知られざる小林多喜二の周辺
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平成23年(2011年)7月10日に出版された「母が語る小林多喜二」<3>によると、セキさんは9人の子供を生み、そのうち3人は早く夭死したとあります。小樽文学館にあった小林廣氏の原稿を見い出し、これを書籍として世に出したのは小樽商科大学教授の荻野富士夫氏です。荻野氏は「あとがき」で、チマさんが書いたと考えられる「小林家親族の氏名・戒名・没年等」という資料の存在を指摘しています。そこには明治23年(1890年)
4月30日に亡くなった男子の存在が書かれているそうです。平成23年(2011年)2月の小樽での多喜二祭の時だったと思いますが、ノーマ・フィールドさんに会ったことがあります。その時に、多喜二には多喜郎以外に兄がいたらしいとの話を聞きました。その時は何のことか分からなかったのですが、その後に出版された書籍<3>によると、この事を言っていたようです。ノーマ・フィールドさんは、この事実を既に荻野氏から聞いていたのだろうと思われます。明治23年(1890年)
4月30日に生まれた男子の存在が正しければ,満13歳3ヶ月で嫁入りしたセキさんは、満16歳8ヶ月の時に最初の出産をしたことになります。そしてこの出産が通常の出産であれば、その後に生まれた多喜郎は2男であり,多喜二は3男ということになります。しかしながらこの児は、慶義を戸主とする除籍謄本には載っていません。 明治32年(1899年) 2月17日(旧暦)に生後 43日で亡くなった長女(ヤヘ)の戒名は「義雲禅孩女」です。「慈幻善孩兒」と「義雲禅孩女」は字数が同じですし、読み上げても似ています。この頃は秋田におり、菩提寺は月田山洞雲寺(曹洞宗)です。長女(ヤヘ)の9年前に生まれた男子の戒名が「慈幻善孩兒」というのは、いかにもありそうです。いずれも同じ僧侶によってつけられた戒名ではないかと思われます。「慈幻善孩兒」は男児のような戒名です。早い時期の流産ではなく、少なくても性器の識別ができるくらいに成長している児と思われます。死産した児であれば、過去簿に書かれても戸籍には登録されません。セキさんの初産ですから、この児に戒名をつけ、丁寧に埋葬したのではないかと思われます。末松さんはじめ、多喜二の一家の優しさを思わせます。 |
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