知られざる小林多喜二の周辺

 
 015 ( 2019/02/17 : ver 01 、 2024/02/13 : ver 03 )
小樽港の埋立て



市立小樽図書館の「デジタルライブラリー」にある地図を元にして、多喜二が住んだ若竹町11番地周辺を示します。ここは小樽港の埋立てによって、地形がダイナミックに変化していきます。すべて海を上側に示すため、地図は天地が逆になったりします。まず、デジタルライブラリー No.16の地図です。これは大正4年(1915年)にあった町名地番改正前の地図との説明があります。埋立て前の地形を示すものと考えて良いと思われます。若竹町11番地に相当するのは、赤矢印の先端部です。


次は、デジタルライブラリー No.14の地図です。これは明治44年(1911年)の地図のようです。地図の説明として付けられた年月日が必ずしも地図の時期には合致しないようですが、この稿では埋め立ての状況を示すのが目的です。まず赤の部分は、かなり早い時期に埋め立てられているようです。この地図の頃、あるいはそれよりも前に、多喜二の一家は若竹町11番地(赤矢印の先)に住み始めています。道路を隔ててすぐ海だったとの記載が残っているからです。明治44年なら多喜二は満8歳頃です。


これはデジタルライブラリー No.22の地図です。大正4年(1915)から大正9年(1920年)頃との説明があります。若竹町11番地の前は海ではなくなっています(赤矢印)。多喜二が満12歳から17歳の頃に相当します。多喜二は大正5年(1916年)に庁立小樽商業学校に入学しました。前稿(No.014)にて、若竹町18番地の家を新築したのは1年生の中頃と考察しました。これは大正5年(多喜二は満13歳)です。時期的にも、すぐ前の海の埋立て工事が始まった頃でしょう。そのための立ち退きかと思われます。引っ越し先の若竹町18番地(青矢印の先)は、すでに埋立てが終了している所です。


これはデジタルライブラリー No.33の地図です。大正12年(1923)との説明があります。多喜二は満19歳頃、小樽高等商業学校の最終学年です。この頃、すでに慶義宅の生活から、若竹町18番地(青矢印の先)での生活に変わっています。赤矢印は、以前の家(若竹町11番地)です。


最後はデジタルライブラリー No.95の地図です。昭和11年(1936年)との説明があります。埋立て部位には線路が沢山できています。赤矢印は若竹町11番地、青矢印は若竹町18番地。



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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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