知られざる小林多喜二の周辺

 
 029 ( 2020/02/20 : ver 01 )
昭和天皇と多喜二と太郎



大正10年(1921年)10月25日に皇太子殿下が摂政となり、大正天皇の公務を代行することになりました。大正天皇の体調を思いやってのことです。皇太子殿下の誕生日は明治34年(1901年)4月29日です。太郎は明治34年(1901年)2月5日であり、学年は違いますが約3ヶ月違いの同年齢でした。多喜二は2年後の明治36年(1903年)12月1日です。この3人は同じ時代にいました。皇太子殿下は摂政となった翌年の大正11年(1922年)7月に北海道を行啓しました。21歳の時です。「皇太子殿下北海道行啓録」<44>に行程の記録があります。この北海道行啓の中で、後に昭和天皇となる摂政宮殿下は多喜二や太郎と接近遭遇しました。

●7月6日(木)
東宮仮御所御出門(7:50)→上野駅
上野駅から臨時汽車で出発(8:10)→仙台(16:35)
仙台泊
●7月7日(金)
仙台駅(8:00)→青森(17:30)
御召艦「日向」乗艦、青森港碇泊
●7月8日(土)
青森港出港(7:00頃)→函館港(14:30)。函館港碇泊


御召艦 日向

●7月9日(日)
函館港碇泊
●7月10日(月)
御召列車で函館(8:25)→大沼(9:26)
大沼(11:00)→小樽(18:12)
●7月11日(火)
小樽港巡覧
小樽高等商業学校を訪問。
小樽(16:45)→札幌(17:45)
豊平館(宿泊)
●7月12日(水)
札幌
●7月13日(木)
札幌、歩兵第25連隊閲兵
●7月14日(金)
札幌(11:10)→旭川(15:03)
●7月15日(土)
旭川
練兵場:各小学校生徒運動競技
庁立旭川中学校:各中等学校生徒運動競技
第七師団司令部
練兵場:歩兵閲兵、分列式
●7月16日(日)
旭川(7:00)→網走(18:25)
●7月17日(月)
網走(9:00)→釧路(17:50)
●7月18日(火)
釧路
●7月19日(水)
釧路(6:30)→帯広(9:55)
帯広(13:30)→旭川(19:15)
●7月20日(木)
旭川(8:00)→苫小牧(12:46)
苫小牧(13:45)→佐瑠太(15:50)、新冠:凌雲閣に宿泊
●7月21日(金)
新冠
●7月22日(土)
佐瑠太(9:25)→苫小牧(11:30)
苫小牧(11:45)→支笏湖(13:40)
支笏湖(15:40)→苫小牧(17:15)
苫小牧(17:30)→室蘭(19:08)→御召艦「日向」乗艦、室蘭港碇泊
●7月23日(日)
室蘭港出港(15:30)
●7月24日(月)
航海
●7月25日(火)
午後に横須賀港に入港(16:20)
横須賀駅(16:25)→東京駅(18:00)→還啓

摂政宮殿下は7月11日(火)に小樽高等商業学校を視察しました。小樽高等商業学校は国策により出来たものであり、日本を背負う人材を育成するための学校です。最高の教育設備や講師陣が揃っていました。多喜二は歓迎や送迎に動員されたでしょう。沿道で旗振りしたかもしれません。校内を案内したのは校長代理でした。校長でなかったのは、体調のためなのか、それ以上の重要な用事があったのか、自らの思想のためなのかは不明です。「皇太子殿下北海道行啓録」<44>の中から、この部分を引用します。読み易いように、漢字は現代のものに変更し、カタカナもひらかなにします。この書籍には句点(、)はありますが、読点(。)がひとつもありません。読点(。)は「終了」の意味があるので忌み嫌ったものと思われます。濁点が無いのも同じ意味でしょうか? 「モーターボート」とか「レグホン」などの本来のカタカナや、「どれが一番良いか」という摂政宮殿下の発言部分にしか濁点がありません。その他、「殿下」の前は必ず1文字分の空白があります。

引用開始----------------------
午後一時 殿下には陸軍少佐の御軍服に大勲位副章を佩はせられて御泊所御出門自動車に召させられ御列前の如く長官御先導沿道幾萬の奉迎者に御会釈を賜はりつつ小樽高等商業学校に向はせ給ふ校門前には同校生徒一同奉迎申上け中村校長代理恭しく玄関前に迎へ奉りて階上御座所に御案内申上け校長代理より学校要覧を奉呈して言上する所あり夫より校長代理の御案内にて商業実践室、商品陳列館、中等学校生徒成績品陳列所、図書館、商品実験室等順次御巡覧あり各室にては専門の教授より一々御説明申上け又御下問に奉答する所あり御一巡の上再ひ御座所に成らせられて御少憩の後同校本館正面の左側に水松の御手植あり夫より自動車に召させられ職員生徒の奉送を受けさせられ供奉員其の他を従へ御列前の如く沿道奉迎者の歓呼に御会釈を賜はりつつ小樽公園に向はせらる
引用ここまで---------------------
<参考> 
佩はせ:はいはせ? 佩用(はいよう):勲章や刀剣身に着けること
恭しく:うやうやしく
夫より:それより

太郎は大正10年(1921年)12月1日に一年志願兵として歩兵第28連隊第11中隊に入りました。20歳の時です。摂政宮殿下の北海道行啓があったのは、その翌年です。摂政宮殿下は、小樽を訪れた4日後の7月15日(土)に旭川の第七師団を訪問しました。この時に行われた閲兵式で太郎らは摂政宮殿下の前を行進しました。「大正十一年摂政宮殿下北海道行啓記念写真帖」<45>にあるのと同じ写真が太郎が残した写真帖にあります。そこには「i28」とのメモ書きがあります。「i」はinfantary(歩兵)の略ですから歩兵第28連隊のことです。この時の太郎は歩兵上等兵でした。写真の中にいるはずです。太郎が所属した歩兵第28連隊は、おそらく前年に入隊した初年兵で構成されています。太郎と摂政宮殿下は約3ヶ月違いの同年齢です。太郎以外も摂政宮殿下と同世代でしょう。摂政宮殿下の心の内は推し量れませんが、天皇の公務を代行することになった翌年に訪れた旭川で、同世代の初年兵の行進を前にして、格別なる想いがあったと考えても不思議ではありません。「皇太子殿下北海道行啓録」<44>の中から、この閲兵の部分を引用します。ここには摂政宮殿下は連隊旗が前を通る時には必ず敬礼したとあります。太郎らも旗を掲げていますから敬礼を受けています。

引用開始----------------------
殿下には御閲兵御順路約二十町御閲兵時間約三十分に亘らせられて聊かの御疲労もあらせられす御活発に場内御野立所に立たせ給ふ軈て内野諸兵指揮官は参謀長以下幕僚を率ゐて分列の定位置に就けは各部隊は順次特科隊の前方に集中して分列の準備に移る此の時内野諸兵指揮官は威容正しく指揮刀を按して一声高く「分列に前へー」の号令を下たすや第十三旅団長稲垣少将を先頭に歩兵第十三旅団司令部歩兵第二十六聯隊より甲号隊形となり喇叭手の吹奏する行進曲に歩武粛々御前を通過し次て歩兵第十四旅団司令部歩兵第二十七聯隊、歩兵第二十八聯隊の順序にて徒歩部隊の分列行はれ次に特科隊分列前進野砲聯隊、騎兵聯隊、輜重大隊皆早足にて馬蹄勇ましく孰も御前を通過し茲に荘厳なる分列式は三十五分を以て全く終了せり此の間 殿下には御閲兵所に御姿勢正しく御直立あらせられ各部隊聯隊旗を先頭に御前を通過するや 殿下には終始聯隊旗に対して厳粛なる御敬礼あり夫より各中隊毎に一々挙手の礼を賜ふ
引用ここまで---------------------
<参考>
亘らせ:わたらせ
聊か:いささか
軈て:やがて
按して:あんして?
喇叭:らっぱ
次て:「次に」の誤植?
孰も:いずれも
茲に:ここに


メモ : 11/7 摂政宮殿下御閲兵 (11/7:大正11年7月)


メモ : i 28 分列式 ( i:infantary:歩兵)


この行啓下賜記念として「下賜盃」が苫小牧に残されていました。私が押入れの奥から見つけ出すまでは、その存在など誰からも聞いたことがなく、最初はそれが何であるかも分かりませんでした。多喜二の戸籍についての疑問と合わせて色々と調べていくうちに真相が分かってきました。太郎(祖父)は57歳の時に亡くなりましたから、これは祖母が大切に保管していたものです。祖母は厳しい人でした。誰にも触らせずにいたものと考えられます。私の父は長男ですが、その存在を知らなかった可能性もあります。鮮やかに元のままで残っています。


行啓下賜紀念


大正十一年七月十五日


太郎は大正14年(1925年) 3月31日に歩兵少尉になりました。大正天皇は大正15年(1926年)12月25日に崩御され、摂政宮殿下は昭和天皇になりました。元号は昭和に改められましたが昭和元年は12月25日から31日までしかなく、すぐ昭和2年になりました。約2年間を服喪期間として昭和3年(1928年)11月10日に、昭和天皇の即位大礼が京都御所紫宸殿で挙行されました。11月16日には昭和大礼の饗宴と同時に各地で地方賜饌式が行われました。賜饌(しせん)とは、天皇陛下から食膳を賜わることです。北海道では室蘭市の庁立室蘭中学校で行われました。宮内大臣より出された小林太郎あての地方賜饌の御召状(招待状)があります。太郎が招かれたのは歩兵少尉だったからと思われます。太郎は多喜二より2歳10ヶ月年上の従兄(この時27歳)です。慶義は69歳で存命で、太郎の家に住んでいます。太郎は昭和2年(1927年) 1月17日に高橋きぬと結婚し翌年(昭和3年) 1月19日に長男が生まれました。私の父(太義)です。父(太郎)の「太」に祖父(慶義)の「義」を合わせたものです。ちなみにその弟(私の叔父)は「太慶」です。この地方賜饌式に関連した資料を示します。御召状の他にも式次第や賜饌場参入者心得も残されていました。これに定められた服装をしている太郎の写真もあります。記念の品もあります。大正11年の第七師団閲兵式の時と同じ大きさの下賜盃です。














昭和三年十一月十六日 地方饗饌


酒杯はもうひとつあります。いつのものか分かりませんが、ここで示しておきます。既に示した2つは直径91mmですが、これは110mmあります。可能性としては別稿で示す昭和天皇の昭和11年北海道行幸の際のものと推測できます。


昭和3年(1928年)の多喜二は何をしていたでしょうか? 2月20日の普通選挙の後、労農諸団体に大規模な捜査の手が入りました。いわゆる三・一五事件です。多喜二は警察の手荒な事情聴取を題材にして「一九二八年三月十五日」という小説を書きました。多喜二自身がそう言っているように、文壇デビュー作です。これは起筆が5月26日で、完成が8月17日です。「戦旗」の11月号と12月号に伏字だらけで発表されました。この年(昭和3年)の5月と6月には、次作の取材のために函館を訪れています。「蟹工船」の起筆は10月28日です。この頃の多喜二は共産党員ではありませんが広告塔のような存在でした。太郎の身辺調査はされているはずです。そのような太郎を天皇陛下大礼の地方賜饌式に招いた事は不思議ですが、太郎の思想とは関係ないのに式典から外してしまう方が問題だったかもしれません。

この年、多喜二が「蟹工船」を10月28日に起筆して、わずか3週間後の11月16日に従兄の太郎が、昭和天皇大礼の地方賜饌式に招かれました。賜饌式は11月16日ですが、御召状の日付は11月1日です。この前後に送られてきたものでしょう。これは「蟹工船」の起筆日(10月28日)にほとんど一致します。その御召状に慶義(太郎の父、多喜二の伯父)が狂喜乱舞したことは間違いありません。その頃の拠点の苫小牧だけでなく、小樽にも出向いて、あちこちで言いまわったでしょう。当然ながらセキ(多喜二の母)さんの耳に入るはずです。そこから多喜二の耳に入るのは間違いありません。太郎が軍人になったことは、当時の世相として不自然ではありません。しかしながら天皇即位の地方賜饌式に27歳の太郎が招かれるとは想定外だったのではないでしょうか。「蟹工船」の基本的構成は既に多喜二の頭の中にあったと思われますが、太郎の賜饌式参列は、その後に書いた内容や表現方法に多大な影響を与えた可能性が高いのではないでしょうか。たとえば、その中には資本家と軍部の癒着構造が描かれています。天皇陛下への献上品の蟹缶詰の中に「石ころでも入れておけ!」という表現さえあります。後に多喜二の罪状として不敬罪の疑いとして加わることになりました。「蟹工船」を書き始めようとした多喜二としては憤懣やる方ない気持ちだったのではないでしょうか。多喜二にとっては帝国軍隊も天皇も、すぐ近くに存在していたのです。また別稿(No.024)で示したように慶義の破産で多喜二に影響が出たのも同時期と思われます。多喜二の眼には資本主義の欠陥と映ったでしょう。別稿で触れた「自分の中の会話」も、このようなタイミングで同じ原稿帳の最後のページに書かれました。それでなくても昭和2年〜3年の多喜二の身の回りには色々な事が生じていました。これらの文章に見える「攻撃性」は、様々な事が複雑に入り混じった結果なのだろうと考えます。

一番最初の稿(No.001)で触れた「原稿用紙に書かれた多喜二葬儀の香典控」は、チマさんの死後に遺品の中から見つかったそうです。この中には志賀直哉の名前があります。それに並んで書かれている「小林太郎」は帝国陸軍の軍人(当時歩兵小尉)でした。


認識票
七後歩一 少尉 小林太郎




一年志願兵について触れておきます。「一年志願兵制度」は帝国陸軍の予備役幹部養成制度であり、義務としての徴兵制度の中にあるシステムです。幹部とは下士官以上のことです。所定の学歴があり、かつ志願により在営中の費用を自弁する者に対して、通常の現役在営期間の3年を1年に短縮しました。

明治22年(1889年)の改正徴兵令により満17歳から満40歳までの全ての男子に兵役義務が生じました。兵役は(1)常備兵役(現役+予備役)、(2)後備兵役、(3)国民兵役に分かれます。通常の陸軍兵卒は3年間の現役と4年間の予備役を課せられましたが、一年志願兵は現役が1年、予備役が2年と低減されました。学歴条件の他に、兵役に服する間の費用を自己負担する必要がありました。具体的で分かりやすいので、明治26年(1893年)の一年志願兵条例の改正を示します。被服・弾薬等の費用と兵器修理費として62円、この他に糧食費として38円を納める必要がありました。合計すると100円です。また一年志願兵の兵役は無給であり、特別な徽章を付けて雑役を免じられたそうです。太郎の制服写真の右の襟章はそれかもしれません。左側は歩兵第28連隊でしょう。





一年志願兵は満17歳以上、満26歳以下であることの他に次のような学歴が必要でした。
(1)官立学校の卒業証書を持つ者
(2)府・県立師範学校の卒業証書を持つ者
(3)中学校または中学校と同等以上の学校の卒業証書を持つ者
(4)法律学・政治学・理財額を教授する私立学校の卒業証書を持つ者
(5)陸軍試験委員の試験に及第した者

要するに学識と資金のある人に対して、短期間で有事の際の幹部(予備役士官)を養成しておくシステムです。国の財政的負担を肩代わりさせる条件で特権を与えたという側面もあるようです。時期により違うかもしれませんが、よほど見込みのない者でない限り1年間で二等軍曹になり予備役に編入されました。太郎は庁立小樽水産学校を卒業し、父親(慶義)の金銭的支援が可能でしたから、まさしくその例だったと言えます。ただし、その後の保証があるわけではないので、その後に太郎が昇進していったのは実力が認められたのだと思われます。この一年志願兵制度は、昭和2年(1927年)の徴兵令改正により廃止され、幹部候補生制度に変わっていきました。


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