兼実は兄弟です。九戸政実の父親(九戸信仲)と、姉帯兼直・兼興・兼信は「いとこ」です。九戸政実と、姉帯兼政(兼直の子)および市郎(兼信の子)は「はとこ」です。「はとこ」は「いとこ同士の子供」です。現在の民法(第725条)で親族の定義は3つあり、(1)6親等内の血族、(2)配偶者、(3)3親等以内の姻族です。「はとこ」は6親等ですから、この定義で考えると九戸政実と市郎(初代小林重右衛門らしい)は親族という事になります。蛇足ながら、世代は異なりますが同じ数え方では私と多喜二の間も6親等です。

姉帯城跡に展示されている古文書の内容が読み取れる画像がネットにありました。画像の歪みは修正しています。古文書は2種類あって、それぞれ同じ内容の別物があります。これは元々の古文書を読み易く書き直したものです。微妙に異なっているのは、書き直しの際の写し間違いがあるのだと思います。これらを私自身の解釈・変更を交えて書き出します。変えた部分および注釈を赤字で示します。古文書には句読点がないため、適当なところでスペースを入れました。元の古文書のみ示します。


小林家之先祖を恩田六郎安時と云 畠山重忠郎等也 安時十九世之孫 恩田野大学益(兼)興・其弟同苗五郎兼信 兄と同南部九戸城主 九戸修理佐政實に任(まかす) 天正十九年主人政實 九戸城に據(たよ)る 南部大膳太夫信直 兵をして之を討克つ事能はず 之に因て応援として堀尾帯刀(たてわき) 井伊兵部少輔 大軍を率て之を囲む 此時 兼信姉帯城を守 九月五日戦敗れ討死 享年二十八歳 其子纔(わずか)に二歳 幼名□郎と云 乳母に抱かれ金田一村に匿(かく)る 同年十一月日九戸城陥る 信直中に 之を大に九戸之を索 □郎乳母にヒ養(被養) 山之間に匿(かく)れ 成人之後農となり小林をり開き住居す 依而(よって)氏を小林と改む 農或は狩を業とす 其後捜索益(ますます) 慶長十四年遂に秋田に来り 秋田郡川口村に住す 世農を業とす


姉帯城主兼興と弟・兼信の系譜は、参考諸家系図による系図Aや、それに奥南落穂集<66>の記載を加味した系図Bとは大分異なっています。この古文書での小林家の先祖は「恩田六郎安時」であり、畠山重忠の家来であったというものです。畠山重忠は文治5年(1189年)にあった源頼朝の奥州征伐の事実上の指揮官であり、東国武士を代表とする猛者として知られた人物です。そのため畠山重忠に先祖を求めることは多いようです。血族という事ではなくて郎等(郎党)というのであれば、そのつど駆り出された足軽という事も有りうるので、根も葉もない創作とまでは言えないでしょう。この古文書の「恩田六郎安時の流れを汲むのが大学兼興と五郎兼信である」という内容について、考慮に入れるべき事があります。特に「戦いの後の歴史」は、勝者側の都合が良いように作られていくという事です。敗者の言い分は抹殺されたり、書いてはいけない事があるはずです。金田一村で農民として過ごしていた乳母や市郎は、常に落人・落武者狩りに怯えていました。古文書には、捜索が厳しくなってきたので慶長十四年に秋田に渡ったとあります。奥州街道沿いの金田一村から、奥羽山脈を越えて羽州街道沿いの川口村(下川沿村:現在の大館市)に移住しました。南部氏の勢力外に逃れたという事です。この古文書が書かれた時期は不明ですが、仮に探索者に見られたとしても九戸政実の郎党として、すなわち血縁が無い単なる家来だったのであれば見逃してくれると思われます。しかしながら逆賊とされた九戸政実の親族ならば根絶やしにされる危険があります。なにせ謀略による騙し討ちで落城した九戸城内では、武士以外の籠城者も撫で斬りにされました。少しでも血縁のある者は生かしておけなかったと推測できます。「骨が語る奥州戦国九戸落城」<63>によると、上杉景勝に関わる編年体の記録「覚上公御書集」には天正20年(1592年)9月24日の時点で、秀吉側近から九戸・藤島一揆の残党を退治する指令が出されたことが書かれているそうです。「五郎兼信が小林家の先祖である」と書いた以上は、その文書が見られた時に証拠となります。そのため九戸政実と血縁であるという事実は書けなかったと推測できます。姉帯城の恩田野大学兼興と五郎兼信という詳しさで書いているのに対し、その父親の名前が書いてないのは不自然です。恩田氏の家系であることは事実としても、系図Bのように九戸政実の祖父(九戸信実)の弟(九戸兼実)が婿養子に入り、その地である「姉帯」を名乗って姉帯兼実となったというのは無理がないと思います。すなわち恩田氏は「母系の先祖」ということです。「二戸市史(第一巻)」<67>の第三編中世を担当した菅野文夫氏は、「九戸政実の父(信仲)の弟である九戸兼実(かねざね)は姉帯城に入って姉帯蔵人と名乗り・・・」と書いています。これは「九戸政実の祖父(信実)の弟である九戸兼実は・・・」の誤記だと思いますが、どちらにしても、これは九戸勢の勢力拡大、すなわち一戸(姉帯城の地)への進出と考えられます。

また、兼信の子は「幼名□郎」とあり、明らかに一文字分の空白があります。この次に示す古文書には「幼名市郎」とはっきり書かれているので、こちらの方が先に書かれたものと推測します。まだ落人・落ち武者狩りとして捕まる危険を感じていた時期だったのではないでしょうか。同じく「二戸市史(第一巻)」<67>によると、特に九戸政実の頃の系図については「系胤譜考」や「参考諸家系図」にある系図が信頼できるだろうとのことです。他の史料との整合性があるからです。たとえ九戸一族との繋がりが不明瞭になっている史料があるにしても、九戸政実の乱で生き残った者が、ことさら九戸氏との関係を隠そうとしたからだろうと考察しています。隠す理由は前記の通り「落人・落ち武者り」です。もう一つの古文書は以下のごとくです。下段は後世の書き直しでしょう。












承久二年 庚辰(かのえたつ) ←1220年(鎌倉時代)
二拾代也
御嫡南部彦三郎晴継公
家来九戸之城主
九戸修理佐政實
其先祖尋るに 多田満仲三男 美女丸之御子 撫子丸を多田中務太夫源等 公三十七代後胤也 家臣恩田野大学兼興 弟五郎兼信也 右先祖尋るに古(いにしえ)畠山重忠郎等 恩田六郎安時の嫡十九代也 九戸政實ニ相随いて姉帯城を守 天正十九年九月五日 兄弟討死 天正十九年卯年九月五日兄弟討死 南部大膳太夫信直御子 彦三郎利直と 主人九戸修理佐政實合戦之時 都勢(みやこぜい) 堀尾帯刀(たてわき) 伊部兵部少輔ために九月五日 親父五郎兼信二十八歳にて討死 此嫡子幼名市郎 弐才なり候得とも 親兼信討死之時 乳母に抱かれ金田市村かくれ居候得共(そうろうども) 九戸天正十九年卯十一月三日九戸落城之後 信直信利 中落人詮 乳母に被 深山にかくれ成人過迄農家いたし 小林きり開 住家とし 依而(よって)小林を苗字にいたし農業或狩人なんとにて取暮候得共(そうろうども) 弥々(いよいよ) 國中吟味正敷(ただしき)故 慶長十四年酉年秋田江(へ)参り申候


大学兼興と五郎兼信については前の古文書と同じですが、こちらの方は兼信の嫡子が「幼名市郎」とはっきり書かれている点が異なります。この古文書によると九戸政実の出自が通説とは異なっています。このような異説は以前からあるようで、たとえば「二戸歴史物語」<68>では阿部幹男氏が盛岡の骨董屋で見つけて500円で買い求めたという「奥州南部九戸軍記」が紹介されています。これは九戸の残党で比内に落ち延びた旧家の所蔵だったようです。物語は九戸政実の家系から始まり、政実は摂津多田源氏の祖で清和天皇の曾孫、源満仲の三男の直系となっています。この内容は小林重右衛門家の古文書と一致します。さきほど敗者の歴史は抹殺されることがあると書きました。この「奥州南部九戸軍記」は敗者側の記録と言えます。だからと言って、それが正しいとは必ずしも言えませんが、候補に入れておく必要はあると思われます。その内容を基にして平成19年(2007年)1月23日にNHK盛岡放送で放映されたそうです。「ママスマGOO!」という番組の「九戸政実~新たな伝説~」というコーナーです。

このほか、これらの古文書では九戸城の落城の日が通説と大幅に異なっています。これについては単純な間違いとも言えないような気がします。九戸城が改修されて「福岡城」と名前を改められたのが、その年の暮れだそうです。九戸城の名前が無くなった訳ですから、これを「落城」として書いたと考えても不思議はないと思います。また「二戸歴史物語」<68>の中で、岩手県の昔を知る古老の話として、九戸政実の戦いの後で奥州街道の道程が変わったとあります。すなわち九戸政実の乱の頃は、奥州街道は「浪打峠を通っていなかった」というものです。「南部根元記」や「九戸軍記」は江戸時代に書かれた軍記物であり、変更後の奥州街道を前提として書かれたのだろうという説です。実際のところ蒲生軍はこの浪打峠を通ってないように描写されている軍記が存在するようです。また、通説では姉帯城や根反城への道は奥州街道の支流だったとされていますが、「最初は姉帯城と根反城の前の道が本街道だった」という可能性もありそうです。城を築くということは、そこから街道を見守る役目をするのが本来の目的のはずです。

落ち延びた市郎が住んだという金田一村は湯治場でした。今は座敷童で有名な金田一温泉です。そこには金田一城がありました。当時の城主は四戸中務宗泰です。その頃の四戸氏は四戸の地を離れて金田一城にいました。この四戸中務宗泰には九戸政実の叔母(父信仲の妹:姉帯兼興・兼信の従姉妹)が嫁いでいます。また四戸中務宗泰の妹は九戸政実の妻です。これらは九戸氏と四戸氏の政略結婚と言えます。乳母が幼い市郎を連れて金田一村に逃れたのは、以前からの伝手を頼りにした可能性があります。現在の金田一に「小林」という地があります。北へ流れる馬渕川の東側です。小林なる地名は当時からあったものと考えられます。その地を伐り開いて農業を行ったので、姓を「小林」としたと読み取れます。姉帯城の落城は天正19年(1591年)です。姉帯五郎兼信の忘れ形見の市郎はその時2歳だったとあります。当時は数え年ですから、おそらく満年齢としては1歳で、生まれたのは天正18年(1590年)でしょう。慶長14年(1609年)に秋田に渡った時には満19歳という事になります。


「松峯山伝寿院は語る」<24>にある「小林重右衛門家系図」の最初に書かれているのは「禪室光明信士」です。この人物を初代として第3代目の時から「重右衛門」と称したようです。別のページ(江戸中期の山師群像)には、この第3代目重右衛門は山田村与三郎家からの婿養子だったとあります。すでに書きましたが多治右衛門もこの第3代目重右衛門の時に分家したようです。この時に男子が生まれない事等で後継者の問題があったのかも知れません。小林重右衛門家の菩提寺は秋田の曹洞宗月田山洞雲寺です。この寺の開創は正保2年(1645年)です<24>。この「小林重右衛門家系図」は洞雲寺の過去帳によるものと思われます。「松峯山伝寿院は語る」<24>では「初代先祖までの記録がなく判明しない」と書かれていますが、「禪室光明信士」の没年は貞享4年(1687年)11月24日です(グレゴリオ暦では同年12月28日)。引き算すると満97歳です。当時としてはかなりの長命という事になりますが、それでも人間の寿命の範囲内に収まります。初代小林重右衛門が姉帯五郎兼信の忘れ形見の市郎だろうと考えても、さほどの矛盾は生じないと思います。

九戸一族の菩提寺は長興寺で、同じく曹洞宗でした。別稿で書いたように土地売買についての裁判をあきらめた慶義(私の曽祖父)が、かかった費用など全てを清算して小樽に渡った時は一文無しと言っても過言ではありません。この時に住まいとしたのは、龍徳寺の境内の端でした。現在の小樽潮陵高校のグランドは高台になっていて、その崖下です。この龍徳寺も同じく曹洞宗です。小林重右衛門家も小林多治右衛門家も秋田の洞雲寺には相当の額を寄進しています。慶応2年(1866年)の洞雲寺24世玉厳禪器和尚迂化本葬役割覚書には20人の「裃着」が載っていますが、この中には重右衛門と多治右衛門がいます。「裃着」の役割は分かりませんが、覚書の最初に書かれているので檀家の代表格と思われます。そのようなこともあり、慶義は新天地の小樽で曹洞宗の龍徳寺を頼っていったものと推測できます。

「九戸乃乱」<62>を著した永井正義氏は九戸城跡がある二戸市の職員をされていた方で、かなりの数の史料を読みこなしたようです。各種の史料に書かれている出来事の月日を対比した一覧が「九戸乃乱」<62>の資料として載っています。この稿に関係が深いところを書き抜きます。既に触れましたが浪打峠越は全ての史料に書かれているわけではないようです。一連の事象が生じた日として理解し易いのは、美濃木沢合戦が8月23日、姉帯城合戦が8月24日、九戸城包囲が8月25日、九戸城の落城が9月4日といったところでしょうか。ただし、これは判官贔屓とでも言うような史書や軍記物の性格によるものかもしれません。この稿もその流れに沿って書いていますが、わずか5,000人という九戸勢が蒲生勢65,000人を相手にして意外なほど健闘したという個々のエピソードを並べると、落城までそれなりの日数(10日間くらい)があったはずだと考えてしまいます。これに対し「二戸市史」<67>では9月18日付の浅野長政(初名は長吉:ながよし)の手紙が重要だとしています。それは「去朔日(9月1日の事)ニあなたい(姉帯)、ねそり(根曽利)と申す城二ケ所、直懸に責め崩し申し候、これにより端城ども開き退き、九戸へたて籠り候のところを、去る二日より執り巻き・・・」というものです。次の表の「二戸郡誌」と同じ立場です。



以上、私は身内である小林多喜二の事を調べるなかで本家の小林多治右衛門家のことを知りました。そして小林重右衛門家という総本家を知ることになりました。そしてこの重右衛門家が姉帯兼信、そして九戸政実と繋がる可能性を知りました。豊臣秀吉の命令により蒲生氏郷は奥州再仕置(奥州奥郡御仕置)の討手大将となりました。これは天正19年(1591年)、九戸政実の乱の鎮圧のためのものでした。翌年から朝鮮出兵が始まり、その3年後の文禄4年(1595年)に蒲生氏郷は京の屋敷で没しました。まだ40歳であり毒殺の可能性もあったようです。織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉によって姉帯一族は滅びましたが、その血脈は多喜二につながり、そして今に続いています。





【 九戸政実の乱の意義 】


この稿は「九戸政実の乱」について解説するものではありませんが、全体の流れは「骨が語る奥州戦国九戸落城」<63>の中の「第四章 文献史学的考察」が分かり易いと思います。竹間芳明氏の担当分です。この中では「九戸政実の乱」は「九戸一揆」と書かれています。この第四章の全体を要約するのは大変ですが、この書籍の「あとがき」として編集責任者である百々幸雄氏が第四章をまとめています。百々幸雄氏の専門は解剖学・形質人類学です。自分は文献史学の門外漢だとしながらも、理解した範囲で総括したという文章があるので、この中から引用します。


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天正一〇年(一五八二)に田子信直(後の南部信直)が三戸南部の家督を簒奪といってもよい方法で継いだことによって、南部氏家中の対立が深刻化する。次いで天正一七年(一五八九)七月二七日(注:天正18年(1590)の誤り)の豊臣秀吉の朱印状により、南部信直の南部内七郡の領有支配が認められ、信直の南部宗家としての地位が固められたことにより、信直派と九戸政実を旗頭とする反信直派の対立が決定的なものになる。この朱印状により、九戸政実を含む有力領主は有無をいわさず信直の家臣と決められた。この一方的な決定・通達(京儀)は南部一族の主要構成員にとって到底承伏できる内容ではなく、この朱印状こそが九戸一揆が起きる直接の契機となったと分析する。(注:主語は「第四章 文献史学的考察」は・・・と思われる。以下同じ)

その遠因を、大浦為信の南部信直からの独立のみならず、惣無事令に違反して為信が実力で奪った地域も含めた津軽の領有を認めるなど、豊臣政権の法の趣旨を自ら破る不合理・理不尽さ、秀吉の胸三寸で事が決まり変更される恣意性が奥羽仕置で際だっていることに求めている。このような秀吉の理不尽さ・恣意性はこの考察の中で一貫して強調されている。

天正十八年(一五九〇)に出羽と奥州各地で一斉に奥州仕置反対の一揆が勃発するが、その延長上に九戸一揆がある。九戸一揆は九戸政実の一存で起こったものではなく、九戸一族が中心になったが、背後には「京儀」を嫌う広範な支持層があった。九戸一揆は単発的ではなく、奥州仕置への反抗という一連の流れのなかで捉えるべきであり、だからこそ一揆の最後の拠点九戸城攻撃は、豊臣政権の威信をかけて徹底的に行わなければならなかった。天正一九年(一五九一)六月二〇日に秀吉から、北奥最大の反抗勢力である九戸一揆攻撃を目的とした動員令が出されるが、天正一八年に発せられた「撫斬令」が奥州仕置の基本方針であった。

九戸城の攻防と落城の状況を伝える根本史料は天正一九年九月一四日付の長束正家宛の浅野長吉(注:長政に改名する前の名)書状写(「浅野家文書」六一)と同年一〇月五日付の浅野長吉の息幸長宛の徳川家康書状(「浅野家文書」六三)のみであるが、その他に「蒲生氏郷記」、「東奥軍記」、「九戸記」、「信直記」などの後世に書かれた軍記物・由緒書といった二次史料を検討して、浅野長吉の陰謀により九戸政実が騙され開城した直後に約定が反故にされ、大将分が赦免されずに囚われて城内に残る者等が総攻撃を受けたことはほぼ事実であろうと結論している。そして、「豊臣政権にとって奥羽仕置・一揆殲滅の総仕上げとして、最後の抵抗の拠点九戸城の攻撃は徹底的なものにする必要があった。見せしめとして、城主の開城降伏直後に無抵抗状態の城内の者を殺戮・虐殺することは、その後の城の改築・普請と並び周囲に対して強烈な威嚇として遂行されたものとみなせる」と分析する。

最後の「九戸合戦後の北奥-むすびにかえて-」(注:「第四章 文献史学的考察」の最後の項目)では、恣意性が際だつ理不尽な豊臣政権への忠誠・従属の道を選ばなかった北奥の領主・住民を愚鈍の一言で決めつけることは、軽薄な思考であると述べているが、同感である。決してそうではなかったからこそ、九戸政実とその家臣団は反骨の徒として今でも多くの人々に語り継がれているのではなかろうか。

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小林多喜二
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小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
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