知られざる小林多喜二の周辺

 
 007 ( 2019/01/16 : ver 01 、 2019/08/31 : ver 02 )
新暦と旧暦のこと



日本では明治5年(1872年)12月2日の翌日から新暦(グレゴリオ暦)に切り替わりました。「明治5年12月3日に相当する日(旧暦)」が、「明治6年(1873年) 1月1日(新暦)」としてリセットされたのです。この稿では旧暦と新暦を理解するために、暦の仕組みについて書きます。大きく分けると暦には「太陽暦」と「太陰暦」があります。「太陽」に対して、「太陰」とは「月(moon)」のことです。暦の最小単位である1日は、地球が自転することで昼と夜が生じることによります(白夜や極夜は例外)。

太陽暦は「季節の変化」に基づきます。季節の変化は地球が太陽の周囲を公転することで生じます。これに対して太陰暦は「月の満ち欠け」に基づきます。月の満ち欠けは、太陽と月と地球の相対的位置関係で生じます。月が地球の周りを公転するからです。月の変化は分かり易いものなので、古くから暦には月(太陰)が用いられていました。潮の満ち干も月に関係しています。大きく分けて2種類と書きましたが、妥協案ともいうべき「太陰太陽暦」があります。これは基本的に「太陰暦」です。純粋な太陰暦では季節がずれていくために、種や苗を植えるタイミングを知るのに不便です。この「太陰太陽暦」では、暦と季節の解離を補正するため、2〜3年(平均すると約2.7年)に一度、「月(month)」を増やします。例えば本来の6月と7月の間に「別の6月」を入れるのです。これを「閏六月」と言います。「太陰太陽暦」では閏月が入った年を「閏年」と言います。この閏年には1年が13ヶ月あります。通常の年は1年が354日前後ですが、閏年では383日前後になります。

それぞれについて詳解します。


(1) 太陽暦

地球が太陽の周囲を回ることを公転と言います。地球の地軸は、この公転軸に対して約23.4度だけ傾いています。地球上の場所により事情は異なりますが、日本のように中緯度の国では太陽の周囲を回る時の位置により日照時間に変化が生じます。これにより四季ができます。これが実際の1年であり 365.2422 (365.24218944)日です。これは地球の公転周期です。地球の公転は楕円軌道なので太陽との距離も大きく変わりますが、四季の変化は「太陽との距離」よりも「太陽との位置関係」の方が重要です。

古代ローマで採用された最初期のローマ暦はロムルス暦でした。紀元前750年頃から使われたようです。現在の年の初めに相当する日から約60日間は日付の無い日だったようです。この暦は1年を10ヶ月としたものでした。「octo-」とは「8」を意味する接頭語です。蛸は足が8本あるので英語で「オクトパス(octopus)」です。ピアノの白鍵盤のオクターブ(ド〜ド)は8個です。ロムルス暦の「オクトーベル(October)」は8月でした。紀元前713年にヌマ暦になって、10月の後に11月と12月が加えられました。その後、紀元前153年の改暦で1年の始まりが「ヌマ暦で加えられた11月」ということになりました。それによって「月(month)の名前」が全部2ヶ月ずれてしまい、本来なら「8」を意味する「October」が10月になってしまいました。ロムルス暦は基本的に太陰暦かと思われます。ヌマ暦には2年に1度「閏2月」があったようなので、季節を調節するための太陰太陽暦かもしれません。

ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)がエジプトに遠征した時、すでにエジプトでは 1年を12ヶ月に分ける暦を使っていました。太陽暦です。おそらくピラミッドのような超巨大建造物があるため、特定の窓から一定の場所に当たる陽の光が「365日ごと」であると分かっていたのではないかと想像します。エジプトでは「30日の月」が12ヶ月と、端数の5日だったようです。シーザー(カエサル)はそれを改良して暦を定めました。これがユリウス暦です。紀元前46年から施行されました。

ユリウス暦では大の月と小の月が固定されていました。1月は31日間、2月は28日間、3月は31日間、4月は30日間、5月は31日間、6月は30日間、7月は31日間、8月は31日間、9月は30日間、10月は31日間、11月は30日間、12月は31日間という風にです。例外的に4年に1回の閏日を2月に入れました。これが2月29日です。このような年を「閏年」と言います。現在用いられているグレゴリオ暦の基本が既に出来ていました。

実際の地球の公転周期と比較しても、その当時としてはユリウス暦はかなり正確な暦でした。それでも長期的にみると少しずつ季節と解離していきました。季節が400年について「約3日」ずつ、ずれていったのです。キリスト教圏では復活祭が重要な行事です。西暦325年(ユリウス暦)のニケア宗教会議にて、復活祭は「春分の後の満月の後の最初の日曜日」と規定されました。この「春分」の日が少しずつずれてしまったおかげで、復活祭が行われる季節が少しずつ変わっていきました。このため、ローマ法王グレゴリウス13世が1582年に暦を改正しました。この決定は2月24日に発表され、10月に施行されたようです。すでにずれてしまった10日分を削除し、1582年10月4日(ユリウス暦)の翌日を1582年10月15日(グレゴリオ暦)としました。1582年の10月5日から10月14日までの10日間は日付として存在しません。ただし歴史上の出来事として存在しないにしても、計算することはできます。1582年10月5日(ユリウス歴) = 1582年10月15日(グレゴリオ暦)ですから、単純な暦上の計算としては、[ユリウス暦] + 10日 = [グレゴリオ暦] となります。この計算式で加えている「10日」は、あくまで「1582年前後で」ということです。ユリウス暦とグレゴリオ暦は400年で約3日ずれていきます。例えばロシア革命(1917年)の時には13日の差になっていました。

1582年は織田信長が本能寺の変で自害した年にあたります。本能寺の変は天正10年 6月2日(宣明暦)です。この時点で用いられていたユリウス暦では1582年 6月21日に相当します。その3ヶ月半後にキリスト教圏ではグレゴリオ暦に改暦されました。ですから、信長の死はグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日ということになります。歴史上の出来事をグレゴリオ暦に変換することは、「現在の季節感」と一致させる時に必要です。

ロシアでは1918年までユリウス暦を使っていました。この頃にはユリウス暦とグレゴリオ暦の差は13日に伸びてます。日露戦争(1904年)の時、日本とロシア帝国では、暦上で13日のズレ(差)がありました。ロシアの二月革命(1917年2月23日)と十月革命(1917年10月25日)は「ユリウス暦」です。その頃に広く使われていたグレゴリオ暦では、それぞれ11月7日と3月8日になります。このロシア革命の翌年(1918年)2月にソビエト社会主義共和国連邦はグレゴリオ暦に改暦しました。ちなみに中国大陸では1912年の中華民国成立時にグレゴリオ暦に改暦されたようです。中華人民共和国の成立は1949年10月1日です。日本では1872年(明治5年)の改暦でした。

グレゴリオ暦における公転周期と暦の補正の原理について説明します。まず、ユリウス暦では 1年(平年)を 365日としています。実際の公転周期は 約 365.2422 日(365日5時間48分46秒)ですから、4年たつと約1日分が不足します。1日分の季節がズレるということです。0.2422×4=0.9688 (0.2421894×4=0.96875776)です。そのため、例外的な処置として4年に1度、閏日を2月の最後に挿入して補正します(2月29日)。この規則はグレゴリオ暦でも引き継がれました。閏日を挿入する年を「閏年」と言います。西暦年が4で割り切れる年に閏日を挿入します。近代では夏季オリンピックの年が、それに相当します。

ユリウス暦を改良した「グレゴリオ暦」では、閏日(2月29日)の例外的な挿入(ユリウス暦)に対して、さらに「例外規定」を定めました。閏年は 400年について 100回分あることになりますが、このうち3回だけ閏日の挿入を省略したのです。

この原理を説明します。ユリウス暦は4年に1回だけ閏日を挿入するように定めましたが、実際は「3年に1度」と間違っていたり、途中で補正があったり、そう単純ではないようです。でも、これだと問題は複雑になりすぎるので、「厳密に守られていた」として計算してみます。

(1)閏日を挿入せず 1年を365日と固定した場合の、400年間の日数
365×400 = 146,000 日

(2)実際の1年を 365.2422 日(公転周期)とした場合の、400年の日数
365.2422×400 = 146,096.88 日

(1)−(2) = -96.88 日(約 - 97日)〜 実際よりも約97日足りません。そこで、ユリウス暦では4年に1度、閏日を挿入しました。400年あたり「100日分」を増やした訳です。でも、少し(約3日)増えすぎてしまいました。

(3)4年に1度、閏日を挿入した場合の、400年の日数
365×400 + 100 = 146,100 日

(3)−(2) = + 3.12 日(約 +3日) 〜 実際よりも約3日多くなってしまったということです。

ユリウス暦では「4年あたり1回の閏日」を機械的に挿入しました。当時として、かなり正確な補正でしたが、「(3)−(2)」で示すように400年あたり約3日分が「多すぎて」しまいます。そこでグレゴリオ暦では、このような不都合を修正したのです。「400年あたり100日分の閏日を挿入」というのがユリウス暦の定義でしたが、ここから3日を除けば、実際の地球の公転周期に、さらに近くなります。400年あたりで「100で割り切れる年」は4回、「400で割り切れる年」は1回あります。従って、100で割り切れる年を「例外の例外として省く」、さらに 400で割り切れる年を「例外の例外の例外として省かない」とすれば良いことになります。

法則を単純化してみます。1年は原則として365日です。

[1] 例外として4年に1度、西暦年が4で割り切れる年に閏日(2月29日)を入れます。これはユリウス暦からある例外処置です。この結果、400年について3日多くなります。
[2] この「例外[1]」の例外として100年に1度、西暦年が 100で割り切れる年は閏日を挿入しないことにします。これで400年あたり4日分が減ります。[1]で増えた3日と合わせると、1日分が足りなくなります。すなわち、400年あたりに1日が足りないという事です。
[3] この「例外の例外[2]」の、さらに例外として400年に1度、西暦年が 400で割り切れる年には閏日を挿入します。これで差し引きゼロとなります。

このグレゴリオ暦の補正も厳密に言うと完璧ではないのですが、誤差は2000〜3000年で1日です。

たとえば西暦1900年は4で割り切れるので、「例外[1]」として閏日を入れたいところですが、100で割り切れるので「例外の例外[2]」として閏日は挿入されません。また西暦2000年は100で割り切れる場合の「例外の例外[2]」として閏日を外したいところですが、さらに400でも割り切れる場合の「例外の例外の例外[3]」として閏日が挿入されました。

西暦1900年と西暦2000年は、グレゴリオ暦にとって特殊な年でした。マイクロソフト社のエクセル(表計算)には混乱の跡があります。エクセルには、知る人ぞ知る「1900年閏日問題」があります。Windows版では、「1900年1月1日」が「1」から始まるように、日付をシリアル値(連続値)として計算する仕組みになっています。最大値は9999年12月31日の「2958465」です。日付がシリアル値に換算されているおかげで日付の演算が可能です。Windows版のエクセルでは、西暦1900年の閏日(2月29日)の処理が間違っています。マイクロソフト社は、他社のアプリケーションと互換性を保つためとして修正していません。これまでの集計結果が変わってしまっても困るので、ある意味では仕方がありません。ここで直感的な理解のために閏日(2月29日)と、その前後をピックアップしてシリアル値を書き出します。

日付     → シリアル値
1900/01/01 →  1    ← シリアル値はここから始まる
1900/02/28 → 59
1900/02/29 → 60    ← 閏日が「例外の例外[2]」として存在しないはずなのに、ある!!
1900/03/01 → 61
1901/02/29 → 存在しない
1902/02/29 → 存在しない
1903/02/29 → 存在しない
1904/02/29 → 1521 ← 閏日が「例外[1]」として存在する
1905/02/29 → 存在しない
1999/02/29 → 存在しない
2000/02/29 → 36585 ←閏日が「例外の例外の例外[3]」として存在する
2001/02/29 → 存在しない
2002/02/29 → 存在しない
2003/02/29 → 存在しない
2004/02/29 → 38046 ← 閏日が「例外[1]」として存在する
2100/02/29 → 存在しない ← 閏日が「例外の例外[2]」として存在しない
2400/02/29 → 182682 ← 閏日が「例外の例外の例外[3]」として存在する

西暦を4で割って「割り切れない年」には「閏日」が入りません。4で割り切れる年には「例外[1]」として「閏日」が入ります。西暦1900年は4で割り切れるので、本来なら「閏日」を入れたいところです。しかしながら100で割り切れるので「例外の例外[2]」として閏日を入れません。ところが、エクセルでは入っています。これは間違いです。西暦2000年は100で割り切れるので、本来なら「例外の例外[2]」として「閏日」は入れたくないところですが、400でも割り切れます。従って、「例外の例外の例外[3]」として「閏日」を入れるのです。

マイクロソフト社エクセルには、Windows版とMacintosh版があります。同じ関数でも返すシリアル値が異なっているそうです。Windows版では「1900年から始まる日付システム」を用い、Macintoshでは「1904年から始まる日付システム」を用いていることによるのでしょう。アップル社のmacOS自体が1904年1月1日をシリアル値の起算日としているようなので、この問題(1900年問題)を回避するためかもしれません。Windows版でも、バージョン2.0以降では「1904年から計算する」というチェックボックスが用意されているそうです。これをチェックした場合は、1900年〜1903年の日付計算が無効となるようです。ですからマイクロソフト社は、Windows版での1900年2月29日の問題について、一応は対応していることになります。

ちなみに、エクセル(Windows版)は1900年 1月1日以前は連続した日付データとして扱ってくれません。そのため「Datevalue ("yyyy/mm/dd")関数」ではエラーになります。残念なことに明治時代の日数計算には利用できません。しかしながら裏技を考えました。閏年の「例外の例外」および「例外の例外の例外」を考慮すると、4000年分下駄を履かせるのが良いかと思われます。たとえば織田信長が自害した1582年7月1日(グレゴリオ暦換算)に4000年を加えることで5582年7月1日とするのです。こうすることで、他の日との差の計算が可能です。

別の関数である「Date (yyyy,mm,dd)関数」によると、「0000年 1月1日から1899年12月31日」は、そっくり「1900年 1月1日から3799年12月31日」と同じ数値になります。しかも、その翌日である3800年1月1日からは、シリアル値が1から再スタートするという、連続性がない奇妙な関数です。従って3799年12月31日から3800年1月1日をまたぐ日付の計算には用いることが出来ません。おそらくこの関数は、個別の年・月・日のデータから「日付のシリアル値」を求めるためにあるのだと思われます。この関数を用いると、前記のように4000年の下駄をはかせることで、西暦1900年以前の計算が連続的に可能です。紀元前2100年1月1日から西暦5999年12月31日までが連続したシリアル値として利用できます。紀元前4000年から紀元前2101年12月31日のシリアル値も存在するのですが、この期間は前記の理屈で紀元前2100年1月1日でリセットされ、また「1」から始まるので使えません。


(2)太陰暦

「太陰暦」は月の満ち欠けで暦を決めるものです。新月を「朔」、満月を「望」と呼び、「朔〜朔」または「望〜望」の一巡を「一朔望月」と言います。これが月の外観(満ち欠け)の 1サイクルであり 29.530589 日です。これを単純に12倍すると、太陰暦の暦上の1年は 354.367068 日となります。大の月(30日)6回と小の月(29日)6回を組み合わせて 1年(354日)としました。単純に「大小大小大小大小大小大小」と並べると実際の月の満ち欠けに合わなくなるため、月を観察することで補正したと思われます。これを1月〜12月〜1月〜12月・・・と繰り返していくと公転周期とずれていくので、季節がずれていきます。例えば日本でこれを採用したら、8月が真冬になったりします。月の形を何より重視し、季節の変化に拘らない暦といえます。イスラム圏は日常生活には太陽暦を用いるようですが、公式には「太陰暦」である「ヒジュラ暦」を使うそうです。

ヒジュラ暦では1年あたりに 354.367068−354=0.367068日の誤差が生じます。このため約3年に1回、閏日を挿入して1年を355日にしています。ヒジュラ暦における閏年です。より正確に言うと0.367068×30=11.01204 ですから、30年に11回の閏日挿入です。これは太陰太陽暦における季節の調整という意味合いではなく、昼と夜の調整と言えます。中東は季節の変化が少ないため、次に示す太陰太陽暦のように季節の調整は必要なかったのでしょう。季節と暦の対応は約33年経ったら元に戻ります。


(3)太陰太陽暦

「月の満ち欠け」で計算した12ヶ月(354.367068 日)と実際の1年(365.2422 日)を比べると分かるように「太陰暦」のままでは約2.7年間で、約1か月分(約29.4日)の差が生じます。これは季節が暦と少しずつずれて行くことを意味します。そこで「太陰暦」に補正を加えて「太陰太陽暦」として運用されました。

「太陰太陽暦」では、この補正のために 2〜3 年に1度だけ「閏月」を挿入して1年を13ヶ月としました。より正確には19年に7回(19年/7回≒2.7年/1回)です。19年に7回の閏月を挿入するというのは、メトン周期の原理によっています。すなわち太陽暦の19年は、月の満ち欠け(塑望月)の235回に相当するというものです。235回とは、太陰暦では19年と7ヶ月です。そこで、この余分な7ヶ月を、19年のどこかに挿入することで、辻褄を合わせるのです。閏月は、二十四節気を調整するような場所に挿入されました。

「暦のはなし」<18>によると、二十四節気の設定方法には「平気法」と「定気法」の2つがあります。寛政暦までは平気法が用いられ、その後の天保暦と現在(計算のためのみ)は定気法が用いられます。ごく大雑把に言うと、平気法は「地球が太陽を中心として正円軌道で公転する」と仮定することによります。定気法は、地球が太陽の周囲を楕円軌道で公転していることによっています。ケプラーの第2法則に従って、地球は近日点では速く移動し、遠日点では遅く移動します<17>。季節の変化は太陽との距離で決まるのではなく、公転軌道のどこに存在するかで決まります。近日点では季節の変化が速く、日本では冬の変化が速いのです。秋分から春分までは178日20時間、春分から秋分までは186日10時間です。

閏月をどこに挿入するかを決めるのは置閏法によります。平気法で定めた二十四節気の場合は単純です。二十四節気には節気と中気がありますが、中気を正月(1月)から順に並べると、2〜3年に1度だけ「中気の存在しない月」が生じてしまいます。この部分に閏月を挿入し、閏月以外の全てに中気が存在するようにするのです。

天保暦での二十四節気は定気法で決められていました。定気法での置閏法はあまりスマートとは言えません。まず春分を含む月を2月、夏至を含む月を5月、秋分を含む月を8月、冬至を含む月を11月と決めます。中気が含まない月が複数あっても、そのうちどこか1ヶ所に閏月を挿入するというものです。

この二十四節気は、昼と夜の長さが等しい春分と秋分・ 昼が最も長い夏至・ 昼が最も短い冬至で4分割されていました。さらに、それぞれの間が6等分されており、地球の公転の際の位置を反映します。従って季節の変化を反映するものです。農耕民族にとっては、こちらの方が重要です。それなら初めから太陽暦を使えば良さそうなものですが、当時は太陽暦のノウハウが伝わって無かったのでしょう。まずは直感的に分かり易い月の満ち欠けを利用するのが簡便で合理的です。

明治5年(1872年)12月2日までは「太陰太陽暦」が用いられました。太陰太陽暦にはいくつか種類があって、最後の太陰太陽暦は天保暦(正式には天保壬寅元暦)です。これは江戸時代の天保15年(=弘化元年)から明治5年12月2日までの29年間用いられました。その翌日からは「グレゴリオ暦(太陽暦)」です。

旧暦(天保暦)のままだと明治5年の大晦日は12月30日(大の月)のはずでした。明治5年12月3日から明治5年12月30日までの28日間(4週間)は存在せず、明治5年12月3日に相当する日が、新暦の明治6年 1月1日としてリセットされました。

単純な計算で「新暦→旧暦」の計算が出来る訳ではなく、当時は「旧暦と新暦の対照表」がありました。「暦のはなし」<18>によると、その中で最も使われていたのは明治13年(1880年) 12月に内務省地理局が作った「三正綜覧」<16>です。セキさん(多喜二の母)は、ちょうど改暦があった年(明治6年)に生まれており、誕生日は明治6年8月22日(新暦)です。旧暦に換算すると明治6年「閏6月」30日ということになります。もし改暦が行われなければ、本来の明治6年は(旧暦の)閏年であり、1年が 13ヶ月あるはずでした。「閏6月」というのは、6月と7月の間に挿入された「別の6月」のことです。旧暦だと、この年は1年が13ヶ月あるはずでした。

 

三正綜覧<16>は長暦です。長暦とは、ある暦法に従って過去に長く遡った暦のことで、言わば「暦の対照表」です。三正綜覧では日本暦(旧暦とグレゴリオ暦)・中国暦・イスラム暦・西暦が記載されています。西暦については、グレゴリオ暦より前のユリウス暦も記されています。私の手元にある初版(明治13年版)では、ちょうど多喜二が生まれた明治36年までが載っています。上巻(乾)が孝元天皇元年(紀元前447年)から天長10年(833年)まで、下巻(坤)が承和元年(834年)から明治36年(1903年)まです。このうち元治元年(1864年)から明治36年(1903年)までの部分を示します。















日本の旧暦は天保暦(正式には天保壬寅元暦)で、清の旧暦は「時憲暦」です。いずれも太陰太陽暦であり、2〜3年に1度の閏月により季節を調節します。清では1645年から1911年まで時憲暦が用いられました。これには初めて定気法が採用されました。日本の旧暦(天保壬寅元暦)は天保15年元旦(1844年2月18日)から採用されました。この天保暦にも定気法が用いられており、もともと中国の時憲暦が下地になっているのでしょう。この2つは同じものと考えて良いようです。 回暦と書かれているのはイスラム圏の「ヒジュラ暦」です。このヒジュラ暦は「純粋太陰暦」です。閏月を挿入しません。そのため暦の示す月日は、少しづつ季節とずれていきます。月(moon)を何よりも重要と考えているのでしょう。

三正綜覧において、日本の改暦以降の日付を清の時憲暦に置き換えれば、「新暦→旧暦」の変換が出来ることになります。逆から見ると「旧暦→新暦」の変換も出来ます。すべてチェックする訳にもいかないので、まず解析の手始めとして「明治36年」を調べてみました。明治36年は多喜二の誕生年です。インターネット(Web)の「新暦←→旧暦」変換と照らし合わせてみました<15>。明治36年(新暦)の 1月1日〜12月31日は、清では光緒28年12月3日〜光緒29年11月13日に相当します。

Webで換算すると、旧暦の明治36年8月は「大の月」、旧暦の明治36年9月は「小の月」です。三正綜覧にある時憲暦では、旧暦の明治36年8月は「小の月」、旧暦の明治36年9月は「大の月」です。この2つの月では逆転しています。三正綜覧は渋川春海の「日本長暦」と 中根元圭の「皇和通暦」が下地となっているそうです。三正綜覧は4つの暦を比較したものであり、非常に便利に使われたようですが、所々に誤謬もあったらしいです。現在の長暦(ある暦法に従って過去に長く遡った暦)には、コンピュータを駆使して作られた「日本暦日原典」があります。参考としたネットの暦変換は、改暦があった明治5年(1872年)以前については、この日本暦日原典を参考としているようです。明治36年の旧暦8月と旧暦9月の相当する部分について、三正綜覧と Web の結果を示します。青字は「小の月」、赤字は「大の月」を示します。


このように明治36年(旧暦)の8月と9月で、「小の月」と「大の月」が入れ替わっています。図のように旧暦8月と旧暦9月に関わる部分(ただし旧暦8月晦日以降)の日付に「1日の誤差」が生じます。そのため、それ(旧暦8月晦日以降)に対応する新暦の明治36年の10月20日から11月18日までは、「新暦←→旧暦」変換すると、「三正綜覧」と「Webの変換」の間で「1日の誤差」が生じます。多喜二の誕生日である明治36年12月1日を 2回 旧暦変換すると 12月1日→10月13日→8月23日となりました。この部分が、ちょうど影響を受けない所に収まっています。もし出発点(12月1日)もしくは中継点(10月13日)が上記の「1日ずれる期間」に収まっていたら、旧暦変換を2回した時に12月1日→10月13日→8月23日とはならなかったでしょう。そうなると多喜二の誕生日の謎は解けなかったに違いありません。この場合、私が「三正綜覧」を目にすることは無かったはずだからです。そうであれば、「小の月」と「大の月」の逆転など気付くはずがありません。

三正綜覧を入手したのが 2012年10月11日です。その日に「旧暦変換で 1日ずれる」ことがあるらしいと分かりました。同じ頃、ネットで調べている内に「天皇の命日が 1日間違っていた」という記事を見つけました。2012年9月26日の新聞で「聖武天皇の命日が 1日ずれていた」という内容が「書陵部紀要」に掲載されたというものでした。聖武天皇の命日は「天平勝宝8年5月2日」です。明治5年の改暦の際に、これを「旧暦→新暦換算」して「6月7日」ということになり、ずっとそのまま祭祀を行っていたそうです。藤尾陵墓調査官によると実際には「6月8日」が正しいようです。おそらく現在、最も信頼できる日本暦日大典による結果と思われます。一方、「天平勝宝8年5月2日」を三正綜覧で調べてみると、グレゴリオ暦の 6月7日となりました。これは従来の記録に一致します。ですから、これまでの記録が全くの出鱈目とか偶然の誤差ではないと思われます。暦が何種類かあったのでしょう。

同じ事は後嵯峨天皇の命日にも確かめられたそうです。これまで「文永9年3月25日」とされていたものが「3月24日」である事が判明したとのことで、理屈は同じと思われます。

日本経済新聞(2012年9月26日:ネット版)  記事中の藤尾陵墓調査官の話を引用します。

三正綜覧には天平勝宝八年四月が小の月(二十九日)、同年五月は大の月(三十日)とあるが、実際は逆で、聖武天皇の命日が一日ずれる。三正綜覧の基になった改暦当時の対照表に間違いがあり、そのまま引き継がれたのだろう。新暦と旧暦の換算は難解で、むしろ計算機がない時代に 二つしか誤りがないことに驚いた。

天平勝宝8年(756年)と文永9年(1272年)に生じていたことが、どうやら多喜二が生まれた明治36年にも生じているらしいのです。藤尾陵墓調査官の言っている「二つしか誤りがない」というのは、調べた範囲で重要人物に関わっていたのが2ヶ所のみだったということでしょう。単純に「大の月」と「小の月」が入れ替わるという誤謬なら2ヶ月を過ぎれば、また元通りになります。実際は明治36年のように、もっとたくさんあったのだと思われます。

三正綜覧の明治36年を例として「旧暦←→新暦」の例を示します。多喜二が生まれた明治36年(旧暦)は閏年です。5月と6月の間に「閏5月」があり1年が13ヶ月ありました。下図の中で「緑矢印」は、この時代の文字を「右から左」に読む事を示します。特に漢数字を間違うと解析時に混乱してしまいます。右から左への「赤矢印」は「日本暦(新暦)→清暦(日本の旧暦に相当)」を意味します。赤字は該当する日付です。上から・・・


明治36年01月01日(新暦)→明治35年  12月03日(旧暦) ←旧暦では「前年の12月」という事です
明治36年02月01日(新暦)→明治36年  01月04日(旧暦)
明治36年03月01日(新暦)→明治36年  02月03日(旧暦)
明治36年04月01日(新暦)→明治36年  03月04日(旧暦)
明治36年05月01日(新暦)→明治36年  04月05日(旧暦)
明治36年06月01日(新暦)→明治36年  05月06日(旧暦)
明治36年07月01日(新暦)→明治36年閏05月07日(旧暦)
明治36年08月01日(新暦)→明治36年  06月09日(旧暦)
明治36年09月01日(新暦)→明治36年  07月10日(旧暦)
明治36年10月01日(新暦)→明治36年  08月11日(旧暦)
明治36年11月01日(新暦)→明治36年  09月13日(旧暦)
明治36年12月01日(新暦)→明治36年  10月13日(旧暦) ←多喜二の誕生日

多喜二の誕生日は明治36年12月1日なので、旧暦で明治36年10月13日と分かります。次に、新暦の10月13日を旧暦に変換したい時、10月01日(新暦)が 08月11日(旧暦)に対応するので、両方に「12日」を加えてみます。すると、10月13日(新暦)が 08月23日(旧暦)に対応する事が分かります。


逆に、旧暦から新暦に変換してみます。左から右への「青矢印」は「清暦(日本の旧暦に相当)→日本暦(新暦)」を意味します。青字は該当する日付です。上から・・・

光緒29年(=明治36年)  01月01日(旧暦)→明治36年01月29日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  02月01日(旧暦)→明治36年02月27日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  03月01日(旧暦)→明治36年03月29日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  04月01日(旧暦)→明治36年04月27日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  05月01日(旧暦)→明治36年05月27日(新暦)
光緒29年(=明治36年)閏05月01日(旧暦)→明治36年06月25日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  06月01日(旧暦)→明治36年07月24日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  07月01日(旧暦)→明治36年08月23日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  08月01日(旧暦)→明治36年09月21日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  09月01日(旧暦)→明治36年10月20日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  10月01日(旧暦)→明治36年11月19日(新暦)
光緒29年(=明治36年)  11月01日(旧暦)→明治36年12月19日(新暦)

赤丸の囲みについて:旧暦正月(1月)は「小の月」を意味します。初日(1月1日)の干支は「丁巳」です。漢数字と同じく、これも「右から左」に読む(緑矢印)ことに注意です。これは「日の干支」であり、明治36年(癸卯)の「年の干支」とは異なります。6月は大の月、初日(6月1日)の干支は「癸丑」。7月は小の月、初日(7月1日)の干支は「癸未」。8月は小の月、初日(8月1日)の干支は「壬子」。9月は大の月、初日(9月1日)の干支は「辛巳」。10月は大の月、初日(10月1日)の干支は「辛亥」。11月は小の月、初日(11月1日)の干支は「辛巳」。

この図の中で、明治36年元旦(1月1日)は、光緒28年12月3日に相当します。光緒29年の所に書いてありますが二重線より上は、まだ年越しをしていません。従って、明治36年を旧暦変換する際、1月(新暦)は、「まだ明治35年(旧暦)」という事になります。このように、年の始め(新暦)を旧暦変換する時、1年前にしなければなりません。過去帳では、改暦後もある時期まで鬼籍に入った日が旧暦変換されて書かれています。この際、三正綜覧の様な形式の暦対照表を用いた場合は、1年前とすべき部分をしなかったり、1年前とすべきでない部分をしていたり・・・というような間違いをおかす可能性があります。このように誤記されると、過去帳の記載を「旧暦→新暦変換」しても戸籍の内容とは一致しません。何が本当なのか分からなくなることがあります。


(4) 旧暦(天保暦)から新暦(グレゴリオ暦)への変更

日本が旧暦(天保暦)を続けていては、世界と調整していくのが大変です。明治の開国にあわせて、慌ただしく改暦になったのはこのためでしょう。また、旧暦(天保暦)のままだと明治6年には閏月(閏6月)があります。「暦のはなし」<18>によると明治4年(1871年)に、役人の給料が月給制に変更されました。本来なら13ヶ月分の給料を払わなければなりません。閏月は明治元年と明治3年にもありましたが、その時はまだ年俸制でした。新政府の財政は逼迫しており、改暦により役人の給料の 1ヶ月分が節約されることは重要なことでした。おまけに旧暦(天保暦)の明治5年12月は2日間しかないので給料は払われなかったそうで、さらに 1ヶ月分が節約された事になります。改暦の布告は明治5年(1872年)11月9日(旧暦)になって突然に発布されました。すでに10月から翌年(明治6年)の暦の発売が始まっており、新しい暦が慌てて作り直されるなど、当時の社会は新旧が入り混じって大混乱となったようです。

旧暦(天保暦)には「12月31日」は存在しません。旧暦では「大の月」は30日まで、「小の月」は29日までと決まっていました。また「大の月」と「小の月」は固定ではありません。今だと異様に感じますが、2月も「29日」とか「30日」がありました。改暦がなければ明治5年の12月は「大の月」であり、大晦日は12月30日のはずでした。改暦にあたって明治5年(旧暦)の 12月3日から 12月30日という4週間分(28日分)が消失しました。だからと言って「新暦→旧暦」換算にあたって、この28日分を引き算すればいいかというと、そう単純ではありません。

旧暦と新暦では 1ヶ月の長さ(日数)が異なるため、毎月少しずつずれていきます。また旧暦(太陰太陽暦)では 2〜3年(約 2.7年)に1度「閏月」が挿入されるため、1年が13ヶ月になります。旧暦では通常の1年(平年)は 354日前後ですが、閏月を含む年(旧暦の閏年)では1年が 384日前後にもなります。

左列は旧暦、右列は新暦を示します。赤枠・黒字は、現実に存在する日です。すなわち、左列・明治5年12月2日(旧暦)の次の日は、右列・明治6年 1月1日(新暦)です。緑字の部分は存在せず、「旧暦←→新暦」変換でのみ生じます。ピンクの背景は「大の月」、黄色の背景は「小の月」を意味します。明治5年12月(旧暦)は「大の月」であり、大晦日は12月30日のはずでした。

西暦のユリウス暦からグレゴリオ暦に変わる時、1582年10月5日〜10月14日の10日間を削除したと同じように、日付の上で、(旧暦の)明治5年(1872年) 12月3日から 12月30日(4週間分)が削除されたようなものです。4週間なので、曜日は連続性があります。また、新暦で「大の月」と「小の月」の日数や順番が固定されました。旧暦の明治6年には「閏6月」があるはずでした。この「閏6月」は「大の月」であり、晦日は30日です。

このように明治5年(1872年)12月(旧暦)の3日目から明治6年(新暦:グレゴリオ暦)に切り替わりました。セキさん(多喜二の母)はこの年、すなわち改暦後の明治6年(1873年) 8月22日(新暦)に生まれました。これは旧暦に換算すると明治6年「閏6月」30日(旧暦)ということになります。末松さん(多喜二の父)は戸籍謄本によると慶応元年(1865年) 9月9日生まれです。改暦前の誕生日は、わざわざ新暦に変換しないでしょうから、これは旧暦でしょう。

旧暦は天保暦(天保壬寅元暦)です。本来は元号表記が正しく、旧暦を西暦のように4桁表示するのは正しくありません。しかしながら西暦には連続性があり、引き算するとその間の年数が直感的に理解できる利点があります。そのため特に気にせず西暦表記も用いる場合がありますが、注意が必要です。

日本で用いられてきた太陰太陽暦には以下のものがあります(ウィキペディアによる)
(括弧の中)は新暦換算、ただし西暦表記は1582年10月04日までが ユリウス暦 で、1582年10月15日以降は グレゴリオ暦 です。

[1] 元嘉暦:略
[2] 儀鳳暦:略
[3] 大衍暦:略
[4] 五紀暦:略
[5] 宣明暦(長慶宣明暦):約823年
貞観4年 1月1日(862年2月3日)〜貞享元年12月30日(1685年2月3日)
[6] 貞享暦:約70年間
貞享2年 1月1日(1685年2月4日)〜宝暦4年12月30日(1755年2月10日)
[7] 宝暦暦(宝暦甲戌元暦):約43年間
宝暦5年 1月1日(1755年2月11日)〜寛政9年12月30日(1798年2月15日)
[8] 寛政暦:約46年間
寛政10年 1月1日(1798年2月16日)〜天保14年12月29日(1844年2月17日)
[9] 天保暦(天保壬寅元暦):約29年間
天保15年 1月1日(1844年2月18日)〜明治5年12月2日(1872年12月31日)

(備考) 天保15年は12月2日に改元されて、弘化元年となります。
(備考) 冲方丁の小説「天地明察」は、貞享暦の物語です。これを原作とした映画が 2012年9月に封切られました。貞享暦を作った渋川春海の他に、和算の関孝和や囲碁の本因坊道策が登場します。


(5) 新暦と旧暦の「ズレ(差)」について

明治33年から明治39年までを調べる限り、旧暦の1年(平年)は 354日または 355日ですが、閏年では閏月(29日または30日)が挿入された分だけ、1年の日数が多くなります。旧暦では「大の月」は30日、「小の月」は29日でした。旧暦では 2月30日が存在しますし、12月29日が大晦日のこともありました。旧暦の閏年は 2〜3年(平均 2.7年)に1度なので、けっこう頻回です。新暦と違って固定されている訳ではなく、専門の役人がこれを決めていました。「大の月」と「小の月」の順番も固定されていません。改暦以前(明治5年まで)、庶民は年末になって翌年の暦が発表されるまで、翌年の予定がたてられなかったようです。暦は単に日付の確認というだけではなく、吉凶にも関連します。行事予定や建築の際の方位決定・運勢など、実生活で重要な役目を果していました。

明治33年から明治39年までについて、各月の日数を示します。

  明治33 明治34 明治35 明治36 明治37 明治38 明治39
1月 29 29 30 29 30 30 29
2月 30 30 29 30 30 30 30
3月 29 29 30 29 29 30 30
4月 29 29 29 30 30 29 29
閏4月 - - - - - - 30
5月 30 30 29 29 29 30 29
閏5月 - - - 29 - - -
6月 29 29 30 30 29 29 30
7月 30 30 29 29 30 29 29
8月 30 29 30 30 29 30 30
閏8月 29 - - - - - -
9月 30 30 29 29 30 29 29
10月 30 30 30 30 29 30 30
11月 29 30 30 30 30 29 29
12月 30 29 30 29 29 30 30
合計日数 384 354 355 383 354 355 384

明治5年(1872年)12月の改暦により28日分が失われた事で、まず新暦と旧暦には4週間という「暦上のズレ(差)」が生じました。このズレ(差)は (1) 旧暦と新暦では 1ヶ月の日数が異なることにより少しずつ変化していきます。この他に (2) 旧暦で2〜3年(約 2.7年)毎に挿入される閏月のため、別の「ズレ(差)」があります。2つの理由による暦上の「ズレ(差)」は次の図のように周期的に変化します。すなわち、旧暦の閏月が挿入される直前で最小(約1ヶ月)となり、閏月の挿入の直後で最大(約1ヶ月半)となるのです。

(注)
次の図において、1900年は新暦として閏年に当たる年ですが、閏年の例外規定(1900は100で割り切れる)のため、2月29日は挿入されません。従って、西暦1900年は閏年(新暦)ではありません。図の中には「閏年例外」と記しています。この図では、左が新暦・右が旧暦です。





改暦により明治5年12月3日に相当する日が明治6年 1月1日(新暦)になりました。明治5年12月は旧暦の「大の月」であり晦日は30日。改暦により明治5年の 12月3日から 12月30日までの28日が失われたことになります。ちょうど4週間なのは、曜日を狂わせないためです。これにより、まず旧暦と新暦では「暦上のズレ(差)」が28日生じました。このズレ(差)は少しずつ変化していきます。旧暦の「大の月」は30日、「小の月」は29日です。新暦では「大の月」は31日、「小の月」は30日(ただし2月は例外)。この1ヶ月の長さ(日数)の違いが、ズレ(差)の原因の1つ目です。

新暦(グレゴリオ暦)の1年は 365日です(4年に1度だけ 366日)。一方の旧暦(天保暦)では何月が「大の月」なのか「小の月」なのかは固定されていなかったので、年にもよりますが 1年(平年)は 354日前後です。この時点で、新暦と旧暦では 1年あたり 365-354=11日(新暦の閏年なら 366-354 = 12日)ズレることが分かります。このズレの蓄積は、前記のように旧暦と新暦で 1ヶ月の長さが異なることによります。

旧暦の太陰太陽暦では「閏月」があります。月の満ち欠けを 太陽に合わせて調節するために、2〜3年(平均すると 2.7年)に1度だけ 1年が12ヶ月ではなく「13ヶ月」になります。追加・挿入される月を「閏月」と言います。閏月は、けっこう頻回ありました。この閏月が「大の月」なら 30日、「小の月」なら 29日分だけ 1年が長くなります。この「閏月のある年」が「旧暦の閏年」です。

「新暦(グレゴリオ暦)の閏年」は、閏日(2月29日)が1日長いだけなので 1年=366日です。「旧暦(天保暦)の閏年」では閏月の分だけ 1年が 30日または 29日分も長くなります。もともとの「旧暦の平年」は 1年=354日前後であり新暦より短いのですが、閏年では閏月分が加わるので1年=384日(または383日)にもなってしまい、新暦(365日または366日)より長くなります。旧暦の方式(太陰太陽暦)では、この閏月の挿入によって季節を調節していました。

この2つの理由により、新暦と旧暦で「暦上の日付の差(ズレ)」は周期的に変わっていきます。「旧暦の平年」が続いている間は毎年 約11日縮まっていきますが、閏年があると一気に延びるのです。端数を外して大雑把に言うと、1年あたり10日ずつ縮んでいきます。閏月があると30日延びるので、10日縮んだ分と合わせると20日延びます。

前掲の表に沿って12月1日(新暦)に絞って説明します。旧暦の明治33年は閏年であり「閏8月」が挿入されます。従って明治33年の12月1日(新暦)と、それに対応する10月10日(旧暦)は差(ズレ)が大きくて51日あります。明治34年では12月1日(新暦)と、それに対応する10月21日(旧暦)の差(ズレ)は40日であり、前年より11日短くなります。明治35年では12月1日(新暦)と、それに対応する11月2日(旧暦)の差(ズレ)は29日であり、前年より11日短くなります。ではこのまま差(ズレ)がどんどん縮まっていくかと言うと、そうはなりません。次に示すように「閏月」の存在があるからです。

多喜二が生まれた明治36年は旧暦の閏年であり「閏5月」が挿入されます。従って12月1日(新暦)と、それに対応する10月13日(旧暦)の差(ズレ)は48日になります。前年(明治35年)よりも19日伸びるのです。多喜二の実際の誕生日(明治36年12月1日)において、新暦と旧暦換算(明治36年10月13日)の暦上の差(ズレ)が大きいのはこのためです。

明治37年では12月1日(新暦)と、それに対応する10月24日(旧暦)の差(ズレ)は37日です。前年より11日短くなります。明治38年では12月1日(新暦)と、それに対応する11月5日(旧暦)の差(ズレ)は26日であり、前年より11日短くなります。

明治39年は旧暦の閏年です。この年は「閏4月」が挿入されます。従って12月1日(新暦)と、それに対応する10月16日(旧暦)の差(ズレ)は45日であり、前年よりも19日伸びてしまう・・・この繰り返しです。

このように新暦と、それに対応する旧暦との間の「暦上の差(ズレ)」は、少しずつ縮んでは 2〜3年毎に1度の閏月を越えると、また延びる・・・を繰り返します。この他に、新暦では4年に1度、閏日が挿入されるので、ここでも少しずれます。新暦の2月は28日(平年)と29日(閏年)の2通りですが、旧暦の2月は29日(小の月)と30日(大の月)の2通りです。また西暦1900年(明治33年:新暦)は、例外的に閏日(2月29日)が挿入されません。そう単純な話ではありません。


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