知られざる小林多喜二の周辺

 
 020 ( 2019/11/09 : ver 01 )
多喜二の3番目の家



多喜二の一家は棲み家を3回替っているようです。最初の慶義宅での居候の次は、慶義が隠居場所として作ってあった家を改築して、2番目の家として住みました。それは別稿(No.013)で示したように「若竹町11番地」の可能性が高いと思われます。1番最初に住んだ家は「慶義宅での居候だった」と考える訳です。「小林多喜二(手塚英孝)」<1>には、多喜二らが「最初に住んだ家」の事が詳しく書かれています。この家は先ほど書いたように「最初の家」ではなくて「2番目の家」だと考えます。「多喜二の一家だけで住んだ」という条件ならば「最初の家」ということになります。いずれにしても最後(3番目)は「若竹町18番地」に引っ越しました。小林多喜二伝(倉田稔)<2>によると、多喜二が庁立小樽商業学校に入る頃は、まだ「若竹町11番地」のようです。多喜二は庁立小樽商業学校と小樽高等商業学校の始めまでは慶義宅で過ごしていました。自宅に戻ったのが、この「若竹町18番地」の家です。若竹町11番地から18番地への引っ越しは築港(港の埋め立て)に際する立ち退きです。大正4〜9年頃と記された地図には若竹町11番地の前の埋め立て部分が描かれています(No.015参照)。多喜二が庁立小樽商業学校に入学したのは大正5年(1916年)ですから、1年生の中頃にでも新築転居したと考えるのが良さそうです。

若竹町11番地の家の写真は存在しますが、若竹町18番地の写真はありません。この稿は、それを推測するものです。この家では屋根裏を改築して中2階を作りました。はじめ多喜二の書斎として、後に瀧子さんの部屋として使われました。もともと屋根裏ですから、中央部はそれなりの高さはあるものの、両端は低くなっていたようです。「小林多喜二」<1>には「一年ほど前、彼の家は区画整理のために三度目の移転をしていた。築港駅前通りの拡張された町並にそった八畳と六畳の二間に、店先に五坪ほどのたたき土間のある新しい家で、裏口はすぐ駅の構内になっていた」と書いています。小林多喜二伝(倉田稔)<2>には、三吾さんから聞き取った若竹町18番地の家の間取りが書かれています。その部分を引用します。

若竹町11番地の家


若竹町18番地の家 ( 「小林多喜二伝」<2>より )

引用の開始 -----------------------------------
小林家は、弟三吾氏によると、四つの部分に分かれていた。通りに面している左=3が店で、右=4が作業の部屋である。そこで餅などを作った。奥の左=1が畳の部屋であり、奥の右=2が板の間で炉がある部屋である。二階は、瀧子(後の恋人)さんが来る時作ったという。小林多喜二の家は、石本氏と二木さんによると大体こうである。<中略> 小林家は本来は駄菓子屋だったが、民家風で一軒家であった。屋根が低い家で、二階建てであった。一〇坪もないようだった。一階は、入口を入って左手に台所があって、上がり台が三畳位の部屋がある。菓子の折りが四つ五つある。これが駄菓子屋の店先となっていると思われる。そして母(あるいは家族)の居室があった。六〜八畳であった。二階は裏二階で、くっつけたような感じで、建増しかもしれない。一部屋であった。これが多喜二の部屋である。六畳くらいの小さな部屋である。屋根裏を改造したものである。その中央は立っても頭がつかえないが、部屋の端では、立つと頭がつかえた。窓が二段ガラスであって、小さい窓が線路に向いていた。
引用ここまで -----------------------------------

多喜二らが小樽に移住したのは明治40年です。慶義は、わずか2年後の明治42年(50歳)に生活の拠点を苫小牧に移しました。苫小牧には王子製紙が来ることが決まり、その後の発展や人口増加を見込んでのものです。明治43年(1910年)に王子製紙工場は完成しました。明治45年(1912年)に2男の俊二を苫小牧に呼びよせました。次の図で示す三星堂支店はこの頃の開店でしょう。小樽の「小林三星堂」は無くなりましたが、苫小牧では現在まで続いており「株式会社三星」となっています。苫小牧の三星堂支店は、駅前通りで駅のすぐ近くに作られました。また、駅前通りをまっすぐ海に向かい、現在の国道36号線との中間あたりに家を建てました。ここでは太郎(私の祖父)夫婦が暮らしましたが、もともとは慶義が建てたものです。それが確認できるのは、昭和4年7月の「勇払郡苫小牧町役場が発行した墓地使用券」です。墓地の使用者として小林慶義と小林太郎の名前があり、住所が「勇払郡苫小牧町王子町23番地」とあります。太郎は4男ですが、3男(吉郎)は夭逝しているので実質的な3男です。慶義の長男(幸蔵)は小樽にいます。次男(俊二)が苫小牧に呼ばれて「小林三星堂」の支店を開きました。この長男と次男はキリスト教に改宗したため、慶義の作った三星が刻された仏壇は4男(太郎)が受け継ぎました。私に過去簿を見る機会があり、興味を持って調べ始めた理由でもあります。

慶義が建てた家は、苫小牧駅(停車場)から海方向を写した写真で見ると赤矢印あたりです。この家の写真を示します。慶義が写っていますから新築の時の記念撮影かと思われます。この家は平屋でした。これらの写真を見る限り、慶義宅の看板は「三星堂」であるのに対し、後に三星本店になる建物は「三星堂支店」となっています。最初は王子町23番地の方が本店だったようです。小さくて見ずらいですが秋田県人会の看板もあります。秋田から北海道に渡ってくる人の集合拠点だったようです。その次の秋田県人会の集合写真は、この家の裏側を写したものです。この写真には屋根裏部屋(中2階)らしき窓はありません。土地は王子不動産から借り受けたものです。当時の賃貸契約書によると128.64坪(425.25平方メートル)です。また中2階を作った後ですが、旧駅前通りの店舗を和服店として貸していた時の建物賃貸借契約証によると、「苫小牧市王子町二十三番地。木造亜鉛葺平屋建一部二階二十五坪」とあります。25坪とは82.6 平方メートルに相当します。私が知っている時期はパンや菓子は販売していません。三吾氏の図で言うと、通りに面している左=3と右=4には、建増し部分を含めると和服店と花屋などがありました。奥の左=1は仏壇のある畳の部屋で、奥の右=2には台所や玄関、洗面所がありました。<1と2>と<3と4>の間に、屋根裏部屋に昇る階段がありました。屋根裏部屋は2つあり、旧駅前通り側が6畳、裏側が4畳半でした。その間に階段がありました。先ほど引用した文章では若竹町18番地の家の屋根裏部屋(中2階)は1部屋ですから、建物の床面積を苫小牧の25坪の半分と考えると12坪程度であり、引用文の記載(10坪もないようだった)にほぼ一致します。現在の苫小牧駅は最初のものより東に移動したので、三星堂や三星堂支店があった駅前通りを「旧駅前通り」と記しました。



別角度から 三星堂支店


その後の三星


三星堂


その後
三星堂の看板は無く、店舗部分を縮小している


縁側

この家の主(私の母)は札幌に移り、住む人がいないまま旧駅前通りに面した店舗を貸していたのですが、この事務所が他所に移ることになりました。住人が誰もいなくなったため2019年の春に建物を解体して土地を王子不動産に返却しました。その直前の家を裏側から写した写真を示します。向かって右には建増しがあります。

最初は無かった屋根裏部屋(中2階)の窓が分かります。2つあった屋根裏部屋は旧駅前通り側の部屋(6畳)は窓が看板で隠れているため、外からは見えません。写真を撮った際、窓のある部屋(4畳半)は逆光になってしまったので6畳間の方を示します。

解体の前に寸法を測りました。中央が182cm、左右の押入れ部分が128cmでした。私は4畳半の部屋で生活していた時期がありました。歩き回るのは不便ですが、中央に机を置き、ここに座ったり布団で寝たりする分には問題ありません。これは多喜二が住んだ若竹町18番地の屋根裏部屋と似た構造と言えます。王子町の家がいつ作られたものかは分かりませんが、慶義が苫小牧に拠点を移して建てた家ですから、明治42年から明治45年(大正元年)の間でしょう。若竹町18番地の家は大正5年頃ですから、ほぼ5〜6年後という事になります。多喜二の一家が3番目に住んだ家を作る際、この時の苫小牧の図面が参考にされたと考えても不思議ではありません。

すでに紹介した写真ですが、この家には多喜二の妹、幸田ツギさんがよく遊びに来てました。私が3歳の頃なので覚えてないですが母のセキさんが来たこともあります。太郎(祖父)の葬儀の時でした。

幸田ツギさん


左が多喜二の母、セキさん


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多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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