知られざる小林多喜二の周辺

 
 004 ( 2018/12/09 : ver 01 、2019/12/08 : ver 03 )
「慶義」と「末松」ではバランスが悪い?



多喜二の父親の名前は「末松」です。その兄は「慶義」であり多喜二の伯父。男子は2人兄弟です。親がつけた名前として慶義と末松ではバランスが良くありません。「大館市先人顕彰祭全記録集」<10>は2003/10/11〜10/13に開催された先人顕彰祭の記録集です。この先人顕彰祭での講演ではないようですが、日景健氏の「小林多喜二の母セキ生誕地の碑建立記念講演」の内容が付録資料として載っています。それは「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる」というタイトルの文章です。ここには小林家の事がかなり詳しく書かれています。

日景健氏は大館市生まれ。長く高校教員をされ、校長として退職後に郷土研究をしていました。セキさんが住んでいた釈迦内で近くに住んでおり、セキさん一家と親交があります。もともとセキさんの母親は「日景フリ」ですから、どこかで血縁関係があるかもしれません。北海道に渡った後のセキさんが、秋田を訪れた際に世話になった事に対して日景健氏の祖父(日景國太郎)に宛てた多喜二の礼状(昭和4年8月27日)があります。この手紙は平成24年(2012)の秋田県多喜二展にて展示されました。

 

この「釈迦内村・川口村を通して多喜二の母の周辺をみる(大館市先人顕彰祭全記録集)」<10>の中には「村に残る資料」として多吉郎一家のことが書かれています。おそらく明治5年式の戸籍が作られた際のメモと思われます。この明治5年式の戸籍は「壬申戸籍」とも言われるもので、穢多とか非人などの身分が書かれているため永久封印とされています。ですから改製原戸籍をたどるとしても、これを取り寄せることはできません。このメモによると母親はユキ、その子ら(男子)は敬吉と末松です。従って慶義さんは、どこかの時期に敬吉から改名したものと思われます。これを書いた日景健氏に、元となった資料を頂きました。

 

明治20年(1887)の裁判記録<11>では、すでに「慶義」となっています。この時28歳ですが、それ以前の改名という事になります。福澤諭吉は安政5年(1858)に蘭学塾を作りました。それは慶応4年(1868)に「慶應義塾」と改称されました。西洋の新しい知識を広めるための組織です。慶義さんが生まれたのは安政6年(1859)であり時代背景が一致します。「ケイキチ」と「ケイギ」は音が似ていますから、ここから「慶義」の部分を採用した可能性もあります。小樽に渡った後の写真が残されています。長男(幸蔵)か次男(俊二)か定かではありませんが、書物を持たせているところは、新しい知識や学問は大切であるとのメッセージかと思われます。多喜二やチマさん(多喜二の姉)らに教育を与えるのに費用を惜しみませんでした。むしろ自分(慶義)の子らよりも優遇しているのです。

慶義さんと末松さんが並んで写っている写真を示します。一番左が末松さん、その右が慶義さんです。どちらも背が高いようです。小柄な多喜二は母親似ということになります。

 



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キーワード

小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
知られざる小林多喜二の周辺