知られざる小林多喜二の周辺

 
 006 ( 2018/12/15 : ver 01 、 2024/01/28 : ver 04 )
多喜二の誕生日の謎



これまで小林多喜二の誕生日は明治36年(1903)10月13日というのが定説でした。多喜二研究の第一人者である手塚英孝氏の「小林多喜二」<1>に書かれていますから、ほとんどの書籍はこれを引用しています。実際のところ、多喜二を生んだセキさんが言ってますし、多喜二自身もそう書いていますから、そうなるのは当然の事です。この稿は、その事実と戸籍の表記が何故に異なっているのかという謎を解き明かそうとするものです。

発端となっている二つの事実を示します。別稿でも触れた「母の語る小林多喜二」<3>の24ページに、「(多喜二の誕生日は)明治三十六年旧暦の八月二十三日です。当時私達の国では未だ旧暦を使って居りました。戸籍には十二月一日となっているのですが、何彼の都合で遅く付けたのでしょう・・・」とあります。ふたつ目ですが、多喜二は昭和6年(1931)1月22日に豊多摩刑務所から保釈出獄したすぐ後(1月25日)に「年譜」という文章を書きました。これは、その年の現代日本文学全集(改造社版)の「プロレタリヤ文学集」のうち小林多喜二篇の巻末ために書かれたものです。この中で「母は旧暦の八月二十三日だと云っているが、村役場の帳面には十二月一日となっている。ゴーゴリーの主人公になりそうな、この上もなくのんびりした村長さんでもいたらしい。」とあります。旧暦の明治36年8月23日は、新暦では10月13日に相当します。多喜二の「年譜」の記述は「新暦の10月13日に生まれたが,戸籍への登録が遅れたため 12月1日になってしまった」と解釈できます。これはセキさんの口述に一致します。

 

 


多喜二研究書には「戸籍には十二月一日届出」と但し書きが付いているものがあります。手塚英孝氏の実質的に最初の多喜二本である「小林多喜二」<8>もそうです。多喜二に関する正式な書類では12月1日に統一されています。ふたつだけ示します。多喜二が通った小樽高等商業学校は,現在の小樽商科大学の前身です。小樽商科大学附属図書館には資料展示室があります。ここに、卒業を控えて大正13年(1924)に書かれた「卒業生徒銓衡表」が展示されています。生年月日の欄には「明治36年12月1日」と記載されています。



ふたつ目ですが、昭和4年(1929) 1月5日の読売新聞の「新人紹介」として,多喜二の経歴が掲載されました。元資料は確認していませんが、これは「小林多喜二全集」の第5巻<13>に収録されています。そこには「一九〇三年旧暦八月二十三日、秋田県北秋田郡下川沿村字川口に百姓の子として生まれた.戸籍には十二月一日生となっている.封建的な農村に露骨な資本主義の波濤が押し寄せて来た頃だ」と書かれています。これは多喜二自身が新聞社へ提出した経歴と考えても差し支えないでしょう。

このように、戸籍上は12月1日と思いながら、実の母(セキさん)が言っていることなので、誰も訂正することはできなかったと考えられます。おそらく誰もが「何か変だな〜」と思いながら、これまで未解決だったことです。この稿の主題ではありませんが、私は「多喜二は自分の戸籍を見ていなかったはずだ!」と考えています。戸籍には「12月1日に生まれて、5日に届け出があった」ことが明確に書かれているからです。戸籍を見ていれば、「年譜」に書いたような表現はしないでしょう。この他に実は、多喜二が自分の戸籍を見たとすると、ある重大なことに気付くはずなのです。このことは、別稿(No.022)に書きました。

昭和4年(1929)の「文章倶楽部1月号」に「自分の中の会話」という文章が掲載されました。この中には多喜二の誕生日について触れていませんが、校正前の段階では書かれています。まず出典の説明が必要です。平成23年(2011)に「小林多喜二 草稿ノート・直筆原稿」というDVD<14>が発売されました。日本共産党が所蔵している多喜二関連の草稿ノート等を収めてあるものです。さっそく私は入手しました。そして「蟹工船」の草稿ノートの最後のページに、「自分の中の会話」の校正中の文章が書かれていることを見つけました。ここには「戸籍上の誕生日は明治36年12月1日である」という事や「両親は新暦を知らなかった」という事が書かれています。「旧暦として八月廿(二十)日」という記載もあります。正確には「廿 [空白] 日」と,1文字分の空白があります。書いた時点で「23日」と正確には思い出せなかったのかもしれません。この部分は文章倶楽部に発表された最終稿では削除されています。

















 

セキさんは改暦があった明治6年(1873)の生まれです。夫の末松さんはそれ以前(慶応元年(1865)9月9日)ですし、ふたりとも旧暦世代です。何事も旧暦に換算して日常を送っていたはずであり、多喜二が「両親は新暦を知らなかった」と書くのは、そのことを示すと考えられます。

私の手元にある除籍謄本について説明します。多喜二は父(末松)の兄である慶義さんに学費を援助してもらいました。末松一家は、家長である慶義さんの勧めで秋田から小樽に移住してきました。「小林慶義を戸主とする戸籍」は明治28年(1895) 1月16日に編製されました。この頃の慶義さんは小樽に住んでいましたが、本籍地は秋田のままです。これは明治19年式で書かれており、現実に生活を共にする戸主と家族(直系および傍系の親族)が登録されています。明治31年になって「家制度」として正式な制度となったようですが、慶義さんを戸主(家長)とする戸籍の中に末松さんの家族も含まれているのです。昭和8年(1933年)12月4日に除籍簿に入りました。戸籍の全員がいなくなったからです。内容として除籍謄本と戸籍謄本は同じものです。この謄本がなぜ私の実家にあったのかは不明ですが、複写(手書き)発行されたのは昭和26年(1951)12月22日。これを証明したのは川口村の村長だった小林市司さん。昭和8年(1933)には東京に住んでいて、セキさんと一緒に多喜二の遺体を家まで連れて行った人物です。この除籍謄本によると多喜二の誕生日は明治36年12月1日です。12月5日に出生届が出され,その日の内に受理されています。

自らの生涯を多喜二研究に捧げたとも言える手塚英孝氏は、昭和56年(1981)12月1日に亡くなりました。多喜二の誕生日にあたります。ちなみに、多喜二が亡くなったのは2月20日。この日は志賀直哉の誕生日にあたります。

除籍謄本から多喜二の部分を抜き出します。

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明治参拾六年拾弐月五日出生届出同日受附戸籍吏代理<空白>
昭和八年弐月弐拾日午后七時四拾五分東京市京橋区築地壱丁目
弐拾四番地ニ於テ死亡同居者小林三吾届出仝月弐拾参日杉並区長真(?)
井鍾(?)太郎受附仝月弐拾六日送付<空白>
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甥(慶義の甥)
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弟(慶義の弟)末松二男
多喜二
明治参拾六年拾弐月壱日生
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さて、ここからが謎解きです。多喜二の誕生日である「明治36年12月1日(新暦)」は,旧暦に換算すると何年何月何日に相当するでしょうか? インターネット上で,この換算を行ってくれるホームページがあります<15>。これによると新暦の明治36年12月1日は、旧暦で明治36年10月13日ということになりました。どうやら定説となっている誕生日(明治36年10月13日)は,旧暦に換算すると・・・ということなのです。でも、これはあくまで「旧暦として」です。

ここで、もし明治36年10月13日が「新暦」だったと仮定したら,それは「旧暦」では何年何月何日に相当するでしょうか? それ自体は何も意味がなく、単なる計算上のものです。しかしながら,ものは試しですから「新暦→旧暦」の換算をしてみました。そうすると明治36年8月23日ということになりました。

 

このように明治36年12月1日を 2回(!)「新暦→旧暦」変換すると、まず 10月13日となり、次に 8月23日となります。2回も旧暦変換するのは間違いなのですが、これは2人(多喜二とセキさん)の記憶とぴったり一致します。すなわち、戸籍上は12月1日ですが、旧暦では(間違いですが)8月23日となるのです。このようになるのは滅多にありません。明治6年から昭和10年までの 63年間を調べた限り,ちゃんと[ 12/1→10/13→8/23 ]となるのは明治25年と明治36年と大正11年の3回のみです。

旧暦から新暦への改暦は,明治5年12月に慌ただしく行われました。社会は混乱をきたし、日常場面でも旧暦と新暦が共存していたでしょう。例えば過去簿の死亡日は改暦後も、ある時期まで旧暦に換算されて書かれています。末松・セキさん夫婦が「新暦を理解してなかった」という事は多喜二が書いています。ある年の「新暦→旧暦」変換後の月日は、別の年と同じとは限りません。暦の変換は単純計算で求められるようなものではなく、旧暦と新暦の対照表がありました。例えば明治13年(1880) 12月に内務省地理局が作った「三正綜覧」<16>があります。

明治36年12月1日(新暦)を旧暦に換算すると10月13日になることは何度も書きましたが、日付の差が大きいことに気が付いたでしょうか? 別稿で旧暦と新暦について詳しく書きますが、多喜二が生まれた明治36年は旧暦だと閏年に相当します。ですから、1年が13ヶ月あったのです。差が大きいのはこのためです。

 


以上を踏まえて私の推測を書きます。末松さんもセキさんも、自分の誕生日を旧暦で考えていたはずです。同じように多喜二の誕生日も旧暦に換算していたはずです。多喜二の誕生日(新暦12月1日)は「旧暦10月13日相当である」と考えていたに違いありません。ですから誰かが10月13日を「新暦と勘違いしてしまった」というのが謎解きの鍵だと思います。セキさんは文字の読み書きができませんから、暦の対照表は使いこなせません。だとすると結論はひとつです。間違ってしまったのは多喜二の父の末松さんでしょう。末松さんは書物が好きな教養人です。何度も書きますが、明治36年10月13日を旧暦変換すると8月23日になります。セキさんの誕生日は8月22日(新暦)なのです。間違いとは言え、多喜二の誕生日を旧暦変換した8月23日は、セキさんの誕生日(新暦)の翌日に相当します。例えば末松さんが暦の対照表を見ていた時、そばにセキさんがいたと仮定しましょう。末松さんが何の気なしに(かどうかは別として)、頭の中にあった多喜二の誕生日(10月13日)を旧暦変換してみると、妻(セキ)の誕生日の翌日という事になった! セキさんにその事を告げると、セキさんはとても驚き、強固な記憶として残ってしまった・・・という推測です。それが凄く印象深かったため、多喜二に向かって「お前(多喜二)の誕生日を旧暦変換すると、私(セキ)の誕生日の翌日だよ・・・」とでも話したのではないでしょうか。そして、そのことが多喜二の頭の中にも強く残った。こんなストーリーです。

1931年に多喜二が「年譜」を書いた時に考えそうなのは次のごとくです。
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自分(多喜二)の誕生日は 12月1日(戸籍上)なのだけれど,母(セキ)は「それを旧暦に換算すると母の誕生日(8/22)の翌日(8月23日)だ」と言っていた。明治36年8月23日(旧暦)は 新暦に換算すると10月13日に相当する。10月13日に生まれたものが、なぜ戸籍上は12月1日なのだろうか? 役場への届出や戸籍の登録が、そんなにも遅れたという事があるのだろうか?  何か腑に落ちないけれど、まぁいいか ・・・
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実際のところは、こんな感じなのではないでしょうか。末松・セキさん一家は、細かい事には拘らないのです。

多喜二は「年譜」の中で「この上もなくのんびりとした村長さんでもいたらしい」と書いています。多喜二に限らず一般的にも「昔の役所がしたことだから・・・」と、直接的ではないにせよ役人の怠慢の責任にしています。除籍謄本から分かるのは、多喜二の誕生日は明治36年(1903年)12月1日であり、家族(おそらく父の末松さん)が12月5日に役場に出生届を提出し、その日の内に受理されたのです。役場は、ちゃんと仕事をしています。

平成24年(2012)に除籍謄本を秋田県多喜二祭の多喜二展に展示した時の秋田魁新報の記事(3/18)を示します。この日からウィキペディアは書き替わりました。

 


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