知られざる小林多喜二の周辺

 
 028 ( 2019/12/12 : ver 01 )
三吾と石垣洋品店


三吾(多喜二の弟)さんは明治42年(1909年)12月12日生まれです。大正5年(1916年) 4月に潮見台小学校に入学し、大正11年(1922年) 3月に卒業しました。その後、「小林多喜二(手塚英孝)」<1>によると、花園町の石垣洋品店に小僧奉公となりました。苫小牧に残されていた写真を示します。台紙の右肩メモは、園は囗(くにがまえ)に略されており「花園町」と読めます。向かって左側の店の看板には「洋物小間物、小林支店」とあります。写っている店の看板には「石垣洋品店」とはありませんが、「洋物雑貨、高等髪油、電話二〇三三番」とあります。そもそも「石垣洋品店」という名前だったかどうか分からないのですが、無関係の写真をこのような形で残す訳がありませんから、慶義が関与した洋物雑貨店なのは間違いないでしょう。店の前に立っている男性は慶義には見えません。店主の石垣さんでしょうか。

三吾さんが書いた4編の新聞コラムがあります。朝日新聞(北海道版)のコラム<43>です。昭和52年(1977年)4月19日(火)から4月22日(金)のものと思われます。プロフィールには67歳とあります。92歳の長寿でした。このコラムの第1回目には奉公先のことが書かれています。他にも別稿(No.022)で書いた如く、「末治の存在を知らない」ことが分かります。自分のことを「多喜二のたった一人の弟」と書いているからです。他で目にすることは無いと思われるので、第1回目のみ全文を書き下ろし引用します。

引用開始----------------------------
わたしの北海道
語る人:小林三吾さん<1>
小樽市生まれ。プロレタリア作家小林多喜二の弟。家が貧しかったため高等小学校を出ると、すぐ洋品店や伯父の経営するパン屋で働く。父の死後、兄の勧めでバイオリンを習う。NHKで放送していた管弦楽団に入ったあと上京、歌手、舞踏家などについて全国を演奏旅行する。東京交響楽団、東京フィルハーモニーの団員を経て現在フリー。日本演奏家協会員、67歳。
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<小樽築港駅そば>
私の一家が秋田県の大館市に近い田舎から、小樽に出て来たのは明治四十年の暮れで、私はその二年後に生まれました。小樽築港駅のそば、若竹町に伯父のパン工場の支店という形でパン屋を開いたのです。パン屋といっても、おやじが朝早くに出来たてのアンパンやミソパンを仕入れてきて、それを店に並べるだけで、家で作るのは大福もちとまんじゅうでした。
でも周辺は漁師、労務者など貧しい人たちが多く、代用パンやアンパンはよく売れたけど、食パンを買う人は珍しかった。それで女学校に行っていた姉も、学校から帰ると豆選工場に働き、おやじもパンやもちを入れた折り箱をかついで行商していました。
六歳上の兄が小樽商業、さらに高商(現商大)に進学できたのは、伯父の援助があったからです。その代わり伯父の家に住み、工場の仕事を手伝うのが条件で、商業時代は、若竹町の家に帰ってくるのは夏休みぐらいのものでした。
<洋品店の小僧に>
大正十一年三月、私は小学校高等科を出ると、伯父が関係していた洋品店に小僧奉公として住み込みました。兄は高商の二年でした。私が進学するには家に学費がなかった、といえば聞こえはいいですが、私自身あまり勉強が好きじゃなかった。でも兄は大変気にしてましたね。
兄は小林家の跡継ぎ、だから伯父も特別に援助してくれたんですが、高商に通う兄と住み込み小僧の弟、対照的な境遇は気のやさしい兄を少なからず苦しめたと思います。学校の帰り道、時どき洋品店を訪れては、そっと菓子袋を置いていったものです。
幼いころから兄弟すれ違いの生活でしたから、兄はたった一人の弟ということもあってか、無理をいっても、間違った主張をしても、おこることなくウンウンと聞いてくれました。暇を見てはよく小説を読んでくれたものです。志賀直哉の「子供三題」なんどは三回も聞かされました。朗読が好きだったせいもありますが、話し方はとても上手でした。
大正十三年に兄は高商を卒業すると拓殖銀行に入りました。おやじは大変喜んで、行商の先ざきで息子の自慢をして歩いていたそうです。一カ月余り札幌の本店で講習を受けたあと、四月中ごろに小樽支店に配属されました。月給七十円。兄は最初の給料で私にバイオリンを買ってくれたのです。
<父のボヤキ聞き>
私は子どもの時から音楽が好きでしたが、バイオリンなどねだったこともなかった。ただ大正末期はバイオリンが非常に流行してました。おやじが行商の帰り道、米屋の小僧が仕事を終えたあと、バイオリンのけいこをしているのをみて、同じ環境にいる三吾にも買ってやろうと思ったらしく、そのころ古道具屋が軒を並べていた山田町に行ったんですね。そして帰ってきてから兄に「バイオリンって随分高いんだな」と買ってやれないふがいなさをボヤいたんでしょう。兄はそれを覚えていたらしい。
しかし、兄の就職で家族がホッとしたのもつかの間、その年の八月二日、おやじは腸の病気がもとで突然亡くなったんです。私は伯父の息子が苫小牧で開いていたパン屋に働いていましたが、兄に呼び戻され、家の店を手伝うことになりました。

小林多喜二
拓銀に勤めるかたわら同人雑誌「クラルテ」を創刊。社会科学を学び、小樽の労働運動に参加、プロレタリア文芸運動につながりを持つ。「蟹工船」 「不在地主」の発表で銀行を依願退職の形で解雇される。上京後、江口渙、中野重治、片岡鉄兵、大宅壮一らと接触、日本プロレタリア文化活動を興す。そうした中でプロレタリア文学の記念碑的作品といわれる「党生活者」、絶筆となった「転形期の人々」などを書く。厳しい弾圧のため地下生活中の昭和八年二月二十日、東京・赤坂で逮捕、同夕、築地署で警視庁特高課員の拷問で死んだ。
(聞き手 編集委員・上田満男)
引用ここまで----------------------------










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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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