06.3.28(火)
FF12の感想文。
ネタバレ大いに含むのでご注意を。これからやろうかなと思ってる人、今やってる途中の人など、読まない方がいいです。それから、私的な意見を好き勝手に書いてるので、そういうのが嫌いな人も読まない方がいいです。
いや、やっとクリアした、昨日。率直な意見としては、1と11はやっていなけど、それ以外のFFシリーズの中では一番パッとしなかったような気がする。FF10-2も微妙だったけど、あれは、俺的にはFF10がすごく良かったから、その余波でなんとか楽しめた。
うーん、総合的には「まぁ楽しんだかな」って思うけど…。あのね、ラストダンジョン短すぎなのよ!!今回。飛空艇でダンジョン突入して、数回画面切り替えたらもう最終局面の展開に突入ですか!?ってね。…ああ!FFシリーズはこっから大どんでん返しがくるんだぜ、きっと!!って思いながら、マッチョになったヴェイン(敵方のメインキャラ)をぶっ倒すと、ムービーが流れる。「ふふ、こっから、どどーんと来るワケだな!」とドキドキしていると、スタッフロールが流れてくる。「あれ…?おかしいな…??」なんて思っているうちに、「THE END」どーん!「…って!!おーーい!!」って感じだった。それから、アーシェ(ヒロイン)のクライマックスの台詞…、「えぇ!?アーシェはバルフレアが好きだったんですか!?いつ好きになったんですか!!?」って感じで、唐突すぎ。よくよく考えてみれば、このクライマックスにつなげるための伏線は若干あった感はあるけど、いずれもインパクトが足りなすぎると思う。だから、クライマックスであんなセリフを言われると、正直ビビる(笑。そして、恋愛感情を抱くに至る、アーシェの心理描写がほとんどない…。今回のアレは、ちょっとヒドいよ…と思いました。クリアした後に、いつもなら「あ〜、やったなぁ…」って、ちょっとはしみじみするモンだけど、今回は「え?マジで終わりなの?」という思いばかりが強く残って、正直、達成感はほとんどなかったです。
シナリオは、もうちょっと丁寧に人物の心理描写や歴史的背景描写をして欲しかった。それに、国同士の話もやたら色んな国が絡み合ってるだけで、そこから深く掘り下げていかないから、実際、アーシェがダルマスカ王国が〜〜だ!なんて言ってても、「あっそ」としか思えなかったし、最後のところでラバナスタにバハムートが墜落しそうになってても、ラバナスタ自体にそこまで愛着がわいてないから(つまり、愛着をわかせるだけのストーリーがないから)、別に墜落しちゃってもいいんじゃね?位にしか思えない(笑。こいつ実際いらねぇんじゃね?って思えるほど意味不明にアーシェやバルフレアと行動をともにする主人公。オープニングで兄であるレックス?がバッシュの兄に殺されて云々っていうストーリーがあるのにもかかわらず、その辺からさらにストーリーが深まっていくでもなく…結局、で、なんでお前が主人公なわけ?って感じのヴァン。さらに意味不明なのはパンネロ。ラバナスタには飛空艇なり、クリスタルなりでいつでもヴァンは戻ってこれるのに、「もう、一人はいや」とか言う理由で、かたや国や親、兄弟、婚約者の復讐とかいう理由の冒険に参加するのってちょっと強引すぎるのでは?うーん、実際、モブハントとかレアモンスターハントとかのサブイベントなんてどうでもいいから、もっときっちりストーリーを深めて欲しかった。いや、モブハントもレアモンスターハントも、別に、あったらあったでいいんだけど、あれ、本編に関係なさ過ぎなんだよね。あれらサブイベントを進めてるうちに、本編のストーリーとか、ムービーでせっかく盛り上がってる気分とかが台無しになっちゃうんだよね。だったらサブイベントやらずに本編だけ進めれば良かったんじゃない?とも思うんだけど、でもさ、そこはゲームだし、映画見てるわけじゃねぇし、「○○やってくれ」って頼まれたら、とりあえず「やってやるよ!」って気分にもなるじゃないですか。で、なかなかその依頼を達成できないとムキになってクリアしたくなるじゃないですか。そんなことをやってるうちに、「ところで本編ではどういう展開になってたんだっけ?」とか、「このゲストキャラって、何のために今一緒に行動してるんだっけ?」ってなっちゃう(笑。サブイベントがあると、やり込み要素は確かに多くなるだろうけど、本編と全く連動しないサブイベントなんていらね。サブイベントで手に入るアイテムも、実用性に乏しいものばかりだし、クリア後に攻略サイトのぞいてみたけど、最強装備を作るための材料とかが手に入るようだけど、クリアのために必要のない最強装備なんて、実際のところ揃える気にもならねぇな。FF3みたいに、ラスボスがむちゃくちゃ強いとかいうんだったら、ポーション99個の裏技使ってでも最強装備を全員分揃えてやるぜ!っていう気分にもなるけど、今回のはラスボス、むちゃくちゃ弱いし(サブイベントをこなしてると余計なほどにLVが上がってるし、金も貯まるから装備も整えられる、そしてその装備で充分にラスボスに対抗できる)。FF5なんかは、きちんと最強武器シリーズがストーリーの主軸に組み込まれてるから、装備品にも愛着がわいたんだけどなぁ…。てか、ストーリーにそれなりに引き込まれていれば、同時にキャラのことを好きになってるから、クリアした後もやろうかな、クリアのために必要のない武器や召喚獣も揃えてみようかなって思うんだけど、今回は初めて、2回目のプレイはやらなそうです(笑。
音楽もパッとしなかったなぁ。印象に残ってる音楽が全くない。これまでのシリーズでは、必ず印象に残ってる曲があって、気が向いたらサントラを買ったり、もしくは借りたり、もしくはダウンロードしたりしてたけど、今回はそれもなさそうだな。で、後から気付いたら、音楽の担当者が変わってたのね…。前任の、植松伸夫の曲が作る世界観、かなり好きだったのになぁ。今作では、スーファミ時代のFFの曲がアレンジで何曲か使われてたけど、それらが流れてたことしか覚えてないよ。それから、ボス戦の後にしか流れてくれない「勝利のファンファーレ」のFF12ヴァージョンは、いまいちでした。俺的には重要な音のいくつかが省略された形のアレンジのおかげで、ボス戦後の爽快感も半減。
ライセンスシステムももう一ひねり欲しかった。てか、「ライセンス」っていうのが、なんか世界観とあまりあわない気がした。ライセンスって、つまるところ許可証ってことでしょ?だったら、召喚獣のライセンスて誰が発行してんの?って感じだし。ネーミングセンスが悪い!(笑。今回初登場の魔法、「ドンムブ」「ドンアク」なんて、もう、耳をふさぎたくなるほど最悪な響きだ!!つまり、「Don't Move」「Don't Act」の省略でしょ?ああ、寒気がするほど最悪なネーミングだ。俺が小学生の頃に書いてた物語に出てくる魔法級にダセぇネーミングだ(笑!!そして、それが強力版ともなると、もう、逆にねらってるべ?っていう感じで「ドンムブガ」「ドンアクガ」みたいな、(単語内の語感の)リズムすらあってねぇな。そうそう、ライセンスシステムね、全部マスを埋めたらボーナスとかあるのかなって思って、戦闘補助のためのアクセサリつけたいところをわざわざ、それほど必要もなかったけど「金のアミュレット(獲得ライセンスポイント二倍)」を装備させてたのに、結局、なんもなし。せっかく最強装備や最強魔法のライセンスはあるけどアイテムがないから意味ないし…っていう状況も、なんかすごくムカついたなぁ。そして、結局、ああ今回は、最強装備、最強魔法の一つにもお目にかからずにクリアしちゃったなぁ…と。あ、そうだ、「源氏の篭手」と「源氏の兜」はとったんだ。ああ、唯一、ギルガメッシュが「ロトの剣」を持ってたのには笑ったなぁ。もっとやりこめば、「ロトの剣」ならぬ「トロの剣」なるものをゲットできるようだけど、そこまでやる気力はない。
バトルの基本的なコンセプトは意外と好きでした。最初は、これまで(FF11を除く)の「戦闘画面に切り替わるFFシリーズ」とは全く違う形のバトルにすごく違和感を覚えて、「うわ、やだな、これ…」って思ったけど、慣れたらなかなかいいかなって思いましたね。俺の場合、(ストーリー中盤に差し掛かる手前辺りで、ヴァンについては主人公格のキャラじゃねぇなぁと気付いていたので、既に眼中になく(笑)、バルフレアとアーシェを感情移入するターゲットにしてたんで)、バルフレアとアーシェを中心にバトルパーティを組んでたんです。どちらか一人をリーダーにして、残り二人のバトルメンバーに他の仲間を組みこむという感じですね。で、リーダーのガンビットだけをOFFにして、あたかも自分がそのキャラになったつもりでプレイする、と。これをやると、なんか、自分自身が、仲間と一緒に冒険してるって感じがしてね。良かったです(笑。まぁ、アーシェに感情移入するとか、相手は女の子だし、なかなか難しいんだけどね。それにしても、あれだけ戦闘中に動き回れるんだから、動き回れる利点としてMPが回復するっていうことだけじゃなく、うまく操作すれば攻撃回避をコントロールできるとか、その位の緊張感は欲しかったなぁ。てか、ガンビットシステムも、コンセプト的には好きなんだけど、あれはもっと改良の余地があるんじゃないかと思った。だいたい、ガンビットを「買いそろえる」っていうのがおかしいんだよ!バルフレアやフランは空賊、バッシュは騎士、アーシェも開放軍としてずっと戦っていたはずで、ヴァンとパンネロ以外は戦いにはある程度慣れているはず。そんなやつらが、ストーリー中盤位まで「戦闘不能の味方」→「フェニックスの尾」とかっていう戦法を思い浮かばないわけがねぇじゃん!!その他にも、FFシリーズをずっとやってきたユーザーなら、超簡単に思えるような戦略すらガンビット上では立てられないっていう事態がかなり後半まで続いてさぁ。ガンビットで組み込まれていない戦略以外には全く対処できない状況になると、どうしようもなくなるなんて(手動でコマンド入力すればいいのだが…)、…その敵は氷属性の武器で殴ったら回復するんだよぉ!!さっさと自分で装備替えて戦えや!!とか、…ああ、同じ仲間にケアルダを重ねがけするんじゃねぇよ!!とか、…セーブクリスタルが目の前にあるのにエーテル使ってMP回復してんじゃねぇよ!!とか、、、いちいち突っ込みながら、手動コマンド入力を何度したことか。…あくまでも、ガンビットは、戦闘を有利に進めるための補助のアイテム、みたいな感じのことをお店の人や、店にいるお客さんなどが言っていたから、まぁ、そういう設定なら仕方ないかな…とも思うんだけど、俺的には、せっかく「仲間と一緒に冒険してる感」がガンビットシステムで仲間が勝手に動いてくれることで出ているんだから、むしろ、ガンビットは、初期状態から全ての条件が手持ちにあって、そこから自由に選べるようにして欲しかった。てか、後盤になって、せっかくガンビットの全条件を揃えても、なかなかやりたいような組み合わせを作るためのものがなかったのにも不満が残ったな。このシステム自体が既に面倒くさい要素を持ってるんだから、中途半端に面倒くさくするくらいなら、とことん面倒くさくてもいいから、もっと細かく、プレイヤーの意図を100%に近い位反映できる位の設定ができればよかったのにって思う。あと、いくつかのガンビットのパターンを保存できるようにして欲しかった、「ボス戦用」「ザコ戦用」「金(アイテム)集め用」とかね。
今回の召喚獣は、全く魅力がなかったな。いや、これまでのシリーズで出てきた召喚獣を期待していたからっていうのもあるけど、それ以前に、召喚獣弱すぎ。「うわ、やべ!このままじゃ袋叩きにあって死ぬ!!」って思うからこそ「よっしゃ!召喚獣よ、今こそ、その力でこのザコどもを一掃してくれぃっ!!」って思って召喚するのに、さんざん長いムービーで出てきたと思ったら、召喚獣が一瞬にしてザコどもに袋叩きにあって消滅って…。
「お前、通常攻撃とかいらねぇから、必殺技だけ使ってさっさと消えろよ!」
って叫んだこともありました。てか、バトルに入るのには画面の切り替えがないのに、召喚獣呼ぶシーンでは必ずムービーを見なきゃならないっていうのは、すげぇストレスがたまるな。だから結局使わないし、結果的に好きにもならない。これまでのシリーズでは、召喚獣ゲットしたら、必ず一回は呼び出してみて試しに使ってみたりしてたけど、今作では、一番最初の召喚獣と、その次のヤツ位しか呼び出してねぇよ。しかも、一回づつとか、そんなレベル。
てか、ハードがプレステになってから、FFが簡単すぎたんだよね。10とかはマジで簡単すぎたしね。だから、今作で、ザコ敵に袋叩きにされて、逃げることもできなくなって全滅とか、マジでありえねぇ!!って思っちゃうのは、俺が簡単なRPGに慣れて軟弱になったせいなんだろうけど…、「ゲームバランス設定したヤツ、マジで馬鹿じゃねぇの!!」って何度叫んだことか(笑。いや、ゲームとしては、難易度はある程度高めの方がやりがいがあるんだけどね。ああそうだ、召喚獣にかぎらず、魔法もあんまし魅力がなかったなぁ。俺はFFシリーズの最強クラスの魔法だった「メテオ」のグラフィックと効果音が、毎回どんなのになるのかを凄く楽しみにしていた人だったんだけど、FF10からメテオが消えちゃったのはショックです。今回もなかったし。今回は、「コラプス」っていうのが最強魔法っぽかったけど、結局手に入れずにクリアしたし。てか、魔法発動してダメージ与えるまでに時間掛かりすぎるから、結局魔法はほとんど使わないで、殴るだけっていうパターンに…。あー、そういや、ラストの方のボス達のほとんどが使う「絶対防御」。あれマジでうざい、ウザすぎ。あれやられると戦略もクソもない。メーカーがどういう意図であんな卑怯技をボスに持たせたのか、さっぱり理解できない。ミストナックについては、特にこれといった感想すらない(笑。あ、一つだけあった。アーシェの一つ目のミストナック「北斗骨砕斬」だっけ?(笑。お前はケンシロウか、と。
なんか批判しか書いてねぇな(笑。いや、良いところもあるんだよなぁ。ほら、バトルの基本的なコンセプトは良いと思ったし、やっぱりなんといっても画のクオリティはありえないほど良いですね。風景なんかは、ほんと凄い。反射光とか、かなり細やかなものも描写されてるのとかは、「ほぇ〜」って感じだった。フォーン海岸の風景とかは、ゲームを進めずに、ピクニック気分で、TVの前で飯食いながら、波の音聞きつつ、しばらく風景眺めてたなんてこともあった位だからなぁ(笑。ただ、キャラについては…、えーと、いや、すごいリアルだし、綺麗だし、アーシェのパンチラとかカメラアングル替えて必死になって見ようとしたりしたけど…、無表情なのは良くない!!せっかくあれほどのクオリティの画が用意できるんだから、いや、あれほどのクオリティの画だからこそむしろ、ムービー以外の通常動作の際にも、顔の動きがまばたきだけではなく、表情をある程度変化させてくれないと満足できません!敵に殴られて「あっ!」とか「くそっ!」とか言ってるのに目をつむるだけで無表情。どんな凄まじい景色を目の前にしても無表情。雨でずぶ濡れになっても無表情。砂漠を延々と歩き回っても無表情。敵に囲まれて全滅寸前でも無表情。ボス戦の直前で緊迫した状況なのに無表情。やっとたどり着いたセーブクリスタルを見ても無表情…。キャラがリアルになればなるほど、そういった細やかな表現が抜け落ちていることに違和感を覚えますね。あと、カメラアングルについてなんだけど、操作キャラの「主観アングル」が欲しかった。それと、もっとカメラを自由に動かしたかったな。「アップ(寄る)」と「フカン(見下ろす)」と「アオリ(見上げる)」の角度を自由にいじれるようにして欲しかった。いや、アーシェの真下までカメラを動かして、アップにしてパンツをまじまじと見たかったっていうわけではないですよ(笑。せっかく綺麗な風景が広がっているのに、この角度から見たいなぁっていう希望がかなえられなかったのがすごく残念なんだよなぁ。
あー、結局、批判ばっかりになっちゃったな。それもこれも、FFに対する期待が凄く大きいからなんだよなぁ。そして、期待にこたえてくれそうな人材と、そして技術と資金を持ってるだろうと思える企業だからこそ、ますますあーだこーだ言いたくなる(笑。わがままですよね、実際(笑。…てか、坂口博信、天野嘉孝、植松伸夫っていう、FFの世界観を形作ってきたベースとなるトリオが既にスクウェアからは消滅しているという事実。もう、過去のFFの流れを今後のFFに望むのは間違っているのかもしれませんね。確か、坂口博信氏が、FFはその「ファイナルファンタジー」というタイトルのように、どの作品も常に「最後」だと思って開発しているという話をしていたのを覚えています。つまり、「FFは常に進化していく」という意味を込めて言ったものだったと思うんですが…。
作品が変化していくことを「進化」と捉えるか、「退化」と捉えるか、これはプレイヤーの価値観しだいだと思いますが・・・だから、今後、FFシリーズがもしあるなら、退化には間違ってもならないようにしてもらいたい、そう切に願うばかりですね。今回のFFには、正直、ちょっとがっかりしたから、余計にそう思います。次回作に期待してます。
06.3.9(木)
まじめな話をば。
あなたは、駐車場でよく目にする、障害者のマークがある駐車スペースに駐車しますか??
いやいや、そんなことしませんよ!っていう、モラルのしっかりした人もいれば、ま〜、たまに停めちゃうなぁ。っていう人もいるでしょう。俺は後者です。もちろん、通常の駐車スペースが開いている時に、わざわざ障害者のマークがある駐車スペースに停めたりはしませんが、それ以外の場所が全てふさがっている時は停めます。うん、なんか気が引けるのは確かです。だから、あんた鬼だね、とか、あんた社会的にゴミだね、とか、言われても、強く反論はできないです。でも、自分の中ではそれが理にかなっていると思うからこそやるわけで、理にかなっていないと思っていたら、はじめからそんなことは絶対にしません。
さて、なんでこんな話をし始めたかというと、健常者(身体障害者ではない人)でありながら、わざわざ「障害者のためのマーク」を購入してまで駐車しちゃうよー!っていう、鬼畜な人が実際にいるという記事を読んだからです。俺は、Hotmailを使っているので、たまたま目に入った「Hotmail戦記」というブログをのぞいてみたら、その記事が載っていたんですよね。で、そこから、毎日新聞の記事も読んでみたんですが、世の中には色んな人がいるもんなんですね。ほんと。
…で、少し気になったので、もっと詳しく調べてみることにしました。最終的には、日本リハビリテーションセンターにまで質問の電話をしてしまう始末(笑。電話の対応をしてくださった職員の方はとても丁寧に質問に答えてくれました。何点か気になっていたことを質問してみたのですが、どうもマークについての趣旨が、多くの人々に対し、誤解を招いているような気がしてきました。
本題に入る前に一つ整理しておきます。まず、「障害者マーク」というとどんなマークを思い浮かべますか??おそらくは、青と白で描かれる「車椅子のマーク」を思い浮かべるのではないでしょうか?でも、もう一つの障害者に関するマークで「四つ葉のマーク」があるのをご存知ですか?前述した、「車椅子のマーク」の方は正式には「国際シンボルマーク」というようで、後述した「四つ葉のマーク」の方が「障害者標識」つまり「障害者マーク」というようです。ここから後、本題では誤解を避けるために、車椅子のマークを「国際シンボルマーク」と正式名称で呼ぶことにします。
さて、本題。駐車場の国際シンボルマークが描かれているスペースの本当の意味とは何か??
そもそも「国際シンボルマーク」とは「障害者が利用できる建築物、施設であることを明確に示す世界共通のシンボルマーク」だということです。ここでポイントとなるのが、「障害者が利用できる」っていう言い回しですよね。決して「障害者のみが利用できる」と言っているわけではなく、言い換えるならば「健常者も利用できる」という意味になります。このことは、実は私、大学では社会福祉学部に在籍していたので、ある程度の知識はあったのですが、なにぶん数年前のことというのもあり、記憶がおぼろげだったので、電話した際に確認の意味もこめて質問しました。そして返ってきたのは、「確かにその通りですね」という返答。つまり「健常者も利用できる」という意味でもあるということ。(念のために、「ある施設に国際シンボルマークが表記されることによって、なんらかの法的な力は生まれるのでしょうか?」と質問してみると、「いいえ」とのこと。つまり、健常者が国際シンボルマークが表記されている施設を使っていようと、法的に罰せられることはないんですね。)
さて、以上を踏まえると、国際シンボルマークが描かれている駐車スペースは、「障害者が利用できる駐車スペース」であると同時に「健常者も利用できる駐車スペース」であるということになります。
・・・。
だからどうした?と。
うん…。
こう書き連ねてきて、自分で自分に突っ込みたくなりますね、実際。
「健常者も利用できる駐車スペース」なのだから、駐車しちゃえばいいじゃん。別に法的拘束力もないんだし、誰に罰せられるわけでもない。わざわざ国際シンボルマークを購入して、障害者であることを偽装するなんていう姑息な手段を使うまでもない。HA HA!! I'll park there!!
…って、そんな態度はどうかと思うんですよね。俺は障害を持ったことがないから、障害者の心を、真にわかることはできません。でも、障害があることで様々な苦労があること位、簡単にわかります。だから、仮に自分が苦労する立場だったらと思った時、それに思いやりを示してくれる人がいたらすごく嬉しいなーと、単純にそう思うので、できる限りの「協力」はしようと、そう思っています。
さて…。しかしながら、同時に、俺は差別される気持ちを知っています。被差別感を味わったのは、アメリカ・LAに留学していた時です。人種差別と、身体障害者に対する差別とでは、少々感覚は違うかもしれませんが、「自分とは違う人」として、ネガティブな見方をされ、それに順じた態度をとられるという点においては、同じだと思います。
なぜここで差別についての話を持ち出すかというと、「満車時の国際シンボルマーク表記のスペースへの駐車」が、俺の中でなぜ理にかなっているか?という解答を導きたいがためです。
「差別」は、多くの場合、ネガティブなイメージによって生まれます。しかし、例えそれが差別する人にとっての「ネガティブなイメージ」であっても、差別される人にとっては「一つの特徴」であるとも言えます。例えば、私は実際、イエローモンキーと言われて差別された経験がありますが(その時は実際、かなりムカつきましたが:笑)、肌が黄色いことは、自分の特徴であって、恥ずべきことではない。日本人であることは、すでにそれ自体が国際社会の中では一つの特徴であるということ。その他の人種、民族であっても同じことですね。エラがはっていたり、鼻がでかかったり、体毛が濃かったり、チ○コが小さかったり、これらは全て「特徴」なんだという考え方です。仮にそれらを自分の「欠点」だと考えてしまうと、途端に不幸を導きます。「欠点」だと思い、恥じてしまった時、あなたの負けは決定です(だから、俺はイエローモンキー事件でムカッとした時点で、気持ちの上で彼らに負けたんです:笑…てか、実際、そんなの勝ち負けとかいう問題じゃないんだけど)。努力してなんとかなるものであれば、努力するでしょう。しかし、世の中には努力してもどうしようもないことだってたくさんあります。自分はそこから変わることができないことというのは多くあります。例えば、私達が日本人であるということは、どうあがいても覆すことができない事実ですよね(法的には国籍を替えられるが、生物的にはできない)。それと同様に、現代の技術では治しようのない障害を持った時、その障害を持ったという事実は、自分にとって覆しようのない事実となるでしょう。俺自身が、将来、もしも障害者となった時、果たして素直にその運命を受け入れることができるかはわかりませんが、覆しようのない事実は、認めるほかないのだということ、そして、その障害を自分の一つの「特徴」として「ポジティブなイメージ」で捉えるべきなのだということは、肝に銘じておかなければならないことだと思います。また、「特徴」として捉えるのですから、それによる差別は生まれません。なぜなら、どんな人間にでもそれぞれの特徴があることは当然ですよね。つまり、それはノーマルなことであり、差別されるべきことではないのです。差別とは、ノーマルではないものに対してなされるものですから。
「ネガティブなイメージ」を伴った「差別」ではなく、「ポジティブなイメージ」を伴った「尊重」をすること。これが重要なのではないでしょうか。しかし、誤ってはいけないことは、「尊重」と「哀れみ」は決して同じではないということです。尊重とは、相手の価値や意義を認めて重んじることです。この話の流れで言えば、相手の特徴を認めて重んじることです。そして、社会生活をしているのですから、尊重する、もしくはされるのは、片一方だけの人間だけではなく、互いの人間が尊重し、尊重されるべきだということが大切でしょう。もしも、このバランスが崩れ、他者を思いやる気持ちが一方通行になった時、その一方通行の行為は途端に、見方によっては「哀れみ」と化してしまうでしょう。…一方通行によって「尊重」が「哀れみ」に変わってしまう場合というのは、健常者が障害者を尊重しているのに、障害者が健常者を尊重しない、という場合のことです。つまり、健常者が障害者をないがしろにする行為は問題外だとして、ここでは、障害者が健常者に対して自分達は障害者だから協力しろとか、守れとか、挙句、尊重しろと押し付けてきたとします。はい、この時点で、たとえ健常者がもともと「尊重」の念をこめて行っていた行為は、「哀れみ」の念がこめられた行為になってしまうでしょう。なぜなら、片一方が自分の権利ばかり主張していては立場は対等ではありませんから。「弱者だから守れ」という論理では、健常者の立場からしてみたら、「ならば、俺は、(お前より)強い者としてお前を守って『やる』」ということになるでしょう。こんなの、全然平等じゃないです。
仮に自分自身が将来障害者になったとします。そして、多くの葛藤を経て、ポジティブ思考で生きよう、つまり、障害は自分の「新たな特徴」なんだ!と、気持ちを切り替えて生活を始めたとします。そんな時、国際シンボルマーク表記がされている施設を見たらどう思うでしょうか?そうです、すでに気持ちは障害を特徴と捉え、立場上、あくまでも「ノーマル」、つまり「健常者」と同等の立場なのですから、国際シンボルマークが表記されている施設があることも、いわば当然のこと、「ノーマル」なことです。だから、「何事もなかったかのように、当然のこととして」その施設を利用するでしょう。ここで注意すべき点は、国際シンボルマーク表記がされている施設は障害者『のため』の施設ではなく、障害者『が』利用できる施設だということです。そう、つまり、もしもこれが障害者『のため』の施設となってしまっては、真の意味で「ノーマル」ではなくなってしまうのです。つまり、「健常者」と「障害者」を分けているということは、例えそこに「ネガティブなイメージ」がなくても、例え「差別の意識はない」と言われても、障害者と健常者が相容れない空間など、差別空間としか言いようがないことなのです。
以上のことから考えると、最も論理的な行動を取るというのならば、国際シンボルマークが表記されていようがいまいが、そんなことはお構いナシに利用するのが筋なのかと思います。「いや何、たまたま停めようと思ったら、国際シンボルマークが描いてあったけど、それがどうしたの?」という位のノリで。「障害者」のことを気にも留めず、自分が「健常者」であることも特に考えもせず、「同じ人間」として考えているからこそ、なんとも思わずに利用する。注意したいのは、あくまでも「同じ人間」として考えているゆえの言動というところですね。
でも、実際のところ、真にこのように考え、そしてこのように行動をできる人がいるのか?とても疑問です。なぜなら、俺にはとてもできないから。確かに外国人は同じ人間です。確かに障害者は同じ人間です。でも、自分は日本人です。でも、自分は健常者です。どうしても、そう思っちゃうんです。分けて考えちゃうんです。
社会福祉の理念の一つとされる「ノーマライゼーション」という言葉は、障害者がいるということは「ノーマル」なことであり、また、彼らが持っている障害というのも人間的な「ノーマル」な特徴であり、さらに、健常者が障害者を尊重するようなモラルがある社会が「ノーマル」なのだということを言っているのかもしれません。しかしながら、「俺にとっての『ノーマル』」は違います。俺にとってのノーマルは、上に書いたように、自分が健常者であるとういことも考えないし、他者が障害者であるということも考えない。考えるのは、ともに同じ人間だということだけ。もしくは、外国人のことを外国人とは全く思わず、ともに同じ人間だと考える。これが俺にとっては「人間としてのノーマル」なんです。というか、国際シンボルマークが「障害者専用施設」を言うためのものではなく、あくまで「障害者が利用できる施設」としているところにも、このような理念がはたらいているからだと思うんですよね…。
今のところ、俺の理想と、実際とは大きく食い違っています。でも、そうできないのだから仕方ない。今できる、最善の方法をとるしかありません。そこで駐車場の件は、以下のようにまとめることにします。
駐車場がすいている時、国際シンボルマークが表記されているスペースに俺が駐車しないのは、障害者を尊重するがゆえです。当然そのスペースは障害を持った人達のために可能な限りとっておくというのが、「健常者として」の俺のモラルです。そして、他のスペースが満車状態の時にはそのスペースを使います。なぜなら、本来そのスペースは、障害者「専用」スペースではないのですから、むしろ使わずに残しておく方がおかしい。仮に、そのスペースに駐車したいと思うけど、周りの目が気になるし…あーイラつく!!なんてことになったら、実際、障害者に対してムカついているわけでなくても、障害者という存在があるためにそんな気持ちになっている感じがしてしまいます。そんなのは自分にとっても、障害者にとっても、そしてその駐車場を持つお店などにも不幸なことだと思うんです。だから、本来、使ってはいけない空間ではないのだから、満車の時位、気にせずに停めてもよいのではないかと思うんです。しかし、俺がそのスペースに駐車した後に、万一、障害者が駐車したい、というような状況になったらどうでしょうか?こんな時は素直に譲りましょう。だって、障害者はそのスペースに駐車する特徴を持った人達なのだから、そこに駐車するのが適当なんだし。さらに、そこに駐車したがっているならばなおのことですよね。俺がちょっと我慢して、他のスペースが空くのを待てばいいだけの事なんだし。そして、そうすることがノーマルなことなんでしょう。これがノーマライゼーションの言わんとしていることだと思います…
がーーー!!!
やっぱり、俺的には全然ノーマルじゃねぇんだよ!!そんなん、俺の中では偽善なんだよ!!ああ、それを当然のようにできるモラリストならいいさ!そんな人がいたらすげぇなって素直に思うよ!だけど、俺はそんなこと素直に思えねぇんだよっ!!
はぁはぁ。
ということで、長々と書いてきたけど、結局のところ、俺は、…うーん、偽善でもいいんじゃないかなぁと思うわけで(笑。だって、この場合の偽善は、方向性がポジティブだから。みんなが幸せになるに越したことはない。例え偽善でも、相手が仮にいい気分になったら、それはそれでアリだと思う。仮に自分がそうされてもアリだと思うし。偽ってても善は善だ!俺が善だと思ってんだから、俺の中では善だ!なんていう、暴論で締めくくりたいと思います(笑。
05.9.18(日)
久し振りに自分の書いた、スケート論文とやらを読んでみた。
単刀直入に言うと、当時の俺のスケートに対する真面目さがすごくわかった(笑。バカ真面目だと思った。今の考え方とは大分違っているものも多くあったので、そこについては加筆修正、もしくは思い切って削除してしまいました。
俺のスケートへ対する姿勢を変えたのは、LAで出会った、一人のアメリカ人スケーターでした。LA滞在記には多分書いていないけど、ある日、パークで一人で滑っていた俺。なかなかトリックができなくてイラついてしかめっ面になっていたんでしょうね。そのスケーターが、俺のそばを通り過ぎるときに掛けてくれた言葉。「エンジョイ、メ〜ン♪」・・・。頭の中でこだまする「エンジョイメ〜ン」の声。汗がハタハタと地面に落ちるのを見つめながら、俺は、はっとしました。そうだった!スケボーは楽しいからやってるんだった・・・って。いつの間にか、スケボーを「やりたい」から、「やらなくては」に変わっていたことに、そのとき気づいたのでした。魔法の言葉、エンジョイメ〜ン。俺にスケボーの楽しさを再発見させてくれた、あの白人には本当に感・・・、というか、特に話をしたわけでもないので、別に何とも思ってませんね、実際(笑。
05.8.31(水)
8月9日に更新して以来の更新・・・。週に一度位はムービーの追加をしていきたいとか言いながら、2週間弱の放置。前回の“つづり”で、「目標小さっ!」とか言いながら、いきなり目標から外れてやんの。・・・まぁ、のんびりいきます。自分のリズムを崩してまで、無理してやってると、段々つまらなくなってくるので(苦笑。
今回の動画は、フェイキーフロントフリップ。ランディング後にバランス崩れてるんで、アップするのに躊躇していたんですが、このまま更新せず、というのもなんだなぁと思って、載せてみました。ぴったしメイクしてるのを撮りたかったんですけどね・・・、その時の気分とか、友達に撮ってもらってるとか、もうじき日が暮れるだとか、色々条件があって、妥協しちゃいました(笑。気が向いたら、ぴったしメイクしてるヤツを撮りたいですね。
話題は唐突に変わりますが、先日、日テレで“24時間テレビ”をやっていました。キャッチコピーは、言わずと知れた“愛は地球を救う”。小さい頃から、このキャッチコピーを聞かされていたので、今まで疑問に思うことなどなかったんだけど、ふと思った。「“地球を救う”って・・・、なんか、おかしくない!?」と。
生物は、地球の恵みを享受することで、“生かされ”ているはずです。特に人間は、量的な問題で言えば、最もその恵みを受けている種でしょう。俺たちが「生きる」ためには、必要最低限の資源(有機物・無機物問わず)を「消費」しなければならないわけで、つまり、俺たちが生きるということは、(地球自体を、生命活動に必要な全て、と置き換えるなら)、どんなに愛情いっぱいな人間であろうと、「地球を救う」ことなど到底できないどころか、「地球を消費する」ことであるとも言えるのではないでしょうか。
人間が他の生物とちょっと違うところは、単に消費活動のみをするわけではなく、生産活動もするという点でしょうか。しかし、生産するための資源は地球上の資源です。生産活動ではなく、保全活動はどうでしょうか?言うまでも無く、保全活動にせよ、活動のために必要な資源は地球上の資源です。他には??おそらく、どんなに例を挙げようと、「活動」するには地球上の資源を使い回さなければならないのです。そもそも、上述したように、人間が何かの活動(思考活動なども全て)をする前提としての“命”を保つためには、地球に依存しなければどうしようもないんですよね。これは地球から出たって同じことです。神にでもならない限り、つまり、無から有を生み出すことでも出来ない限り、人間は物質的な永久サイクルの中から抜け出すことは出来ないわけで、この世はもちろん、地球を「救う」ことなど、決して不可能な話なんじゃないでしょうか。せいぜい出来ることといったら、今ある地球の状態を「人間の都合のみで」変化させないように努力することでしょうか。と言っても、人間も自然界から見たら、なんら特別な存在ではないんだから、人間の都合で環境を変えたって、それは、大局で見れば、大きな自然の流れの一つに過ぎないとも思うんですよね。だから、地球が人間の都合で環境がめちゃくちゃ悪くなろうが、実は、自然界としてはどうでもいいことなんじゃないかなぁ・・・と。環境が悪くなって辛い思いをするのは、結局のところ自分たち人間ではないのかなと・・・。
こう考えてみると、話は戻りますが、24時間テレビのキャッチコピーは、「愛は地球を救う」というよりは、「愛は人間を救う」っていう方が適当なんじゃないかなぁと、思うわけです。
・・・ただ、それだけの話なんですけどね(笑。
05.8.09(火)
久し振りに気まぐれ更新してみたりする(笑。
今日は、少し気持ち的余裕があったので、動画を撮ってきました。ハーフキャブヒール。・・・ホントはあと2、3トリックは収めてくるつもりだったんだけど、なかなかメイクできねぇわ、一人で撮影するのがあまりにダルいわで、結局一つしか撮れませんでした(苦笑。今後も、週に一回位はワントリックムービーのコンテンツを更新していきたいな〜なんて、甘い願望を抱いていたりするのですが、どうなるでしょうね。とりあえず、トリックの引き出しはまだ結構あるつもりなので、時間と気持ちのタイミングに相談しながら更新していこうと思います。目標週一回!(目標小さっ!)
さて、最近の俺。帰国以来ずーっと漫画ばっかり描いてます。スケボーは週に一回(笑。多くても二回。もはや、スケーターとは呼べない領域に入ってしまっていそうです。でも、スケボーは大好きです。最近、こんなスタンスで、まったりとしたスケボーリズムなんだけど、以前、バリバリやっていた頃に比べて、意外と調子良かったりするんです。以前は「やらなくてわぁっ!!!」って、意気込み過ぎてて、楽しんでスケボーするっていうのが欠けてたんじゃないかなと、その時はそれでも楽しいと思っていたはずなんですけど、どこか力みすぎて、頭が固くなってしまって、ホントはやれることもやれなかったんじゃないか?最近はそう思うんですよね。最近は、やれなかったら仕方ない、他のトリックしよ〜、みたいなノリで、自分的につまらないスケボー、つまり自分自身に義務を課すようなスケボーはしないようにしてます。でも、こういうスタンスだと、根性系スケートはできなくなってるっぽいかも。ステアとかハンドレールとか。まだ、このリズムになってからそれ系のことはしてないから何とも言えないんだけど・・・、ま〜その時はその時で、頭切り替えればいいかー!
それにしても、漫画一つ作るのってすごく大変なんですね。帰国からそろそろ一年たつけど、エロ漫画以外のちゃんとしたストーリー漫画は一つも完成してないんですよ(笑。エロは簡単。だって、己が欲望の赴くままにシナリオ作って、絵を描けばいいんだから(笑。ストーリー漫画は、一年間ずっと構想を練ってきた長編から一旦手を引いて、最近は、やっぱまずは短編を描かなきゃ力も付かないべ!ということで、短編漫画を描こうと、構想を練っているのですが、これがまた難しいのね。短いのは短いなりに難しい。何かテーマを盛り込もうとするとさらに難しい。・・・にしても、このまま結局何も作れず仕舞いっていうのは、一番最悪な展開なので、それだけは避けないとなぁ〜とか思いつつ、毎日デスクに向かっているんだけど、いつの間にかエロ漫画を描いている今日この頃なのでした(汁。
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