知られざる小林多喜二の周辺
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市立小樽図書館の「デジタルライブラリー」というサイトがあります。ここには、「資料の保存のためにデジタル化した当館所蔵の郷土資料、「古地図」・「古写真」の画像について、市立小樽図書館創立100周年を記念して公開しました。ギャラリーとして、市内地区区分ごとに合わせて200点掲載しています。より画像について興味をお持ちいただくために、画像の説明を添えています。小樽の歴史に思いを馳せ、又、今後の郷土史の研究に活用いただけると幸いです。」とあります。この中から「小樽市全域」をクリックすると、小樽に関する103枚の古い地図の閲覧が可能です。 https://otaru.milib.jp/public_html10/ 小樽は港を埋め立てたり運河を作ったりしていますから、地図がダイナミックに変化していきます。特に多喜二らが住んだ若竹町がそうです。古い地図から順に見ていくと、小樽の発展の様子がわかります。多喜二らは居住地を3回変わっているようです。最初の家は慶義の家での同居、次に住んだのは、慶義が隠居場所として作ってあったところです。これが若竹町11番地の家だと考えられます。その次が若竹町18番地です。このライブラリにある地図によって、これらの場所が特定できます。ライブラリの中のNo.25の地図を示します。これは大正4年(1915年) 10月に実施された町名地番改正による土地区画図(全8枚組)である小樽区土地連絡全図の「3. 海岸埋立地方面」です。大正9年(1920年)8月1日に作られた地図のようです。 手塚英孝氏の「小林多喜二」<1>には、多喜二らが慶義宅から独立して「最初に住んだ家」の事が詳しく書かれています。これを書いた手塚氏は、直接セキさんから聞いています。セキさんの記憶は、エピソード記憶に関しては、かなりしっかりしていると考えられます。エピソード記憶とは、記憶の種類の中でも「自分の体験に基づく記憶」の事であり、強固な記憶です。
この手塚氏の記載を大正4年の町名地番改正後の地図と照らし合わせてみます。次に示すのは、最初の地図の赤枠の中を拡大したものです。図の中で「多喜二の家(2)」と記した左側の赤四角の場所は若竹町11番地です。この場所は手塚氏の記載に合致します。店の正面は道路に向かっているでしょうから、この家を出ると右側に踏切りがあります。裏はすぐ線路です。道路を隔てると海があります。別稿でも示した写真を再掲します。この家が、この場所にあったと考えられます。
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次は最終的に「若竹町18番地」に引っ越しました。上図の「多喜二の家(3)」と示す赤四角です。この場所も同じ地図により特定できます。「小林多喜二」<1>には「一年ほど前、彼の家は区画整理のために三度目の移転をしていた。築港駅前通りの拡張された町並にそった八畳と六畳の二間に、店先に五坪ほどのたたき土間のある新しい家で、裏口はすぐ駅の構内になっていた」と書いています。多喜二は庁立小樽商業学校と小樽高等商業学校の始めまでは慶義宅で過ごしていました。「小林多喜二伝」<2>によると、嶋田氏から聞いたこととして、多喜二が庁立小樽商業学校に入る頃は、まだ「若竹町18番地」には住んでいないようです。若竹町18番地の家は多喜二が庁立小樽商業学校に入学後、1年生の中頃、多喜二が慶義宅に住んでいた時に新築したと考えるのが良さそうです。そして小樽高等商業学校に入学してから「若竹町18番地」の自宅に帰ってきたのです。この家は、後に屋根裏を改造して中2階を作りました。はじめ多喜二の書斎として、後に瀧子さんの部屋として使われました。もともと屋根裏ですから、中央は立っても頭がつかえないものの、部屋の端では低くなっていて、立つと頭がつかえたそうです。
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