知られざる小林多喜二の周辺

 
 016 ( 2019/03/06 : ver 01 、 2024/02/12 : ver04 )
多喜二と温泉



多喜二は大正13年(1924年)に北海道拓殖銀行(拓銀)に就職しましたが、昭和4年(1929年)11月16日に解雇されました。10月から世界恐慌になった年です。「小林多喜二伝」<2>によると同年12月18日から「工場細胞」に着手し、翌年(昭和5年)2月から昆布温泉で仕上げました。羊蹄山の西にあるニセコの温泉地です。すでにノート稿に書いたものを短くして清書する作業だったようです。2月24日には完成して28日に原稿を書留小包で改造社に送りました。この「工場細胞」は「改造」の昭和5年4月号から6月号までに掲載されました。拓銀を解雇されたことについては、風間六三氏にあてた手紙<25>の中で「かねて予期通り、くるものが来ただけのことだが現実にぶつかると参る。」とあります。また、「母」<12>によると、セキさんの言葉として「家にいると、だんだんと刑事がやって来るからだったべな。」とあります。「母」<12>は小説ですが、三浦綾子氏は三吾さんをはじめ多くの人に取材してますから、単なる創作ではありません。その頃の多喜二は既に「特別要視察人」でしたし、おまけに「工場細胞」を書いていましたから、特高には知られてはいけない状況でした。実際のところ昭和4年(1929年)4月20日に若竹町18番地の自宅が家宅捜査をされたことがあります。この昆布温泉のことは田口瀧子さんに書いた手紙<25>の中で、小包と手紙の礼として「たしかに、受け取りました。御手紙も小包も! この山のたった一軒の温泉宿で」とあります。この原稿を改造社に送った後、昭和5年(1930年)3月末に上京しました。

多喜二は神奈川県厚木市の七沢(ななさわ)温泉にも滞在しています。ノーマ・フィールド氏の「小林多喜二」<23>には、七沢温泉の「福元館」を利用したことが判明するまでの過程が詳しく書かれています。ここでは「オルグ」を執筆しました。これは「工場細胞」の続編です。この七沢温泉の滞在は執筆以外にも重要な理由があります。それが、この稿の目的です。

多喜二は昭和5年(1930年)の3月末に上京後、5月16日から「戦旗」防衛三千円基金のための講演会として関西を回りました。この関西巡回講演旅行中の5月23日に、大阪島之内警察署に「共産党への資金援助を理由とした治安維持法違反の容疑」で検挙されました。この時は不起訴となり16日間の勾留だけで6月7日に釈放となりました。6月2日には父親(末松)の墓が完成し、多喜二は小樽に行っているようです。東京に帰ってから6月24日に警視庁特別高等警察により再び検挙されました。その後、3ヶ所の警察署(杉並署、巣鴨署、坂本署)で留置された後、8月21日から翌年(昭和6年:1931年)1月22日まで豊多摩刑務所に収監されていました。保釈出獄後に七沢温泉を利用しました。

七沢温泉の滞在目的のひとつとして疥癬症の湯治があります。澤地久枝氏の「完本 昭和史のおんな」<26>によると、七沢温泉から伊藤ふじ子さんあてに「七沢の蟹」なる送り主から手紙が届きました。伊藤ふじ子さんは、多喜二が地下生活に入った時に一緒に生活した女性です。地下生活では婚姻届けは出せないので正式な結婚ではありませんが、事実上の夫婦生活と言えます。この2人が出逢ったのは、おそらく多喜二が豊多摩刑務所を出た直後です。澤地氏の本<26>には、伊藤ふじ子さんが書きかけの文章が「遺稿」として掲載されています。その中には、「そもそも私と彼との出会いは、彼が地下の人になる一年ほど前のことで、あれは彼が上京して東京に住むことになった年の二月だったと思います。」とあります。多喜二が上京したのは昭和5年(1930年)の3月末ですから、これでは辻褄が合いません。この「遺稿」なる文章を書いた時は、すでに多喜二が刑務所に入ったことは知っているはずですが、この文章は「想い出」として書いたもので、正確さを目指したものではありません。ですから伊藤ふじ子さんの「遺稿」は、多喜二が刑務所から出てきた昭和6年(1931年)1月22日を上京の頃としていたと思われます。

多喜二が出所した翌月の1931年2月、ひどく雪が降る日に講演会のビラ貼りに新宿方面に行きました。ふじ子さんは新宿方面に詳しいため多喜二と、もう一人京大の学生と3人グループになったようです。このビラ貼りの途中で糊が無くなりました。そこで、伊藤ふじ子さんの知り合いの書店に立ち寄りました。伊藤貞助氏が経営する左翼関係の書店です。伊藤貞助氏はもともと文戦劇場の脚本・演出を手掛けていました。この書店にはふじ子さんが弟のように思っていた高野治郎氏が働いていました。ふじ子さんは、この伊藤貞助氏のことを「おじさん」、自分より6歳しか年上でないその妻を「おばさん」と呼んでました。多喜二はこの書店の事を覚えていて、その2〜3ヶ月後に七沢温泉から伊藤ふじ子さん宛に手紙を出したのです。伊藤貞助氏は同じ「伊藤姓」ですが血縁ではありませんし同居もしていません。しかしながら手紙の宛先は「伊藤貞助方伊藤ふじ子様」でした。伊藤貞助氏は、なぜ自分のところに届いたのか不思議に思ったようですが、裏には「七沢の蟹」と書かれおり多喜二からだと考えたようです。高野治郎氏と一緒に湯気を使って封書を空けてしまいました。この手紙は、後日ふじ子さんに渡ったのですが、現存するかどうか分かりません。また2人は手紙を写真に撮ったとありますが、その所在も不明です。次に引用するのは、高野氏が覚えていた手紙の内容です。高野氏が澤地氏に話した部分を引用します。

ビックリしたんだけど、これほどうまいラブレターは読んだことがないね。だから、要点は今でも覚えてるんだ。「君のことはなにかにつけて思いだす」と最初に書いてあった。「しばらく君と御無沙汰していたのはわけがあるんだ」とあって、なにかで警察に捕まったんだって。「その時いっしょに捕まったかわいそうな老人がいたので、それを抱いて寝てやった。そのためにカイセンをうつされた。それを治療するためにこの温泉に来ている」 「このことは親しい人にも誰にも言っていない。君が誰かに話すとは思わないが、ぼくはそれをちょいと試してみたくなった。それでこの手紙を書く」とあって、最後に「帰ったら、また逢いたいものだ」という意味のことが書いてあったな。便箋に二枚だったね。ぼくは貞助に、「こりゃ、うまいラブレターだ」って言って見せたよ。


伊藤ふじ子さんは明治44年(1911年)2月3日生まれ。山形県出身で甲府第一高等女学校の卒業。当時9割以上が和装でしたが、洋装を好んだモダンガールです。17歳の時に画家志望で上京しました。多喜二より8歳年下で、出逢った時が2月3日以降なら20歳になった後です。多喜二は1月末〜2月はじめ、豊多摩刑務所から保釈出獄してすぐに(他説あり)田口瀧子さんに結婚を申し込みましたが、正式に断られています。3月には瀧子さんとの結婚は完全に断念しました。ですから3月中旬頃からの七沢温泉は、疥癬症の湯治もさりながら「心の湯治」でもありました。しかしながら、その直前に別の出会いがあったことになります。ふじ子さんは、仲間内からは「エロット」と呼ばれていました。「エロス」と「プロット(日本プロレタリア劇場同盟)」の造語です。コケティッシュで活動的な女性だったようです。田口瀧子さんとは対照的な人物と言えます。その後に多喜二が昭和7年(1932年)4月頃から地下生活に入った後は事実上の妻として支えました。ところが、ふじ子さんは昭和8年(1933年)1月10日前後に多喜二とは別件で検挙されました。特に問題点はないとされて2週間程度で釈放されました。多喜二との仲は知られずにすんだのですが、いかなる理由であっても警察のリストにのった訳なので、そのまま一緒にいると多喜二の身が危険になります。そのため2人の同居生活は終わりました。その件で、ふじ子さんは勤め先(銀座図案社)を解雇されましたが、伝手をたどって退職金を多喜二に送りました。多喜二は涙したそうです。


上京の頃



先に引用した手紙の内容は多喜二自身の表現ではないとは言え、文中には「うつされた」とあるので、カイセンとは「疥癬」のことでしょう。これはヒゼンダニの寄生よるもので、猛烈に痒いのです。豊多摩刑務所では独房でしたから誰かと一緒になることはありません。ですから疥癬に感染したのは、どこかの警察署の留置所にいた時です。たまたま同時期に捕まった浮浪者と一緒に勾留されたようです。多喜二は出所後に「独房」という小説を書きました。完成は昭和6年(1931年)6月9日です。この主人公は「田口」ですが、文頭には「これは田口の話である。別に小説と云うべきものでもない。」とある通り、ここに書かれている内容は、ほとんどが多喜二が出した手紙の内容と同じです。この「独房」は「定本小林多喜二全集第六巻」<27>に載っています。この「独房」には、いくつかの独立したエピソードがありますが、そのうちの「長い欧洲航路」のなかで、「一度、六十位の身体一杯にヒゼンをかいたバタヤのお爺さんが這入ってきたことがあった。エンコ(注釈:公園のこと)に出ていて、飲食店の裏口を廻って歩いて、ズケ(残飯)にありついている可哀そうなお爺さんだった。五年刑務所にいて、やっとこの正月出てきたんだから今年の正月だけはシャバでやって行きたいと云っていた。−俺はそのお爺さんと寝てやっているうちに、すっかりヒゼンをうつされていた。」とあり、刑務所で60日ぶりに入る風呂に夢中だという内容です。多喜二は、痒みの原因がヒゼンダニだと知っていたことになります。感染源の人が「通常型疥癬症」だと潜伏期は、約1ヶ月ですが、「角化型(重症型)疥癬症」だと4〜5日です。多喜二は豊多摩刑務所に入っている間、痒くて仕方がなかったはずです。疥癬症の痒みは、知られている皮膚疾患の中で最高と言われます。

「小林多喜二の手紙」<25>には、多喜二が出した159通の手紙が収録されています。このうち、豊多摩刑務所内から出されたものは43通ありますが、刑務所内で「つらい思い」をしていることは書かれていません。その逆に「快適である」とさえ読み取れます。親類の者を含めて外部の人間に心配をかけないためと思われますが、「小林多喜二の手紙」<25>の解説によると、「勾留に抗し、意気軒高の姿勢を貫くために、意識的にノンビリしたことや必要以上に、ふざけたこととか、冗談を書いていた」という可能性が高いようです。また自分が出した手紙が回覧・公表される事も意識していたようであり、「呑気にしている」という事が「最大の獄内闘争である」と認識していたという事です。弱音を吐くことは、自らの思想運動を自己否定することにもなりかねません。

これらの手紙によると、刑務所での生活は7時起床ですが、6時半に起きたとあります。「三畳に足りない独房」で必ず行う事が、真っ裸になっての冷水マサツでした。ヒゼンダニは角化層に寄生しますから、垢を落とす、すなわち角化層を落とすのは理にかなっています。しかしながら、それだけでは完治にはならないでしょう。むしろ、この冷水マサツは全身の掻痒に対する対策の意味があったかもしれません。

ヒゼンダニはメスの方が大きくて体長は約0.4ミリメートル、体幅は約0.3ミリメートルです。交尾後のメスの成虫は、皮膚の最外層である角質層の中を移動し、トンネルを作りながら卵を産みます。線状の鱗屑を伴う皮疹を「疥癬トンネル」と言い、診断にあたっての重要所見です。1日あたり0.5〜5ミリメートルずつ角化層を横に掘り進め、毎日2〜3個の卵を産むのだそうです。全部で120個以上も産むそうです。卵は孵化して約3日目に幼虫、約7日目に若虫となり、約14日で成虫になるというような約2週間のライフサイクルを続けます。重症度によって「通常疥癬」と「角化型疥癬」に分けられます。「角化型疥癬」は「ノルウェー疥癬」と呼ばれたこともありました。ヒゼンダニの生息数は、「通常疥癬」ではせいぜい数十匹から多くても千匹であり、感染力もそれほど強くありません。しかしながら「角化型疥癬」だと100〜200万匹も生息しており、極めて強い感染力があります。宿主(ヒト)が死亡した後も、一定時間は生きてますから、遺体をきれいにしてくれる「おくりびと」にも感染することがあります。落屑(脱落した角化層)の中にもたくさん生息しているので、患者が用いたシーツや衣類からも感染します。戦争の時に流行する事も多かったようで、ナポレオンのフランス軍が疥癬の痒みのために戦意喪失したという有名な話もあります。多喜二の頃の疥癬症に対しては、有効な薬はありませんでした。温泉での湯治は有効だったはずです。

平成27年(2015年)にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏は、イベルメクチンという薬を開発しました。当時のニュースでは、熱帯地方のオンコセルカ症(河川盲目症)による失明から人類を救ったと大々的に報道されました。イベルメクチンは、それ以外にもリンパ性フィラリア症(象皮病)や、東南アジアや沖縄の風土病である腸管糞線虫症の治療薬です。平成18年(2006年)には、疥癬症が保険適応として追加になりました。ストロメクトールという商品名で、現在では疥癬症の標準的な薬です。塗り薬としては、硫黄系のものが用いられます。平成20年(2008年)に販売中止となった「むとうハップ」という入浴剤(一般用医薬品)も硫黄系です。これは有効だったのですが、他の酸性物質との化学反応で有毒な硫化水素ガスが出るため、武藤鉦製薬は生産をやめてしまいました。

ヒゼンダニは乾燥や熱に弱い性質があります。患者の衣服やシーツは50度以上の湯に10分間つけることで、成虫を死滅させることが出来ると言われています。人間が温泉で50度の湯に長時間つかるのは困難でしょうが、熱めの湯に何度も入ることは疥癬症に効果的と言えるでしょう。七沢温泉は強アルカリ性だそうです。通常の皮膚は酸性に傾いています。ヒゼンダニがヒトの体温やこのPHに適した生物ならば、それを撲滅するには七沢温泉はうってつけだったかもしれません。

カイセンと似た言葉にカンセン(乾癬)があります。これは伝染する感染症ではなくて、慢性の皮膚角化疾患です。もうひとつ似た言葉にハクセン(白癬)があります。白癬症は、皮膚糸状菌による皮膚の感染症です。場所によって呼ばれ方が異なります。「いんきん」とは股部白癬、「水虫」は足指や足底に生じるもの、「爪水虫」は爪白癬、「しらくも」は頭部(有毛部)の白癬、「たむし」は、それ以外の部分に生じる「体部白癬」です。


七沢温泉 福元館




七沢温泉の福元館の写真を示しました。この温泉宿での湯治期間は3月中旬〜4月頃のようです。昭和6年(1931年)2月に伊藤ふじ子さんに出会い、その後に温泉宿から「伊藤貞助方伊藤ふじ子様」として手紙を出しています。4月6日には福元館で「オルグ」を書き上げました。ふじ子さんへの手紙はこの頃と思われます。多喜二は5月24日には作家同盟第3回大会に出席しました。ですから湯治期間はこれ以前に終わっています。7月下旬には杉並区馬橋三丁目(現在の阿佐ヶ谷)に一軒家を借り、弟(三吾)、母(せき)と3人で暮らし始めました。ちなみに昭和5年(1930年)3月末に多喜二が東京に出てきてから4月に瀧子さんも上京しました。3週間ほど田口瀧子さんと一緒に住んでいます。その後は5月そして6月から警察署の留置所(ブタ箱)や豊多摩刑務所に入るわけですが、昭和6年(1931年)7月からの家族同居の頃と合わせて、どちらも多喜二の最高に幸せな期間だったでしょう。その年(1931年)の10月に正式に共産党に入党、11月に敬愛する志賀直哉宅を訪問して一泊しています。この際の多喜二が出した礼状を示します。


前記した作家同盟第3回大会(1931年5月24日)の後には北海道に来ています。この時に小樽や札幌に寄っており、おそらく札幌刑務所の同志を訪れていると思われます。6月9日までには東京に戻っているようです。この直後の6月20日には多喜二に学費支援をした伯父の慶義が他界しました。その葬儀の香典帳には小林多喜二として香典と花輪が記載されています。多喜二が参列したはずはなく誰かが手続きしたものと思われますが、多喜二が東京から手配した可能性があります。香典帳にはセキさん(多喜二の母)の名はなく参列していません。慶義の葬儀に出てないのは、「恩を忘れた」とか「会わす顔がない」とかは有り得ません。セキさんは慶義さんの4男(太郎)の葬儀には参列しています。その当時、まだ多喜二は地下生活ではありませんが、その前からセキさんの行くところ特高警察が見え隠れしてました。特に多喜二が豊多摩刑務所から出所したばかりでもあり、葬儀の場を荒らしたくなかったと思われます。

  

この香典帳の記載によると多喜二は室蘭にいることになっています。室蘭は田口瀧子さんが最初に売られていった地です。また、1927年(昭和2年)5月に多喜二がある件で瀧子さんを問い詰めた後、瀧子さんが逃げて行った地でもあります。多喜二にとって最高に苦い思い出の地です。これは多喜二のユーモアのひとつだったかもしれません。「小林市司」とは、小林本家の当主であり、第13代目の小林多治右衛門です。この時47歳くらいです。多喜二が築地警察署で死亡した時にはセキさんと一緒に遺体を引き取りに行きました。後に多喜二の故郷である下川沿村の村長になりました。


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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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