太郎は10冊もの写真帖を残しました。重複はありますが全部で約1600枚の写真が収められています。中国大陸のものについては、メモ書きが少ないので各々の写真が何処なのか、また前後関係がはっきりしなかったのですが、「思ひ出:支那事変記念写真帖」<50>によって大分判明しました。おおむね太郎の足跡に沿って写真を示します。
(01)太郎の写真帖と支那事変記念写真帖
(02)庁立小樽水産学校:製造科実習
(03)庁立小樽水産学校:スキー演習
(04)大正10年12月21日:入営3週後:何かの祝賀会(歩兵第28連隊)
(05)大正11年3月16日:入営百日志願一同
(06)大正11年7月15日:摂政宮殿下北海道行啓。旭川。
(07)大正11年7月15日:摂政宮殿下の閲兵。旗を掲げる歩兵第28連隊の中に同年齢の太郎がいる。
(08)庁立苫小牧高等女学校
(09)札幌神社での出陣祈願。現在の北海道神宮。
(10)札幌神社での出陣記念。参道。
(11)札幌神社での出陣祈願。大陸において北支事変の最初の作戦である平津攻略戦(北京〜天津の鉄道沿線)を務めた永田部隊。一番前にいるのは永田貞雄隊長、その後ろで刀を抜いているのは副官の太郎。
(12)永田部隊本部。前列中央に永田貞雄隊長。向かって右に副官の太郎。一番右に従軍カメラマンの和田義貞。カメラを首から下げている。
(13)永田部隊幹部一同
(14)永田部隊(1):239名
(15)永田部隊(2):237名
(16)永田部隊(3):225名
(17)永田部隊(4):241名
(18)予防接種
(19)札幌市内を行進
(20)札幌停車場での集合写真
(21)汽車の中の風景。写っているのは永田隊長。
(22)汽車を降りて体操
(23)東京を通過。宮城に向かって拝礼。
(24)厳島神社
(25)広島の宇品港から出港。太郎が乗った船は玉津(たまつ)丸らしい。
(26)山海關の城門(天下第一關)
(27)山海關は満州国と冀東防共自治政府の境界であり、万里の長城の起点。
(28)「支那事変記念写真帖」で「小林副長の訓話」とタイトルが付いている郎坊鎮小学校の写真。太郎の左前には「箱状のもの」と、その上に丸いものがある。次の写真により小学校に寄贈したオルガンとバレーボールだと分かる。
(29)オルガンとバレーボール
(30)滄縣にある約800年前の唐獅子の遺跡。
(31)滄縣の回教寺院
(32)防寒具を着ている写真。北支は寒い地域だった。北海道の兵士が送り込まれたのもそのためか。
(33)駱駝に乗る太郎
(34)サソリ
(35)交河付近の討伐(塹壕)
(36)討伐行
(37)戦死した兵士の葬儀
(38)荼毘に付す。頭を下げるのは永田隊長。
(39)高脚舞
(40)路線を走る車
(41)単車(民間人)
(42)破壊されたヘルメット
(43)没収した敵の武器
(44)演奏会
(45)御賜品
(46)この旗は札幌神社前での永田部隊本部の集合写真にも写っている
(47)ドラム缶の風呂
(48)風呂上り?
(49)相撲大会
(50)診察風景
(51)散髪
(52)威海衛神社。
(53)通州の燃灯舎利塔と思われる。遠景によると塔の下層と上層がほぼ同じ大きさなのに対し、この写真では塔の上部が小さいことが完全一致しないが、仰角をつけて上方向に撮ったものか。
(54)燃灯舎利塔の遠景 (「通州事件80年目の真実」<61>より)
(55)王子製紙 北光寮寮祭記念
(56)王子製紙 七星寮より出征
(57)王子製紙 七星寮より出征
(58)王子製紙 七星寮より出征
(58)太郎が守った択捉島。中央に単冠湾がある。
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