千春の「南インド&モルディブ日記」


はまる理由がわかった!


まえおき

この旅は今まででいちばん「コい旅」でした。
インドは強烈なインパクトと、あたらしい価値観を私に与えました。モルディブは海好きの私がこれまで見た海のなかでベストワンです。淡々と日記を綴っていますが、興味がある方がいたら、少しでもお役に立てれば、と思います。


第1日(移動で終わった初日)
2000年1月14日(金)快晴(ペナン)

この日記が完成したのは行ってから約1年後の2001年12月。。。2度
にわたるパソコントラブル(1回、買い換えてます)で、データがとんだりしてしまい書くのが遅くなってしまいました。


飛行機:マレーシア航空MH071(成田1030-ペナン経由1505-1805-クアラルンプール1900), MH180(クアラルンプール2200-チェンナイ/マドラス2310) ¥81,840(1人往復)
 
出発前は残業で連日終電帰宅だった。そして前夜も。その深夜に初めて支度にかかる。
それまで、スーツケースを転がすとキャスターが壊れる程の途上国へ行ったことのなかった私は、その様がピンとこないながらもトモダチから借りたバックパックに慌てて荷物を詰め込んで、いつのまにか午前5時、ついに一睡もせず成田へ向かった朝。当然のごとく機内では死んでいた。機内食やドリンクが来る度に起こされた記憶がある。機内の記憶はただそれだけしかない。
 ペナン経由にて1時間程停まる。着陸前のアナウンス
「当地の気温は32度。」
聞き間違いだと思った。日本は冬真っ盛り。しかし、飛行機の外へ出されると急激にむし暑い。ジャケットをはぎ取りTシャツになった。トイレには早速見たこともない虫が張り付いていて帰りたくなった。
クアラルンプールに着いたときの空はすでに暗い。乗り継ぎ時間を持て余し、怪しげなピッツェリアに入る。見た目ピザなのにどこか違う香りがしたとき、アジアを感じた。

時間になり、チェンナイ行きのゲートに着いて行列を目にした時の衝撃は忘れられない。「洋服」を着ている女性が誰一人いないからだった。私以外の全員が民族衣装を纏う。「サリー」が特別な服装ではなく、インド人にとって普段着であるという事を、インド入国前にして知らされたのだった。
 機内に入った瞬間なぜかスパイスの香りがする。後で聞くと、インド人は毎日当たり前のようにスパイスの強いものを食べているので、その匂いが体臭に出るためということだった。
 デリーやムンバイ(ボンベイ)と違い、さすがに、チェンナイへ入る外国人は少ない。機内での3時間半は、現地人ばかりでとても恐ろしかった。知らない言葉が行き交い、どの人間もぎらぎらと目が光っている。隣の席には終始大声で泣き続ける子供と若い母親。絶えず緊張の空間だった。

 チェンナイ/マドラス空港到着後、又も驚かされた。別に、すぐ入ったトイレが旅行本に書いてあった通り便器のそばに流す用の桶やホースがあったからじゃない。入国審査に並ぶインド人は、すさまじい。順番などは知らず、誰もが我先にと、後ろからお腹をくっつけてくる。相当せっかちらしい。なのに入国審査の方は超スロー。ゲートは目の前なのに、自分の順番が来るまでに1時間以上。トイレなんか行くんじゃなかった。

空港の外を出ると、出迎えの人だかりが半端じゃなく、また驚いた。真夜中だというのに、狭い出口に一体何百人押し掛けてるんだと言いたくなる程の熱気。方々から叫び声。その様子は怖いほどに異様だったが、幸い私はその中から日本語を探せばよかった。この国に暮らすいっつん(日本人留学生。)の声はすぐに耳に届いた。いっつんは、自分が暮らしているGandhigramという、チェンナイ市民にさえ知られていないとてつもない田舎から、バスを乗り継いではるばる、10時間もかけて空港へ迎えに来てくれたのだ。もっとも、ここで無事会えなかったら、こんなところで一人にされたら、私は狂っていたに違いない。ちなみに”Gandhigram”の語源は、Gandhi=ガンジー、gram=村で、「ガンジーの村」。本当にガンジーの村なのかどうかは知りません。
一泊目は念のため宿を予約して日本を出てきた。チェンナイ市内のチョーラ・シェラトン。かなり高級だが、日本のビジネスホテルと同じ値段で泊まれてしまう。ハイヤーで市内まで約40分。
ハイヤーの車窓は開いている。この間、首と手の甲に大きく腫れ上がるほどに刺される。日本の薬局で虫除けスプレーを買い求めたが、この真冬に薬用は置いていなかった。「南国へ行くんですよ!!」と訴えたらその言葉が効いたらしく、在庫を3人がかりで探してくれて、一番強力なものを買った。
しかしそれはすっかりバックパックの中。まさかこれ程にインドのモスキートが行き交っているとは思わなかった。翌日からバッグにスプレーを常備したのは言うまでもないが、帰国までに使い切ってしまうとまでは予想もしなかった。
チョーラ・シェラトンにたどり着いた頃は、午前2時を回っていた。即寝。

14日(金)の食事・お会計
昼:機内食(ビーフ)MH、成田_ペナン間
夜:機内食(ノンベジ、早速カレー)MH、クアラルンプールーチェンナイ間
第2日(チェンナイ)




インド:チェンナイ(旧名マドラス)Yahoo Weather - Madras
チェンナイ関連HP:
「チェンナイ生体験記」「インド映画を見に行こう」
 

2000年1月15日(土)晴れ ※この辺りの気温は、だいたい最低20度、最高27_28度

 ホテルでの朝食を済ませ、早速チェンナイの街へ出た。のんびりと歩いて。
メインはAnna Saraiというストリート。ショッピング街といったところ。お土産屋、本屋などが建ち並び、最近出来たという大きなショッピングセンターもある。通りの半ば辺りに建つ13階建てのそっけない建物は、「超高層ビル」として名物になっていて、わざわざこれを見るためにチェンナイへ出てくる村人もいる程らしい。そんなわけで高い建物が殆どないため、空が広い。でも地上は人と車で、とにかく密集しているのだった。

チェンナイの交通事情はすさまじい。はっきり言って無秩序状態。最低限、信号を守るだけ。あとは車線も関係なし!自家用車もハイヤーもオートも前後左右がんがんぶつかりそうな勢いで走りまくる、すれすれの隣の車の荷物を平気で押しやる。道路の横断も大変。信号もなきゃむりやり道路に出て車を停まらせたりする。横断待ちの時におなかすれすれにバイクが走り去って死ぬかと思った。

 まずここへ来た目的は、普段着の調達。現地の服、サンダル、アクセサリーを求めた。
 まずサンダルはたまたまそこにあった”Bata”へ。ブランドとは言っても価格は大体40_600Rs(日本円では100_1,500円。)。私はここで、サリーに合いそうな、草履のようなサンダル(ワインレッド地に、安っぽいゴールドでプリントした装飾がある。)を確か400Rsほどで購入したが、ひとつかなり惹かれたモノがあった。日本でも普段はけそうな、ヒールのあるサンダルで、親指だけを通すリング状のバンドが付いているやつ(ちょっとあとに日本でも流行っていたけど)で、たまらなくかわいく、それはやっぱり600Rsぐらいしていた。あたらしい!と思って、帰国前に買って帰ろうと思ったら忘れた。
次に服。サリーは後回しにして、パンジャービ・ドレスを購入。

インドの女性は、サリーかパンジャービ・ドレスという服を着ている。北インドの方ではTシャツやジーパンなどの服装の女性もいるらしいが、南インドにおいては殆ど見られない(私は一度も見なかった。でもインド人以外の女性は、サリーを着ている人がいなかった気がする)。
その中でもサリーが大半で、パンジャービ・ドレスはそれより少々ラフなもの。膝下までの長い丈の上着には両脇に太股までのスリットが入り、ボトムのズボンはゆったりして、裾は絞られている。ウエストは紐で調節。私が買ったのは1200Rsの、コバルトブルー(スカーフ付き)。普通は5_600Rs位。かなり過ごしやすかっので、滞在中殆ど着用。
ちなみに男性の服装は、日本人のようにシャツとパンツが普通。ルンギという、ラフなボトムもあった。(バスタオルを腰に巻き付けたような感じ。でも裾をウエストに挟み込んだスタイルで着ていることが多い。)

次に買ったのは、アクセサリー。ティカ数種類、4連ブレスレット、ネックレスとピアスのセットを2組。全部イミテーション。

サリーやパンジャービ・ドレスには、派手にアクセサリーを合わせる。「ティカ」はおでこにつけたアクセサリーで、大体の女性は付けている。私も毎日いろんなティカを楽しんできた。赤が多いけど、黒やピンクとかいろんな色がある。形も、雫型の他に円形、楕円形、ギザギザ形など。さらに、使い捨てタイプと半永久タイプがある。ちなみに男性は付けるのでなくて、大体赤のペイントで、丸く描いたり豪快に縦に線を引いたりしている。女性もペイントバージョンがあって、私も最終日に、ポピュラーだという黒のスネイクスタイルをホテルのお姉さんに描いてもらった。
腕には太いバングルを1本か、細いブレスレットを何本もじゃらじゃらと着け、足にはごついアンクレットなどを着ける。鈴がいくつも付いているものは、歩くとしゃんしゃん言ってかわいいのだ。


通り沿いには店がびっしり並んでいる。キヨスクみたいやつが。でも大体はドリンクやスナック程度。少しバージョンアップすると雑誌なども置いてあるのでほんとにキヨスク。で、私も体験。コーラを頼んだ。買ったらすぐに飲みほして瓶を返して帰るのだ。その場でフルーツを絞ってもらう生ジュースもある。
2軒目では、初めてのチャーイ!ちっちゃなグラスに、出来立てのチャーイを入れてくれる。値段は破格の2ルピー(5円)。とっても甘くておいしかった!

インドでのポピュラーなドリンクである「チャーイ」は、甘めのミルクティー。現地でチャーイの作り方の本が欲しかったが、余りに当たり前のメニューなのでそんな本はない様。熱湯の代わりにミルクを使い、たっぷりの砂糖を加えて紅茶を落とす。ということで確かに単純。本格的なチャーイは、砂糖が沈まないように、二つのカップで何度か移し合ってから淹れる(日本のインド料理屋でもやってるけど)。相当甘いけどそれが美味しくてハマった!ホテルではティーバッグで自己流チャーイを作ってしまった程。それも案外いけるのです。カップにティーバッグと砂糖&ミルクたっぷりを同時に入れて、その上から熱湯を注いだだけですが。

インドでの初の外食は、少し奇麗めのレストラン。

インドのお食事やさんはたいてい冷房もなければ飾り気もない、ほぼ大衆食堂。衛生面は全く良くない。でも「A/C HALL」(A/C =Air Conditionerの略)といって、VIPルームのようにドアを隔てた向こうにクーラー付きの部屋を設けてある(といってもVIPルームのように造りまでが豪華な訳じゃない)ところもある。メニューは値段がアップ。

ここでは2階窓際のA/C HALLに入る。1階の普通席と違って、窓はスモークが張られて室内の照明も控えめなので、とても暗い。
フライド・ライスをオーダー。チャーハンの様でとても美味しい。インドにこういう料理があるとは!こうしたご飯にも、カレーをかけて食べる。
しかしインドでは、一口で「カレー」と片づけることは出来ない。日本人にとってみんなカレーだと感じても、インド人はそうじゃないらしい。ドーサはスープ気味で、マサラは具がメインでそれをカレーで和えた様だった。じゃ「カレー」は。最終日に空港のレストランでようやく「Curry」を見つけたが、結局違いがよく分からなかった。他にも、いろいろ種類があったけど…とにかく日本人の私は「毎日カレー」と思っていた。でも、とりあえずどれも美味しい。辛いのが苦手だった私が、この僅か一週間で辛いもの好きになってしまったのだから、おそるべしインド。
話を戻すと、ここではそのエッグ・フライド・ライスと、チキン・ビリヤニも食べた。
ビリヤニとフライドライスの区別も良く分からなかった。ドリンクはラッシー。思った程甘口ではなく、ヨーグルト感たっぷりで美味しかった。
夜は、シェラトン内のインド料理レストラン。私は、インドに来たら本場のナンが食べられると思って大変楽しみにしていた。ところがいっつん、ナンなんてもんは見た事もないと言う。「この辺のインド人はナンの存在自体すら知らないよ」まで言われる始末。がっかりしていた私だったが、実はここは珍しい、「南北インド料理屋」だった。ナンは、北インドの食べ物だったのだ。(チェンナイは、南インド。)当然、ナンを食べられたのは、ここが最初で最後だった。それから、バナナフライみたいなやつを頼んだが、これは天ぷらのような感じで、ソースがカレーソースとサワークリームで、どちらもあまり合わない気がした。デザートには、バタースコッチアイス。インドでアイスといったらこれがポピュラーなんだとか。日本で食べるやつよりおいしかった。

15日(土)のお会計
朝:ホテルの朝食ブッフェ(宿泊料に込み)
昼:A/C HALL
  Egg Fried Rice 30Rs
  Chicken Biriyani 60Rs
  Rassi 30Rs
夜:Sheraton内の南北インド料理
  バナナフライみたいやつ(カレー味またはヨーグルト味のソース付き)
  ナン
  ※値段を忘れてしまいましたが、上のお店の値段に0がいっこ足されたような感じだと思います。


インド:マハーバリプラム(チェンナイ近郊)
マハーバリプラムの関連HP:「From Y.Hirosawa」の「99.5.9 :人の行かない南インド」


第3日(マハーバリプラム)
2000年1月16日(日)快晴
 チョーラシェラトンホテルを一旦チェックアウト、最後の晩のステイまでしばしのお別れ。オート(オートリクシャー)に乗り、Anna Saraiの真ん中にあるホテル「コマネラ」へ移る。
この日宿泊するホテルはいっつんに任せていたが、Taj Residency Connemara Hotel/コマネラ・ホテルの前にオートが停まったときは感激した。このホテルは、実は現地の旅行代理店が出発前私にお薦めしてくれていたところで、昔の豪邸をホテルに造り替えたとのことだった。そのような歴史を感じさせるホテルに私はえらく興味を持っていたのだった。
とは言えホテルを堪能する間もなく、チェックイン後早速バス停へ。バスに乗るのはこの日が初めてだった。バスに乗ると、聞いていたとおり、女性の隣の席は必ず空いていた。インドでは男女が隣に座るなんてとんでもないらしい。男女が関わることには厳しい国で、例えば学生寮は、特に女子寮の場合、届く手紙などを全て開封され検閲されるという話を聞いた。
窓にはガラスはなかった。とにかく埃っぽい風を受けている。
降りたところは大きな(大きいのかな)バスターミナル。まず降り立った私を驚かせたのは目の前に牛車がいたこと!老婆が牛を世話する姿。・・・。それはかなり妙な光景だった。でもインドでは牛は大変神聖な動物とされ、大事にされているということで、納得。立派な角を持つ真っ白い牛を、結局2,3頭そこで見ることになった。
ターミナル自体も妙だった。ずらっと並ぶバスの対面に、これまたずらっと並ぶのが市場。異様な活気。そんな風景は楽しげなもので、果物屋はどこのお店も品物をピラミッド状に積み上げていて、オレンジ、レモン、色とりどりの山がオブジェの様に見られる。でも私が最初に駆け寄ったのは髪飾り屋さんだった。深い青のパンジャービを来ていた私にその店の女の子(コドモです。)は、真っ白なシロツメクサの髪飾りを合わせてくれた。勝手を知らずヘアピンを持っていなかった私に彼女は、自分に指していたものをはずして、私の髪に留めてくれたのだった。心温まるお話。

アクセサリーのマストアイテムの一つが、髪飾り。髪は束ねるのが基本で、ただ後ろで一つにまとめるか、三つ編み。現地の女性は全員ロングヘア。髪飾りは生花!シロツメクサみたいな花やタンポポなど、色とりどりの花を編んだものが、露店でだいたい5ルピーで売られていた。

広いターミナルを歩きつぶして「マハーバリプラムへ行くバス」の番号を聞いたのはいいが、なかなかそのバスは見つからない。案内板もなければ番号順にバスが並んでいるわけでもなかった。私たちはストレンジャーなので、適当な列の人に聞いたりして、とりあえずそれっぽいところに並んだ。相当待った挙げ句、結局違うところに到着したバスへ走った。
私たちは運よく座れたが、日本の満員電車のごとく窮屈なバスだった。さすが人口の多いインド、どこへ行っても人でいっぱいなのだ。それだけならまだしも、とにかく、臭いが強いのだ。鼻のきかない私がそう思うのだから、普通の日本人なら慣れないうちは大変かもしれない。インド人特有の体臭で充満しているのだった。いっつんは半分インド人と化しているので慣れているらしかった。

一時間半程だった頃か、窓からの景色は、チェンナイにとどまっていては決して見ることのできないものだった。ほとんどが緑の中、ところどころに家が並ぶ。「家」と言うよりは、小屋に近い。そんな住居の外には、木と木の間に張られたロープに干されたTシャツやサリー。誇らしげに装飾された飼い牛。バスを見つめる子供たち。まさに途上国の村の生活だった。その村はポンガルの祭りにあやかってか、牛にペイントが施されていたり、露店が並んでいたり。

私が行った日からの週末はちょうど、「ポンガル」というお祭りで、月曜日まで休日だった。収穫祭のようなもので、外でフェスティバルとかがある訳ではなく、普通は各家庭でお祝いをするらしい。

 マハーバリプラムに到着。
 到着するなりいきなりいっつんは、私をあるところへ連れて行った。そこは、単なる大衆食堂。でも、この旅で私が最もショックを受けた場所。 
 「食堂」という言葉とは程遠い不衛生。余計なものが何もない空間。食堂に扉がないのは当然のことで、虫がたくさん店内を飛び交うことなどはもう知っていたが、床に散らばった残飯や、子供が乱暴に食堂のテーブルを掃除する姿(へらの様な板で米粒などを床に払い落とす。)、汚いまま机の上に出された葉、そこに盛られたご飯を手づかみで食べる人々。それが当たり前の光景とはまだ知らなかった。あまりのショックに私は一気に、食欲も元気も、言葉まで失ってしまった。正直なところ、トイレで大勢が食事をしているような感覚だった。
 私は葉っぱでなくプレートをお願いして、水道水ではなくミネラルウォーターを買った。ミネラルウォーターでも蓋が開いてしまっていることがあるかも知れないから口を付けない方がいいと教わり、私も上から口に流し込んでみたのだった。

向こうの食堂で出される水は、歯医者さんで見るようなアルミカップが多く、衛生面でかなり不安のあるインドでは、現地の人も口を付けずに飲む。思い切り上に向いて、口に流し込む。

 ここは頼んでもスプーンは出てこない。当然手で食べる。私は衛生面の不安が拭いきれず、日本から用意してきたウェットティッシュを山積みにスタンバイして、食事に臨んだ。実際手をつけるまでには多少の時間と覚悟が要った。でもそれ以上に、食べ方自体が私には困難だった。右手だけで(インドでは左手は不浄の手とされ、食事に限らず握手などあらゆる場で使ってはいけないとされるので。)カレーにまみれたご飯粒をまとめるのは不可能に近く、果てしなくぼろぼろするだけだった。それでも指ひとつひとつの使い方を教わり、何とか食事を進めた。周りのインド人たちは興味深げに、露骨に私を覗き込んでいる。
 しかし一口一口進めていくうちに、私の考え方は改められていった。ホテルの食事もいいけど、これが現地の人にとっての本当の味、当たり前の食事なのだと、その味に感動していた。「汚い」などと拒否反応を示してしまった自分を恥ずかしく思っていた。店に入る前にいっつんが「ここに連れて来たかった」と言った意味が解った。ここへ来たことを本当に良かったと思い、外へ出た。
肝心の遺跡の話へ。


入口に着くなり「クリシュナのバター・ボール」を目にした。
丘の先端の、今にも転がり落ちて来そうなのにとどまっているその大きな岩の神秘に圧倒された私。
その横には、「サンダルの岩」と呼ばれているという、二つの岩があった。サンダルの裏のような形をしているのだ。それらはだだっ広い美しい草原の上に、ぼてぼてと転がっているような感じだった。その辺りを吹き抜ける風は心地よいのだった。
草原から続く山道をシカやネコとすれ違いつつただただ登り続けると、突如として現れた広く青い海。予期しなかった風景に感動。岩間のサルも海の青さに見入っていた。
丘を下りさらに先へ進むと、「パンチャ・ラタ」と呼ばれる寺院にでた。この石造りの5つの寺院は、全て地下で繋がっているらしい。
この辺りに来ると、だんだんそのような名所の説明もここに書けなくなるほどに私の体力は限界に来ていた。この旅で一番衰弱していたのがこの時だ。とにかくこの遺跡は、広すぎるのだ。それぞれの遺跡が離れているため、相当歩かされるのだった。オートを拾おうかとも思ったけど、観光地でしかも日本人相手にはべらぼうに高くて乗る気になれない。長い帰り道を結局歩いてしまった。そういえば意識朦朧としているところ、その途中の一本道で、初めての椰子の実ジュースを体験。大きな実を左手で持ち、大きな斧でさっくりと豪快に上部を切ってくれて、ストローをさして完成。でも、これおいしいか?理解不能のままあっさりいっつんに贈呈し、さらに歩き続ける。 

オート(=オートリクシャー。三輪自動車)は、日本人の顔を見ると高い値段を提示してくる。大体3キロ20ルピーぐらいのところを、平然と「40」とか言う。もちろん粘って交渉。だめなら他のオート。だいたい30ぐらいが限度だったかも。交渉成立して乗ってからも、わざと遠回りしたり店の前でなく店の中まで走ったりして、“Don’t go inside! Don’t go inside!”と喧嘩をかましたこともありました。ちなみにリクシャー(人力車)は、乗らない方がいいっていっつんが言うので滞在中一度も乗らずじまい。


最後に見た1300年前に海岸に建造された海岸寺院(画像右)は、素晴らしかったのだろうが、そういうわけで感動はどっかに忘れてしまった。
それより「着いた」という達成感で精一杯。それでも写真には収めようとしている私はまだ生きていると思った。
 かろうじて生きている私にとっても、帰りのバスを待つ時間はそう長くはなかった。しかしここでまたもや、疲労を吹き飛ばす程のカルチャーショック!もうとにかく、めちゃくちゃなのだ。バスの乗り方が。「乗り方」というか、「乗り込み方」といった方が正しい。

インドのバスは停まらないので走って飛び乗るとか飛び降りるとか、テレビで見たことはあったが、実際のところ、大体のバスは停まる。時々インド人達が走って飛び乗る場面も見たりして、それはそれで衝撃的だったけど、そんなことより私が言葉を失ったのが、ここで体験した、始発駅の乗車。インドでは、整列なんかせず、バスが遠くから見えただけで全員一目散に走る。停まりかけたら、入口に何十人も群がる!各窓にも手を掛ける!(バスにガラス窓はありません。)だから私も皆がやるように窓から席にカバンを放り込んで席を確保!でないと立ち乗りは息も出来ない程で本当に死んでしまう。臭いも慣れてないし。なわけで、ただただ唖然。乗り込むときも大変!はち切れんばかりの入口に挑むしかない。ちなみに、片道1.5時間、15Rsでした。市内バスは大体1.25_2.25Rs(100パイサで1ルピー。1ルピー25パイサ_2ルピー25パイサということです。)

帰り道は夕暮れ時。すっかり疲れ切った私はその夕焼けにうっとりしつつ、目もうっとりして眠りに落ちてしまった。そのうちふと目覚めた私が目にしたのは、夜の村人たち。やはりポンガルのお祭りを、ひっそりとお祝いしているようだった。
すっかり夜のチェンナイにバスは戻ってきた。初めて見る夜のチェンナイの街には、やはりポンガルのお祝いの鮮やかなネオンがところどころに施されていた。私たちは下車し、露店の、年が明けてもまだ売られていたクリスマス仕様のコカコーラを買って、コマネラに戻った。夕食は、コマネラ名物の、中庭でのオープンレストランだった。

ここはさすが元お屋敷なだけあって、ホテルの部屋も不規則的に並び、渡り廊下を歩いている時は自分も富豪のような気分になってしまう。私ってアホと思いつつも、やはり元お屋敷なだけあって、自称どこかの富豪の娘にさせてしまうのだ。そうこうしているうちに外へ出て木々をくぐり抜けると、中庭に出る。ここではインド舞踊のステージも見られて、そういうレストランは他にないのでここの宿泊客でなくともやってくる。レストランに入ると、そこはお金持ちのパーティーのような雰囲気が漂っている。
肝心の料理はディナーブッフェ。ここにはたぶん南北不問にインド料理が並んでいて、いろいろなメニューを楽しむことができた。土日のみオープンのこのレストランで、タイミング良くインド舞踊を見られたのも貴重な経験だった。帰りの出口でもポンガルを祝う装飾があった。床におまじないのような図形が描かれ、火が灯され草木が飾られている美しいものだった。この日はせっかくの念願のコマネラなのに、部屋の様子も記憶がないほどに速攻爆睡。

スリランカのランチ16日(日)のお会計
朝:ホテルのブッフェ(2日目に同じ)
昼:Full Meal 35Rs
夜:屋外レストランでディナーブッフェ(宿泊料込み)
第4日(チェンナイ→コロンボ→モルディブ)



スリランカ(旧名セイロン)
スリランカの関連HP:「スリランカ探訪」

2000年1月17日(月)快晴
飛行機: UL122(チェンナイ1030-コロンボ1225), UL103 (コロンボ1940-マーレ2005)
エアランカ航空 ¥41,000(2人往復34,000円&ややこしい話ですが、私が日本からチェンナイに到着したときにハイヤーで送迎するという条件付きで発券された為、送迎代7,000円が含まれています。)

コマネラは残念ながら一晩限りでチェックアウト、そして終日移動の4日目。モルディブって人気だし、日本から行くよりだいぶ近いし安いし、と安易な動機で計画。実際は近くなかった。インド人には需要がないので、直行便もなければ乗り継ぎも悪い。昼にコロンボ(スリランカ)に到着して、夜にようやくモルディブ行きが発つ。というわけで朝からチェンナイ空港。空港前の露店で朝のチャーイを美味しく戴いて一日をスタート。
ここでの出国審査も長い長い、でも慣れっこ。そして何処にいても肌の白い人間はじろじろと見られるということにも、そろそろ慣れていた。街じゃ調子に乗ってこっちから手を振ったりしたものだった。子供達にはきゃーきゃー喜ばれた。(じゃなくて笑われていたのか。)
そういえばこの辺の便では、機内食で必ず「ベジ、オア、ノンベジ」と聞かれる。(ベジにしろノンベジにしろ全部カレー。)宗教上の理由で、結構ベジタリアンが多いようだった。私は肉食なので毎回「ノンベジ」と即答してチキンマサラなどを戴いた。この日も、チェンナイ_コロンボ便、コロンボ_マーレ(モルディブ)便ともそうだった。
行き帰りとも乗り継ぎ時間がべらぼうに長く無駄なので、せっかくだからコロンボの街に出たいと思ったのだが、当時コロンボは暴動が活発化していて、2,3日前も死者が出ていた一面記事があったので、結局やめることにした。待ち時間、ロビーでは、あの子はどうなったとかトモダチの話題などたわいもない話をし、現地の人々の観察にも飽きると○×ゲームやコックリさんまで始める始末。負けた方が香水を買いに行くという賭け事までし、私が○×ゲームで負けてしまったのだが、ヒマなので結局二人とも香水を買っている(ちなみに、乗り継ぎのマレーシアで見ていた値段より安かった気がする)。そんなことをしているうちに、外の陽が落ちかけた頃、免税店で大量買いした荷物を焦る様子でカバンに詰め込む怪しい集団を目にしたりもした。恐るべしスリランカ。
外に出られないならせめてスリランカのカレーでも食してみようと、食事にも行ってみた。インドに牛肉の料理はない(牛=神聖)ので、牛のマサラ($8)を見つけて喜んで頼んだ。でも激辛!おいしかったけど。

続く
後編・モルディブ
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