知られざる小林多喜二の周辺

 
 001 ( 2018/12/02 : ver 01 、 2024/02/13 : ver 07 )
多喜二葬儀の香典控



手塚英孝の「小林多喜二」<1>によると、多喜二の葬儀は警視庁と杉並署の警官が見守る中、親戚ら近親者のみしか参列が許されない中で行われました。刑死者・犯罪者葬儀取締法により、葬儀や通夜の集会は不穏と認められるからだそうです。弔問に来た人たちは片っ端から検束されました。そのような中ですから、ここに示す香典控は後で送られてきた香典などを原稿用紙にメモした仮のものと思われます。これは小樽文学館に所蔵されています。ここに書かれている人物については、「小林多喜二伝」<2>に触れられていますが、これらを含めて私が分かる範囲で書き足します。画像に付けた順番は便宜的なものです。文中で(?)は確定とは言えない部分、(*)は不明の部分です。



(1) 林 房雄

(2) 河面仙四郎
「母の語る小林多喜二」<3>によると、多喜二の家は阿佐ヶ谷の馬橋にあり、隣家には「河面」という大学の先生がいたそうです。セキさん(多喜二の母)の記憶によると、多喜二の死亡は 2月21日の夕刊の記事を見た河面の奥さんが知らせてくれたとのことです。ちょうど三吾さん(多喜二の弟)が不在だったため、セキさんは孫(ツギの長男:幸田昌久)を背負って築地署に出向きました。その際、東京に移り住んでいた本家の小林市司さんへの連絡も、河面の奥さんに託しています。この人物は早稲田大学教授(哲学・宗教学)、明治15年(1882)〜昭和14年(1939)でしょう。

(3) 改造社

(4) 小野宮吉
この香典控では「官吉」に見えますが「宮吉」であり、関 鑑子の夫です。

(5) 関 鑑子
ソプラノ歌手。プロレタリア音楽家同盟

(6) 板垣直子
文芸評論家。板垣鷹穂の妻。旧姓は平山

(7) 中央公論社

(8) 笹本 寅

(9) 細田民樹

(10) プロット
日本プロレタリア演劇同盟

(11) 無産者産児制限同盟

(12) 城北労働者クラブ

(13) 雄(?)北消ヒ(費)組合

(14) 関 鑑子

(15) 作家同盟婦人委員会 中条百合子
「員」と「会」が、百合子の「合」の字で分断されています。最初に「中条百合子」と書き、その後、間隙に「作家同盟婦人委員会」と付け足したと考えられます。宮本顕治と結婚して宮本百合子になりました。

(16) 板垣鷹穂
早稲田大学教授 文学部

(17) 村山籌子



(18) 失名(神田)

(19) 佐藤

(20) 朝鮮の仝(同)志

(21) 朝里村 南 成元

(22) 会津若松 豊田みどり
寺田行雄とセツの姉(ミトリ)です。豊田 隅と結婚して豊田姓となりました。ミトリは庁立小樽高等女学校でチマ(多喜二の姉)の友人です。

(23) 秋田 安倍イマ
秋田下川沿村の小林末松の家屋の一部を間借りしていた安倍弥吉校長の妻。安倍弥吉校長は、末松・セキ一家が小樽に移住する1年前(明治39年)に死亡しました。その2周忌に合わせて(明治41年)下川沿村の村葬がなされました。その後、イマは北海道に渡り小林俊二の家系に繋がって苫小牧に住みました。

(24) 杉並区 ある三人 よ*
「小林多喜二とその盟友たち」<4>に、この3人について考察が書かれています。この部分は「由ある三人」と解釈して、野呂栄太郎と山本正美と逸見重雄だろうと書かれているものが多いそうですが、「由ある」とは読めないというものです。

(25) 木村勇一郎
多喜二の母(セキ)には木村勇八と木村勇吉という弟がいます。勇八の長男が勇一郎(多喜二の従兄弟)であり、その後に戦死しました。勇一郎には双子の弟(勇二)がいました。物資が不足していた頃、セキさんは多喜二が愛用していた2着のオーバーコートを勇二に贈りました。現在このオーバーコートは日本近代文学館に保管されているそうです。

(26) 作田(?)

(27) 大宅 三浦
連名と思われます。「大宅」は大宅壮一でしょうか? 大宅壮一はプロレタリア作家同盟の仲間です。多喜二は昭和5年(1930年)の3月末に上京しました。5月に「戦旗防衛三千円基金募集運動」のために関西方面を廻りました。その時一緒だったのは、江口渙、中野重治、片岡鉄兵、貴司山治、大宅壮一でした。「三浦」が三浦強太であれば、小樽高等商業学校の 4年後輩ですが、大宅壮一との接点は不明です。

(28) 田口タキ
多喜二は昭和6年(1931) 1月22日に豊多摩刑務所から出た後、タキに結婚を申し込んだのですが断られました。嫌で別れた訳ではありません。多喜二が亡くなった時の葬儀だけでなく、その後も命日には必ず小林家を訪れたといいます。

(29) 寺田行雄
多喜二の2年後輩(庁立小樽商業学校および小樽高等商業学校)の人物です。寺田行雄には姉が2人います。上の姉は「ミトリ」、下の姉は「セツ」です。姉(セツ)は、親類の者と偽り警察の包囲網を通り抜けて多喜二宅に入ったそうです。ここで通夜・葬儀の手伝いをしています。骨あげにも参列して多喜二の骨を少し持ち帰ったそうです。津軽(旧姓:寺田)セツは、この分骨を昭和32年 8月2日に多喜二の生誕の地碑の土に返しました。その時の東奥日報のコラム(1957/8/4)を示します。

 


(30) 嶋田さんのまつ
嶋田正策の妻(嶋田マツ)のことでしょう。



(31) 小樽 奥野(?)協太郎

(32) 苫小牧 小林俊二
小林慶義(多喜二の伯父)の4男1女の内の2男です。慶義を別格とすると苫小牧の三星の初代社長です。慶義は昭和6年に死去しました。慶義の長男(幸蔵)は昭和3年に死去、3男(吉郎)は早世、長女(ハル)は大正15年に満20歳で死去しました。昭和8年の時点で(慶義方の)多喜二の従兄弟は、俊二と、次に書かれている太郎のみでした。

(33) 小林太郎
小林慶義(多喜二の伯父)の4男1女の内の4男で、私の祖父です。

(34) 次郎 父 齊藤幸太
斉藤次郎は多喜二の同級生(小樽高等商業学校)です。

(35) 小林市司
小林の本家(小林多治右衛門)の長男です。すでに昭和6年には東京に住んでいたらしいですが、おそらく鳥潟右一(多喜二の従兄弟)が設立した東京工学校に理事長兼事務長として勤めていたと思われます。築地署で母(セキ)と共に多喜二の遺体を引き取りに行きました。その後、郷里(下川沿村)に戻り、村長を務めています。苫小牧に残されていた昭和26年交付の慶義の除籍謄本は、この小林市司が証明したものです。この謄本は昭和8年に除籍簿に入ったもので、多喜二の死亡が記載されています。

(36) 佐藤イト
最初の文字は「佐」の崩し文字らしいので、これは「佐藤イト」でしょう。「佐藤」だとすると、多喜二の姉(チマ)の嫁ぎ先は佐藤家です。また秋田の小林本家筋には佐藤姓が多く、この内の誰かかも知れません。

(37) 奈良市上高畑 志賀直哉
弔意を同封した香典を母(セキ)に送ってきました。多喜二は昭和5年(1930)8月21日から昭和6年(1931)1月22日まで豊多摩刑務所に収監されました。出所した年の10月に、その頃は非合法だった<1>共産党に入党、11月はじめに志賀直哉宅を訪問し1泊させてもらっています。この時は文学論議はしなかったようです。それ以前に志賀直哉が多喜二に送っていた返信の中に、多喜二の小説に対する批評が書かれており、多喜二の文章力は評価しながらも率直に感想は伝えてあったからでしょう。「小林多喜二伝」<2>の中から引用します。

私の気持ちから言えば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたずさわる人として止むを得ぬ事のように思われますが、作品として不純になり、不純になるが為に効果も弱くなると思いました。大衆を教えると言う事が多少でも目的になっている所は芸術として弱身になっているように思えます。さういう所は矢張り一種の小児病のように思われました。


また志賀直哉から送られてきた弔辞が「母の語る小林多喜二」<3>に記載されているので引用します。

拝呈
御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました。
御面会の折にも同君帰られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話しあり、その事など憶い出し一層御心中御察し申上げて居ります。同封のものにて御花お供え頂きます。
二月二十四日 志賀直哉
小林おせき様


多喜二が死亡した昭和8年(1933)2月20日は、ちょうど志賀直哉の50歳の誕生日でした。志賀直哉は見開き1週間の日記をつけていました。下に示すのは、2月19日(日)から2月25日(土)までと追加メモからなっている見開きページの右側半分です。弔辞を送った日(2/24)には「夜 小林多喜二の母にイヤシの手紙を書く」とあります。2/25(土)は「午後、若山 加納来て麻雀 夜二時頃までやる」。そして、その下にあるMEMOの欄に「小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快。一度きり会はぬが、自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる。不図(ふと)彼等の意図ものになるべしといふ気する。」と書いています。

 



香典という形ではありませんが、「小林多喜二」<1>によると、魯迅も弔詞を寄せたそうです。

日本と中国との大衆はもとより兄弟である。資産階級は、大衆をだまして、その血で界をえがいた。また、えがきつつある。しかし無産者階級とその先駆者達は血でそれを洗っている。同志小林の死は、その実証の一つだ。我々は知っている。我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ。


(38) 留萌町 宇野
同じく「小林多喜二伝」<2>によれば、小樽高等商業学校の同期卒業で「クラルテ」の同人だった人物に「宇野長作」がいます。この人物は昭和6年に亡くなっていますが、香典は家族が持ってきた可能性があると思われます。

(39) 若竹町 中杉(?) 亮(?)

(40) 朝里 原田清松

(41) 本江(?) てる(?)

(42) 朝里村 奥山


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明治36年12月1日
多喜二の香典控
知られざる小林多喜二の周辺