知られざる小林多喜二の周辺
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大正10年(1921年)10月25日に皇太子殿下が摂政となり、大正天皇の公務を代行することになりました。大正天皇の体調を思いやってのことです。皇太子殿下の誕生日は明治34年(1901年)4月29日です。太郎は明治34年(1901年)2月5日であり、学年は違いますが約3ヶ月違いの同年齢でした。多喜二は2年後の明治36年(1903年)12月1日です。この3人は同じ時代にいました。皇太子殿下は摂政となった翌年の大正11年(1922年)7月に北海道を行啓しました。21歳の時です。「皇太子殿下北海道行啓録」<44>に行程の記録があります。この北海道行啓の中で、後に昭和天皇となる摂政宮殿下は多喜二や太郎と接近遭遇しました。
●7月9日(日)
太郎は大正14年(1925年) 3月31日に歩兵少尉になりました。大正天皇は大正15年(1926年)12月25日に崩御され、摂政宮殿下は昭和天皇になりました。元号は昭和に改められましたが昭和元年は12月25日から31日までしかなく、すぐ昭和2年になりました。約2年間を服喪期間として昭和3年(1928年)11月10日に、昭和天皇の即位大礼が京都御所紫宸殿で挙行されました。11月16日には昭和大礼の饗宴と同時に各地で地方賜饌式が行われました。賜饌(しせん)とは、天皇陛下から食膳を賜わることです。北海道では室蘭市の庁立室蘭中学校で行われました。宮内大臣より出された小林太郎あての地方賜饌の御召状(招待状)があります。太郎が招かれたのは歩兵少尉だったからと思われます。太郎は多喜二より2歳10ヶ月年上の従兄(この時27歳)です。慶義は69歳で存命で、太郎の家に住んでいます。太郎は昭和2年(1927年) 1月17日に高橋きぬと結婚し翌年(昭和3年) 1月19日に長男が生まれました。私の父(太義)です。父(太郎)の「太」に祖父(慶義)の「義」を合わせたものです。ちなみにその弟(私の叔父)は「太慶」です。この地方賜饌式に関連した資料を示します。御召状の他にも式次第や賜饌場参入者心得も残されていました。これに定められた服装をしている太郎の写真もあります。記念の品もあります。大正11年の第七師団閲兵式の時と同じ大きさの下賜盃です。
酒杯はもうひとつあります。いつのものか分かりませんが、ここで示しておきます。既に示した2つは直径91mmですが、これは110mmあります。可能性としては別稿で示す昭和天皇の昭和11年北海道行幸の際のものと推測できます。 昭和3年(1928年)の多喜二は何をしていたでしょうか? 2月20日の普通選挙の後、労農諸団体に大規模な捜査の手が入りました。いわゆる三・一五事件です。多喜二は警察の手荒な事情聴取を題材にして「一九二八年三月十五日」という小説を書きました。多喜二自身がそう言っているように、文壇デビュー作です。これは起筆が5月26日で、完成が8月17日です。「戦旗」の11月号と12月号に伏字だらけで発表されました。この年(昭和3年)の5月と6月には、次作の取材のために函館を訪れています。「蟹工船」の起筆は10月28日です。この頃の多喜二は共産党員ではありませんが広告塔のような存在でした。太郎の身辺調査はされているはずです。そのような太郎を天皇陛下大礼の地方賜饌式に招いた事は不思議ですが、太郎の思想とは関係ないのに式典から外してしまう方が問題だったかもしれません。 この年、多喜二が「蟹工船」を10月28日に起筆して、わずか3週間後の11月16日に従兄の太郎が、昭和天皇大礼の地方賜饌式に招かれました。賜饌式は11月16日ですが、御召状の日付は11月1日です。この前後に送られてきたものでしょう。これは「蟹工船」の起筆日(10月28日)にほとんど一致します。その御召状に慶義(太郎の父、多喜二の伯父)が狂喜乱舞したことは間違いありません。その頃の拠点の苫小牧だけでなく、小樽にも出向いて、あちこちで言いまわったでしょう。当然ながらセキ(多喜二の母)さんの耳に入るはずです。そこから多喜二の耳に入るのは間違いありません。太郎が軍人になったことは、当時の世相として不自然ではありません。しかしながら天皇即位の地方賜饌式に27歳の太郎が招かれるとは想定外だったのではないでしょうか。「蟹工船」の基本的構成は既に多喜二の頭の中にあったと思われますが、太郎の賜饌式参列は、その後に書いた内容や表現方法に多大な影響を与えた可能性が高いのではないでしょうか。たとえば、その中には資本家と軍部の癒着構造が描かれています。天皇陛下への献上品の蟹缶詰の中に「石ころでも入れておけ!」という表現さえあります。後に多喜二の罪状として不敬罪の疑いとして加わることになりました。「蟹工船」を書き始めようとした多喜二としては憤懣やる方ない気持ちだったのではないでしょうか。多喜二にとっては帝国軍隊も天皇も、すぐ近くに存在していたのです。また別稿(No.024)で示したように慶義の破産で多喜二に影響が出たのも同時期と思われます。多喜二の眼には資本主義の欠陥と映ったでしょう。別稿で触れた「自分の中の会話」も、このようなタイミングで同じ原稿帳の最後のページに書かれました。それでなくても昭和2年〜3年の多喜二の身の回りには色々な事が生じていました。これらの文章に見える「攻撃性」は、様々な事が複雑に入り混じった結果なのだろうと考えます。 一番最初の稿(No.001)で触れた「原稿用紙に書かれた多喜二葬儀の香典控」は、チマさんの死後に遺品の中から見つかったそうです。この中には志賀直哉の名前があります。それに並んで書かれている「小林太郎」は帝国陸軍の軍人(当時歩兵小尉)でした。
一年志願兵について触れておきます。「一年志願兵制度」は帝国陸軍の予備役幹部養成制度であり、義務としての徴兵制度の中にあるシステムです。幹部とは下士官以上のことです。所定の学歴があり、かつ志願により在営中の費用を自弁する者に対して、通常の現役在営期間の3年を1年に短縮しました。 明治22年(1889年)の改正徴兵令により満17歳から満40歳までの全ての男子に兵役義務が生じました。兵役は(1)常備兵役(現役+予備役)、(2)後備兵役、(3)国民兵役に分かれます。通常の陸軍兵卒は3年間の現役と4年間の予備役を課せられましたが、一年志願兵は現役が1年、予備役が2年と低減されました。学歴条件の他に、兵役に服する間の費用を自己負担する必要がありました。具体的で分かりやすいので、明治26年(1893年)の一年志願兵条例の改正を示します。被服・弾薬等の費用と兵器修理費として62円、この他に糧食費として38円を納める必要がありました。合計すると100円です。また一年志願兵の兵役は無給であり、特別な徽章を付けて雑役を免じられたそうです。太郎の制服写真の右の襟章はそれかもしれません。左側は歩兵第28連隊でしょう。 一年志願兵は満17歳以上、満26歳以下であることの他に次のような学歴が必要でした。 (1)官立学校の卒業証書を持つ者 (2)府・県立師範学校の卒業証書を持つ者 (3)中学校または中学校と同等以上の学校の卒業証書を持つ者 (4)法律学・政治学・理財額を教授する私立学校の卒業証書を持つ者 (5)陸軍試験委員の試験に及第した者 要するに学識と資金のある人に対して、短期間で有事の際の幹部(予備役士官)を養成しておくシステムです。国の財政的負担を肩代わりさせる条件で特権を与えたという側面もあるようです。時期により違うかもしれませんが、よほど見込みのない者でない限り1年間で二等軍曹になり予備役に編入されました。太郎は庁立小樽水産学校を卒業し、父親(慶義)の金銭的支援が可能でしたから、まさしくその例だったと言えます。ただし、その後の保証があるわけではないので、その後に太郎が昇進していったのは実力が認められたのだと思われます。この一年志願兵制度は、昭和2年(1927年)の徴兵令改正により廃止され、幹部候補生制度に変わっていきました。 |
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