知られざる小林多喜二の周辺

 
 010 ( 2019/01/26 : ver 01、2024/02/12 : ver 05 )
多喜二が住んだ駄菓子屋の風景



明治40年(1907年)の末に多喜二の一家は小樽に移住しました。「母の語る小林多喜二」<3>には、12月と書かれています。他の多喜二関連の書籍も同様ですが、その元になる手塚英孝氏の記述<1>は、元々セキさんから聞き取った情報によっています。他稿(No.002)で示したように、「母の語る小林多喜二」<3>と「小林多喜二」<1>は出版時期が63年も異なっていますが、どちらも情報源は昭和21年のセキさんであると断定できます。小樽への移住時期は、定説となっている12月ではなく、それより少し早かったと私は考えています。その考察も本稿の目的のひとつです。いずれにしても、その年の12月1日に多喜二は満4歳になりました。年越しと正月(明治41年)は新富町の慶義宅で過ごしたようです。「小林多喜二」<1>によると、正月を過ぎて間もなく、慶義さん(末松さんの兄)が若竹町に作ってあった隠居所を譲り受けて住んだとあります。

本稿の主題は1枚の写真です。私の親類のところにあるもので、スキャンさせてもらったデジタル画像です。このデータは小樽文学館に提供しました。そこで展示されている写真の元データはこれです。屋根の看板には「(三星印)小林支店」とあり、多喜二が住んだ家に間違いありません。




多喜二らは何度か引っ越しをしています。「小林多喜二」<1>には「二部屋の平屋建てのその家(最初の家)は・・・・三星パン店の支店を開いた」とあります。家の前に写っている人物の成長過程を通じて、この家がいつ頃のものかを考えていきます。

上図の向かって右からチマさん(姉)、多喜二、末松さん(父)、ツギさん(妹)です。このツギさんが謎を解く鍵です。戸籍から分かる確かな誕生日は、チマ:明治33年(1900年)12月21日、多喜二:明治36年(1903年)12月1日、ツギ:明治40年(1907年)1月4日です。次に示す写真は、よく多喜二関連の書籍で紹介されているものです。小樽に移住後の写真です。

前列の向かって一番右は太郎(私の祖父)、その隣が多喜二です。左端は赤ん坊(ツギ)を抱くセキさんです。着物の襟が少し開いていますから、乳を飲ませていたようです。その隣はチマさん。中央は分かりません。小樽への移住が定説の12月とすると、その直後に撮られた写真ならば真冬です。写っている人物の衣服は北海道の真冬のものとは思えず、違和感があります。移住の翌年(明治41年)の春、仮に4月とすると、ツギさんは満1歳3ヶ月になってます。1歳3ヶ月児は、こんなに小さいのだろうか? という別の疑問が生じます。この写真の時期を推定するための重要なヒントが次の写真にあります。

次に示すのは、子供たちが3人で写っている写真です。これは苫小牧にある写真です。これと同じ写真が「新潮日本文学アルバム28 小林多喜二」<20>で紹介されています。この裏にはチマさんによる書き込みがあります。






知性が醸し出る達筆です。黒くなっている部分は「私七十二才今」もしくは「七十二才命」と読めます。「三」に見えなくもないので、拡大しました。「三」の文字を迷わずに書いた場合、普通に考えると三本の線は平行になるはずです。ですから、ここでは72歳と考えておきます。これは、チマさんが満72歳の時に書いたものでしょう。全文を書き起こします。分かりにくい文字は、「くずし字解読辞典」<21>を参照しました。確定できない文字は(?)を付けます。

水産学校の校長先生の子供さんの着物を借りて
母がしゃしんやさんに、三人をうつして(削除:くれた)もらった記念のしゃし
んです。多喜二も、ツギ子ももう供に帰りません。48年4月、17日 書(?)いた
私七十二才今
です。母がいつも校長宅へ行っていろいろ仕事を
手伝ってゐた記憶がはっきりと思い出されます。
丁度 秋田から移住して水産学校の
下直りの今の若竹町の築港駅の
近くでしたろ(?)う。
日本のどこかで中尾さん兄弟も健在でいられ
る事でせふか。 
つぎ子 四才
多喜二 7才
私 十才
秋田から来て
三年後のしゃ(しん)
秋田から7才の秋に
来な(ま?)したので
(削除:十二月)

最初は意味が分からないまま書き起こしましたが、「48年(?)4月17日(?)」という年月日らしい数字は「昭和かな?」と気付いたところから、謎が解けてきました。このメモは昭和48年(1973年)4月17日に書いたのです。読み解くには3人の生・没年月日が重要です。

チマ:
明治33年(1900年)12月21日〜昭和50年(1975年)9月20日
多喜二:
明治36年(1903年)12月1日〜昭和8年(1933年)2月20日
ツギ:
明治40年(1907年)1月4日〜昭和47年(1972年)11月15日

チマさんの誕生日は明治33年(1900年)12月21日ですから、このメモに書かれた昭和48年(1973年)4月17日の時点では満72歳3ヶ月です。ツギさんは、その前年、昭和47年(1972年)11月15日に亡くなっています。ですから、この年月日の直前は、「多喜二も、ツギ子も供に帰りません」なのです。疾患名は書きませんが、ツギさんは悪性腫瘍で亡くなったと聞いています。多喜二は昭和8年(1933年)2月20日に亡くなっています。亡くなった2人を思い出しつつ、3人で写っている写真の裏に書き留めたのでしょう。ツギさんは満65歳10ヶ月で亡くなりました。チマさんは、このメモを書いた2年後に、74歳8ヶ月で亡くなりました。

「小林多喜二伝」<2>に重要なことが書かれていました。これを書いた倉田稔氏は小樽商業大学の元教授です。多喜二が通った小樽高等商業学校は、その前身です。倉田氏は多喜二の知人・友人からの情報を含め、多方面から詳細に書いています。その中で、庁立小樽水産学校の歴代校長を記載していました。ここでは明治40年からの第4代目校長は藤村信吉氏としており、多喜二の一家が世話になったのは藤村氏に違いないとあります。念のため、ネットにて「北海道小樽水産高等学校」のホームページを見たところ、歴代校長の一覧がありました。第4代目の藤村氏は明治40年からではなく、明治42年からでした。第3代目の校長は中尾節蔵氏で、任期は明治39年9月から明治42年10月です。前歴が庁立水産学校・教諭ですから、校長になる前から水産学校にいたかも知れません。多喜二らが小樽に来てからの時期と重なります。多喜二の一家が世話になった校長先生とは中尾節蔵氏です。

チマさんが書いたメモ上段の最後は、「日本のどこかで中尾さん兄弟も健在でいられる事でせふか」です。校長先生が貸してくれた子供用の着物ですから、同じ年齢位の子がいたことになります。チマさんが写真を見た時、亡くなった2人を思い出し、着物を貸してくれた校長先生を思い出し、中尾校長の子供たちを思い出したのでしょう。明治42年10月に庁立小樽水産学校を退職したとして、すぐに引っ越していくものでしょうか? この後の考察にも関係しますから、ひとまず、翌年(明治43年)の3月いっぱいまでは小樽にいたと仮定します。

チマさんのメモには「母がいつも校長宅へ行っていろいろ仕事を手伝ってゐた記憶がはっきりと思い出されます」ともあります。中尾校長が転任の際に、引っ越しの手伝いもしたでしょう。その時、子供たちの昔の衣服が出てきて、それを借りて写真を撮った・・・と考えると、全ての辻褄が合います。

このメモを書いた時のチマさんの年齢(72歳)は満年齢です。改暦は明治5年ですが、チマさんは明治33年生まれなので新暦世代です。しかしながら、年齢については、「満年齢」と「数え年齢」が混在するようです。満年齢と数え年齢は一般的には1歳違いだと認識しがちですが、別稿で触れたように、生まれた月によって異なっています。たとえば12月生まれだと約2歳(1歳11ヶ月)も違ってくるのです。便宜的に3月1日の時点での3人の年齢を明治42年から明治44年の期間で書きます。

明治42年(1909年) 3月1日  数え年  満年齢
 チマ  10  8
 多喜二  7  5
 ツギ  3  2

明治43年(1910年) 3月1日  数え年  満年齢
 チマ  11  9
 多喜二  8  6
 ツギ  4  3

明治44年(1911年) 3月1日  数え年  満年齢
 チマ  12  10
 多喜二  9  7
 ツギ  5  3

メモには、私(チマ)10歳、多喜二 7歳、ツギ子 4歳とありますから、数え年にしても満年齢にしてもピッタリ一致する部分はありません。年齢は厳密には一致しなくても、メモにある「秋田から7歳の秋に来な(ま?)した」の部分と、「秋田から来て三年後のしゃ(しん)」の部分は重要です。小樽に移住してきたのは明治40年(1907年)ですから、この写真は明治43年(1910年)に撮影されたと考えるのが妥当だと思います。

「記念のしゃしんです」というのも重要です。「小林多喜二伝」<2>には、「新潮日本文学アルバム28 小林多喜二」<20>を参照してチマさんのメモが紹介されています。この部分は「三人をうつしてもらった・・・・・・しゃしんです」とあります。「・・・・・・」の部分は解読できなかったのだと思われますが、メモ中の別のところに「記憶がはっきりと・・・」と書かれています。「記」の字体が一致するので「記念のしゃしん」で間違いありません。では何の記念でしょうか? 前の年(明治42年)の12月1日に多喜二は満6歳になってますから、明治43年は小学校に入学する年です。この写真は小学校の入学の直前に記念として撮影したものと思われます。慶義さん(多喜二の伯父、私の曽祖父)は色々な写真記録を残しています。

先ほど保留としていた事がありました。小樽に移住してきた時期の事です。チマさんは「秋田から7歳の秋に来な(ま?)した」と書いています。セキさんの記憶では「12月」のようですが、「秋頃」の方が、下の写真に写っている人物の服装をよく説明できます。多喜郎さん(多喜二の兄)が、その年の10月5日に小樽で急死したことが、一家の移住の決断を早めました。1月に生まれたばかりの幼いツギさんもいることですし、真冬の12月を待たずに、10月末から11月初めまでには移住したのではないかと考えます。チマさんのメモの最後は「十二月」と書かれ、それを消しています。「皆には12月だと伝わっているけれど、本当は秋なのですよ・・・」とでも言いたかったかどうかは分かりません。まんざら考えすぎでもないように思えます。





再度、下図で最初に提示した家の前の人物を拡大して示します。末松さんを挟んで立つ3人の子供達は、記念写真の3人より少し前くらいの成長度合いに見えます。小樽移住の翌年(明治41年)の1月4日で、ツギさんは満1歳になります。この写真は、ツギさんが1歳になったばかりには見えません。この稿を書き始めた頃、この家は「初めて住み始めた家」とは「別の家」である可能性があると考えましたが、後の稿(No.013)で否定しました)。この家は多喜二らが「親子のみで」住み始めた家です。


この家を詳しく見てみます。屋根上の看板には「学校用品 食パン 和洋菓子 (三星印)小林支店」とあります。右の縦看板は「(三星印)小豆せんべい」でしょう。左側の看板には「学校用品文具 食パン 菓子 販売所 (三星印)小林出張店」とあります。旗には「海軍御用 洋菓子 食パン 書籍 文房具 (三星印)三星堂小林支店」とあります。右から2つ目は判読しずらいですが「書籍」として無理はないと思います。天井からは草鞋が吊り下げてあります。店の中にはガラスの展示棚やガラス瓶が並んでいます。多喜二が頭に描く駄菓子屋の原風景と言えるでしょう。






多喜二が大正9年(1920年)に庁立小樽商業学校の本科3年生(通年で5年生)の時に書き、庁立小樽中学校関係者が作った同人雑誌「群像」の創刊号に投稿した「駄菓子屋」という作品があります。よりにもよってライバル関係でもある学校の同人雑誌への殴り込みのような投稿ですが、ボツにされました。そんな、いわく付きの作品です。おそらく書き直しはしたのでしょうが、後に自ら主宰した「クラルテ」に発表されました。「定本小林多喜二全集 第1巻」<22>に載っています。昔は1軒しかなくて繁盛していた駄菓子屋なのに、次々と立派な新しいライバルが出現してきた様子が描かれています。庁立小樽中学校は明治35年(1902年)の設立、多喜二が在籍した庁立小樽商業学校は大正2年(1913年)の設立です。先に出来た店が次第に没落していくという小説の内容は、庁立小樽中学校への痛烈な皮肉に思えます。そういう観点で評論した多喜二研究者がいるかどうかは知りません。むしろ、多喜二が何故、唐突にそんなところに投稿したのだろうか? と書いている書籍ならあります。私は、多喜二の自信にあふれた熱いメッセージ、そして挑戦状だったのだと思います。この「駄菓子屋」については、多喜二はセキさんから「いくら小説でもそんな嘘は駄目」と怒られたそうです<2>。別稿(No.024)に書きましたが、多喜二の原稿をボツにしたのは庁立小樽中学校にいた武田進です。ペンネームを中津川俊六と言います。中津川俊六は後に多喜二が中心となって作った「クラルテ」に参加しています。面白い2人の関係です。小説「駄菓子屋」の中から多喜二の描写をいくつか抜粋します。

「一人は五銭の飴玉、それから十銭のマンジュウ・・・・・・三銭のハッカ、十銭のアンパン、それに五銭の宝袋」

「煎餅の缶も、陳列棚もない」

「赤いペーパーと青いペーパーを貼ったラムネがほこりを浴びて、十二、三本倒れかかったり・・・」

「入口の両側には草鞋と草履が下っている」

「新しい綺麗な折が二、三十もてかてかと光って並んでいる」

「総ガラスの立派な陳列棚、ズラリとならべてある煎餅缶」

私が特に興味を魅かれるのは向かって右のガラス戸の奥です。拡大してみて初めて気が付きました。そこには星印ラベルの瓶が並んでいます。北海道で星印の瓶といえばサッポロビールが思い浮かびます。この部分を拡大してサッポロビールを並べてみます。サッポロビール博物館で撮影した写真は少し見下ろす角度なので多少の違いはありますが、星印のラベルやその上の扇形のラベル、銀紙で覆ったコルク栓部分が一致します。ガラス戸の内側に並んでいるのは、明治41年にラベルが刷新されて発売されたサッポロビールと考えて間違いないでしょう。「小林多喜二」<1>によると、多喜二らは小樽移住の翌年(明治41年)、すでにあった慶義の隠居所に住んだようです。ここで示した写真は、このビールが発売された後のはずです。




多喜二が書いた全てをチェックした訳ではないですが、自分の家(店)で酒類を販売していたと言う記載は無いと思われます。セキさんによる「母の語る小林多喜二」<3>の中にも酒類販売の記述はありません。明治43年(1910年)の物価の目安として、総合雑誌は20銭、牛乳は3銭9厘、もりそば3銭3厘です。そんな中でビール(大瓶)は 22銭だったそうです。この頃のビールは高級品であり、よく料亭で出されたようです。この店の販売ターゲットは誰でしょうか? 築港に従事する労働者が気楽に買えるものではありません。そんな高級品のビールが、多喜二が住んでいた周辺で売れるはずがないのです。おそらく末松さん(多喜二の父)の店の開店の景気付けとして、慶義さんが並べたものだと考えられます。結局、身内で飲んでしまったか、その後の仕入れは無かったのではないかと想像します。だとすると幼い多喜二には酒類販売の記憶が残るはずもありません。


サッポロビール博物館では北海道におけるビールの歴史が分かります。明治9年(1876年)に開拓史麦酒醸造所が作られました。明治10年(1877年) 6月に「冷製札幌ビール」が初出荷され、宮内省にも献上されたそうです。この時からラベルには「開拓史のシンボルである赤い五稜星」が用いられました。

明治15年(1882年)、開拓史が10年計画の予定通りに廃止となり、開拓史麦酒醸造所は農商務省の所管となって札幌麦酒醸造所となりました。明治19年(1886年)には道庁に移管されました。同年、民間に払い下げとなり大倉組札幌麦酒醸造場が誕生しました。札幌の大倉山ジャンプ場は2代目社長大倉喜七郎により建設され寄贈されたものです。

この大倉組札幌麦酒醸造場を母体として明治20年(1887年)に (有限会社)日本麦酒醸造会社が設立されました。これが12月には札幌麦酒会社となりました。明治26年(1893年)に商法で株式会社が明確化されたため、社名を札幌麦酒株式会社と変更しました。

明治39年(1906年)には、札幌麦酒(サッポロ)、日本麦酒(エビス)、大阪麦酒(アサヒ)の3社が合併して巨大な大日本麦酒株式会社が誕生しました。この大日本麦酒株式会社が一社で、サッポロビール、エビスビール、アサヒビールという3つのビールを販売する事になったのです。ただし昭和24年には過度経済力集中排除法に基づき、日本麦酒(サッポロ・エビス)と朝日麦酒(アサヒ・ユニオン)の2つに分割されました。昭和39年(1964年)に日本麦酒株式会社は、社名をサッポロビール株式会社に変更しました。

話は少し戻りますが、大日本麦酒株式会社が誕生して2年後の明治41年(1908年)に、アサヒ・サッポロ・エビスの全てのビールの商標(ラベル)が刷新されました。このうちサッポロビールの新しい商標デザインと、その頃のポスターを示します。このポスターには明治41年に新ラベルで発売となったサッポロビールも描かれています。多喜二の家に並んでいたのはこのビールです。この頃はまだ王冠ではなくコルクの栓でした。針金で固定されており、スクリューの栓抜きが用いられました。これらはサッポロビール博物館に展示されています。現在のような金属キャップの王冠は明治40年(1907年)に札幌工場で試用が始まったばかりだったようです。












成長したツギさんは幸田家に嫁ぎました。住居は何度か移ったようですが最終的には苫小牧にいて、よく私の祖母のところに遊びに来ていました。その頃、小学生〜中学生だった私は「幸田さんのおばさん」として覚えています。いつも「兄はあの時どうだった、こうだった・・・」のような話をしてました。私は「よっぽどお兄さんが好きなのだな」と思ってましたが、兄とは多喜二の事でした。私の実家で撮ったツギさんの写真です。




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