知られざる小林多喜二の周辺

 
 022 ( 2019/11/23 : ver 01 )
多喜二の弟として「末治」が存在する



苫小牧の実家にあった「慶義が戸主の除籍謄本(昭和26年発行)」によると、多喜二は9人兄弟(5男4女)です。この除籍謄本によると「多喜二」と「三吾」の間に「末治という3男」が存在します。三吾は「3男」ではなく「4男」と記載されています。しかも「末治」は早世した訳ではなく、22歳4ヶ月で結婚してます。この時の多喜二は 24歳7ヶ月です。除籍謄本に載っている以上、「末治」の存在は間違いありませんが、多喜二の記述の中には弟として「末治」は出てきません。

別稿(No.018)で示したように、満17歳のセキさんの初産は死産でした。過去簿に記載がある戒名(慈幻善孩兒)から考えると男児と思われますが除籍謄本には記載されていません。除籍謄本と過去簿<28>を照らし合わせて分かるのは、セキさんの出産は10回あったということです。成人になる前に死亡したのは、死産の児(慈幻善孩兒)と、長男(多喜郎)、長女(ヤヘ)、5男(多志喜)です。「母の語る小林多喜二」<3>の中でセキさんは「生涯に9人の子を産み3人が夭死した」と言っています。もし「末治」の存在が無いのであれば、慈幻善孩兒を含めて9回の出産ということになります。夭死したのは、慈幻善孩兒、長男(多喜郎)、長女(ヤヘ)、5男(多志喜)の4人です。夭死の定義に11歳の多喜郎を入れなければ、慈幻善孩兒、長女(ヤヘ)、5男(多志喜)の3人となります。セキさんの言う「9人の子」の中に「慈幻善孩兒」を含めない場合は、この9人の中に「末治」を含める必要があります。この場合、夭死したのは、長男(多喜郎)、長女(ヤヘ)、5男(多志喜)ということになります。この後で説明しますが、セキさんに「生まれたばかりの末治と別れる」という悲しい出来事があったとすると、本来の3男(末治)のことを心理的に「夭死とみなした」ということも考えられます。そして小樽に渡って経済的余裕ができてから生まれた男子を「3男」と考えることにして、「三吾」と命名した可能性があります。長男が「多喜郎」、2男が「多喜二」であり、それぞれ長男と次男に相応しい名前です。小樽で生まれた男子には「4男である」にも関わらず3男を思わせるような「三吾」という名前を付けているのです。この命名には、「本来の3男」を忘れたいという母(セキ)や父(末松)の思いが込められているのではないでしょうか。この除籍謄本は2019年2月に小樽文学館に寄贈しました。希望すれば誰でも見れるようにしたわけです。この除籍謄本は世に大きな2つの疑問を投げつけています。ひとつ目の疑問は多喜二の誕生日の件です。これは別稿(No.006)で謎解きをしました。それまで定説として明治36年10月13日とされていましたが、現在ではウィキペディアの記載も明治36年12月1日となっています。2番目の謎は「末治の存在」です。この稿では、その謎を解いていきます。

まず昭和26年の除籍謄本から、末松・セキ夫婦の子供たちの名前を示します。この謄本は手書きです。はじめ「末治」の欄に間違って次にある「ツキ」を書いてしまったようで、それらしき修正の痕跡があります。昭和26年の除籍謄本とは別に、苫小牧には昭和3年の戸籍謄本も残されています。こちらは原本ではなくてコピーなのですが、隣り合った「末治」と「ツキ」の部分には修正の痕跡はありません。ですから昭和26年の記載間違いは何らかの意図を持った改竄ではありません。

昭和26年の除籍謄本

昭和3年の戸籍謄本

慶義(多喜二の父である末松の兄)は、小樽のパン製造で財をなしました。慶義には男子の子供がいるので、後継者には困りません。土地を手放さざるを得なかった事で小林家を衰退させた意識があったかも知れませんが、末松一家を小樽に誘ったのは「家制度」における家長としての義務感からでしょう。末松・セキ夫婦は住み慣れた故郷を離れられずにいました。しかしながら長男の多喜郎には、さらなる教育を与えるべく明治40年(1907年)の春から小樽の学校に通わせることになりました。多喜郎は、その前年の明治39年(1906年) 3月に4年制の尋常小学校を卒業したと考えます。そして経済的な困窮のため、その後の進学が出来なかったと思われます。倉田稔氏は「小林多喜二伝」<2>の中で、小樽に来た多喜郎は中学校に入ったのだろうと考察しています。その頃の小学校制度は4年制や6年制の端境期でした。多喜郎が小樽に来て通い始めた学校は、新制度によると小学校5年生・6年生に相当する「高等小学校」だったと、私は考えます。この多喜郎は小樽の慶義宅で生活を始めて間もなく、12歳になる直前の1907年(明治40年)10月5日に死亡してしまいました。

多喜郎が4年制の尋常小学校を卒業したのは明治39年(1906年)の3月です。利発な子でしたが、この頃の末松・セキ夫婦の経済状態は逼迫していたものと思われます。秋田では高等小学校に入れることができなかったのでしょう。末治(3男)はその年、明治39年(1906年)3月3日に生まれました。当時の経済状態で、生まれてくる児を育てることができなければ、他家に出した可能性が高いと思います。養子に出すためには「家長の承認」が必要でした。この時の家長(慶義)は小樽におり、簡単に連絡がとれなかったと思われます。やむなく戸籍は小林家のまま・・・というのが私の推測です。その時代、生まれた子供を初めから他家の戸籍に入れてしまう強引な事も行われていたようです。しかしながら、これでは違法です。逆に、これも違法ですが他家の児を末松・セキの子として籍に入れたという可能性も無い訳ではありません。しかしながら実際に育てた形跡は無く、そうしなければならない理由も考え付きません。さらに、これだと話が変なのです。後で詳しく触れますが、末治は佐藤藤右衛門の子供として育てられました。少なくても周囲からはそう思われてました。百歩譲って、何らかの都合により形だけ末松・セキ夫婦の子供として役場に届け出たと仮定しましょう。でも成人してから婿養子として佐藤藤右衛門の戸籍に戻すのは筋が通りません。

この「末治」なる人物は、成人後の昭和3年7月10日(22歳4ヶ月の時)に佐藤藤右衛門の娘(チヨ)と婿養子縁組婚姻しました。この「娘のチヨ」は佐藤藤右衛門の実子ではありません。それは除籍謄本の記載から分かります。いつ頃の入籍か分かりませんが、おそらく末治との結婚と同時に養女になったと思われます。この婿養子縁組婚姻とは、単に結婚後に妻の姓に変わるという単純なものではありません。結婚と同時に、妻の親と養子縁組を行うのです。これは「妻の親」の養子になるということです。慶義の戸籍に入ったまま放置されていた問題が、昭和3年になって解決されたのだと考えます。さきほど苫小牧には昭和26年の除籍謄本の他に、昭和3年の戸籍謄本もあったと書きました。昭和3年3月8日に発効されたものです。養子縁組には家長の許可が必要です。当時、家長である慶義は苫小牧王子町に住んでいました。この昭和3年の戸籍謄本は、婿養子縁組婚姻の説明や許可をもらうために使ったものかもしれません。

昭和52年(1977年)の春に、三吾さんが朝日新聞北海道版に4日連続の連載コラム<33>を書きました。この中で「兄はたった一人の弟ということもあってか、無理をいっても、間違った主張をしても、おこることなくウンウンと聞いてくれました」とあります。自分を「たった一人の弟」と言っているのは、三吾さんは「兄としての末治」の存在を知らないからです。多喜二の誕生日について別稿(No.006)に記しました。多喜二は自分の誕生日は戸籍上は12月1日と知っていました。しかしながら確信は持っていませんでした。このことから分かるのは、多喜二は自分の戸籍謄本を見たことがないだろうということです。なぜなら多喜二が戸籍謄本を見ていれば、そこには「12月1日に出生、12月5日に届出」と書かれています。ですから誕生日に関する疑問は解決したはずです。そして同時に「末治」の存在にも気付くはずなのです。多喜二は生涯にわたって「末治」という弟の存在は知らず、弟は「3男としての三吾だけ」だと思っていたでしょう。



平成24年(2012年)の夏に、これらの疑問を解決する新聞形式の記事を苫小牧の実家で見つけました。前半が欠落しており、タイトル・著者・出典とも不明です。昭和53年2月20日という多喜二の命日に発行された事と、著者は三郎右エ門の身内であるという事しか分かりません。便宜上、この記事を「出典不明記事」<32>と書きます。その内容からすると著者はセキさん(多喜二の母)と知り合いであり 小林家に近い人物です。この記事は重要です。スキャンした画像を示しますが、これだけでは読みずらいので、書き起こした全文を次稿(No.023)で示します。書いた人物についても次稿で考察します。ここでは先に結論として書きますが著者は「小林三知雄」だろうと推測します。以下は「出典不明記事」<32>の内容を踏まえての考察です。

この記事<32>には多喜二の誕生日は明治36年12月1日と書かれています。そして「実際は10月13日生まれ」と注釈があります。多喜二が死亡した時の手続きの記載は詳細であり、兄弟の記載も苫小牧にあった除籍謄本と同じです。ですから著者(小林三知雄)の手元には戸籍謄本があると断定できます。戸籍謄本には「12月1日に生まれ、届出は12月5日」と明記されているのですが、生みの親であるセキさんが「旧暦8月23日(新暦で10月13日)生まれだ」と言っているのですから、そちらの方が正しいと考えたのでしょう。「三男末治」についての記載は極めて重要です。「当時、近くに住んでいた佐藤藤右エ門方の実子だが、どういう関係からか入籍になっている」と書かれています。特に「佐藤藤右エ門方の実子」と断定している部分は注目に値します。他者の目から見ると、末治は始めから佐藤藤右衛門の子供と見えているのです。この記載は「末治が生まれてすぐに佐藤藤右衛門に預けられた」という可能性を強く示唆します。

この「出典不明記事」<32>は平成24年(2012年)の夏に苫小牧の実家で見つけたと書きました。除籍謄本の方はその前に見つけてましたから、末治が22歳の時に佐藤藤右衛門と婿養子縁組をしたことは知っていました。しかしながら多喜二が残した記載や他の文献でも、この「末治」の存在が見えませんでした。どこで何をしていたか不明だったのです。それが、この記事<32>によって「育ての親」が判明したことになります。生まれてすぐに佐藤藤右衛門に預けられたのであれば、周囲からは「実子である」と見えたはずです。狭い村の事だから、それくらい分かるだろうと反論されるかもしれませんが、「戸籍の記載」と「周囲からの見え方」と、どちらを信じるか・・・と言う話です。もし末治が「佐藤藤右衛門の実子である」と仮定するとしても、末松・セキの子供として役場に届ける必然性がありません。末治が生まれた明治39年頃の末松・セキ一家は、おそらく貧困のどん底とも言える状態だったと思われます。末治が育てられた形跡もありません。末治が生まれた時、多喜二は2才3ヶ月です。この年齢なら覚えてなくても不思議ではありません。チマさんは5才2ヶ月でした。少しでも生活を共にしていれば、何らかの記憶の痕跡が残ると思われます。そうであれば、いずれ多喜二の耳に入ったはずです。以下は推測の域を越えませんが、ひとつの仮説です。セキさんが子供たちに余計な心配をかけまいとして、自宅ではなく他家を借りて出産したと考えたらどうでしょうか? セキさんが産気付いた時、あらかじめ相談していた佐藤藤右衛門の家に行き、そこで出産したら、その児は直ぐに佐藤家に渡すことが出来ます。周囲からは佐藤家の子供に見えます。出産後にお腹が小さくなっても、チマさんに気付かれないで済ますことは可能です。セキさんは時々秋田を訪れてますが、そのような時には自分の実家(木村家)よりも、母親の生家である日景家に泊まることが多かったそうです。昭和29年9月の台風15号は、いわゆる洞爺丸台風ともいわれ、青函連絡船の洞爺丸が沈没した台風です。そんな日にセキさんは日景利夫宅に泊まっていました。ちょうど奥さんが産気付いたのですが嵐のために産婆を呼ぶこともできず、セキさんが日景利夫さんの長男を取り上げました。「大館市先人顕彰祭全記録集」<10>は、2003/10/11〜10/13に開催された先人顕彰祭の記録集です。この先人顕彰祭での講演ではありませんが、日景健氏の「小林多喜二の母セキ生誕地の碑建立記念講演」の内容が付録資料として載っています。それは「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる」というタイトルの文章です。ここに書かれています。日景健氏とは一度お会いしたことがありますが、大館市生まれで長く高校教員をされ校長として退職後に郷土研究をしていました。釈迦内でセキさんの実家の隣に住んでおり、セキさん一家と親交があります。もともとセキさんの母親は「日景フリ」ですから、どこかで血縁関係があるかもしれません。話が飛びましたが、このような度胸のあるセキさんですから、他家での出産も問題ないでしょう。

この記事<32>の著者(小林三知雄)の手元にある戸籍謄本を、著者の視点で解釈すると次のようになります。(1) 多喜二は 10月13日(新暦)に生まれたのに2ヶ月も遅れて 12月5日(新暦)に登録された。戸籍では 12月1日が出生日と書かれた。(2) 末治は佐藤藤右衛門の実子であり、佐藤家で育てられた。しかしながら、なぜか末松・セキの3男として小林家の戸籍に登録されている。(3) 22歳になってから婿養子縁組婚姻をして、実の両親(佐藤家)の籍に戻った。このように複数の「奇妙な事」が生じます。これらの問題点を解決せずに、セキさんの言っている誕生日や表面的に見えている親子関係だけを書いているからです。記事<32>には、末治さんが昭和53年の時点で「大館市内で健在である」ことも書かれています。おそらく「佐藤末治」としてです。この時72歳です。著者は「戸籍上だけの事」と考えたようですが、「多喜二」と「三吾」の間に「末治」が存在することを昭和53年(1978年)に公表しました。この新聞形式の「出典不明記事」<32>は、地域紹介の情報誌のようなものと考えられます。これがどのくらいの規模で配布されたのかは不明です。今の時代なら、末治さんの末裔が多喜二と血縁である事が判明しても不利益を被る事は無いでしょう。私は、末治さん自身が「自分と多喜二との間の何らかの関係」を知っていた可能性があるのではないかと思います。

三吾さん(多喜二の弟)は昭和52年(1977年)に新聞コラム<33>を書いたことは記しました。普通に考えると末治の事は知るはずも無いでしょう。このコラムは朝日新聞の北海道版なので、おそらく秋田に住む小林三知雄氏は見てないと思われます。このコラムの翌年の昭和53年に小林三知雄氏は「多喜二と三吾の間に末治が存在する」ことを公表したことになります。すでにセキさんは昭和36年、ツギさんは昭和47年、チマさんは昭和50年に亡くなっています。この記事は三吾さんの目にとまったでしょうか? この頃の三吾さんは東京に住んでいたかも知れません。小林三知雄氏はセキさんと知り合いです。三吾さんとは、どうだったでしょうか? 三吾さんと著者(小林三知雄氏)の間に 何らかの接点があったならば、後に三吾さんも事情を知った可能性があります。

再度、私の推測を整理して書きます。戸籍の記載から分かるのは、末治は末松・セキ夫婦の3男であるということです。出生直後から佐藤藤右衛門に預けられました。この時に養子縁組はされずに戸籍は小林家のままでしたが、他者からは実子に見えました。佐藤藤右衛門は養女としてチヨを籍に入れました。チヨは、それまで「実子のように育てられた末治」と昭和3年に結婚しました。末治が22歳になった時です。末治は婿養子縁組婚姻することで正式に佐藤藤右衛門の戸籍に移り、慶義を戸主とする戸籍から抜けました。チヨは嫁入りしたように見えますが、実は佐藤藤右衛門家に養女として入ったのです。そして、その養女(チヨ)とその親(佐藤藤右衛門)の所に末治が婿養子に入ったということです。チヨが養女として佐藤藤右衛門の戸籍に入ったのは、末治の婿養子縁組婚姻と同時だったのではないかと思います。周囲の人からは、「末治は佐藤藤右衛門の実子である。そして昭和3年(22歳の時)に妻(チヨ)を嫁に迎えた。」と見えたはずです。このストーリーは複雑な内容ではありますが「戸籍の記載」と「周囲からみた末治」の両者を無理なく説明します。

さきほど昭和3年の戸籍謄本が苫小牧王子町の実家にあり、婿養子縁組婚姻の説明や許可をもらうためのものだろうと書きました。それは妥当なところだと思いますが、さらに深読みすると、このような戸籍の放置状態を元に戻す複雑な智恵は、慶義が考えたかもしれません。なにせ慶義は別稿で記したように、土地の問題で法律関係をたくさん勉強したはずだからです。

私が平成24年(2012年)の秋田県多喜二展に参加した時のことですが、さきほど触れた日景健氏の祖父(日景國太郎)に多喜二が出した手紙が展示されてました。その内容は、母(セキ)が秋田に行った際に色々とお世話になったという礼状です。この礼状は昭和4年(1929年)8月27日に出されており、「小林多喜二の手紙」<25>に載っています。セキさんは時々故郷の秋田に行ってましたが、この時の要件は何だったでしょうか? この頃は、末治が昭和3年7月10日に結婚してから1年たっています。これも推測の域を越えませんが、末治・チヨ夫婦に生まれた赤ちゃんを、何かのついでを装って見に行ったのではないでしょうか。この頃、実際に赤ちゃんが生まれていたとすると、セキさんにとって初孫なのです。

セキさんの孫について分かっていることを書きます。2女チマさんは大正11年9月28日に佐藤藤吉氏と結婚しました。「出典不明文書」<32>に書いてますが、チマさんに実子はいません。夫(藤吉)の弟と甥を養子に、妹のツギさんの娘(和枝)を長女にしました。3女ツギさんは末治のすぐ下の妹ですが、昭和4年4月6日に結婚しました。翌年に長女が生まれたとすると昭和5年生まれです。この娘をチマさんの養女(和枝)に出しました。次に長男(昌久)が生まれました。この子は昭和8年2月の時点で、セキさんが預かっていました。多喜二が亡くなった時、セキさんが赤ん坊を背負って築地署に駆け付けた写真があります。そこに写っているのはこの子(昌久)です。写真から1歳くらいと見ると、昭和7年(1932年)前後の生まれと考えられます。この他、三吾さんと高木幸さんの子供たちがいるはずですが、詳細は知りません。

別稿(No.011)で示した写真を再掲します。チマさんと娘(和枝)とセキさんが写っています。3人とも「よそ行き」の服装です。多喜二は昭和7年(1932年)の4月頃に地下生活に入りました。その年の9月にヤマナカヤという果物店の喫茶室で、多喜二・セキ・三吾・チマ・和枝の5人が会っています。この写真は、おそらくその頃のものだと思われます。三吾さんが写ってないのは、撮影者だからかもしれません。多喜二は、和枝は3歳だと書いています<1>。チマさんの妹ツギさんが結婚(昭和4年)の翌年に産んだと考えると満2歳くらいですが、数え年だとすると辻褄が合います。

ひとつ補足が必要です。除籍謄本を見て、末治とその次に生まれたツキ(3女)との間がわずか10ヶ月しかないことに気付く人がいるでしょうか。これまで考察した内容の信憑性が低いと思うかもしれません。しかしながら、これくらい近い「年子」も医学的に不可能ではありません。何らかの都合で母乳を与えることが出来ないと、次の排卵の開始が早くなります。従って、年子が生まれる確率は、むしろ高まります。難しい話になりますが女性の性周期は、いくつかのホルモンにより決定され、それぞれの絶対量や相対的な量関係によります。例えば下垂体から出る FSH(卵胞刺激ホルモン)により卵巣で卵胞が成熟していきます。同じく下垂体から出る LH(黄体形成ホルモン)の急激な増加により、成熟した卵胞から卵子が放出(排卵)されます。この卵子が受精しなければ、肥厚した子宮内膜が維持できずに脱落します。これが月経です。もし卵子が受精して子宮に着床すると、プロゲステロン(黄体ホルモン)により子宮内膜はそのまま維持され、妊娠が継続されます。妊娠中のホルモン動態は省略しますが、妊娠中に排卵が生じることはありません。従って、妊娠中に新たな別の妊娠が生じることはないのです。出産によりホルモン動態は、また変化していきます。この変化は「児に母乳を与えるかどうか」で異なります。母乳を出すためにはプロラクチンというホルモンが必要です。このプロラクチンは、同時に「排卵を抑制」する働きを持っています。そのため、児を母乳で育てると排卵の再開が遅れます。これは、次の妊娠可能な時期が「遅れて」やってくることを意味します。生まれた児を集中して育てるためには合理的なしくみです。産婦人科のホームページによれば、出産後の約3週間程度は(母乳を与えない場合でも)排卵に関するホルモン分泌は抑制されています。そのまま4〜9週間くらいになると、FSH(卵胞刺激ホルモン)や LH(黄体形成ホルモン)のパターンが、次第に妊娠前のように戻り、やがて排卵や月経周期が再開します。しかしながら児を母乳で育てる場合、母乳の分泌を促すプロラクチンが、この妊娠を可能とさせるホルモン系の回復を抑制してしまいます。出産直後の妊娠の可能性について、IPPFのホームページには、実際の文献を引用して分かりやすく書かれています。医学誌(G、Pittman. Obstetrics and Gynecology. 18 March 2011)によると、平均すると、排卵の開始は出産後 45〜94日だったとのことです。しかしながら、中には出産後 25〜27日という短い例も見られました。これらのことから、次のことが言えます。もし児を母乳で育てなければ、次の妊娠可能な時期は早く来ます。このことは、年子が生まれる可能性が「より高くなる」ということを意味します。末治が生まれた10か月後に ツキが生まれる可能性は、医学的にあり得ます。この稿で考察したような理由でセキさんが生まれたばかりの末治と別れ、母乳を与えることが出来なかったとしたら、「年子が生まれる可能性」は高くなるのです。


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明治36年12月1日
多喜二の香典控
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