知られざる小林多喜二の周辺

 
 008 ( 2019/01/16 : ver 01 、 2019/03/10 : ver02 )
Tachy Covaiashy



多喜二の日々の仕事や生活には,色々な「遊び心」があったと思われます。たとえば「蟹工船」の草稿ノートの表紙には、多喜二が自分で考えたらしい横文字サインが書かれています。それは「Kobayashi」ではなく,「Covaiashy」です。


小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD <14>
「蟹工船」 草稿ノート 表紙

「姉との記憶」が書かれている別の草稿ノートの裏表紙には、ここに至るまでの第一歩らしい書き込みがあります。それを見ると、まず「Kobayashi」が「Covayashy」になったようです。その次が「Coviayashy」のようです。


小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD <14>
「姉との記憶」など 草稿ノート 裏表紙


小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿 DVD <14>
「姉との記憶」など 草稿ノート 表紙の裏面

このノートの最後から2ページ目には、その後の思考過程らしい書き込みが、ぎっしりとあります。「Covaishy」という候補もありますが、「Covaiashy」が一番多いようです。「Tacky」ともあります。

見開き8ページ目からは「龍介の経験」の草稿が書かれています。この文章が始まる前のページに「Covaiashy」と5回の書き込みがあります。ここで最終決定したのかもしれません。「多喜二」の部分も含めると,サインの全体は「Tachy Covaiashy」です。


このノートの裏表紙には、「勉強」という単語が幾つか書かれています。多喜二は1925年(大正14年)春に東京商科大学を受験しました。現在の一橋大学です。その前年(1924年)には小樽高等商業学校を卒業して北海道拓殖銀行に就職してましたが、東京に出る夢は捨てられなかったのでしょう。その頃の書き込みであれば、勉強せねば!という思いが強かったのかもしれません。社会人になって最初の1年目が,そっくり受験勉強期間ということになります。

結局、不合格でした。多喜二から母の元へ「オチタアンシンスレ(落ちた安心すれ)」という面白い電報が届きました<1>。せっかく銀行員になった多喜二です。それをやめて東京に出るとなると、安定した収入がなくなるのは目に見えてます。多喜二の何とも言えないユーモアを感じます。

伊藤整は小樽高等商業学校で多喜二の1学年下でした。大正14年(1925年)に卒業して市立小樽中学校の英語教師となりました。伊藤整が通学していたのは「庁立」小樽中学校でしたが、「若い詩人の肖像」<19>によると伊藤整が就職したのは,新設の「市立」小樽中学校の方でした。多喜二の場合と同じく、就職の翌年(1926年)に東京商業大学を受験しました。最初は不合格でした。もう1年勉強して2回目の受験で合格しました。ただし、さらに1年間は学資を貯めるために大学は休学とし、その翌年に入学しています。多喜二の不合格の件は耳に入っていた可能性があります。ライバル心みたいなものがあったかもしれません。



多喜二は大正15年(1926年)5月26日から、「折々帳」を書き始めました。日々折々の日記帳のようなものです。多喜二は、しっかりと「析々帳」と書いています。何かの意図を持って「分析の析」としたのでなければ、単なる漢字の間違いです。特に下書きにおいて、書き下ろす勢いが重要ですから、このような時には辞書等を調べることは無かったかもしれません。とにかく、この折々帳の裏表紙には、完全な形の「Tachy Covaiashy」が書かれています。






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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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