知られざる小林多喜二の周辺

 
 002 ( 2018/12/05 : ver 01 、2019/02/14 : ver 03 )
セキさんの勘違い?



セキさん(多喜二の母)は明治6年(1873) 8月22日の生まれです。その前年の明治5年(1872) 8月3日の学制発布により初等教育が始まったのですが、セキさんは小学校に通っていないため文字の読み書きができません。このような事は、その頃の女子にはあったそうです。多喜二が豊多摩刑務所に収監された際、手紙を書きたいため57歳になってから文字を勉強したのは有名な話です。文字が書けないと、日々の生活の中で日記もメモも書けません。そのため大事なことは頭の中で何度も反復する習慣があったのでしょう。セキさんは、近所では「話し好きのおばさん」ということで通っていたようですが、セキさんの記憶力は誰もが感服するほど正確だったそうです。そんな記憶力の確かなセキさんですが、ある意味では、いったん間違って覚えてしまうと、修正する機会がないという欠点もあります。ここでは、そんなセキさんの勘違いと思われる話を書こうと思います。

「母の語る小林多喜二」<3>は、平成23年(2011)7月10日に出版されました。これは小樽商科大学の荻野富士夫先生が、埋もれていた原稿を発掘して出版したものです。この書籍の成り立ちは重要ですから触れておきます。朝里に住んでいた小林廣氏が多喜二の13周忌の時、昭和21年(1946)3月頃にセキさんから聞き取った内容がベースになっています。小林廣氏は後にチマさん(多喜二の姉)と結婚することになる佐藤藤吉氏と幼なじみだったそうです。姓は小林ながら親戚関係ではないということです。原稿は昭和21年と昭和23年の2回、出版の寸前まで行きながら、何かの理由でお蔵入りとなっていました。それを荻野富士夫氏が見つけ出して出版まで至ったという訳です。

昭和23年(1948) 8月30日に蔵原惟人と中野重治が編集した「小林多喜二研究」<5>が出版されました。この中に「小林多喜二の生涯」がありますが、これは手塚英孝氏が書いたものです。この文章の最後に(一九四七、九)と書かれています。書籍化される前、何かに掲載されたものかもしれません。終戦の翌年の昭和21年(1946)に、多喜二に関する全集編纂委員会が作られました。その後に、編纂委員だった手塚英孝氏は北海道に出向きました。昭和21年(1946年)の秋のようです。青函連絡船の甲板の上でDDTを散布されながらも、朝里の佐藤チマさん(多喜二の姉)に会い、6冊の原稿帳を受け取ったそうです。その時、セキさんは朝里にはいなかったそうですが、故郷の釈迦内にでも行っていたのでしょうか。手塚英孝氏は帰路に秋田に寄ってセキさんに会って多喜二に関する種々の承諾を得たそうです。これらの事は、2012年に小樽で開催された「小林多喜二シンポジウム」の際にお会いした宮本阿伎さんに教えていただきました。あわせて「赤旗」の記事(2011/3/18)<6>を参考としました。

1974年の映画「小林多喜二」がDVDとなって2018年に発売されましたが、それに当時のパンフレット<7>が付属しています。この中に、手塚英孝氏は「小林多喜二と私」という文章を寄せています。その中の関連部分を引用します。

戦後一年半たった頃、私はそれまで勤めていた共産党の文化部をやめて、それまでの仕事をひきついで完全な小林全集をつくる仕事に専心するようになりました。四十一歳のときです。その秋、北海道へ資料の調査にはじめてでかけましたが、ゲートルを巻いて、リュックを背負い、握飯を用意する状態でした。

このように手塚英孝氏は、おそらく昭和21年(1946)の秋に、チマさんとセキさんに会っています。この時の取材内容が後の資料になっています。手塚英孝氏がその後の昭和33年(1958)に出した「小林多喜二」<8>は多喜二研究の草分け的な書籍です。これは加筆修正されて「小林多喜二」<1>に至ります。セキさんは手塚英孝氏に対しても、小林廣氏に話した事と同じような内容を話したに違いありません。「小林多喜二の生涯(小林多喜二研究)」<5>から「母の語る小林多喜二」<3>までは63年も隔たっているとはいえ、これらは同時期のセキさんという共通の情報源が元になっているのです。

 


この稿は「母の語る小林多喜二」<3>をベースとして書きます。これは一般書として読むには、とても面白い上に、それまで知られていなかった新しい情報もあります。多喜二の研究者らも、これを参考にするでしょう。しかしながら、いくつかの問題があります。それは小林廣氏の勘違いのみならず、セキさん自身の勘違いに由来する誤謬があることです。研究のためにこの書籍を用いると、結論が間違う危険性があります。同じことが手塚英孝氏の著作物にも言えます。多喜二の出生や親類関係の情報に限られるとはいえ、なにせ情報源が同じです。重箱の隅を突く訳ではないのですが、「はじめに」でも書いたように、正確さを重視したいため指摘しておきます。

(1)まず強調したいのは、多喜二の誕生日の件です。これについては別稿で詳しく書くので、ここでは簡単に触れるに留めます。「母の語る小林多喜二」<3>の24ページに、「(多喜二の誕生日は)明治三十六年旧暦の八月二十三日です。当時私達の国では未だ旧暦を使って居りました。戸籍には十二月一日となっているのですが、何彼の都合で遅く付けたのでしょう・・・」とあります。手塚英孝氏が書いた「小林多喜二の生涯(小林多喜二研究)」<5>では、多喜二の誕生日は(新暦の)10月13日と書いています。明治36年の旧暦8月23日は、新暦では10月13日に相当します。これについて荻野富士夫氏は「注記(P148)」の中で、「(旧暦の8月23日は)新暦に直すと10月13日となる。当時は一般的だったが、届け出が遅れて、戸籍上の出生日は12月1日となる・・・」と書いています。これは、手塚英孝氏の記述に沿った注釈と言えます。しかしながら前記のように、この両者の情報源は同じなのです。そして、その情報源自体が間違っています。母親が自分の子の誕生日を間違うはずがないと思うでしょうが、旧暦と新暦が混在していた頃は、その混乱のために、このよう間違いが「有り得た」のです。

多喜二の事が記録されている戸籍には、「12月1日に生まれ、12月5日に届け出があり、その日に受理された」ことが明確に書かれています。当時の役場が「いい加減だった」のではなく、ちゃんと仕事をしています。明治5年12月に旧暦から新暦に切り替わった後でも、慣習的に旧暦を使うことがありました。例えば寺の過去帳ですが、手元にある小林家の過去帳は、明治40年頃まで没年が旧暦に換算されて記載されています。新暦を旧暦に変換する際、日付が少し戻ることになります。ですから場合によっては年を跨ぐこともあります。その際に、変換の誤記があったりもします。昔の書籍を読み解く際、特に時間軸の前後関係が重要な場合は、このことを考慮に入れる必要があります。

旧暦の8月23日が誕生日であるという事は、多喜二自身も母親(セキさん)から聞いているようです。小学校卒業証書を始めとして多喜二の正式な書類には12月1日と書かれていますから、多喜二もそのことは知っています。何か変だな〜とは思いながらも、母親の言う事を信じていたのでしょう。多喜二が新聞や雑誌に登場するようになり、略歴が書かれるようになりますが、誕生日は明治36年10月13日(新暦)と書かれています。略歴は多喜二自身が提供したはずです。

(2)多喜二の祖父の名前は多喜次郎
これは注記(P146)に書かれている通り「多吉郎」です。長男に付けた名前は「多喜郎」です。祖父(多吉郎)の「吉」の字が「喜」に変わったのです。2男は「郎」が「二」に置き換わって「多喜二」となりました。

(3)小樽に移住する際、阿部先生夫妻の見送りを受けた件(P29)
「阿部」は「安倍もしくは安部」が正しいのですが、多喜二の家に間借りしていた安倍弥吉先生の事です。川口小学校の校長先生でした。多喜二研究者にとっては重要人物のひとりです。安倍校長先生は明治39年(1906)12月12日に、46歳の在職中に亡くなりました。ですからその翌年に「夫妻の」見送りを受けるはずはないのです。セキさんが、これを間違うことは無いでしょうから、この記載は小林廣氏の間違いでしょう。というのは、村にとって安倍校長先生は偉大な人ですから頌徳碑が作られ、明治41年(1908)になって二周忌に合わせて村葬が開かれました。ですから安倍先生が亡くなったのは多喜二らが小樽へ移住する前ですが、村葬は移住後です。葬儀(村葬)が明治41年(1908)に行われていますから、多喜二らが移住した明治40年(1907)には、安倍校長は「生きていたはずだ」と小林廣氏が考えたとしても不思議ではありません。

 




(4)セキさんが嫁ぐ前に、慶義さんが渡道してた件(P23)
これは、セキさんの記憶違いだろうと、注記(P147)で訂正されている通りです。しかしながら、「小林多喜二の生涯(小林多喜二研究)」<5>にも同じように書かれています。手塚英孝氏は、後の版で修正していますが、この記載は、セキさんが確かにそのように記憶していたという傍証となります。セキさんと末松さんが結婚した明治19年(1886)12月17日の前月に、後に慶義さん(私の曽祖父)が裁判で走り回ることになるトラブルが発生しています。セキさんが嫁いできたのは13歳です。今と昔は成長尺度が違うかもしれませんが、13歳ならまだ子供です。子供の目から見た「慶義さんの印象」が今に伝わっているのです。慶義さんは裁判のために明治21年(1888)頃より仙台、次に東京で生活しました。明治26年(1893)には秋田に戻らず、そのまま小樽に渡りました。セキさんと慶義さんの直接の接点は、このように短期間なのです。私の手元に当時の裁判記録があります。そこから導かれることは、これまでの記述と異なります。また慶義さんは何事にも投機や事業が好きだと書かれおり、手塚英孝氏もそう書いています。これらについては別稿で触れます。

(5)慶義さんと末松さんの実母の名前
一般の読者にはどうでもいい事ですが、あちこちで間違って、しかも違う内容で書かれているので書き留めておきます。セキさん自身の記憶が曖昧だったためか、小林廣氏への説明と手塚英孝氏への説明に違いが生じていたのかもしれません。慶義さんと末松さんの実母の名前(旧姓)は、田山ユキです。ユキさんが47才で亡くなった後、父の多吉郎さんは斎藤ツネさんと再婚しています。慶義さんの妻は浅利リツです。末松さんの妻は木村セキ。小樽文学館には、これらの内容を伝えているので展示されているとすれば現在の家系図は正しいはずです。

(6)末松さん(多喜二の父)の戒名は禅村祖庭信士(P160)
荻野富士夫氏が龍徳寺の過去帳で確認したとありますが、部分的に違います。正しくは松風院禅林祖庭居士です。小樽奥沢の小林家の墓は、多喜二が父親のためにつくったもので、この戒名が刻まれています。セキさんは、多喜二の遺骨を自ら北海道に持ってきました。この墓には多喜二の骨が入っているはずですが、多喜二の戒名(物学荘厳信士)は刻まれていません。東京で行われた多喜二の葬儀は無宗教で行われました。しかしセキさんは、昔ながらの風習にそって龍徳寺で戒名を付けてもらっています。

 

(7)9人の子供が生まれた(P24)
書籍によって多喜二の兄弟の数が異なっています。この「母の語る小林多喜二」<3>によってセキさん自身の言葉として9人と判明しました。母親として間違うはずはありませんが、私の手元にある過去帳と戸籍を照らし合わせると、ここには大きな謎があります。これについては稿を改めて書きたいと思います。

(8)多喜二が搬入されたのは前田医院?
書籍によって築地病院だったり築地医院だったりするので古い地図を示します。ここでは築地医院です。この地図には築地小劇場もあります。3月15日に多喜二の労農葬が行なわれたところです。築地署との位置関係が良く分かります。

 



これ以外にもあるのですが大きな影響はないでしょうから、これくらいにします。


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多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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