知られざる小林多喜二の周辺

 
 026 ( 2019/12/10 : ver 01 、2019/12/12 : ver 02 )
太郎と多喜二



私の父方の曽祖父は小林慶義、その4男が太郎(祖父)です。慶義の弟が末松、その2男が多喜二です。多喜二と太郎は従兄弟同士です。太郎は明治34年(1901年)2月5日生まれ。多喜二は明治36年(1903年)12月1日生まれ。多喜二の姉(末松の2女)のチマは明治33年(1900年)12月21日生まれです。慶義を戸主とする戸籍には、誕生や婚姻で入籍した順に一族の全員が記載されています。この戸籍では、チマ、太郎、多喜二の順に並んでいます。太郎は早生まれです。生まれた年は違いますが、チマと太郎の年齢差は2ヶ月であり小学校は同学年でした。太郎と多喜二は2年10ヶ月の差があり3学年の違いです。

多喜二らが小学校に入る頃の学校制度は端境期にありました。尋常小学校は4年制から6年制に移行する時期であり、尋常小学校の後には高等小学校がありました。明治40年(1907年) 3月21日の小学校令中改正によると、尋常小学校(義務教育)はそれまでの4年から6年に延長し、高等小学校は原則として2年に固定しました。その前は「尋常小学校4年」、「尋常小学校4年+高等小学校」、「尋常小学校6年+高等小学校」の組合わせが混在していたようです。「小林多喜二伝(倉田稔)」<2>によると多喜二には大正3年(1914年)3月24日付の尋常小学校第4学年修了の修業証書があるそうです。多喜二は4年制の尋常小学校の後、5年生と6年生を続けての小学校生活だったと思われます。この「小林多喜二伝」<2>には多喜二が入学した庁立小樽商業学校の合格者事情が書かれています。庁立小樽商業学校は小学校6年間を終了すると受験資格が生じたそうですが、尋常小学校6年だけで入学試験に合格するのは難しかったようです。多喜二が入学した大正5年(1916年)の合格者100名の内訳は次の如くです。
(1) 尋常小学校 6 年のみ:22名(この中に多喜二が含まれます)
(2) 尋常小学校 6 年+高等小学校 1 年:37 名
(3) 尋常小学校 6 年+高等小学校 2 年:40 名
(4) 尋常小学校 6 年+高等小学校 3 年:1 名


多喜二は難関突破の少数派です。その中でも潮見台小学校からのケースは極めて稀だったようです。チマ(多喜二の姉)もストレートで庁立小樽高等女学校に合格したと思われます。そのくらいの学力がなければ慶義は学費援助しなかったと考えられます。高等女学校令は明治32年(1899年)に公布されました。明治41年(1908年)の改定により,入学資格は尋常小学校卒の12歳以上,修業年限は4年または5年とされました。北海道小樽桜陽高等学校のホームページによると、その前身である北海道庁立小樽高等女学校は明治39年(1906年)5月1日に本科1学年1学級と2学年1学級から始まりました。この頃の新学期は4月ではなくて5月だったようです。明治42年(1905年)に第1回卒業式が行われていますから、チマの時は4年制だったのでしょう。昭和22年4月から5年制になったようです。

太郎とチマが尋常小学校に入学したのは明治40年(1907年)です。太郎は小樽、チマは秋田です。これは小樽の慶義のもとに来た多喜郎の進学と同時です。多喜郎は尋常小学校(4年)の卒業後、1年のブランクの後に高等小学校(あるいは尋常学校の5年目)に入学したのだと推測します。太郎は明治42年(1909年)以降に慶義に連れられて苫小牧に引っ越したはずです。慶義と同時なら苫小牧の尋常小学校には3年生の時に転校したと考えられます。太郎の尋常小学校(6年間)の卒業は大正2年(1913年)です。その後は2年間の高等小学校に入ったと思われます。チマの庁立小樽高等女学校への入学は、太郎の高等小学校入学と同じ年です。太郎は高等小学校を大正4年(1915年)に卒業して庁立小樽水産学校に入学しました。苫小牧から毎日汽車で小樽に通うとも考えにくいので、小樽の家から通ったと思われます。この仮説は重要です。小樽の慶義宅は、小学校3年生まで住んでいた家です。その後は兄(長男:幸蔵)夫婦がメインで住んでいました。その1年後、多喜二が庁立小樽商業学校に入学した時、慶義宅(実質的に幸蔵宅)に同居することになりました。

太郎が入学した庁立小樽水産学校について少し触れておきます。多喜二が住んでいた若竹町11番地の家は、この庁立小樽水産学校の近くでした。多喜二の一家は、この水産学校の校長先生の世話になっていました。多喜二、チマ、ツキの3人が写った写真があります。これは多喜二の小学校入学の記念写真と思われます。別稿(No.010)で示したように、中尾校長先生の子供たちの服を借りて写したものです。若竹町11番地の店には水産学校の学生が、よくパンを買いに来てました。その目的と言えば、若竹小町とも言われた美少女のチマさんが目当てです。

慶義は4男(太郎)を庁立小樽水産学校に入学させた2年前(大正2年:1913年)には、チマ(姪)を庁立小樽高等女学校に入れました。翌年(大正5年:1916年)には甥(多喜二)を庁立小樽商業学校、その5年後(大正10年:1921年)には小樽高等商業学校に入れました。膨大な教育費をかけています。慶義の長男(幸蔵)の時には経済的な余裕がありませんでした。2男(俊二)が18歳の頃は小樽大火の翌年、ようやく新富町に新しいパン工場(小林三星堂)が出来た頃です。経済的な余裕が出てきた時に俊二(2男)は進学することを希望したそうですが、慶義は許さず、商売に専念させたそうです。慶義の3男(吉郎)は早世してます。その後の4男(太郎)や姪(チマ)や甥(多喜二)には教育支援を惜しみませんでした。長男(幸蔵)と次男(俊二)が頑張ってくれたおかげで、その弟(太郎)や従兄弟たち(チマと多喜二)が教育を受けられた訳です。長男と次男という2人が犠牲になったとは思いたくありませんが、その後の子供たちが恩恵を受けたのは事実です。「母の語る小林多喜二」<3>によると、ツギ(セキの3女)も女学校に通ったようです。これは慶義が支援したかどうかは分かりません。この頃の多喜二の家は貧困家庭ではありません。

慶義の生活拠点は明治42年(1909年)頃から苫小牧がメインでした。これは、多喜二の一家が小樽に移住してから、わずか2年後のことです。その後の小樽の家は、実質的に慶義の長男(幸蔵)の家でした。2男(俊二)もいたはずです。太郎は庁立小樽水産学校の時に、多喜二と生活を共にしていた時期があるはずなのですが、それらしき資料が見つかりません。多喜二と太郎が一緒に写っている写真は、確認できる限り多喜二の一家が小樽に移住した直後のものだけです。その写真を示します。

前列の向かって一番右が太郎、その左は多喜二です。慶義が生活の拠点を苫小牧に移した明治42年(1909年)の太郎は8歳、4月から小学校3年生です。この頃に苫小牧の小学校に転校したと考えられます。多喜二が小学校に入るのは明治43年(1910年)です。同じ小学校なら学区は2人とも潮見台小学校ですが、同時に小学校に通学したことは無かったと思われます。そうだとしても太郎はそれまでは小樽にいる訳ですから、約3歳下の多喜二と遊ぶ機会はあったはずです。普通に考えると、多喜二は太郎を兄のように思って遊んだとしても不思議ではありません。

太郎の趣味は写真でした。10冊の写真帳を残しました。この中に約1600枚もの写真があります。その中に多喜二との写真が1枚もありません。以下は想像の域を越えませんが、仮説として書きます。多喜二は庁立小樽商業学校に入ってから絵画を趣味としました。これを慶義が止めさせたエピソードは有名です。多喜二にとっては辛い仕打ちだったでしょうが、勉学に専念させるためのアドバイスと捉えることが出来ます。慶義は多喜二だけでなくチマの学費支援を行っている事からも分かるように、学業に対して理解があります。それを邪魔する存在は排除する必要があったのでしょう。小説を書くのであれば机に向かってますから、勉強しているように見えます。この頃の慶義は苫小牧と小樽を行ったり来たりしていたと思いますが、小樽の生活はメインではありません。ですから、多喜二が何に夢中になっているかという事は知るはずがないのです。私は、太郎が多喜二の監視役のようになってたのではないかと推測します。太郎からの情報により多喜二が大好きだった絵画の趣味を取り上げられたとすれば、2人の仲は良いはずがありません。前記のように、太郎の趣味は写真です。太郎がカメラを操作している場面の写真があります。太郎が複数台のカメラを持っていたか、もしくは友人も持っていたかのどちらかです。多感な時期の多喜二としては、約3歳(2歳10ヶ月)上、庁立学校同士(庁立小樽商業学校と庁立小樽水産学校)で1学年しか違わない太郎と、経済的な格差を感じた可能性が大きいと思います。同じ世代同士の格差であれば、なおさらです。




太郎は、多喜二が慶義宅(幸蔵宅)に同居するようになった後で「送り込まれた」のではありません。太郎の方が先に慶義宅(幸蔵宅)にいたはずです。ですから、慶義は多喜二を4男(太郎)と一緒に生活させることで、互いに何らかの「正の効果」を期待したのではないかと思われます。4才の多喜二が小樽に来てから幼い頃はよく遊んだはずの2人ですし、太郎よりも多喜二の方が圧倒的に学業は優秀です。自分の4男(太郎)に、多喜二の爪の垢でも煎じて飲ませる様なつもりで、遊び惚けていた(かどうかは知りませんが)太郎に刺激を入れるためかもしれません。実際のところ、多喜二がいれば帳簿をつけるには重宝だったと思います。しかしながら単に「パン屋の労働力」を期待した訳ではないでしょう。慶義は勉学のために学費を支援したのですから、それを邪魔するような労働をさせる必要がありません。絵画の趣味を止めさせたのと同じ理屈です。労働力が必要ならば、他に人を雇えば良いだけの話です。他の書籍で触れられることはないようですが、多喜二は「労働の対価として一定の賃金」をもらっていたのではないでしょうか。慶義からすると「おこづかい」です。その時期の税金徴収システムがどうなっていたのか知りませんが、今の感覚で考えると、雇われ人に払う給料ならば必要経費で落とせるということではないでしょうか。

「小林多喜二(手塚英孝)」<8>によると多喜二は庁立小樽商業学校の5年間、慶義の家に同居していたとあります。これに対して「小林多喜二伝(倉田稔)」<2>では庁立小樽商業学校の5年間に加えて、小樽高等商業学校1年目(大正10年:1921年)の中〜終り頃まで同居していただろうと考察しています。すなわち同居は5年半〜6年間だろうという事です。その根拠は以下の如くです。「小林多喜二の手紙」<25>の中で、親しい友人である石本武明あての手紙(1921年(大正10年) 7月20日)に、7月24日・25日・26日は、みそか(月の最終日)で帳面(帳簿つけ)と書いています。また同じく石本武明あての手紙(1922年(大正11年)3月5日)で、築港停車場のすぐ側(若竹町18丁目)に移ったことを書いています。このことから多喜二が自宅に戻ったのは大正10年(1921年) 8月以降、大正11年(1922年) 3月までの間ということが断定できます。

この稿では、太郎が庁立小樽水産学校に進学するにあたって、苫小牧からでなく小樽の家から通学したと仮定して書いています。仮に太郎が庁立小樽水産学校を卒業して苫小牧に戻っていたとしたら、この2人は「大正5年(1916年)4月から大正8年(1919年)3月までの3年間」が一緒だったことになります。庁立小樽水産学校は4年制でしたから、一緒の時期は「太郎が2年生になってから卒業の年(大正8年:1919年)の3月まで」ということです。これは「多喜二が5年制の庁立小樽商業学校に入学してから3年生(本科1年生)の終わりまで」です。

しかしながら太郎は庁立小樽水産学校(4年制)を卒業した後も、満20歳の後半までの3年近くは小樽で小林三星堂の手伝いをしていたと思われます。そうであれば、太郎と多喜二は「5〜6年間は一緒にいた」ということになります。下の写真はこの頃のものでしょう。トラックの後ろに見える家は、平成31年(2019年)2月の時点で取り壊されていて更地になっていますが、平成23年(2011年)のグーグル・ストリートビューでは同じ玄関がありました。小樽潮陵高校(旧・庁立小樽中学校)の教諭だった西浦敏雄氏の御宅だったようです。

写真の一番左が慶義、その右は小林三星堂が雇っていた藤原與吉氏と、その右が太郎です。藤原與吉は「ようさん」と呼ばれていました。おそらく太郎と同じ年で、遊び友達でもありました。海で遊ぶ姿や、野球のユニホーム姿など沢山の写真が残されています。太郎と青春を謳歌していたのです。慶義と藤原與吉は、小林三星堂がフォードのトラックを導入した際、大型運転免許を取りに東京まで行ったそうです。


左から2番目:藤原與吉


後列右から2番目:太郎


さて、多喜二が自宅に帰ることを許された理由は何でしょうか? 三吾(多喜二の弟)は明治42年(1909年)12月12日生まれです。大正5年(1916年) 4月に潮見台小学校に入学し、大正11年(1922年) 3月に潮見台小学校を卒業しました。「小林多喜二伝」<2>では、多喜二の弟(三吾)が小学校を卒業して花園町の石垣洋品店に奉公に出た代償として、多喜二が自宅に戻ったのではないかと考察しています。たしかに前後関係からそう見えるかも知れません。また多喜二の作品から、そのように解釈することは容易です。この稿では、これと違った仮説を提唱します。太郎は大正10年(1921年)2月5日に満20歳になり徴兵検査を受けました。おそらく甲種合格して12月1日に一年志願兵として旭川の第七師団、歩兵第28連隊第11中隊に入営しました。太郎が旭川に行ってしまうと、慶義が考えていた(と思われる)切磋琢磨する相手がいなくなります。もしくは多喜二の監視役がいなくなることにもなります。そのことで慶義宅(幸蔵宅)に住まわせる理由がなくなったのではないでしょうか。太郎が旭川に行った大正10年(1921年)12月1日というのは、多喜二の小樽高等商業学校 1年目の中〜終り頃に一致します。そして、この12月1日というのは多喜二が18歳になる誕生日です。その頃の多喜二の誕生日に関して慶義の認識がどうだったのかは分かりません。すなわち慶義が多喜二の誕生日を12月1日と思っていたのか、あるいはセキ(多喜二の母)が語っているような10月13日と思っていたのか分かりません。しかしながら、少なくても慶義は自分が戸主となっている戸籍を見る機会はあったはずであり、多喜二の誕生日は12月1日と知っていたはずです。実際のところ多喜二の小学校4年生の修業証書にも、その後に作ることになる印鑑証明にも多喜二は12月1日生まれとあるからです。これらのことから、12月1日は多喜二を自宅に戻すのにちょうど良い節目だと考えたのではないでしょうか。

慶義が2人を同じ生活環境におこうとした本来の目的は既に推測したごとくですが、多喜二の思想は未だ固まっていない頃です。慶義の想定外だったかも知れませんが、多感な年代を太郎と共に生活したとなると、特に多喜二の方は大きな境遇の違いを感じ取った可能性があります。既に書いたように、太郎はカメラを趣味として多くの写真を残しましたが、多喜二との写真は1枚もありません。このことは、太郎と多喜二の間に距離感を感じさせます。もちろん、太郎が苫小牧から通学していたのであれば、一緒に写した写真が存在しなくても何の問題も無いのですが、小樽には小さい頃から住んでいた家があります。小樽の海で遊んでいる写真も多数あります。ですから、この時期に小樽に住んでいないと考える方が不自然と思います。多喜二が文壇デビューした「一九二八年三月十五日」より以前に書いた小説には、名前を変えて身の回りの人物が登場します。たとえば秋田に里帰りして成り金風を吹かす人物は慶義もしくは妻(リツ)がモデルだと考えられます。私は多喜二が書いた全てを読んだ訳ではないので、多喜二研究家に問いたいところですが、多喜二の作品の中に「太郎を思わせる人物」はいるのでしょうか?




石本武明と多喜二

先ほど触れた石本武明は入学同期であり、その名前は「小樽商業合格者」の中にあります。庁立小樽商業高校5年間の親しい友人でした。写真は多喜二と石本武明です。大正10年(1921年)3月に卒業した後、石本武明は北海道銀行に就職したようです。「小林多喜二の手紙」<25>には、この年の6月から翌年の3月までに多喜二が出した2通のはがきと4通の封緘はがきが載っています。この時の石本武明は何かで悩んでいた様子があります。多喜二はそれを気遣って連絡を取り合って遊びにさそっていたようです。この中には多喜二の胸の内も表現されています。それらの部分を引用します。

引用開始-----------------------------
●大正10年(1921年)06月14日、はがき。
俺ハ 十一日から修学旅行に出ているのだ。・・・<以下略>
●大正10年(1921年)07月20日、封緘はがき。
二日も誘って済まなかったねえ。<中略> 君の運命が残酷だと云う。が俺の立場は恐らく誰れにももらした事がない、又俺の生来の陽気なのに誰れも影を思い出したことがないのだ。嬉しいやら、悲しいやら。・・・・・・が君にも勿論他の誰れにも今は打ち明けまい。事情がある。常に笑い笑談を云うものは、必しも心の平和な人とは限らない。この云葉を俺に考えてくれ。
●大正10年(1921年)07月26日、封緘はがき。
近頃どうしている。さっぱり手紙を寄さないねえ。・・・<以下略>
●大正10年(1921年)08月01日、封緘はがき。
手紙を戴いた。そして第一にお喜びを申しあげる幸福を有することを亦(また)喜ばねばならぬ。とうとう君が・・・<中略>。が、蘭島から帰って一人になったとき、俺は淋しさに涙がこぼれた。(この涙は二つの意味からだ。一つは、俺もああして女と騒がねばならぬのか。まあ恋人のない者のなげきが、これだ。もう一つはこれは今の所云いたくないから、いずれ機会があるとき云う) ・・・<以下略>
●大正10年(1921年)08月15日、封緘はがき。
<前略> (君の眼に映じた俺は恐らく浮はくに映るだろう。俺は、うわべは、成るたけ陽気にしたい性格だから仕方がないよ) が、君と会って笑談を云って笑う間にも何かしら考えていることは事実なのだ。君の事なども、が、到底君に何等かを打ち明くべくあまりに俺はpoorなのだ。まあ左様なら。
<封緘はがき裏> いつも笑談を云う人は必ずしも人生に対する不平者でないと云うことはない。−再び繰り返す。
●大正11年(1922年)03月05日、はがき。
天狗山おろしもあまり寒くないと思う。今試験だから、十七八日に終ると思うから、そのあとに遊びに来てくれ。今度築港停車場のすぐ側に移ったから、汽車の都合もいいと思う。・・・<以下略>
引用ここまで-----------------------------

これらの中には「常に笑い笑談を云うものは、必しも心の平和な人とは限らない」とか、「いつも笑談を云う人は必ずしも人生に対する不平者でないと云うことはない」と書かれています。ごく親しい友人にしか言わない事だと思われますが、その時の慶義宅での生活に相当な窮屈感があったに違いありません。「今の所云いたくない」というのも、その事だと思われます。もう一人、別稿でも示した「青年論壇(昭和23年)」の中津川俊六の記事<40>も、多喜二の心理状態を上手く表現しているので引用します。

小林多喜二の生涯<40>----------------------------------------
つらいといえば、三度のめしをあたえられて、学校へあがっている自分が、自分の家のものたちからいかにも幸福そうに見られるのが、いっそうにつらかったにちがいない。伯父のところにいるくらいなら、新聞でも牛乳でも配達して自分の家から学校へ通いたいと、いくどか伯父の手からのがれようとおもっているのに、そうした気持が両親や弟妹たちに通じないもどかしさに、彼はしじう直面して、せつなかった。
だから、はためには幸福そうに見えるその引けめから、いきおい両親たちへいくらかでも仕おくりをしなければならなかったのであろう。夏休みになって、からだに余裕ができると、彼は誰にでもできそうな、手っとり早い労働を見つけた。それは防波堤工事に従事している潜水夫にポンプで空気をおくりこむ仕事だった。その作業はいかにもかんたんだが、潜水夫の生命をあずかっているも同様なので、ちっとも手をやすめるわけにはいかなかった。小林は当時を回想して、その仕事はじつに簡単だが、どんなはげしい労働よりもつらい、そしてどこか刑務所の仕事に似ている、といっている。
引用ここまで-------------------------------------------

ここでは、多喜二の家族に「幸福そうだ」と誤解されることに、もどかしさを感じただろうという考察です。実際にはもっと広い多喜二の周辺の人、たとえば教員たちも「そのように見てるのだろうな」と多喜二は感じていたと思います。その後の多喜二は小樽高等商業学校を卒業して北海道拓殖銀行に就職しますから、典型的な出世コースでした。慶義の援助あってこそだという事は多喜二自身も理解していたはずです。世代の違いのため仕方がないかもしれませんが、慶義は多喜二の繊細な心の内までは理解してなかったと思われます。


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明治36年12月1日
多喜二の香典控
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