知られざる小林多喜二の周辺
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前列左から、小林クニさん、小林スミさん、安倍イマさん。後列左はセキさん、右は日景智子さんかもしれませんが確定できません。多喜二の一家が小樽に移住した際、佐藤(旧姓)クニさんが一緒に小樽に渡りました。慶義さんの二男(俊二さん)と結婚するためです。俊二さんは、多喜二の香典控に名前が載ってます。私の祖父(太郎)の兄です。慶義さんは明治42年(1909年)から、苫小牧にも事業の展開を始めました。苫小牧に王子製紙が作られることになり、人口増加を見込んだからです。明治45年(1912年)には俊二・クニさんを小樽から呼び寄せ、苫小牧の駅前に「小林三星堂」を開店しました。そこから現在の苫小牧・三星が始まっています。 セキさん一家は、明治40年に小樽に移住しました。これはその直後の写真と思われます。移住の時期は12月という説が広く伝わっていますが、実際は秋ごろだと思われます。中央に写っているのは慶義さんです。 この写真は慶義さんと末松さん(多喜二の父)が並んだところで、2人とも長身です。ベンチが同じ形です。「小豆せんべい」の看板は位置が違いますが同じものでしょう。時期が異なる同じ店の前と思われます。 セキさんとチマさんです。チマさんは小樽では若竹小町とも言われた看板娘の秋田美人です。前に写っているのは長女の和枝さんでしょう。チマさんも和江さんも、よそ行きの格好です。この和江さんが3歳で、後ろに見える池が東京の公園だとすると、この写真は非常に重要な写真という事になります。多喜二は昭和7年(1932年)4月上旬頃から地下生活となりました。その頃の写真かも知れません。これを写した人物がいるはずですが、三吾さんの可能性があります。「小林多喜二」<1>より引用します。
苫小牧の三星で毎年恒例で行われたクリスマス・パーティに参加するセキさん。このパーティでは、皆が紙の帽子をかぶりました。 小樽奥沢の多喜二が眠る墓の前。左にセキさん、チマさんと近藤治義牧師でしょうか。右にクニさん、私の祖母と祖父。 私の祖父(太郎)の葬儀に参列してくれた時のセキさん(左)と、クニさん。この2人は、明治40年に一緒に来道しました。下の写真も同じ場面、小さな顔は私です。 大館にある「小林多喜二生誕の地碑」の前のセキさんでしょう。 セキさんの葬儀の集合写真。セキさんの遺影の向かって左がツギさん、チマさん、チマさんの御主人、三吾さんでしょう。その列の一番左は私の祖母。写真の右は幸さんでしょうか。2人おいて近藤治義牧師でしょう。前列遺影の左はクニさん。多喜二の一家が秋田から小樽に移住してきた際に、一緒に来道しました。旧姓佐藤クニさん。小林俊二さんに嫁ぐためです。前列遺影の右は佐多稲子さんでしょうか? 前列、向かって右からチマさん、おそらく幸さん、三吾さん、ツギさん、ひとり置いてクニさん、その次が私の祖母のキヌさんです。
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