知られざる小林多喜二の周辺

 
 031 ( 2020/02/24 : ver 01 )
太郎の写真帖



太郎は10冊もの写真帖を残しました。重複はありますが全部で約1600枚の写真が収められています。中国大陸のものについては、メモ書きが少ないので各々の写真が何処なのか、また前後関係がはっきりしなかったのですが、「思ひ出:支那事変記念写真帖」<50>によって大分判明しました。おおむね太郎の足跡に沿って写真を示します。


(01)太郎の写真帖と支那事変記念写真帖


(02)庁立小樽水産学校:製造科実習


(03)庁立小樽水産学校:スキー演習


(04)大正10年12月21日:入営3週後:何かの祝賀会(歩兵第28連隊)


(05)大正11年3月16日:入営百日志願一同


(06)大正11年7月15日:摂政宮殿下北海道行啓。旭川。


(07)大正11年7月15日:摂政宮殿下の閲兵。旗を掲げる歩兵第28連隊の中に同年齢の太郎がいる。


(08)庁立苫小牧高等女学校


(09)札幌神社での出陣祈願。現在の北海道神宮。


(10)札幌神社での出陣記念。参道。


(11)札幌神社での出陣祈願。大陸において北支事変の最初の作戦である平津攻略戦(北京〜天津の鉄道沿線)を務めた永田部隊。一番前にいるのは永田貞雄隊長、その後ろで刀を抜いているのは副官の太郎。


(12)永田部隊本部。前列中央に永田貞雄隊長。向かって右に副官の太郎。一番右に従軍カメラマンの和田義貞。カメラを首から下げている。


(13)永田部隊幹部一同


(14)永田部隊(1):239名


(15)永田部隊(2):237名


(16)永田部隊(3):225名


(17)永田部隊(4):241名


(18)予防接種


(19)札幌市内を行進


(20)札幌停車場での集合写真


(21)汽車の中の風景。写っているのは永田隊長。


(22)汽車を降りて体操


(23)東京を通過。宮城に向かって拝礼。


(24)厳島神社


(25)広島の宇品港から出港。太郎が乗った船は玉津(たまつ)丸らしい。


(26)山海關の城門(天下第一關)


(27)山海關は満州国と冀東防共自治政府の境界であり、万里の長城の起点。


(28)「支那事変記念写真帖」で「小林副長の訓話」とタイトルが付いている郎坊鎮小学校の写真。太郎の左前には「箱状のもの」と、その上に丸いものがある。次の写真により小学校に寄贈したオルガンとバレーボールだと分かる。


(29)オルガンとバレーボール


(30)滄縣にある約800年前の唐獅子の遺跡。


(31)滄縣の回教寺院


(32)防寒具を着ている写真。北支は寒い地域だった。北海道の兵士が送り込まれたのもそのためか。


(33)駱駝に乗る太郎


(34)サソリ


(35)交河付近の討伐(塹壕)


(36)討伐行


(37)戦死した兵士の葬儀


(38)荼毘に付す。頭を下げるのは永田隊長。


(39)高脚舞


(40)路線を走る車


(41)単車(民間人)


(42)破壊されたヘルメット


(43)没収した敵の武器


(44)演奏会


(45)御賜品


(46)この旗は札幌神社前での永田部隊本部の集合写真にも写っている


(47)ドラム缶の風呂


(48)風呂上り?


(49)相撲大会


(50)診察風景


(51)散髪


(52)威海衛神社。


(53)通州の燃灯舎利塔と思われる。遠景によると塔の下層と上層がほぼ同じ大きさなのに対し、この写真では塔の上部が小さいことが完全一致しないが、仰角をつけて上方向に撮ったものか。


(54)燃灯舎利塔の遠景 (「通州事件80年目の真実」<61>より)


(55)王子製紙 北光寮寮祭記念


(56)王子製紙 七星寮より出征


(57)王子製紙 七星寮より出征


(58)王子製紙 七星寮より出征


(58)太郎が守った択捉島。中央に単冠湾がある。



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小林多喜二
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多喜二の母
明治36年12月1日
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