知られざる小林多喜二の周辺

 
 014 ( 2019/02/15 : ver 01、2019/11/06 : ver.04 )
多喜二が住んだ家の場所



市立小樽図書館の「デジタルライブラリー」というサイトがあります。ここには、「資料の保存のためにデジタル化した当館所蔵の郷土資料、「古地図」・「古写真」の画像について、市立小樽図書館創立100周年を記念して公開しました。ギャラリーとして、市内地区区分ごとに合わせて200点掲載しています。より画像について興味をお持ちいただくために、画像の説明を添えています。小樽の歴史に思いを馳せ、又、今後の郷土史の研究に活用いただけると幸いです。」とあります。この中から「小樽市全域」をクリックすると、小樽に関する103枚の古い地図の閲覧が可能です。

https://otaru.milib.jp/public_html10/

小樽は港を埋め立てたり運河を作ったりしていますから、地図がダイナミックに変化していきます。特に多喜二らが住んだ若竹町がそうです。古い地図から順に見ていくと、小樽の発展の様子がわかります。多喜二らは居住地を3回変わっているようです。最初の家は慶義の家での同居、次に住んだのは、慶義が隠居場所として作ってあったところです。これが若竹町11番地の家だと考えられます。その次が若竹町18番地です。このライブラリにある地図によって、これらの場所が特定できます。ライブラリの中のNo.25の地図を示します。これは大正4年(1915年) 10月に実施された町名地番改正による土地区画図(全8枚組)である小樽区土地連絡全図の「3. 海岸埋立地方面」です。大正9年(1920年)8月1日に作られた地図のようです。

手塚英孝氏の「小林多喜二」<1>には、多喜二らが慶義宅から独立して「最初に住んだ家」の事が詳しく書かれています。これを書いた手塚氏は、直接セキさんから聞いています。セキさんの記憶は、エピソード記憶に関しては、かなりしっかりしていると考えられます。エピソード記憶とは、記憶の種類の中でも「自分の体験に基づく記憶」の事であり、強固な記憶です。

多喜二の一家は明治41年(1908年)の正月は慶義宅で過ごしました。手塚氏の記載は次のごとくです。読みやすさのために一部を漢字化します。

正月が過ぎてまもなく、小林の一家は、小樽区南はずれの若竹町に住居を定めた。<中略> 海岸沿いに函館本線が通じ、この線路にそって三間幅の道路が朝里、熊碓方面から小樽の街へ通じていた。多喜二の家はこの道路沿いに、部落はずれの海辺近くにあった。裏はすぐ線路だった。右側に近く踏切りがあって、線路に区切られて海岸ぶちの一面には、三、四戸、漁師の家がかたまっていた。多喜二の家は道路を隔ててすぐ岸辺だった。汽車が通るたびに、はげしく家が揺れ、吹雪の時には道を越えてしぶきが跳ねあがった。
二部屋の平屋建てのその家は、伯父の慶義が隠居所に建てたままになっていたものであった。両親はここで三星パン店の支店を開いた。ささやかな店で、パンを入れたいくつかの箱が店先に積み重ねてあるにすぎなかった。 

この手塚氏の記載を大正4年の町名地番改正後の地図と照らし合わせてみます。次に示すのは、最初の地図の赤枠の中を拡大したものです。図の中で「多喜二の家(2)」と記した左側の赤四角の場所は若竹町11番地です。この場所は手塚氏の記載に合致します。店の正面は道路に向かっているでしょうから、この家を出ると右側に踏切りがあります。裏はすぐ線路です。道路を隔てると海があります。別稿でも示した写真を再掲します。この家が、この場所にあったと考えられます。





「小林多喜二伝」<2>によると、多喜二らが住んだ家についてチマさんは、「3度くらい移った」と言っているようです。最後の家は「若竹町18番地」なのは間違いありません。また、「多喜二の小学校時代は現在(18番地)ではない」とも書かれています。これらは、倉田氏が多喜二の知人らから得た情報を元にしています。例えば嶋田氏は、「一度、最後の家じゃなくて、その前の家に尋ねたことがある。その時はまだ築港駅の埋立てができてなくて、海岸の石原が見えた」と言っています。この「前の家」とは「若竹町11番地」の家でしょう。

私はこのサイト(知られざる小林多喜二の周辺)を書き始めた頃、手塚氏の「正月が過ぎてまもなく・・・住居を定めた」という表現から、「1月の中旬位に引っ越ししたのかな」くらいに思っていました。 でも、これは考え直した方が良さそうです。現在の感覚だと、1月の3日もしくは7日も過ぎれば、おせち料理も食べ飽きて、正月気分は消えていく頃です。しかしながら、旧暦においては「正月」とは「1月」のことを意味します。セキさんは明治6年生まれで、多喜二が「両親は新暦を理解しなかった」と書いているように「旧暦世代」の人です。ですから、「正月を過ぎて・・・」とは、2月以降ということになります。「まもなく」という表現も、必ずしも「直後」とは考えなくて良いかもしれません。だとすると、その間に慶義の隠居用に作ってあったという家を改築もしくは修繕する余裕があることになります。たとえば5月くらいとすると、その店先に明治41年にラベルが刷新されて新発売されたサッポロビールがあることの説明がつきます。5月ならばツギさんは1歳4ヶ月になっています。他稿(No.010)において、多喜二の一家は明治40年の秋には小樽に渡ってきた可能性を指摘しました。そうなると、多喜二の一家は半年程度、慶義宅で過ごした可能性があります。そうであれば、チマさんがそこを「最初の家」と考えても不思議ではありませんし、「3回くらい引っ越しした」との説明も不自然ではありません。慶義さんの隠居宅を改築して新装開店した店での記念写真なら、末松さんが羽織袴であることも理にかなっています。売れそうもない景気付けのビールも有り得ます。このように、秋田からの移住の時期や最初の引っ越しの時期を、定説から少しずらすことによって、いくつかの疑問点が解決し、なおかつ手塚氏の記載が真実味を帯びてきます。この写真の家は、多喜二らにとって「最初に独立した家」であって、それが若竹町11番地の家である可能性が高いと思われます。




次は最終的に「若竹町18番地」に引っ越しました。上図の「多喜二の家(3)」と示す赤四角です。この場所も同じ地図により特定できます。「小林多喜二」<1>には「一年ほど前、彼の家は区画整理のために三度目の移転をしていた。築港駅前通りの拡張された町並にそった八畳と六畳の二間に、店先に五坪ほどのたたき土間のある新しい家で、裏口はすぐ駅の構内になっていた」と書いています。多喜二は庁立小樽商業学校と小樽高等商業学校の始めまでは慶義宅で過ごしていました。「小林多喜二伝」<2>によると、嶋田氏から聞いたこととして、多喜二が庁立小樽商業学校に入る頃は、まだ「若竹町18番地」には住んでいないようです。若竹町18番地の家は多喜二が庁立小樽商業学校に入学後、1年生の中頃、多喜二が慶義宅に住んでいた時に新築したと考えるのが良さそうです。そして小樽高等商業学校に入学してから「若竹町18番地」の自宅に帰ってきたのです。この家は、後に屋根裏を改造して中2階を作りました。はじめ多喜二の書斎として、後に瀧子さんの部屋として使われました。もともと屋根裏ですから、中央は立っても頭がつかえないものの、部屋の端では低くなっていて、立つと頭がつかえたそうです。


若竹町18番地にて
左から多喜二、末松、セキ
幸、三吾


中2階にて


中2階にて


次に苫小牧の古い写真を示します。元々は平屋です。道路側は小売店になっていたようです。慶義(私の曽祖父)が写っています。三星堂の看板の他に、読みずらいですが「秋田県人会事務所」なる看板もあります。秋田から北海道に渡ってくる人の拠点だったようです。この家の裏側で写した写真があります。秋田県人会の集合写真でしょう。

後に屋根裏部屋が作られました。そこの中央は大人がやっと立っていれる高さ(182cm)でした。両端はもっと低くて、押入れになってました。私はそこで過ごした時期があります。歩き回るのは不便ですが、机に向かって座ったり寝たりする分には問題ありません。ここは慶義もいた家ですから、おそらく設計思想若竹町18番地の家と同じです。秋田県人会の集合写真の時には壁に窓がありません。この後、中2階が作られ、壁がくり抜かれて窓が出来ました。「小林多喜二伝」<2>には、三吾さん(多喜二の弟)から聞き取った若竹町18番地の家の間取りが書かれていますが、この家に似ています。この家については他稿(No.20) で触れます。





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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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