知られざる小林多喜二の周辺

 
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慶義は野心家か?



もともと小林家は北秋田の大地主であり「重右衛門家」が本家です。三代目の時に「多治右衛門家」が分かれました。慶義の父、多吉郎は九代目多治右衛門の次男です。それなりの土地を持っていました。「小林多喜二(手塚英孝)」<1>には慶義の家屋敷は800坪と書いてあります。この稿の後半に出てきますが、慶義が起こした裁判記録によると、慶義が最初に売った田畑山林は1町余歩(=約3000坪)だそうです。全部を売るはずないですから、この数倍程度の土地があったと推測できます。それが没落していったのは、家長だった慶義の代であることは間違いありません。「小林多喜二(手塚英孝)」<1>には、慶義について「投機的な小事業家であり、たえず一攫千金を夢みながら儲け仕事に奔走して、家業には身を入れなかった」と書かれています。そして債権者との間に訴訟問題がおきたことも書かれています。この稿では慶義が起こした裁判について触れますが、この過程を調べると原告としての慶義が「被告に翻弄される姿」が浮かんできます。その結果、家業には身を入れる余裕もなく裁判のために奔走していたと思われます。ですから、「たえず一攫千金を夢みていた」という表現は今ひとつ腑に落ちません。秋田始審裁判所で始まった裁判は、宮城(仙台)の控訴院、東京の大審院(現在の最高裁)と続きます。東京では裁判費用を稼ぐために木版刷りの子供の絵本や浮世絵の複製本の商売をしてたそうです<1>。結局、一連の裁判はどうにもならず、すべてを清算して小樽に渡ったのが明治26年(1893年)、慶義が34歳の時でした。その後、成功のきっかけをつかむまでの8年間は地道に日雇い労働や開墾百姓をしていたようです。

チャンスの発端は長男(幸蔵)が明治34年(1901年)にパン屋の徒弟になった事です。この年に多喜二の従兄である太郎(私の祖父)が4男として生まれました。翌年(1902年)から任された店を親子で頑張り軌道に乗せました。北八甲田連峰で雪中行軍遭難事故があった年です。明治37年(1904年)5月8日に小樽大火がありました。これは多喜二が秋田で生まれた半年後です。遼陽会戦(日露戦争)の勝利を祝う提灯の不始末が原因だったようです。小樽中心街の大半が焼け出され、慶義のパン屋(稲穂町)も消失しました。しかしながら潮見台の自宅付近は火災を免れました。この場所での再起スピードが速く、その後の飛躍につながりました。戦争特需も関係しています。明治42年 (1909年)に苫小牧に拠点を移したのは、王子製紙工場が出来るからでした。苫小牧の発展を予想してのことです。小樽に渡って撮影した写真を見ると幸蔵(長男)もしくは俊二(二男)に本を持たせています。新しい知識や情報は大切であるというメッセージでしょう。この写真は太郎(4男)の写真帖に残されており「渡道当時の父兄」の添書があります。慶義は姪のチマさん(多喜二の姉)や甥の多喜二らにも学費を援助しています。これらのことから推測されるのは、慶義は無理なことをゴリ押しするタイプではなく、チャンスが来るまで辛抱する。チャンスがあればそれを選択する。一度決めたらトコトン頑張る・・・という姿です。


昭和49年(1974年)の映画「小林多喜二」のパンフレットを入手しました。これはDVD化された際の附録として付いていたもの<7>と同じです。この中で手塚英孝は「小林多喜二と私」という文章を寄せています。それには、「戦後一年半たった頃、私はそれまで勤めていた共産党の文化部をやめて、それまでの仕事をひきついで完全な小林全集をつくる仕事に専心するようになりました。四十一歳のときです。その秋、北海道へ資料の調査にはじめてでかけましたが、ゲートルを巻いて、リュックを背負い、握飯を用意する状態でした。」と書かれています。手塚英孝は情報収集のために北海道を訪れ、昭和21年(1946年)の秋にチマさんとセキさんに会いました。この時、青森と北海道をつなぐ青函連絡船の甲板の上で体にDDTを吹きかけられたそうです。この取材内容が後の重要な資料になっています。手塚英孝が昭和33年(1958年)に出した「小林多喜二」<8>は多喜二研究の草分け的な存在です。その10年前の昭和23年(1948年)に蔵原惟人と中野重治が編集した「小林多喜二の生涯」<5>に「小林多喜二研究」なる文章を書いています。これらが加筆修正されて「小林多喜二」<1>に至ります。その後の多喜二研究のバイブルになりました。

一方、別稿(No.002)で触れた「母の語る小林多喜二」<3>は、平成23年(2011年)7月10日に出版されました。これは小樽商科大学の荻野富士夫氏が、埋もれていた原稿を発掘して出版したものです。この書籍でも裁判のことは書かれていますが、セキさんによる慶義の印象は「何事にも事業の好きな・・・」というものです。この書籍の成り立ちは重要です。朝里に住んでいた小林廣氏が、昭和21年(1946年)3月頃に、セキさんから聞き取った内容がベースになっています。小林廣氏は、姓は小林ですが親戚関係ではないようで、後にチマさん(多喜二の姉)と結婚する佐藤藤吉氏と幼なじみだったそうです。この原稿は昭和21年と昭和23年の2回、出版の寸前まで行きながら何かの理由でお蔵入りとなっていました。それを荻野富士夫氏が見つけ出して出版に至りました。これらから分かるのは、セキさんが手塚英孝氏と小林廣氏に説明したのは、昭和21年という同じ年だということです。セキさんは同じ内容を説明したに違いありません。この時のセキさんは満73歳です。慶義の印象について語ったのは(この後で説明しますが)、その60年前の「満13歳で嫁入りした頃」の記憶です。1948年の「小林多喜二の生涯(小林多喜二研究)」<5>から2011年の「母の語る小林多喜二」<3>の出版までは63年もの隔たりがあります。この2つの本の内容が一致しているとしても、それは「セキさんの60年前の記憶」という情報源が共通しているからです。

慶義が秋田で民事裁判を起こすことになった発端は、忠国社から土地を購入したことです。入札した土地を落札したのが明治19年(1886年)11月15日でした。11月27日に内金40円を払いましたが、この後にトラブルが発生しました。セキさんが慶義の弟(末松:満21才)と結婚したのは、その直後の12月17日です。セキさんは満13歳でした。今の年齢感覚だけで考える訳にもいきませんが、当時であっても満13歳は子供です。「母の語る小林多喜二」<3>ではセキさん自身が「然し何と云っても十五(注:数え年)では未だ子供ですから、お嫁に行っても何一つ大人の考えはなく、唯婚家の舅、姑の命令通り、はい、はいと動いていたに過ぎません。」と書いています。その年はすぐに終わって明治20年になりますが、慶義は裁判に奔走することになります。農作業などする暇もないでしょう。結局セキさんは、慶義のこのような走り回る姿しか見ていません。5月には敗訴となり、慶義は上告のために仙台や東京で暮らすことになりました。そして故郷には帰らぬまま小樽に渡りました。慶義が「わずか13〜14歳のセキさん」に、自分が忙しい理由を懇切丁寧に説明するはずもありません。セキさんの目には「何だか分からないけど、いつも忙しそうに走り回っている・・・」くらいに映ったのではないかと思われます。そのような印象を、手塚英孝氏にも小林廣氏にも説明したでしょう。それで、慶義は「たえず一攫千金を夢みながら儲け仕事に奔走して、家業には身を入れなかった」という風に伝わったのだろうと考えます。

民主文学2012年4号に、慶義が申し立てた訴訟について書かれています。「なぜ多喜二は小樽に移住したか ―小林慶義の民事裁判記録から―」<11>という文章です。これを書いたのは三重大学の尾西康充先生です。それを私が知ったのは平成24年(2012年)の小林多喜二シンポジウムの時でした。小樽文学館で文芸評論家の宮本阿伎さんと話をする機会がありました。小樽から札幌に戻る電車の中ではパンを頂いたり、この記事のことを教えていただきました。宮本阿伎さんは2015年からの5年間、「民主文学」の編集長をしており、また手塚英孝氏の実証的な多喜二研究に協力した人です。蛇足ながら手塚英孝氏は昭和56年(1981年)に死去しました。命日は12月1日という多喜二の誕生日です。多喜二の命日(2月20日)は、多喜二が信奉する志賀直哉の誕生日です。私は突然で失礼ながら尾西先生に手紙を書きました。以前、別のホームページでこの件について触れる際に、掲載許可を頂くためでした。そうすると大変ご丁寧な返事が来て、おまけに判決文の全文コピーを送って頂きました。これは最初の裁判、秋田始審治安重罪軽罪裁判所のものです。


この文章<11>によると慶義が申し立てた民事裁判の事件名は「地所売買地券書換願請求の詞訟」というものです。事件番号は「一八八七年第二五号および第三三号」、1887年(明治20年)のことでした。被告は鷹巣忠国社。この忠国社は、本社の他に亀田・本荘・扇田・鷹巣・能代・神宮寺に支社があったようで、不動産兼貸金業者のようです。慶義の訴訟関係を克明に調べた尾西氏によると、明治18年(1885年)から明治23年(1890年)にかけての5年間だけでも、秋田地方裁判所管内で忠国社に関わる裁判が 59件ありました。忠国社が原告となったものが 49件で、このうち 47件が「貸金催促の詞訟」、2件が「公費落札金引戻および損害要求の詞訟」です。これらの結果は勝訴47件、敗訴2件。一方、忠国社が被告になったものは 10件で、勝訴4件、敗訴6件です。このように、この5年間で 単純計算でも毎月1件の訴訟に関わっています。まるで訴訟のプロのようであり忠国社の胡散臭さが目立ちます。訴訟の内容は略しますが、明治19年(1886年)11月15日に土地を買いました(入札して落札)。慶義が400円で落札した土地は、田が6町3反8畝27歩、畑が1町3反8歩、山林が1反2畝8歩でした。合計すると7町8反1畝13歩となります。歩(ぶ)とは耕地・林野の面積の単位であり、家屋・敷地の場合の坪(つぼ)に等しいそうです。すべて最小単位に換算して単純に合計すると 23,443歩(坪)です。現在の単位で考えると 77,498平方メートルに相当します。これは1辺が約278メートルの正方形の面積と等価です。

この土地を手に入れる前に「慶義が所有していた1町余歩(=約3,000歩・坪)の土地」を忠国社に売却しています。何らかの理由により、その8倍もの広い土地(最初に売った部分を含む)を買おうとしたことになります。これらの事実から推測すると、まず慶義が自分の土地を「40円で忠国社に売った」と思われます。慶義は落札した後に「内金40円」を払っているからです。そして360円を忠国社から借りることになっていました。これらを合わせた400円で、7町8反1畝13歩(=23,443坪)の土地を落札したのです。トラブルはこれが発端です。この土地を落札してからの慶義は、忠国社に翻弄されました。落札が明治19年(1886年) 11月15日、慶義による内金40円の入金が11月27日です。12月1日に忠国社からの360円の移動はあるようですが、これが不透明です。その翌年(明治20年)に秋田始審裁判所に訴訟を起こしました。先に記したように忠国社は訴訟のプロのようなものです。結局、慶義は正当性を認めてもらえず、その年(明治20年) の5月31日に秋田始審裁判所で敗訴しました。自分の土地を失い、新たな土地も手に入らず、また双方の訴訟にかかった費用も払わなければなりませんでした。送って頂いた判決文は毛筆かつ難解で私には解読できませんが、尾西氏によると判決文では慶義が「虚言」を用いたことにされ、むしろ慶義が詐欺を働こうとした構図になっているようです。とうてい納得できない慶義は宮城(仙台)控訴院に控訴しました。ここでも埒が明かなかったらしく、東京の大審院まで粘りました。それで仙台や東京で暮らすことになりました。すでに書いたように、その後も故郷に戻らずに、そのまま小樽に渡りました。秋田にいた時のセキさんとの接点は極めて短期間です。しかもその時のセキさんは満13〜14歳でした。

秋田始審裁判所で慶義敗訴の判決が出たのは明治20年(1887年) 5月31日でしたが、それからわずか2年後の明治22年(1889年) 1月20日の時点で、被告の鷹巣忠国社は倒産しています。また、その翌年、明治23年(1890年) 10月25日の時点で、忠国社の本社までが倒産しています。明治22年(1889年)以降の忠国社は、自転車操業で本当にやって行けなくなったものか、あるいは計画倒産・偽装倒産かは分かりません。結局、訴える対象自体が消滅してしまった訳です。宮城(仙台)控訴院の敗訴に次いで、東京の大審院では上告自体が不受理になった可能性もあります。大審院判例集には、この記録がないからです。「小林多喜二」<1>によると明治26年(1893年)に慶義は訴訟の継続を断念しました。残っていた土地の大部分を処分し、それまでにかかった経費を清算しました。最後に残った土地と家屋を弟の末松に託して小樽に渡りました。残っていたのは約80反歩だそうです。

まだ疑問はあります。何故に慶義は広い土地を必要としたかという事です。その時点で大規模農業など考えるはずもありません。私が重要だと思うのは奥羽本線の存在です。奥羽本線(青森〜福島)は明治26年(1893年)に着工されることになりました。区間ごとに開業時期が異なり、例えば、下川沿村を挟む「大館-鷹巣間」は明治34年(1901年)に開通しました。明治26年(1893年)に着工する鉄道工事の計画が公式に発表されるのは、いつ頃でしょうか? 国としては民間の土地を買収する必要があり、線路ができる場所が重要です。奥羽本線は羽州街道に沿っています。慶義の住む川口(下川沿村)は羽州街道の宿場でしたから、まさしくそこなのです。それまで作物が出来ないような荒れた土地であっても、途端に貴重な存在になります。このような情報は公式発表の前に、いろいろな筋から漏れてくると思われます。情報の中枢に近いほど確実な利益を得る事ができますが、利益追求の業者にとっては「情報の正確さ」はそれほど問題ではありません。「路線計画に含まれる重要な土地であること」をチラつかせれば良い訳です。購入希望者には、資金がない場合に貸してくれる悪徳業者がいても不思議ではありません。明治20年前後は「局地的な土地バブル状態」だったのではないかと思われます。明治18年(1885年)から明治23年(1890年)の5年間だけで、不動産兼貸金業者の忠国社に関わる裁判が59件もあるのです。「たえず一攫千金を夢みながら儲け仕事に奔走して、家業には身を入れなかった」というのは全くの筋違いという訳ではありません。しかしながら、鉄道敷設の際の土地バブルに乗じた悪徳業者に騙された・・・というのが、より真実に近いと思います。

慶義と末松(多喜二の父)の父である多吉郎は下川沿村川口の宿場で駅逓業務を始めたようです。この多吉郎は文政5年(1822年)11月7日の生まれです<10>。明治維新の制度変革には目覚ましいものがあります。明治5年(1872年)に全国網の郵便制度が成立したのに伴って宿駅制度が廃止となりました。また江戸時代が終って参勤交代が無くなりました。派手に行われた参勤交代は、羽州街道沿いの人々の重要な収入源でした。羽州街道の参勤交代は米沢藩(上杉家)を除く出羽の諸藩および陸奥の弘前藩と黒石藩(津軽家)が利用しました。いくら土地を持っていても農業だけでは生計は困難です。奥羽本線(青森-福島間)は明治26年(1893年)に着工されることになりました。鉄道ができても羽州街道自体は無くなりませんが、交通手段や流通経路が変化していくのは間違いありません。駅逓業務が無くても旅館業はできますが、馬車や馬橇は姿を消していくので利用者が減るのは目に見えています。そのまま何もしない選択肢もありますが先細りは避けられません。土地はあるので細々と農業はできるかもしれませんが、自然災害や飢饉も多くて安定した収入源になりません。慶義が家業以外に手を出したのは、むしろ社会の変化を感じ取って未来を見通す目があったからと考えられます。しかしながら「家業の先細りを何とかしよう」という目論見は失敗してしまいました。別稿で示したように、慶義は苫小牧の家(三星堂)を秋田県人会事務所としていました。面倒見の良い人だったようです。小樽で成功した後も、気軽に他人の保証人となったために財を失いました。その際、多喜二も巻き込まれてしまうのですが、稿を改めて書きます。



土地の大きさについてまとめてみます。いずれも書籍に書かれている数値が正しいものとします。すでに書いたように、歩(ぶ)とは耕地・林野の面積の単位であり、家屋・敷地の場合の坪(つぼ)と同じ面積です。慶義の家屋敷は約800坪。明治19年(1886年)に、最初に慶義が売った田畑山林は約1町=3000坪(歩)で、値段は40円です。買おうとした田畑山林の落札額は400円で、これが7町8反1畝13歩=23,443歩(坪)です。最初に売った1町=40円の割合で計算すると、この広さの土地は312.6円になりますから、すごく高い金額で落札したことになります。裁判をあきらめ、すべてを清算した後に残ったのが約8反歩とあります。この「反歩」は「反」のことです。「町」のことも「町歩」と言ってました。8反歩は2400歩(坪)です。家屋敷の800坪を差し引いても、1600歩(坪)の田畑山林を末松(多喜二の父)に託したという事になります。別稿で示したごとく、後に自宅として苫小牧王子町23番地に借りた土地は128.64坪です。これを基準にすると、その約20倍の土地を残して小樽に渡りました。

土地の単位を書いておきます。
1町(ちょう)=10反(たん)=100畝(せ)=3000歩(ぶ)=3000坪(つぼ)
1町=100畝=1ヘクタール=100アール=10,000平方メートル
1畝=30坪(歩) =1アール=100平方メートル
1坪(歩) =3.305785平方メートル=畳の約2畳
耕地・林野の面積→歩(ぶ)
家屋・敷地の面積→つぼ(つぼ)

なぜ慶義が広い土地を所有していたかという事に関係があるので、小林重右衛門家に伝わる古文書について、この稿で書いておきます。偶然の出来事に近いのですが、古文書を見る機会がありました。それに書かれていた内容を、読みやすいように一部を漢字に直して抜粋します。多治右衛門家は、重右衛門家の三代目の時に分かれたことが書かれています。一時は交際を絶ったようですが、その後の記載では地元の林野開拓に協力し合っています。小林多治右衛門は小林市司と称しました。13代目の小林市司は、多喜二が死亡した時に東京に住んでいて、セキさんと一緒に多喜二の遺体を引き取りに行った人です。後に下川沿村の村長になりました。私の実家にあった昭和26年の除籍謄本は、この小林市司が村長の時に発行されたものです。御先祖は私費を投じて山野を開墾しました。それらの土地を所有していた訳です。時の流れには勝つことができず・・・というのも、慶義が土地を買って何とかしようとした事に関係あると思われます。

水田や畑を作るには雨水だけでは足りません。どこかから水を引いてくる必要があります。下川沿村には米代川が流れています。灌漑用水は川の上流から引いてくる必要がありました。単に「長い溝」を掘ればいいというものではありません。漏れない水床を造らないと下流まで届きません。また勾配を計算するためには高度の測量技術が要求されます。「梅干しと日本刀 −日本人の知恵と独創の歴史−」<34>によると、古来から日本の測量および土木技術には素晴らしいものがありました。「米代川 その治水・利水の歴史」<35>には「嘉右衛門堰」のことが書かれています。「堰」とは「せき」または「〜ぜき」と読む場合は「川の水をせき止める構造物」を意味します。一方「せぎ」と読む場合は「用水路」を意味するようです。せき止めるだけなら「治水」ですし、何かに利用する場合は「利水」ということになります。[せぎ]=[せき]+[用水路]ということです。嘉右衛門堰は<せぎ>です。これは米代川に注ぎ込む岩瀬川の上流から用水路を引いたものです。文化年間(1804年〜1818年)に石井嘉右衛門によって作られ、6キロメートルもの長さがあったようです。

重右衛門家の古文書にあるように、その後の嘉永5年(1852年)頃から,嘉右衛門堰の水取口よりも約2キロメートル上流から「重右衛門堰」が作られました。7代目小林重右衛門が開削しました。この時期は多喜二の祖父の多吉郎が宿業を始めた頃に相当します。手元には部分コピーしかなく出典は分かりませんが、米代川の歴史について書かれた書籍に重右衛門堰の記載があります。後で記す古文書の記載と一致しますが、これは7代目以降の重右衛門家が苦労して3世代,40年以上かかって作りあげたものです。公的事業だった時期もあるようですが、水害やら飢饉やらで予算がなくなり中断されると重右衛門家が私財を投じて完成させました。下川沿村に至るには、途中で山田川と交差しなければなりません。この難題はサイフォン原理の掛樋(かけひ)でクリアしました。9代目重右衛門(禮之助)が川口まで伸延して完成に至りました。完成に至るまでには村の有志が協力しており、その中に小林多治右衛門もいました。皆が協力して水を引いて田畑を作りました。重右衛門堰により、蛭沢・山田・川口あわせて約70町の水田が開拓されたと言います。1町=3000坪(歩)です。70町という広さは21万坪です。昭和54年には、並走する2つの嘉右衛門堰と重右衛門堰は合流して現在の山瀬大堰となったそうです。この山瀬大堰が灌漑する面積は約206町(206ヘクタール)。小林重右衛門や小林多治右衛門が大きな地主になっていったのは、そのような歴史があってのことです。次の図で重右衛門堰と嘉右衛門堰の位置を示します。


現在の岩手県北部、下図で青丸の周辺は姉帯兼興(姉帯大学兼興)によって治められていました。姉帯城が居城です。兼興の弟に姉帯兼信(姉帯五郎兼信)がいます。日本史ではあまり見かけませんが秀吉の全国統一にあたって実質的に最後の戦いとなった「九戸政実の乱」で、この2人は討死しました。豊臣秀吉の命令で蒲生氏郷が九戸城をめざして奥州街道を北上した際、まず姉帯城を攻め落としました。その際に乳母につれられて生き延びた兼信の子(市郎2歳)が北方の金田一温泉に逃げ、武を捨て農となった・・・という内容の古文書が姉帯城址に掲示されています。金田一温泉は現在の二戸市にあり、座敷童のいる旅館で有名です。昔は南部藩の湯治場で、馬淵川沿いに「小林」なる地があります。この子が成人して岩手から秋田に移り、羽州街道沿いに居を構えた可能性があります。姉帯城や金田一温泉は奥州街道沿で、下川沿村(赤丸)は羽州街道沿いでした。「松峯山伝寿院は語る」<24>には、小林重右衛門家は姉帯一族の流れをくんでいることが書かれています。この書籍では「兼政」の事が書かれていますが、前記の古文書にある兼信(姉帯五郎兼信)の子(市郎)が初代の小林重右衛門である可能性があります。ということは小林多喜二は武士の末裔という事です。




この「松峯山伝寿院は語る」<24>は副題が「北比内歴史副読本」ともあり、平成15年(2003年)に北比内歴史研究会により出版された私家版非売品の書籍です。一般には目にすることが無いので関連部分を引用します。三光院物語と題した項目からです。

----引用開始 P286〜P287 ----

川口の三光院は鷲嶺山三光院と称し、南部藩岩鷲山三光院に一脈通じるものがある。岩鷲山も鷲嶺山も岩手山のことではないか。岩手の三光院は永禄三年(一五六○年)頃、岩手郡岩手町一方井村で栄え、別当職となり、元和年間に盛岡に転じて領内の修験者の統括役と、鹿角郡の同役をも兼務した。天正十年(一五八二年)に自光坊と改名して、「御領内惣録職被仰付」となり、修験者として唯一人、百八十石の社領を与えられたとある。

比内地区には、先祖を南部領に持つ人々が多いのである。というのは、天正十九年九月、九戸政実の反乱軍は豊臣秀吉に降伏し、将兵五千人余が九戸城二の丸で撫斬りとなった。大湯鹿倉城と九戸城の落城で生き残った者は、隣国の大館・比内・桧山へと逃れ、そこを第二の故郷としたのであった。北秋(注:北秋田か)の村々は南部の落人(おちうど)で埋め尽くされたのである。そのなかで有名なのは、大葛の荒谷家であろう。

川口村の小林重右エ門家も南部の出身で、近年家系に関する古文書を発見、回顧の念一方ならず、先祖の地である姉帯城址を秘かに訪ね、供養をされたという。当主重治氏は誠実な方で、現地調査の結果を嬉しげに話されていた。

重右エ門家は代々豪農・豪商で、他村に並ぶものはなかった。平成の世にあっても広大な屋敷を構え、昔の面目を今に残している。

重治氏から姉帯城主与次郎兼政が先祖と伺って驚いた。南部姉帯から川口村まで辿った道程は判らないが、比内町史の荒谷家の史料の中に、小林家の家族構成の記載があって、南部出身という連帯の永い交際があったことを示している。それに山師を業(なりわい)とした仲間でもあった。

小林家の先祖は川口を永住の地と決めた時、三光院の創建を考えたと思われる。というのは、岩鷲山三光院に繋がるからである。

姉帯城五千の将兵は岩鷲山三光院で戦勝祈願をして戦いに臨んだ。破れたりとは云えど、守護の神仏である。同じ境遇の賛同者を集めて、鷲嶺山三光院を創建したのである。当然、元真言寺の温泉寺も創建に関係したと思われる。

--中略--

小林家が三光院との縁に終止符を打ったのは、天保二年(一八三一年)洞雲寺より免翰証を受けた時であろう。山田村から婿一人、嫁一人を貰ったことも、洞雲寺との繋がりを深めたことである。天保六年(一八三五年)に永代苗字帯刀を許されたのであった。

----引用終了----




昭和4年(1929年)の「文章倶楽部1月号」に「自分の中の会話」という文章が掲載されました。これは別稿(No.006)で触れましたが、この文章の書き出しは「大名と地主と武士、この三つを何百年前から両肩に背負わされて・・・」というものです。姉帯一族は九戸政実と血縁があるようです。九戸政実は九戸城の城主で南部一族の有力者であり、南部家の当主に迫る、あるいはそれ以上の実力がありました。「九戸政実の乱」とは、劣勢となった南部家当主(信直)が豊臣秀吉に援軍を求めたものですが、強引な奥州仕置を進める豊臣秀吉に対して武士の意地を貫いた戦いでした。高橋克彦の小説「天を衝く:秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実」に描かれています。多喜二は、これらのことはセキさん(母)からというよりは、父親の末松さんから聞いたものと思われます。このような経過を知らなければ、自分が大名と地主と武士の血筋を引いている・・・とは書けないでしょう。


< 小林重右衛門家の古文書より抜粋 >

(01) 先祖の俗名はたぶん重右エ門であったろう。死亡年令不明。かりに六十年生きたとすれば一六二四年寛永の頃と思われる。
(02) 三代目 重右エ門
重右エ門幼少のため姉に養子をむかえて別家にした。小林タジエモン(小林市司)と称した。きくところによれば姉と本家争いをして以後交際をたつ。
(03) 四代目 重右エ門
家業の農業の他に酒屋を営んでいる。安永八年参宮道中記一、二を記す。三月十五日川口村より船の旅 横岩村−荷上場−能代・・・以下略
(04) 六代目 重右エ門
嘉永二年御本陣をつとめ・・・以下略
(05) 七代目 重右エ門
第七代重右エ門は文化八年 第六代重右エ門の長男として生まれた。父は川口の地主で多くの財を有したので天保四年巳年の凶作にあたり多くの米を出して部落の貧民を救い又、郡方へ銭千貫門、米百石を寄附し苗字帯刀を許された。川口付近に原野が多いので之を開墾しようと計画し、私費を投じて岩瀬沢ヒル沢より三里の水路を開墾した。ところが一ノ渡トンネルの意外に困難なので工事半ばにして私財の大半を失うに至った。そこで独力では完遂おぼつかなきを悟るや、藩に陳情し、公費を以て開墾させたのである。それで山田川の端まで三里の水路が開墾せられたとき、凶作にあい藩の経費支出が不可能になったので工事を中止するやむなきに至った。その後 孫禮之助及び川口の有志、小林要助、佐藤源助、虻川専助、斉藤永太郎、佐藤辰蔵、小林多治右エ門、小林重太郎、原田元意、小林喜一郎の十人が委員となってそのあとを引きうけて、工事を再興せしめ山田川を掛樋で渡し川口に開通せしめたのである。川口の開墾地数十町歩はこれによっておこったのであるが、これみな重右エ門の意思をついで三代にわたって成功せしめたものである。
(06) 八代目 重右エ門
明治十四年九月十一日午前七時三十分 今上陛下奥羽御巡幸の際 御小憩所を拝命し・・・以下略。明治廿(二十)年伊勢大神諸々の神社心願の旅に出て参拝。龍蛇大神を拝受し小林一家の永世鎮守となす。出雲大社 山城男山神社 伏見稲荷 六百里の旅。財、豊かにて山林、原野、田、畑、合わせて八十町歩の財を有していた。
(07) 九代目 禮之助
下川沿村長(二代目村長)をつとめる。明治二十六年から丗十六(三十六)年。馬がとても好きで六頭ほど大農業、酒造業、旅人止宿、など大事業をした人である。とにかく動くのが好きでがんばった。
(08) 十代目
誠喜は温厚な性格で慶応大学卒業。家業にいそしみ昭和二年より十五年頃まで下川沿村 村長をつとめる(四代目、六代目)。重右エ門ゼキの水路延長工事を実施し稲荷堂岱、隼人岱までの、木のトイを、コンクリート土管のサイフォンに改めた。若い時は山林を愛し、ひまをみては腰に山刀を下げて蟹沢十五町歩の山をまわっていたと。田代金山、前田金山そのた諸々の金山の採掘に手を廣げては失敗。時の流れには勝つことができず、山林田畑が人の手に渡り三階建ての本宅は昭和十八年に売却した。
(09) 十一代目・・・以下略



「大館の人・事典」<38>という平成22年(2010年)に出版された書籍があります。次稿(No.022)で触れる日景健氏が編集委員として含まれています。この中で、九代目重右衛門である禮之助のことが書かれています。通常は目にしない書籍ですから、ここまで書いたことを補完する意味で引用します。

以下引用 ----------------

小林礼之助(一八五六〜一九一九)
祖父七代重右衛門が開削した重右衛門堰を、山田川端から川口まで延伸し完成させた人物。八代重右衛門の長男として安政3年に川口村に生まれている。
小林家は豪農として知られ、六代重右衛門が天保四巳年の凶作(天保の飢饉)に施米をして貧民を救済し、名字帯刀を許された。
松翠、緑陰亭と号し、俳人としても知られる。羽州街道に面し、幕末には宿屋と酒屋を営んだといわれる。八代は明治5年に第六大区三小区の副戸長を務めた。居宅は明治天皇御巡幸の行在所となった。この時、居宅の修復に二百三十五円をかけている。23年には都会議員となった。31年6月14日死去。
礼之助は明治26年から37年まで下川沿村長を務めた。25年、重右衛門堰の延伸工事を川口の有志小林要助、佐藤源助、虻川専助、齋藤永太郎、佐藤辰蔵、小林多治右エ門、小林重太郎、原田元意、小林喜一郎らとともに再開。千葉県の田島浅治郎が工事の指導に当たった。
山田川の上を通して川口へ水を引くため土管を使用したが、二度の破裂により失敗。木製の大樋を使用して成功した。堰の工事とともに開墾地の造成事業も進み、29年、七代が事業を開始してから四十数年を経て完成した。この年は二十余町歩の田地で稲の作付けが行なわれた。
かくして、川口だけで三十余町歩の田地が生まれた。総事業費は四千余円。重右衛門堰の恩恵は蛭沢、山田を含めると、約七十町歩といわれる。
その後、大正8年5月、さらに大樋を撤去、川底をくぐりぬける鉄筋コンクリートのサイフォン式に切り替える。この直後の6月13日死去。子の誠喜も昭和に入って下川沿村長を務めた。
堰の名は小林重右衛門(一八一一〜一八五八)に由来する。当時川口付近は水不足で、水利さえあれば田地に出来る原野があった。七代は肝煎佐藤兵左衛門、小松原與三郎と私財投入による開墾を計画する。藩郡奉行のもとで、岩瀬川上流田茂木に取水する全長三里の堰を開くべく難工事に挑戦、安政元年(一八五四)まで三年をかけ山田川端までの堰を通した。次いで川に筧を渡し、川口まで堰を通そうとしたが、増水のつど破損し失敗の連続。藩の出費も不可能となり、結局工事は中止となる。
総事業費は五万六八五〇貫。七代は米百石を献納した。小林家は当時石代(小作料)三百石といわれたが、三つの米蔵が空になったという。安政5年9月21日死去。重右衛門堰は昭和54年途中まで並行して走る嘉右衛門堰と合流。現在の山瀬大堰である。
嘉右衛門堰を創設したのは石井嘉右衛門(一七五四〜一八二八)である。給人石井嘉右衛門忠久の二男として宝暦4年、十二所に生まれる。19歳で出仕、天明7年(一七八七)軽井沢前田を手始めに四十数年間にわたり、岩瀬、山田、川口、岩野目、片貝、松木、餌釣などの開田事業にあたった。
嘉右衛門堰は藩命によったが、多年の凶作で財政困窮のため、私財を投じて文化11年(一八一四)に完成させた。蛭沢で取水し、岩瀬に至る二里ほどの水路の完成で、八十町歩の田地が開けた。今日その恩恵は蛭沢、田の沢、茂屋、赤川、代野、川口など8集落に及んでいる。
嘉右衛門は、文化11年に御納戸方開発係となった。15年に職を辞したが、その後も郡奉行所属の開発係として活動して文政11年死去。頌徳碑が昭和37年7月堰利用組合によって山田茂屋一通(一の渡)に建てられている。

引用ここまで ----------------


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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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