知られざる小林多喜二の周辺
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「小林多喜二」<1>には慶義・末松さんに2人の姉がいると書かれています。他稿で触れましたが、このことは手塚英孝氏が昭和21年にセキさん(多喜二の母)から聞いた情報に間違いありません。ところが、この2人の姉は私の手元にある除籍謄本(明治19年式)には記載されていません。これを理解するためには、まず戸籍の仕組みを知る必要があります。まず明治5年(1872)に日本初の戸籍が作られました。その後、明治19年(1886)、明治31年(1898)、大正4年(1915)、昭和23年(1948)、平成6年(1994:電算化のみ)に改製が行なわれました。 戸籍の改製時には、原則として「その時に戸籍に存在する人のみ」が新しい様式の戸籍に転記されます。その時点で、ある人が死亡している場合は新戸籍には転記されません。死亡の場合でなくても、例えば嫁に出たり養子に出たりしても転記されません。すなわち新戸籍から除かれます。従って改製後の新しい戸籍には、その人が生きている場合でも書かれないことになります。別の戸籍に入るからです。例えば資産家が亡くなり遺産分けが必要だったとします。血縁者を漏れなく探し出すためには、改正前の戸籍すなわち改製原戸籍(通称「はら戸籍」)を辿れるだけ辿る必要があります。このしくみを理解すると、慶義・末松さんの姉2人は、他家に嫁に出たために最初の明治5年式戸籍から外れたと考えられます。死亡の場合は過去簿にも書かれるはずだからです。姉2人とも結婚による除籍であるため、次の明治19年式戸籍には記載がないのでしょう。明治19年(1886年)12月17日に小林家に嫁入りしたセキさんは、その10年以内に嫁に出た2人の姉の事を聞かされた(会ったことがあるかもしれません)のに対し、21年前に亡くなった長女(秋山妙喜大姉)のことは聞いてなかった思われます。
明治5年式戸籍(壬申戸籍)は当時の身分が記載されていたため完全封印されました。そのため血縁者と言えども開示されません。従って、これ以上は調べようがないのですが、この他に姉はもう1人います。小林家の過去簿に「慶義の姉」と書かれた行年19歳の「秋山妙喜大姉」なる戒名の女性がいるからです。この人物は嫁に出る前に亡くなったと考えられます。慶応元年(1865)
7月19日(旧暦)に亡くなっているので、明治5年式戸籍にも記載されてないでしょう。村に残っていた資料は明治5年式戸籍の作成に関連して書かれたメモと考えられ、そのためこれにも書かれていなかったと思われます。このように考えていくと、慶義・末松さんの姉は3人です。戸籍に載っていない慶義・末松さんの姉と実母(ユキ)の戒名を示します。 別稿でも触れましたが、秋田の古いメモを提示したついでに、慶義・末松さんの実母(ユキ)について書き足します。「母の語る小林多喜二」<3>には、「舅の多喜次郎(多吉郎が正しい)の妻はおつねと云って、近在の沢館村の富豪田山と云う家から嫁してきたもので、私が嫁した時はこの姑は亡く・・・」とあります。「小林多喜二」<1>では、「多吉郎の妻はオヨといい、二男二女があった」とあります。三浦綾子の「母」<12>では、「末松つぁんのお父っつぁんの多吉郎、その後妻のおツネさん・・・」とあります。「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる(大館市先人顕彰祭全記録集)」<10>では慶義・末松さんの実母は「ユキ」であることが確定しました。過去簿により旧姓が「田山」であるのは間違いありません。「沼館村
田山藤四郎より入籍」と書かれています。「母の語る小林多喜二」<3>に書かれている「沢館村」と、過去簿にある「沼館村」は、どちらかが間違いでしょう。セキさんの記憶は半分のみ(旧姓田山)が正解です。村のメモにあるユキさんの死亡日(明治7年12月21日)と過去簿の記載(明治7年11月13日)は約1ヶ月の誤差があります。新暦になっても、しばらくの間は過去簿では旧暦変換されて書かれています。村のメモにある死亡日(明治7年12月21日)を旧暦変換すると、過去簿に書かれている「明治7年11月13日」に一致します。
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