知られざる小林多喜二の周辺

 
 013 ( 2019/02/14 : ver 01 、 2024/02/13 : ver04 )
小林三星堂があった場所



大正14年(1925年)12月に東京交通社より発行された「大日本職業別明細図之内・小樽市」には、小林三星堂が記されています。この地図は多喜二が暮らした小樽の全体像が分かり易いので、これに関連場所を示します。他の地図との統一の意味で天地を逆にして「海を上側」とします。この地図では小林三星堂の向いにある寺が「量徳寺」とあります。これは場所が「龍徳寺」と入れ替わっており、間違いです。

(A) 小林慶義宅:新富町畑15番地(現在は真栄町に区分けされている)
   多喜二らが住んだ「最初の家」とは、この慶義と同居していた家と考えられる。
(B) 小林三星堂(本店):新富町51番地
(C) 多喜二らが最初に(親子だけで)住んだ家(住所不明)
   多喜二らが「最初に住んだ家」を、仮に「親子だけの家」と考えた場合に
   作業仮設として設定した家。この家(C)は存在しないだろう。
(D) 多喜二らが住んだ2番目の家:若竹町11番地〜別稿(No.010)で写真を提示した家
  これが多喜二らが「親子だけで住んだ最初の家」ということになる。
(E) 多喜二らが住んだ3番目の家:若竹町18番地
(F) 潮見台小学校
(G) 庁立小樽商業学校
(H) 小樽高等商業学校
( I) 北海道拓殖銀行
(J) 奥沢墓地
(K) やまき屋
(L) 小樽図書館
(M) 庁立小樽中学校:伊藤整が通った
(N) 庁立小樽水産学校
(O) 龍徳寺:新富町宅50番地(現在は真栄町に区分けされている)
(P) 量徳寺
(Q) 鎌倉病院:多喜二が右下肢を骨折した時に入院した
(R) 梅ケ谷町:多喜二が 「over the hill」 と表現した南郭のあたり
(S) 小樽築港駅
(T) 稲穂町


小林三星堂の写真を3方向から示し、その後に説明を載せます。

 

(1)





(2)



(3)



平成23年(2011年)のストリートビュー








(4)




(1) 小林三星堂の全体が良く分かる写真です。小売店というより、パン工場と考えた方が良いと思います。北海道で初めて納入された<23>というフォードのトラックが写っています。看板には「帝国軍艦御用達・御菓子食パン」とあります。当時の小樽港は軍港としての役目もありました。

(2) この写真は太郎(私の祖父)が残した写真帳にあった写真で、かなり劣化が激しかったものです。画像処理で店の正面が浮かび上がりました。店の前には郵便ポストが見えます。

(3) トラックの前の人物は、向かって左から、慶義、藤原與一さん、太郎です。與一さんは「ようさん」と呼ばれていた小林三星堂の雇い人です。おそらく太郎と同年齢と思われます。トラックの導入にあたり、慶義と與一さんが大型運転免許を取りに東京に行ったのだそうです。このトラックは4000円とも言われています。例えば1928年(昭和3年)に行われた第1回普通選挙の立候補に必要な供託金は2000円だったそうです<4>。ちなみに、日本初の車の輸入は明治31年(1898年)だそうです。

この写真には、隣家の玄関の屋根が見えています。2019年(平成31年)の時点で、この御宅は取り壊されていて更地になっていますが、平成23年のグーグル・ストリートビューでは、同じ玄関がありました。郵便ポストの前は撮影スポットだったようで、何枚かの写真があります。これにも隣家の一部が写っています。小樽潮陵高校(旧・庁立小樽中学校)の教諭だった西浦敏雄氏の御宅だったようです。国道5号線の道路幅の拡張時に少し移動しているかもしれません。

(4) 何枚か残っているトラックの写真です。



小樽には小林三星堂の後継店がありません。慶義は、多喜二らが明治40年(1907年)に小樽に移住した2年後の明治42年(1909年)に、小樽の店を長男(幸蔵)にまかせて拠点を苫小牧に広げました。ちょうど、王子製紙が苫小牧に進出してくる時です。苫小牧の人口増加を見込んでの事業拡張です。明治43年(1910年)には王子製紙苫小牧工場が完成しました。明治45年(1912年:7月30日から大正元年)に、次男の俊二を小樽から呼び寄せて苫小牧駅前に「小林三星堂」を開店しました。次の写真は、その頃のものです。苫小牧駅から海の方向を撮ったものです。左手前にあるのが苫小牧の最初の店で、看板には「三星堂支店」とあります。あくまで本店は小樽です。小樽の三星堂は無くなりましたが、この店が今は「株式会社三星」として残っています。




現在、小樽の小林三星堂だった場所には、斜めに国道5号線が走っています。わずかに残っている元の土地の部分には、屋根が青い三角形の薬局があります。その部分を示します。Google Street View から取り込んで作ったGIF動画です。平成31年(2019年)2月現在、隣家があったところは更地になっています。


慶義が住んでいた家の住所は「新富町畑15番地」です(現在は真栄町に区分けされている)。「小林多喜二」<1>によると「高台にある庁立小樽中学校の崖下」とあります。また、「工場から100mほど離れた寺の境内の続きの地所」ともあります。明治26年(1893年)に小樽に渡った慶義は潮見台で開墾百姓をしました。日雇仕事もしていたようです。この時、満34歳でした。すぐ隣に「潮見台町」という町もあるのですが、新富町の一部も「潮見台」という高台だったのでしょう。右下方に見える青い屋根は龍徳保育園です。この裏手あたりと思われます。

慶義の家が崖下であった事は、現在でも地形から分かります。次の図で、崖自体は木に覆われていて見えませんが、右側に見えるのは小樽潮陵高校のグランドです。三角の薬局のすぐ向いにあるのは龍徳寺ですから、ここと高さの違いが分かります。慶義の家は、このグランドの崖下だったと考えられます。当時の地図と比べても、住所が一致します。パン工場である小林三星堂は、三角形の薬屋の場所ですから、この二つはすぐ近くです。図の中で赤い四角形は小林三星堂、赤丸は慶義宅を示します。慶義の自宅の写真もあります。これは「新潮日本文学アルバム 小林多喜二」<20>に掲載されているものです。


Google Map より


Google Map より


大正4年10月の町名地番改正による土地区画図より


昭和11年の地図より


大正14年大日本職業別明細図より
緑は現在の国道5号線


平成31年2月


慶義の家


現在の龍徳寺の敷地の広さは、当時とは異なっている可能性がありますが、この龍徳寺の境内の端に家を構えたのは偶然ではなかったと思います。それを説明します。慶義は、北秋田(今の大館付近)では多治右衛門という大きな地主の分家です。多喜二が亡くなった時、セキさんと共に遺体を引き取りに行ったのは、当時東京に住んでいた小林市司さんです。市司さんは小林多治右衛門の13代目にあたります。その後、故郷の川口村に戻って、村長になりました。私の手元にある除籍謄本は、この市司さんが発行証明したものです。

この多治右衛門家は重右衛門家の分家です。この2つの家は大館にある月田山洞雲寺の檀家です。寺の建立や修繕などで、莫大な寄進をしています。「松峯山伝寿院は語る」<24>によると、小林重右衛門も小林多治右衛門も洞雲寺の24世玉巌禅器和尚迂化本葬の時の三役(裃着)を務めています。ここは曹洞宗の寺です。

小樽の龍徳寺も曹洞宗です。慶義は土地売買の問題で訴訟を起こすのですが、被告の会社が倒産したこともあって、東京での大審院(今の最高裁)を途中であきらめ、故郷に戻らずに小樽に渡りました。そこで、まず頼って行ったのは、同じく曹洞宗として洞雲寺と同じ流れをくむ龍徳寺だったと考えられます。

この龍徳寺には日本一大きな木魚があるのだそうです。説明書きによると昭和8年のもので、制作費は当時の1000円とか。これを真似したかどうかは分かりませんが、慶義は大きな鈴(りん)を秋田の洞雲寺に寄進しています。小樽で成功した後かと思われます。


小樽の龍徳寺にある巨大木魚


小樽の龍徳寺にある巨大木魚


秋田の洞雲寺にある巨大りん
慶義が寄進した


多喜二が亡くなった時、東京では無宗教の葬儀を行いました。セキさん(多喜二の母)は昔の人でしたから、戒名が無いのは可哀そうと考えたようです。この龍徳寺に百ヶ日法要を依頼し、戒名を付けてもらいました。多喜二の戒名が「物学荘巌信士」であることは、「母の語る小林多喜二」<3>に書かれています。この戒名は奥沢の墓には刻まれていません。奥沢の墓に刻まれているのは多喜二の父である末松さんの戒名です。昭和5年(1930年)に作られた墓は、多喜二が中央公論社から受け取った「不在地主」の原稿料(500円)の半分をセキさんに送った時に建てられたものです。このことはノーマ・フィールド氏の「小林多喜二」<23>に書かれています。「小林多喜二伝」<2>によると、昭和4年(1929年)の中央公論11月号に掲載された「不在地主」は、原稿用紙50枚分が省かれていたそうです。この時の原稿料は、原稿用紙1枚当たり2円50銭だそうです。中央公論社は、この省いた分も原稿料として払っています。省かれた50枚分は「戦旗12月号」に掲載されました。多喜二は、この小説が直接の原因となって、北海道拓殖銀行を解雇されました。

蛇足ながら、多喜二は田口瀧子さんを「やまき屋」から救い出しました。瀧子さんの身受け金も500円だったそうです。瀧子さんは、半分をこつこつと貯金していました。残りは250円ですが、200円は島田正策氏に借りました。50円は返却しましたが、150円は未返却のままだそうです。多喜二自身は50円を出したことになりますが、返却した50円と合わせると多喜二が出した分は100円という事になります。これは拓銀を解雇された時の本俸と同額です。拓銀での多喜二の本俸の変遷を記します。

大正13年(1924年): 70円
大正14年(1925年): 85円
大正15年(1926年): 88円
昭和02年(1927年): 92円
昭和03年(1928年): 96円
昭和04年(1929年):100円

「母の語る小林多喜二」<3>によると、「事実上の解雇ではあるものの、勤務状況が良好と判断されたためか、手続上は11月16日付で「依願解職」となり、退職金も既定の半分の560円が支給された」とあります。

小樽にあった遊廓には、南廓と呼ばれた松ヶ枝町あたりと、北廓と呼ばれた手宮あたりがありました。その他にも信香あたりは半春地域だったようで、この他にも私娼がいたようです。瀧子さんがいた「やまき屋」とは小樽で「蕎麦屋」と呼ばれた小料理屋のようなもので、酌婦が身を売っていました。事実上の「もぐりの淫売窟」です。最初に提示した地図を見ると分かり易いのですが、中心街から見ると松ヶ枝町は丘の向こう側にあります。多喜二は遊廓のことを「over the hill 」と書いているのは、この南廓の事だと思われます。多喜二は、いわゆる「面食い」だったようで、瀧子さんには「一目惚れ」のようです。カメリア・コンプレックスと書いてある書籍もあります。その由来は「椿姫」だそうです。


田口瀧子さん


トップ・ページに戻る



キーワード

小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
知られざる小林多喜二の周辺