知られざる小林多喜二の周辺

 
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セキさんの写真




前列左から、小林クニさん、小林スミさん、安倍イマさん。後列左はセキさん、右は日景智子さんかもしれませんが確定できません。多喜二の一家が小樽に移住した際、佐藤(旧姓)クニさんが一緒に小樽に渡りました。慶義さんの二男(俊二さん)と結婚するためです。俊二さんは、多喜二の香典控に名前が載ってます。私の祖父(太郎)の兄です。慶義さんは明治42年(1909年)から、苫小牧にも事業の展開を始めました。苫小牧に王子製紙が作られることになり、人口増加を見込んだからです。明治45年(1912年)には俊二・クニさんを小樽から呼び寄せ、苫小牧の駅前に「小林三星堂」を開店しました。そこから現在の苫小牧・三星が始まっています。

日景健氏による「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる」<10>によると、慶義さんの父親は多吉郎です。秋田では通称「タジェム」と呼ばれた旧家の小林多治右衛門の別家です。一方の佐藤クニさんの方の佐藤家は、通称「ウチムラ」と呼ばれた旧家です。旧家同士の縁組なのです。

後列右が日景智子さんだとすると、<10>を書いた日景健氏の妹です。秋田で多喜二の一家は、家の半分を安倍弥吉校長先生に貸していました。別稿で示した川口小学校の校長先生です。多喜二の一家にとって、その賃貸料が大きな収益だったはずです。安倍校長先生は明治39年(1906)12月12日に、46歳の在職中に亡くなりました。ある意味で、多喜二の一家は大きな収益の柱を失ってしまったわけです。このことは翌年(明治40年)の小樽移住にも間接的ながら関わっています。安倍イマさんは、安倍弥吉校長先生の奥様です。後に苫小牧に渡りました。そして小林スミさん(クニさんの娘)を養女にしました。ところがスミさんは若くして亡くなりました。その後の詳細は書きませんが、安倍イマさんは小林家につながって現在に至ります。秋田と北海道は、このような繋がりがあります。


セキさん一家は、明治40年に小樽に移住しました。これはその直後の写真と思われます。移住の時期は12月という説が広く伝わっていますが、実際は秋ごろだと思われます。中央に写っているのは慶義さんです。



この写真は慶義さんと末松さん(多喜二の父)が並んだところで、2人とも長身です。ベンチが同じ形です。「小豆せんべい」の看板は位置が違いますが同じものでしょう。時期が異なる同じ店の前と思われます。


セキさんとチマさんです。チマさんは小樽では若竹小町とも言われた看板娘の秋田美人です。前に写っているのは長女の和枝さんでしょう。チマさんも和江さんも、よそ行きの格好です。この和江さんが3歳で、後ろに見える池が東京の公園だとすると、この写真は非常に重要な写真という事になります。多喜二は昭和7年(1932年)4月上旬頃から地下生活となりました。その頃の写真かも知れません。これを写した人物がいるはずですが、三吾さんの可能性があります。「小林多喜二」<1>より引用します。

八月下旬、小樽から姉の佐藤チマが三歳になる長女の和枝をつれて上京した。姉は母たちとしばらく馬橋の家で暮らしていたが、九月中旬ごろ、母をつれて、麻布十番のヤマナカヤという果物店の喫茶室でひそかに多喜二と会った。弟(三吾さんのこと)と和枝を加えた五人で、軽い夕食のテーブルをかこみながら、短い時間だったが、地下生活にはいってから、彼ははじめて母に会うことができた。彼は母と姉弟たちに、彼の仕事と決意をうちあけた。


苫小牧の三星で毎年恒例で行われたクリスマス・パーティに参加するセキさん。このパーティでは、皆が紙の帽子をかぶりました。

小樽奥沢の多喜二が眠る墓の前。左にセキさん、チマさんと近藤治義牧師でしょうか。右にクニさん、私の祖母と祖父。




私の祖父(太郎)の葬儀に参列してくれた時のセキさん(左)と、クニさん。この2人は、明治40年に一緒に来道しました。下の写真も同じ場面、小さな顔は私です。

大館にある「小林多喜二生誕の地碑」の前のセキさんでしょう。


セキさんの葬儀の集合写真。セキさんの遺影の向かって左がツギさん、チマさん、チマさんの御主人、三吾さんでしょう。その列の一番左は私の祖母。写真の右は幸さんでしょうか。2人おいて近藤治義牧師でしょう。前列遺影の左はクニさん。多喜二の一家が秋田から小樽に移住してきた際に、一緒に来道しました。旧姓佐藤クニさん。小林俊二さんに嫁ぐためです。前列遺影の右は佐多稲子さんでしょうか?

前列、向かって右からチマさん、おそらく幸さん、三吾さん、ツギさん、ひとり置いてクニさん、その次が私の祖母のキヌさんです。



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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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