知られざる小林多喜二の周辺

 
 005 ( 2018/12/11 : ver 01、 2024/02/12 : ver 04 )
慶義・末松さんの姉たち



「小林多喜二」<1>には慶義・末松さんに2人の姉がいると書かれています。他稿で触れましたが、このことは手塚英孝氏が昭和21年にセキさん(多喜二の母)から聞いた情報に間違いありません。ところが、この2人の姉は私の手元にある除籍謄本(明治19年式)には記載されていません。これを理解するためには、まず戸籍の仕組みを知る必要があります。まず明治5年(1872)に日本初の戸籍が作られました。その後、明治19年(1886)、明治31年(1898)、大正4年(1915)、昭和23年(1948)、平成6年(1994:電算化のみ)に改製が行なわれました。

戸籍の改製時には、原則として「その時に戸籍に存在する人のみ」が新しい様式の戸籍に転記されます。その時点で、ある人が死亡している場合は新戸籍には転記されません。死亡の場合でなくても、例えば嫁に出たり養子に出たりしても転記されません。すなわち新戸籍から除かれます。従って改製後の新しい戸籍には、その人が生きている場合でも書かれないことになります。別の戸籍に入るからです。例えば資産家が亡くなり遺産分けが必要だったとします。血縁者を漏れなく探し出すためには、改正前の戸籍すなわち改製原戸籍(通称「はら戸籍」)を辿れるだけ辿る必要があります。このしくみを理解すると、慶義・末松さんの姉2人は、他家に嫁に出たために最初の明治5年式戸籍から外れたと考えられます。死亡の場合は過去簿にも書かれるはずだからです。姉2人とも結婚による除籍であるため、次の明治19年式戸籍には記載がないのでしょう。明治19年(1886年)12月17日に小林家に嫁入りしたセキさんは、その10年以内に嫁に出た2人の姉の事を聞かされた(会ったことがあるかもしれません)のに対し、21年前に亡くなった長女(秋山妙喜大姉)のことは聞いてなかった思われます。

<附記>
例外として、新しい書式の用紙を「元の戸籍」に付け足すこともあったようです。私の手元にある明治19年式の除籍謄本(戸主は小林慶義)は昭和26年に手書きで発行されたものです。これには途中から大正4年式の用紙に書かれています。





下川沿村に残されていたメモ <10>


上記の元になっているメモ (日景健氏より頂いたもの)


明治5年式戸籍(壬申戸籍)は当時の身分が記載されていたため完全封印されました。そのため血縁者と言えども開示されません。従って、これ以上は調べようがないのですが、この他に姉はもう1人います。小林家の過去簿に「慶義の姉」と書かれた行年19歳の「秋山妙喜大姉」なる戒名の女性がいるからです。この人物は嫁に出る前に亡くなったと考えられます。慶応元年(1865) 7月19日(旧暦)に亡くなっているので、明治5年式戸籍にも記載されてないでしょう。村に残っていた資料は明治5年式戸籍の作成に関連して書かれたメモと考えられ、そのためこれにも書かれていなかったと思われます。このように考えていくと、慶義・末松さんの姉は3人です。戸籍に載っていない慶義・末松さんの姉と実母(ユキ)の戒名を示します。


別稿でも触れましたが、秋田の古いメモを提示したついでに、慶義・末松さんの実母(ユキ)について書き足します。「母の語る小林多喜二」<3>には、「舅の多喜次郎(多吉郎が正しい)の妻はおつねと云って、近在の沢館村の富豪田山と云う家から嫁してきたもので、私が嫁した時はこの姑は亡く・・・」とあります。「小林多喜二」<1>では、「多吉郎の妻はオヨといい、二男二女があった」とあります。三浦綾子の「母」<12>では、「末松つぁんのお父っつぁんの多吉郎、その後妻のおツネさん・・・」とあります。「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる(大館市先人顕彰祭全記録集)」<10>では慶義・末松さんの実母は「ユキ」であることが確定しました。過去簿により旧姓が「田山」であるのは間違いありません。「沼館村 田山藤四郎より入籍」と書かれています。「母の語る小林多喜二」<3>に書かれている「沢館村」と、過去簿にある「沼館村」は、どちらかが間違いでしょう。セキさんの記憶は半分のみ(旧姓田山)が正解です。村のメモにあるユキさんの死亡日(明治7年12月21日)と過去簿の記載(明治7年11月13日)は約1ヶ月の誤差があります。新暦になっても、しばらくの間は過去簿では旧暦変換されて書かれています。村のメモにある死亡日(明治7年12月21日)を旧暦変換すると、過去簿に書かれている「明治7年11月13日」に一致します。

ツネ(旧姓齋藤)は後妻さんです。セキさんは文盲だったのでメモなど書き残せません。ものすごい記憶力です。「オヨ」という名前が何に由来するのか、それなりの理由はあるのだと考えられますが何を間違ったのかは不明です。後妻に入ったツネさんと多喜郎(セキさんの長男)の写真があるので示します。



慶義さんの妻についても記します。「小林多喜二」<1>には「山田村から浅利ツルを妻にむかえた」とあります。「小林多喜二伝」<2>にも「ツル」とあります。正しくは「浅利リツ」です。

この稿のタイトルとは直接の関係はありませんが、「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる(大館市先人顕彰祭全記録集)」<10>の中に書かれている事で、興味を覚えたことを書き留めておきます。

(1)セキさんには妹がいるようですが、詳細は定かではありません。
(2)釈迦内小学校の卒業者名簿に「木村セキ」の名前が無い事は日景健氏が確認しています。その調査を踏まえ、その当時は女子の就学は稀だったと書いてあります。
(3)セキさんは北海道に転居した後も、よく釈迦内を訪れていたようです。昭和29年(1954) 9月26日の洞爺丸台風の時も日景家に泊まっていました。その夜、産気付いた日景利夫さんの奥さんの出産に立ち会い長男を取り上げたそうです。台風の最中、産婆さんなど迎えに行くこともできなかったからのようですが、セキさんはそういう肝も据わっていたのでしょう。
(4)多喜二の生まれた川口について、手塚英孝氏や三浦綾子氏らが描写していますが、米代川の地形的位置を含めて現地の人には違和感があるようです。


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キーワード

小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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