知られざる小林多喜二の周辺

 
 023 ( 2019/11/26 : ver 01 )
末治は佐藤家で育った



前稿(No.022)で示したように、前半が欠落して「タイトル・著者・出典とも不明の記事」<32>があります。昭和53年2月20日という多喜二の命日に発行されたようです。出典は分かりませんが内容は重要です。多喜二の弟、そして三吾の兄として「3男の末治」が存在することは既に除籍謄本から分かっていました。しかしながら、結婚するまでの経過が不明だったのです。この記事<32>により、末治さんは佐藤家で育てられたということが判明しました。記事<32>の全文を書き起こしました。まずは著者の人物像をその内容から推測します。著者はセキさん(多喜二の母)と知り合いであり小林家に近い人物のようです。小林家の戸籍謄本を見ながら書いているのは間違いありません。この中でも「一族について」という章はかなり詳しく書かれていますが、左下の「小林家略図」に注目します。



ここに決定的な間違いがあります。安倍彌吉校長の養女は「クニ」ではありません。たしかにクニさんは存在しますが、この辺は複雑なのです。この間違いは、小林家のことを良く知っていながら、何らかの確実な資料を基にしている訳ではなく、聞き知った範囲に頼っている内容です。著者はそんな距離にいた人物と思われます。間違っていること自体は問題ではありません。次に示すように、別の文書にも同じ間違いがあります。私の手元に「安部家を辿って」<36>という冊子があります。私家版だと思われますが、安倍彌吉校長にまつわる記事があります。これは平成20年(2008年)に編集されたものです。この中に「安部弥吉校長のことども」という文章が載っています。もともと何かに発表された昭和50年頃の文章です。著者は小林三知雄氏です。この記事は「出典不明記事」<32>の3年くらい前です。この文中に「(安部校長の)奥さんのイマは・・・くに(川口の佐藤本家)養女とし、その娘ツネ・・・」といった同じ間違いがあります。同じく小林三知雄氏が書いた冊子として「旧下川沿村郷土読本・人物編」<37>があります。これは「出典不明記事」<32>の2年後(昭和55年)に書かれたものです。この中には内容だけでなく、言い回しに共通部分があります。特に「世界的な作家」というタイトルの付いた章の最初はほとんど同じです。この部分を引用します。「世界的な作家:彼が虐殺されてしまったが、進歩的な内外の智識人や勤労者のあいだに、大きな憤激をまきおこした。あまりにもその非難が高かったため、それ以後警察では虐殺することの、不利をさとり、その後、逮捕された現共産党委員長宮本顕治さんたちが、殺されなかったと言われている。」とあります。ある内容を誰かが参照して書いた可能性も完全には否定できませんが、書かれた時期も考えると「出典不明記事」<32>の著者は小林三知雄氏である可能性は高いと思います。「母の語る小林多喜二」<3>の中で荻野富士夫氏が書いた注記の中に、この名前があります。安倍彌吉校長の記念碑についての解説の部分ですが、「小林三知雄「小林多喜二のことども」(一九七三年二月二〇日、掲載紙不明、多喜二寄託資料[小樽文学館])によれば・・・以下略」というものです。

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昭和53年2月20 日出典不明記事

<これより前は不明>

になりがちな態度を反省しノートの原稿帳をつくって刻苦の努力をはじめた。十二月、五百円で田口タキを救い出す。
一九二六年(大正十五年・昭和元年) 二十三才の一 <この部分は次行の消し忘れだろう>
二十三才の一月「師走」を「クラルテ」に発表した。四月に田口タキを若竹町の自宅に引き取った。このころ「折折帳」と称する日記を書き始めた。
一九二七年(昭和二年)
二四才。社会科学の学習を始めた。労農芸術家連盟に加盟し、小樽支部の幹部になった。
一九二八年(昭和三年)
二五才。二月普通選挙法による国会選挙がおこなわれ、労働農民党から立候補した山本縣蔵を応援し、東倶知安方面の演説隊に加わる。三月、全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成したが、年末に至って全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)となる。
一九二九年(昭和四年)
二六才。三月昨年より起稿しておった彼の代表作「蟹工船」完成し、「戦旗」五・六月号に発表されたが、十一月十六日かねて発表した「不在地主」が直接の理由で銀行を解雇された。
一九三〇年(昭和五年)
二七才。三月末小樽より上京し、中野区上町に下宿。四月「蟹工船」中国語訳(潘念之)が上海大江書舗から出版、外国で出版された最初である。年内に二度投獄された。
一九三一年(昭和六年)
二八才。保釈出獄。作家同盟第四臨時大会で中央委員第一回執行委員で常任中央委員、書記長に選ばれた。杉並区馬橋に一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟(三吾)と暮した。
一九三二年(昭和七年)
二九才。伊藤ふじ子と結婚したが、宮木顕治<原文のまま>らとともに地下活動に入らざるを得なかった。
一九三三年(昭和八年) ←この部分は記載漏れを書き足した
二月二〇日、正午すぎ共産党としての連絡中、党内に潜入しておった特高のため、今村恒夫とともに逮捕され、築地署において警視庁特高中川・山口・須田たちの拷問により午後七時五十五分殺された。検察当局は死因を心臓まひと発表し、解剖してはいけないと指令を出してさせなかった。二十二日の通夜と、二十三日の告別式参会者を検挙した。母セキと本家の小林市司(旧下川村長)ら近親の人たちのみであった。「赤旗」「無産青年」「大衆の友」「文学新聞」「プロレタリア文化」「プロレタリア文学」は追悼と抗議の特集号が発行された。また外国からロマン・ロラン、魯迅をはじめ、多数の抗議と弔文がよせられた。
一九五七年(昭和三二年)
六月、下川沿駅構内に「小林多喜二生誕地」の石碑を佐藤栄治が建てる。当時の文学会長で、昭和五年ごろ「戦旗」の防衛巡回講演に行動をともにし、多喜二の葬儀委員長でもあった。江口渙の筆にならったものである。

一族について

多喜二の祖父多吉郎は、北秋田郡川口村二十四番地に小林多治右衛門の次男として生まれ、下川沿村川口拾七番地(現在大館市川口字長里二三六番地の二)斉藤壽美宅そこに分家になった。長男慶義は安政六年十月十日生まれ、昭和六年六月二十日、北海道勇佛郡苫小牧町王子町二十三番地において死亡。(三ツ星製菓会社社長 俊平氏は曽孫)
父末松は二男で、慶応元年九月九日生まれ、大正十三年八月二日、小樽市量徳町一番地において死亡、同居者小林多喜二届出となっている。
母セキは明治六年八月二十二日。釈迦内村木村伊八当主雄作氏の長女として生まれ、明治十九年十二月十七日、十三才のとき結婚している。
兄多喜郎は明治二十八年十一月十五日に生まれて明治四十年十月五日、小樽の伯父慶義方にて死亡、川口小学校時代は成績がよく特に習字のじょうずな人だったそうだが。
長女ヤヘ 明治三二年二月に生まれてまもなく死亡
二女チマ 明治三三年十二月二十一日生まれて、小樽郡朝里村 佐藤藤吉と結婚、昭和四九年ごろ死亡
二男多喜二 明治三六年十二月一日(実際は十月十三日生まれ)昭和八年二月二十日午後七時四拾五分東京阪<原文のまま>東京市京橋区築地壱丁目弐拾四番地ニ於テ死亡 同居者小林三吾届出 仝月弐拾参日杉並区長魚井重太郎受附仝月弐拾六日送付糸田となっている。
参男末治 明治三十九年三月三日生
参女ツキ 明治四〇年一月四日生 昭和四年四月六日 石川県江沼郡福田村 幸田佐一と結婚 死亡
四男三吾 明治四二年十二月十二日
五男多志喜 大正二年四月一日生 まもなく死亡
四女幸 大正五年七月七日生
三男末治は当時近くに住んでいた佐藤藤右エ門方の実子で、どういう関係からか入籍になっており、長女 ヤヘ、五男多志喜は生まれて間もなく死亡。現在は弟三吾と妹幸の二人のみである。三吾氏は幼少よりバイオリンが天才的名手で、NHK交響楽団員としてその才能を発揮しておった、東京都神宮前に居住している。その子息が数年前写真大学に在学中とか来村されたが、その後のことはわからない。
妹幸は、著者が東京におったとき、小樽から洋裁を習いにきておった。多喜二に似た面長なスタイルのよい娘さんとして印象深かったが、最近頂いた写真では、かなり中年太りの婆さんになっている。六二才なはず。
母セキは、東京におったときたびたびあって、川口のときの思い出をいろいろと話しをしてなつかしんでいた。畑から野菜ものをとり入れて、夜なべに整理して、翌朝暗いうちに家を出て、夜の明け方長瀞の鉄橋を渡るのが一番こわかったと言っていた。見通しがきかないカーブだから、汽車が来るのがこわかったのでしょう。釈迦内のことは、もうほとんど記憶にないが、川口のことは大変なつかしんでいた。あるとき、上野方面から神田の春日町方面の市電に遇然<原文のまま>いっしょに乗りあわせたことがあった。私が声をかけても、最初ピンとこなかったらしい。ちょっと経ってから、「三郎右エ門(私の家のこと)のアンサマだけしかー」と。秋田弁まるだして言ったことも、今はなつかしい思い出となってしまった。老年になってからは、夏は小樽のチマのところに、冬は東京の三吾のところに、そして死亡する二・三年前途中下車して私のところにも立ち寄ったそうだが、あえなかったのが残念である。
彼の姉チマは、小樽駅の一つ手前の朝里駅を下車するとすぐ左のダラダラ坂を登ってゆくとすぐ右側の新しいりっぱな家であった。夫藤吉との間には、子どもに恵まれず、夫の弟に嫁をむかえ、相続させている。大型のトラックに雑貨品を積んで、在の方に行商していた。前に行ったときは、朝里駅の近くに住んでいて、豆腐屋だったと思っている。あとで海の見える高台に住んでいて、多喜二や夫藤吉、母セキなどの写真をいっぱい張って<原文のまま>ある、一人部屋に居った多喜二の遺品もたくさんあった。手紙などは来るとすぐ焼いて、埋めてしまったが、今残しておいたらどんなに助かったろうにと話していた。心臓病とかでしたが、案内していただき旭ヶ丘で写真を撮ったのが最後でした。戸籍上の参男 末治は、大館市内に住んでいて今も健在でいる。
また、彼の親戚の工博鳥潟右一の三男で農博の名古屋大学教授の博高氏は、鳥潟右一博士伝の序文に「健康に恵まれた<原文のまま>かったが鬼才と言われたその才能を充分に発揮し数多くの栄誉にかがやいた発明家鳥潟右一とプロレタリア文学のホープと言われ蟹工船の名誉をあらわし、幾多の春秋を残しながらその主義主張は入れられず警察の拷問で命を落した小林多喜二は、くしくも血縁でつながっている。右一の母イクは、下川沿村川口(現在大館市)の小林多治右衛門の二女である。多喜二はその小林家の分家の子である。」と。なお、右一博士の四男の博敏氏は三菱レーヨン取締役で理学博士である。

世界的な作家

意外に知られていない多喜二と書いたが、それではそんなに価値のない作家だったろうか。今から四五年前の今日の午後築地警察署で虐殺されてしまったが、進歩的な内外の智識人や勤労者のあいだに大きな憤激をまきおこした。あまりにも非難が高かったため、それ以後虐殺することの不利をさとり、やめたためその後逮捕された現共産党委員長宮本顕治氏たちが殺されなかったと、評されている。共産党の機関紙「赤旗」、文化連盟の「プロレタリア文化」大衆の友「働く婦人」作家同盟の「文学新聞」「プロレタリア文学」などはこぞって追悼の特集号を出した。その年の三月十五日には築地小劇場において文化連盟の主催の労農大衆葬には、多数の参加者が集まった。中国を代表する世界的な作家魯迅は、多喜二虐殺に接し、左のような弔辞を寄せている。
同志小林ノ死ヲ聞イテ
日本ト支那トノ大衆ハモトヨリ兄弟デアル。資産階級ハ大衆ヲダマシテ其ノ血テ界ヲヱガイタ、又ヱガキツツアル。併シ無産階級ト其ノ先駆達ハ血デソレヲ洗ッテ居ル。同志小林ノ死ハ其ノ実証ノ一ダ。我々ハ知ッテ居ル、我々ハ忘レナイ。我々ハ堅ク同志小林ノ血路ニ沿ッテ、前進シ握手スルノダ。
魯迅
彼が特高に虐殺された翌年、モスクワでゴーリキーの司会のもとに開かれたソ?<原文のまま>作家同盟の大会において小林多喜二の虐殺に対する抗議が満場拍手のうちにむかえられた。また彼の代表的な作品が中国、ソビエト?邦<原文のまま>、ドイツ、イギリスなどで翻訳され、それぞれの国で大きな感銘をあたえたのである。また中華民国と国交回復するや、まずまっさきに多喜二の遺族である姉チマを尋ね、「日本無産階級作家、革命戦士小林多喜二同志永久光栄」の掛軸を、たずさえて季<原文のまま>団長が、訪問している。今日の中華民国あるは多喜二の力によるところが大である、建国の恩人とまで讃えている。このように偉大なる世界的作家、偉人をわれわれ郷土が生んだことに誇りを感じ、再認識すべきであると思う。

その後の主なこと

「多喜二映画を成功させる会」は、四八年八月より「多喜二プロダクション」(東京都渋谷区桜丘一五−一一、金属労働会館内)製作が計画され、当地の撮影も計画されたので、急きょ、四九年秋に「会」を結成し「小林多喜二」製作促進協力券(四〇〇円)の販売から初めた<原文のまま>。その年末より、監督、今井正撮影陣と、俳優横井正が来市し、市の商工観光課とタイアップして撮影を無事完了した。小林多喜二に山本圭、田口タキに中野良子、母セキに北林谷栄、宮本百合子に富士真奈子などの名優ぞろいであった。五〇年二月封切りの一本が当市で上映された。

〇 大館の第一回多喜二祭は五一年二月二二日、下川沿公民館で行われた。これは「小林多喜二の会」の発足第一回目の事業で、東京、秋田、鹿角、鷹巣部のほかや、地元の大館から老若男女約五十人の有縁、無縁の有志が集まった。開会に先立ち、小林多喜二の会の結成や、多喜二碑案内標柱の建立までのいきさつについて事務当局から報告した。講演会は、多喜二と同世代の前県議の鈴木清氏が「当時の私の体験」と題して非合法下の生まなましい特高の体験など迫力をもって語ったあと、鳳鳴演劇部OB蟹工船」の一節の作品の朗読、詩人故今野大作が、多喜二の一周忌に寄せた「小林虐殺一周忌二月二十日」の詩の朗読。作家右遠俊郎氏の「多喜二の文学とその周辺」に関する講演があった。終了後、参会者全員で下川沿駅構内にある多喜二の碑に真紅のバラを捧げたあと、講師陣を囲んで座談会がもたれ、遅くまで語り合った。

〇 五一年五月八日、大館労働会館において、絵夢人倶楽部(吉田一夫君たちのクラブ)主催で上映された。この映画はカルロヴァリ映画祭監督賞をうけた名作で監督はベテランの山村聡、出演者は、山村聡、森雅之、中原早苗などの名優ぞろいである。フィルムは少し古くなってはいたものの、すぐれた彼の作品をよくあらわしていた名画であった。東京芸術座による演劇は、五二年六月二日大館市民体育館において、「蟹工船」を観る会会長菅原保氏の主催によって行われた。脚色、大垣肇、演出、村山知義である。満員の盛況であった。(前売・・・一、三〇〇円 学生八〇〇円)

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なお「小林多喜二生誕の地」の石碑は、三二年六月故佐藤栄治が建立、江口渙の筆になるもので、除幕式には東京より弟三吾とその妻、北海道より母セキ、姉チマとその夫藤吉、妹幸(札幌)石碑の筆者江口渙や多喜二の「骨」を石碑の下に埋めた。小樽の銀行時代の同僚織田勝江や「小林多喜二」に関する数冊の名著をあらわし、研究の第一人者手塚英孝氏(即日帰京)など多数参会した。

研究の手引書

小林多喜二(文庫本) 上、下新日本出版社
定本小林多喜二全集 十五巻 全巻揃セット一五、〇〇〇円 新日本出版社発行
小林多喜二 小田切秀雄著 有信堂
小林多喜二読本 多喜二、百合子研究編 一、一〇〇〇円<原文のまま>
小林多喜二 土井大助著 汐文社 一、〇〇〇円
写真集小林多喜二手塚英孝編 新日本出版社 三、〇〇〇〇円<原文のまま>
小林多喜二読本 多喜二、百合子研究会 啓隆閣


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小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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