知られざる小林多喜二の周辺

 
 019 ( 2019/03/13 : ver 01 )
多喜二の死因



多喜二は昭和8年(1933年) 2月20日の昼過ぎに張り込み中の特別高等警察により、今村恒夫と共に逮捕されました。築地署の特別室にて手荒な取調べを受けたようです。この取調べの主な目的は本名を明らかにすることや共産党員であるかどうか、仲間の名前や住所を聞き出すことでした。通常はこれらの目的が達成されると留置所の監房に入れられました。いつまでも口を割らなければ必然的に時間は長くなります。多喜二の場合は 12:40頃から 16:00頃まで続いたようです。

ちょうど、その5年前の昭和3年(1928年) 2月20日に 第1回普通選挙(男子のみ)が行われました。その後、3月15日に共産主義を中心とする労農諸団体に捜査が入りました。全国で数千人の革命的労働者・農民・知識人が逮捕されたそうです。この、いわゆる「三・一五事件」を題材にして、多喜二は 8月17日に「一九二八年三月十五日」という小説を書きあげました。これは削除や伏字だらけで「戦旗」の11月号と12月号に発表されましたが、どちらも発売禁止になりました。しかしながら独自の流通網で 8000部ほど出ているそうです。江口渙(きよし)氏は、多喜二が逮捕される前の2月上旬に警視庁を訪れた際に、特高の中川成夫から告げられた事があったそうです。定本小林多喜二全集第15巻<29>から引用します。後でも出てきますが、「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」というタイトルの文章からです。

小林多喜二のやろう。もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。こんど連絡があったら、このことだけははっきり小林に伝えておいてくれ。− いいか。われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ。このことだけは、やつがつかまらない今のうちからはっきりいっておくからな。いいか、連絡であのやろうにあったら、忘れずに伝えてくれ!


多喜二が書いた「一九二八年三月十五日」<30>には警察による拷問の凄惨な様子が描かれており、警察関係者の心情を逆なでしたのは間違いありません。多喜二に対して似たようなことが行われた可能性も否定できません。この「一九二八年三月十五日」から引用します。

渡:渡は裸にされると、いきなりものも云わないで、後から竹刀でたゝきつけられた。力一杯になぐりつけるので、竹刀がビュ、ビュッとうなって、その度に先がしのり返った。彼はウン、ウンと、身体の外面に力を出して、それに堪えた。それが三十分も続いた時、彼は・・・・ <中略> 水をかけると、息をふきかえした。<中略> 一人が渡の後から腕をまわしてよこして、首をしめにかゝった。「この野郎一人で、小樽がうるさくて仕方がねェんだ。」 それで渡はもう一度気を失った。<中略> 次に渡は裸にされて、爪先と床の間が二、三寸位離れる程度に吊し上げられた。<中略> 今度のにはこたえた。それは畳屋の使う太い針を身体に刺す。一刺しされる度に、彼は強烈な電気に触れたように、自分の身体が句読点位にギュンと瞬間縮まる、と思った。<中略> 針の一刺毎に、渡の身体は跳ね上った。<中略> 終いに、警官は滅茶苦茶になぐったり、下に金の打ってある靴で蹴ったりした。それを一時間も続け様に続けた。渡の身体は芋俵のように好き勝手に転がされた。彼の顔は「お岩」になった。そして、三時間ブッ続けの拷問が終って、渡は監房の中へ豚の臓物のように放りこまれた。

工藤:工藤に対する拷問は大体渡に対するのと同じだった。たゞ、彼がいきなり飛び上ったのは、彼を素足のまゝ立たして置いて、後から靴の爪先で力一杯かゞとを蹴ることだった。それは頭の先までジーンときた。<中略> それが終ると、両手の掌を上に向けてテーブルの上に置かせ、力一杯そこへ鉛筆をつきたてた。それからよくやる指に鉛筆をはさんで締める。

鈴木:彼はなぐられも、蹴られもしなかったが、ただ八回も(八回も!)続け様に窒息させられた事だった。初めから終りまで警察医が(!)彼の手首を握って、脈搏をしらべていた。

龍吉:取調室の天井を渡っている梁に滑車がついていて、それの両方にロープが下がっていた。龍吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さに吊し上げられた。それから「どうつき」のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。その度に堰口を破った滝のように、血が頭一杯にあふれる程下がった。彼の頭、顔は文字通り火の玉になった。眼は真赤にふくれ上がって、飛び出した。<中略> 次に、龍吉は着物をぬがせられて、三本一緒にした細引でなぐりつけられた。身体全体がビリンと縮んだ。そして、その端が胸の方へ反動で力一杯まくれこんで、肉に食いこんだ。

齋藤:誰かゞ斎藤の顔の真中を、竹刀で横なぐりに叩きつけたらしかった。花火でも散るように「見事」に鼻血があふれ飛んだ。


16:00頃に監房に入れられた多喜二でしたが、すでに表情は苦痛に歪んでいました。看守らが異変を感じて 19:00頃には保護室に移動させました。やがて医師と看護婦が訪れて築地署の裏にある築地医院に搬入しました。そして19:45に死亡宣告がなされました。遺体は誰に会わされることもなく 翌日(2月21日)まで、そのままにされました。多喜二の死因は検察当局によると「心臓麻痺」であり、死亡診断書にもそう書かれていたそうです。8月21日にラジオや夕刊で報道されました。セキさん(母)は、夕刊の記事を見た隣人から多喜二の死を初めて知らされました。この隣人とは「母の語る小林多喜二」<3>によると河面さんです。多喜二の香典控に河面仙四郎氏の名前があります。当時、早稲田大学の哲学・宗教学の教授だった人物でしょう。多喜二の訃報を知らせてくれたのは河面氏の奥様です。ちょうど三吾さんが留守だったため、孫(ツギさんの長男の昌久)を背負って築地署に駆け付けました。築地署に到着したセキさんは2階の特高室に入れられ事情聴取を受けました。ここで遺体引き取りの署名をさせられたようです。セキさんは小学校に通っておらず文盲でしたが、豊多摩刑務所の多喜二に手紙が書きたくて、文字を独学で覚えました。セキさんは、やっと 21:00頃に病院に連れていかれ、遺体との対面が許されました。その後に駆け付けた小林市司氏も一緒でした。市司氏は、この頃に東京に住んでいた小林本家(多治右衛門)の人物です。後に郷里(川口)に戻り、村長になりました。21:40頃に遺体が病院から運び出され、杉並区馬橋の自宅に運ばれました。安田徳太郎医師により遺体のチェックがなされました。

昭和6年(1931年)の築地周辺の地図によると築地警察署から見て、亀井橋と反対方向に築地医院があります。地図には築地医院と、労農葬が行われた築地小劇場が茶色に示されています。

 

築地小劇場


現場にいた江口渙氏は多喜二の死から約3週後(1933/3/15)の文学新聞<31>に「陣頭にたふれたる小林の屍骸を受取る 無惨に傷けられた彼の全身」という記事を書きました。この中の安田徳太郎医師による遺体のチェック部分を引用します。この記事には伏せ字があります。その部分を含め可能な限り旧字体のまま活字に置き換えました。文中「小林一二」とあるのは「小林市司」のことです。






この「文学新聞」の記事を基にして、江口渙は後に「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」という文章<29>を書きました。これは1968年(昭和43年)発行の新日本出版社「たたかいの作家同盟記」のために書かれたものです。内容は文学新聞<31>と重複していますが引用します。

安田博士の指揮のもとに、いよいよ遺体の検診がはじまる。すごいほど蒼ざめた顔は、はげしい苦しみの跡をきざんで筋肉のでこぼこがひどい。頬がげっそりとこけて眼球がおちくぼみ、ふだんの小林よりも十歳ぐらいもふけて見える。左のコメカミにはこんにちの十円硬貨ほどの大きさの打撲傷を中心に五六ヵ所も傷がある。それがどれも赤黒く皮下出血をにじませている。おそらくはバットかなにかでなぐられた跡であろうか。

首にはひとまきぐるりと細引きの跡がある。よほどの力でしめたらしく、くっきりと深い溝になっている。そこにも皮下出血が赤黒く細い線を引いている。両方の手首にもやはり縄の跡がふかくくいこみ赤黒く血がにじんでいる。だが、こんなものはからだのほかの部分にくらべるとたいしたものでなかった。帯をとき着物をひろげてズボン下をぬがせたとき、小林多喜二にとってどの傷よりもいちばんものすごい「死の原因」を発見したわれわれは、思わずわっと声を出していっせいに顔をそむける。

「みなさん。これです。これです。岩田義道君のとおなじです」 安田博士がたちまち沈痛きわまる声でいう。前の年に警視庁の拷問室で鈴木警部に虐殺された党中央委員岩田義道の遺体を検診した安田博士は、そのときの残忍きわまる拷問の傷跡を思いだしたからである。

小林多喜二の遺体もなんというものすごい有様であろうか。毛糸の腹巻きになかば隠されている下腹部から両足の膝がしらにかけて、下っ腹といわず、ももといわず、尻といわずどこもかしこも、まるで墨とべにがらとをいっしょにまぜてぬりつぶしたような、なんともかともいえないほどのものすごい色で一面染まっている。そのうえ、よほど大量の内出血があるとみえてももの皮がぱっちりと、いまにも破れそうにふくれあがっている。そのふとさは普通の人間の二倍くらいもある。さらに赤黒い内出血は、陰茎からこう丸にまで流れこんだとみえて、このふたつの物がびっくりするほど異常に大きくふくれあがっている。

電燈の光でよく見ると、これはまたなんということだろう。赤黒くふくれあがったももの上には、左右両方とも釘か錐かを打ちこんだらしい穴の跡が十五、六ヵ所もあって、そこだけは皮がやぶれて下から肉がじかにむきだしになっている。その円い肉の頭がこれまたアテナ・インキそのままの青黒さで、ほかの赤黒い皮膚の表面からきわ立って浮きだしている。

「こうまで徹底的にやられたんでは死ぬのはあたりまえだよ。これじゃキンタマだって何べん蹴られたかわかるもんか」 「だが、さすがに小林だよ。こんなむちゃくちゃにやられるまで、よくもがんばりとおしたものだ」 みんなは深いため息といっしょにこんな言葉をかわすうちにも遺体の検診はさらに進む。ももからさらに脛を調べる。両方の向こう脛にも四角な棒かなにかでやられたのか、削りとられたような傷跡がいくつもある。それよりはるかに痛烈な痛みをわれわれの胸に刻みつけたのは右の人さし指の骨折である。人さし指を反対の方向へまげると、指の背中が自由に手の甲にくっつくのだ。人さし指を逆ににぎって力いっぱいへし折ったのだ。このことだけでもそのときの拷問がどんなにものすごいものであったかがわかるではないか。

さらにシャツもズボン下もぬがせた丸裸でうつ向けにすると、背中も一面の皮下出血だ。ももや下っ腹ほどにひどくはないが、やはりふんだり蹴ったりした傷跡でいっぱいだ。ここには死斑も出ている。死斑にはありありと蓆(むしろ)の跡が見える。殺したあと、そうとうの時間を丸裸のまま蓆(むしろ)の上に寝かしておいたものとみえる。上歯も左の門歯が一本ぐらぐらとなってやっとぶら下がっているという状態である。


安田徳太郎医師による遺体のチェックは、医師の指導の下とは言え、あくまで身内が行った事であり公的な検死ではありません。写真が撮影され、深夜になってデスマスクを作ることが決断されました。これらは密かに保存されました。約3ヶ月前(1932年11月)に岩田義道(共産党中央委員)が同じような亡くなり方をしていました。それを踏まえた上での措置と思われます。近所に住んでおり多喜二の友人だった岡本唐貴(登喜男)は、多喜二の死顔を油絵に残しました。劇画家の白土三平(岡本登)の父親です。岡本唐貴が生まれたのは1903年(明治36年)12月3日で、多喜二の2日後です。白土三平は多喜二が亡くなる前の年、1932年2月15日に生まれていました。

小林市司氏は、セキさんと共に多喜二の遺体を引き取りました。その際に市司氏が警察から受けたという説明を、同じく「われらの陣頭に倒れた小林多喜二」<29>から引用します。

警察ではつかまえるときすごく抵抗して大格闘になったので道路に倒れたりして顔に多少の傷ができたり、検束するときも逃げようとするので縄をかけたので、手首や首に多少の傷はできたのです。それに少しは死斑も出ているがこれはみんな心臓マヒとは関係がないので心配しない方がいいといわれたので、私も先方を信用して遺体を全然調べもしないで、うっかり引きとってきたんですが、こんなことなら引きとってこなかったんです。まことに残念で残念で・・・


当局が発表した「心臓麻痺」には納得できず、関係者は翌日(2月22日)に真の死因を特定すべく、正式な法医解剖の道を模索しました。まず慶応病院、次に帝大病院に電話したのですが、どちらも断られました。唯一、慈恵医科大学のみが引き受けてくれました。14:00に遺体は慈恵医科大学の剖検室に運び込まれました。小林市司と青柳盛雄弁護士が愛宕警察署に解剖届を出しに行きました。その日の午前中には解剖を承諾してくれた慈恵医科大学でしたが、午後になり、遺体が小林多喜二であることを知って態度を変化させました。病理学教室の大場勝利助教授が解剖拒否の苦しい弁明をしています。16:00頃まで青柳盛雄弁護士は交渉を続けたのですが受け入れられず、やむなく遺体は、再び馬橋の自宅に運び込まれました。多喜二の死因は「外傷性ショック」もしくは気管内に流入した血液による「窒息」が妥当なところでしょう。自然経過の「心臓麻痺」は有り得ません。






刑死者・犯罪者葬儀取締法により、親戚以外の参集は許されず、近親者のみの葬儀(無宗教葬)が行われました。通夜に来た人々は杉並警察署に検束されました。この稿は手塚英孝氏の「小林多喜二」<1>によるところが多いのですが、この手塚英孝氏も検束されました。この頃は多喜二と一緒に地下生活をしていました。ですから逮捕覚悟で出向いたはずです。2月23日の14:00から自宅にて告別式が行われました。参列者は、母(セキ)、弟(三吾)、姉(佐藤チマ)・藤吉夫妻、小林市司夫妻、田口瀧子と妹、寺田母子、江口渙、佐々木孝丸、斉藤次郎と父(幸太)でした。嶋田マツ(嶋田正策夫人)もいたようです。杉並区堀之内の火葬場で荼毘に付されました。

この中で、寺田母子とは寺田トヨさんと寺田セツさんのことで、寺田行雄氏の母と姉です。セツ(後の津軽セツ)さんは骨揚げの際に多喜二の遺骨を分けてもらい、密かに守りました。この遺骨は、昭和32年(1957年) 8月2日、秋田県大館市下川沿駅の前に建てられた「小林多喜二生誕の地碑」の周囲に散骨されました。

多喜二と一緒に生活していた伊藤ふじ子さんに会った事があるのは、同時期に地下生活をしていた手塚英孝氏くらいのようです。原泉(中野重治夫人)は、劇団関係でふじ子さんを知っていました。とっさの機転で多喜二宅に行かせたそうです。何とか多喜二宅に入れた伊藤ふじ子さんは多喜二に抱擁しました。しかし、ふじ子さんの事はその場の誰も知らなかったようで、あっけにとられて見ていたそうです。ふじ子さんはセキさんに対して「いっしょに暮していた人間です」と自己紹介した<26>そうですが、セキさんの返事は「死人に口無しだ」という厳しいものでした。セキさんにとって、多喜二の妻となるべき人は田口瀧子さんだったからです。多喜二が瀧子さんとの結婚を断念したことも知らなかった可能性が高いと思われます。当局は別件でふじ子さんを検挙したことはありましたが、多喜二との仲までは把握してなかった事は間違いありません。ふじ子さんは多喜二宅へそっと入り、そっと出ていきました。

「昭和史のおんな」<26>によると、いわゆるハウスキーパーとして多喜二の地下生活を支えた伊藤ふじ子さんも、多喜二の分骨を持っていたようです。葬儀後、誰かの配慮により、セツさんが持ち帰った分骨の一部がふじ子さんに渡されたものと推測できます。その後、伊藤ふじ子さんは森熊猛氏と結婚しました。手にした多喜二の分骨を誰にも言わずに守りました。ふじ子さんが昭和56年(1981年)4月26日に亡くなった後、この分骨は小林家に返す事も検討されたようですが、結局ふじ子さんの骨と一緒に埋葬されたそうです。夫となった森熊氏の優しさでしょう。


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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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