創作 幌別村男爵伝  高森 繁

序 章

 吹雪がやむと、藁靴の踏み跡や馬橇が残した二本の線条、エゾシカやキタキツネ の足跡など、雪原に刻まれた命の痕跡はすっかり掻き消され、雪の大地はたちまち 無垢の銀世界を取り戻した。カタカタと粗末な掘っ建て小屋を震わせ、かすれた笛 の音を響かせては板壁の隙間や節穴から忍び込む風もいつしか止み、あらゆる存在 が白い静寂の世界に再び閉じ込められる。近くを流れる幌別川の水音も、川面を覆った 氷の下で凍えていた。
 新雪の地平に浮き立つ明瞭な彩りといえば、向こうに広がるトドマツやエゾマツ などの針葉樹林、その足下にたくましく広がる黄緑色の肌つやを光らせる熊笹の群 れぐらいか。
 (そう、北の大地を拓(ひら)く者にとって最も手強い真の敵は、どう猛なヒグマ や千古斧を知らぬ大木ではなく、地面を覆い尽くす熊笹だった)
 根元から刈ると浮き出てくる地下茎。野性をむき出しにした強靱な茎の網が、貧弱 な力加減で打ち込まれる鍬の刃先を、せせら笑うように簡単に跳ね返す。 はいつくばり、鋭く研いだ鎌で勢いよく断ち切るか、頭上に高く振り上げて、 力いっぱい何度も鍬を振り降ろさなければ、そう易々(やすやす)と無限に広がる 網目は解きほぐせないのだ。
 日も暮れかかるころ、人力の熊笹退治で手に入れた領地はせいぜい数畳ほどの広 さだ。その後、雨が続いて作業がしばらく中断すると、せっかく切り開いた地面の 下に四方八方から地下茎の妖しく光る触手が忍び寄り、元の支配者に返り咲こうと 攻め込んでくるから、何とも手に負えない。
 (それでも、父に連れられ入植した頃に比べると、農耕馬や西洋農具のおかげで 土起こしは、ずいぶん楽になった。小作人の頑張りもあって、最初に計画した畑地 千坪の五分の一は耕作地に生まれ変わった。いよいよ今年の春には、本格的な種まき が出来る。秋には待望の収穫が…)
 厳冬二月の幌別村小平河岸。跳ね上げ窓をあけ、雪の下で春を待つ川沿いの開墾 地をじっと見つめる片倉景光(かたくらかげみつ)がいた。ひとつ屋根の下で暮らす 家族は四人。妻の竹子は、藍染めの色褪せた刺し子の野良着のほころびを、丹念に 繕っている。もうすぐ七つになる長女の幸子は囲炉裏のそばで、三つ年下の次女節子 を相手に、手遊びに興じている。葡萄蔓で編んだゆりかごの中で眠っているのは、 赤ん坊の三女貞子だ。
 いつしか夕闇が忍び寄っていた。竹子は炉端にひざを折り、細く短い粗朶(そだ) を手にした。居住まいや身のこなしなど、もんぺ姿の農婦の所作には武家育ちを うかがわせる、凛とした振る舞いがあった。
 くすぶる小枝の先が、ほのかな火種に変わった。天井から吊したランプの覆いガラス を外し、ちらちら燃える枝先をかざすと、灯心はパッと目覚め、広間は光の温もりを 取り戻した。これから一家の、つましい夕餉が始まる。今宵も膳に上るのは麦に大根、 干し菜や小豆をまぜた糅(かて)飯(めし)だ。
 景光が、かつて行き来したこともあるこの地に、家族を引き連れ室蘭から乗りこんだ のは明治二十一年八月半ばだった。
 はた目には、北海道幌別村の一開拓農民にすぎない男の血筋や往日をたどると、 もどかしくも運命としか言いようのない苦難と忍従の道のりがあった。
 (あの時は、まだ十二歳。何も分からないまま、故郷白石を離れ、この北海道 にやってきた)
 あの時とは、父景(かげ)範(のり)に寄り添い片倉家の新たな支配地、幌別郡の土 を初めて踏んだ明治三年七月初め、まだ幼名の三之助を名乗っていた頃のことだ。 何不自由ない御殿暮らしから一転、荒涼とした未開の原野に放り出されるまで、 二年も要さなかった。

 慶応四年正月三日に勃発した鳥羽伏見の戦いが、戊辰戦争へと歴史の歯車を 大きく回し始めた。「幕府軍は朝敵、会津憎し。奥羽は皆敵」。錦の御旗を掲げた 薩長軍は怒濤の勢いで、上野戦争、東北・北越戦争に勝利し、一年足らずで政権の 座を確固たるものにした。
 伊達政宗の片腕として摺上原の合戦で大きな戦功を立てた景綱の入城以来、 百六十年にわたり片倉家が居城としてきた磐城国刈田郡白石城の歴史にも、 終焉(しゅうえん)が訪れた。奥羽越列藩同盟の軍議所となったこの城も、 当然のことながら仙台藩降伏の一カ月後、官軍総督府へ明け渡され、 十一代小十郎邦憲(くにのり)や嫡男景範、景光親子らは追われるように、 仙台城の片倉屋敷に身を寄せた。
 しかし、家来、とりわけ上級武士たちは土着帰農という、宗藩の冷徹な御沙汰 にあらがい、新たな活路を求めた。その結果が、武士の身分を保ったままの 片倉主従による北地跋渉だった。
 (もう二十年近い、月日が流れた。客馬車の御者に始まり、室蘭での郵便配達夫、 戸長役場の臨時雇員、そして牛飼い仕事…)
 囲炉裏の炎をじっと見つめながら手酌で酒をのむ景光は、どれをとっても名家を 継ぐ男の生業とは言い難い職歴の数々を思いだしながら盃を傾けた。
 たちまち、困惑のただ中に置き去りにされた出来事が、脳裏を走った。幌別郡 支配罷免で片倉家再興の足掛かりを失った父景範の、札幌への転居だった。 旧臣の数では、幌別郡に比べ圧倒的に多い北海道の首府へ。郡民は動揺し、 景範を慕い一部が相次ぎ道都に移転した。
 この窮地を脱する手立ては? 元家老たちが額を寄せ合い、見出した一筋の光明 が「旧主君の尊孫」だった。その人に、この幌別村に戻って頂ければ、旧臣の離村は 治まる。ただちに仙台の邦憲に、東京修学中の景光帰村を願い出ると、 あっさり認められた。
 まだ十五歳だった。世情も満足に知らない自分が郡民の希望の星と仰がれ、 推戴されることに戸惑いがなかったといえば嘘になる。おまけに開拓途上のこの 村で、衣食住のなにもかもが、潤沢に用意されているわけでもない。
 その景光に生きる希望を与えたのは、室蘭病院長の長女竹子だった。 景光二十二歳の年に二人は結ばれた。
 (そして、見栄も外聞もかなぐり捨てて、生き抜く覚悟を決めた)
 八年後、旧臣らの骨折りで払い下げされた三万坪の原野が、景光の眼前に 広がった。
 (己の手で、己の意志で、この原始林を豊饒の地に生まれ変わらせてみせる)
 片倉家臣団の幌別郡入植から二十年の時を超えて、小平河岸の地に新参のひと鍬 を入れた景光の心に、先陣を切って荒ぶる大地に立ち向かった侍たちの凛々しい姿 がよみがえった。


第一章

1.モロラン道

 目指す幌別村までは、およそ五里の道のりだ。
 菅笠に野袴、草鞋履きの武士と道中着姿の女や子ども、挟箱をかついだ尻端折り の使用人や道具箱を背負った職人たち。明治三年七月一日、幕政時代の旅装束 そのままに蝦夷の道を急ぐ旅の一団は五日前、松島湾の寒風沢を船出し、今朝方、 北海道内浦湾東端の室蘭に降り立った。
 夜が明けてから、小型の帆船に彼らを吐き出した三本マストのバーク型洋式帆船 鳳凰丸は、とっくに船泊りを離れ、何事もなかったかのように悠然と横帆に風を孕 ませて水平線の向こうに消えようとしている。旅慣れしていない家族集団が何者で、 これから蝦夷の地で何をしようとしているのか、関心の糸は下船を境に 断ち切られ、北の海を去りゆこうとしている。
 遠浅の海辺近くに点在する会所や旅籠、アイヌ集落のある室蘭から、南部藩の 陣屋跡、幌萌、チリベツを通り、鷲別村の追分まで、七段坂とも言われる モロラン道は、登っては下り、また登りを繰り返す、やや険しい道のりだ。 寛政十一年、東蝦夷地が松前藩から幕府の直轄となり、箱館から東へ向かう 交通の主要道として整備された。のちに「大日本沿海輿地全図」を完成させた 測量家の伊能忠敬や、「北海道」の名付け親松浦武四郎も通った道だ。道幅こそ 広いところでは四間ほどあり人馬往来に支障のない山道とはいえ、 途中何本もの川を渡り、湿地に足もとを濡らしながらの歩き旅に疲れを にじませた女、子どもたちを追い立てるように、夏の日差しがジリジリと 降り注いだ。

 「片倉小十郎 胆振国之内 幌別郡 右一郡其方支配ニ被仰付候事」
 一行の旧主人、第十一代片倉小十郎邦憲に、明治維新政府の最高行政機関・太政官 から幌別、鷲別、登別の三村から成る幌別郡支配の沙汰が下されたのは、 明治二年九月のことだ。前年の慶応四年、すなわち明治元年の東北戦争惨敗の 代償はあまりに大きかった。この年の九月十五日、奥羽越列藩同盟の総督伊達慶邦は、 米沢藩に続いて政府軍に降伏の白旗を挙げた。維新政権が下した仙台藩への処分は、 六十二万五千石あった禄高を二十八万石に削封する厳しいものだった。
 その列藩同盟契りの場となった白石城の城主、片倉家の家禄は一万八千石から、 無いに等しいわずか玄米五十五俵に減らされ、千二百人余の家臣たちがすがる 両袖はあっけなく、ちぎれ飛んだ。
 片倉家に対する宗藩・伊達家のお達しは帰農、すなわち家臣一同、刀を捨てて 農民となり、新領主となる旧盛岡藩主南部家の下で糊口を凌ぐべしとの通達 だった。
 他に道はないのか? 四方に目を凝らし、八方手を尽くして見いだした光明が 北地跋渉だった。武士の身分のまま北海道開拓に旧主とともに汗を流して、お家 再興を図る。祖先の地を捨てる断腸の思いをかなぐり捨て、一縷(いちる)の望み を賭けて家中の約二割が後者を選んだ。

「間もなく、チリベツ昼休所!」  陽が中天をまたぎ始めた頃、移住第一陣八十人の取締役を命じられた佐藤誠が、 皆を励ますように声を張り上げた。幌別村までの道のりは残り半分。 鷲別村の追分まで出れば、浜伝いに平坦な道が続き、日暮れ前には幌別に着きそう だ。
 首筋や額ににじむ汗の臭いをかぎつけたアブや蚊がまとわりつく。鬱蒼とした 樹林や一歩道を逸れて踏み入ると、むち打つように跳ね返す熊笹や根曲がり竹の 逆襲がある。蝦夷地の山野の威容は明らかに、彼らが後にした磐城国刈田郡 白石地方のそれとは異なった。
 (しかし、ここまで来て、おめおめと白石には戻れぬわ。土地も屋敷も、 先祖伝来の甲冑まで売り払ったが、悔やんでなんになる。もし、こんな未開の地で 屍(しかばね)となるならこれも天命、致し方あるまい)
 齢(よわい)六十五の佐藤無我が、腹の中で自らに言い聞かせた。
 旅の指揮を執る長男の誠は、不惑の四十歳に達し、移住組の重臣らが急ごしらえで 作った「幌別開拓役所」の大監察に抜擢された。維新前までの禄高は三貫二百 五十六文。家中の中堅どころを物語るこの俸禄も、一夜にして露と消えた。 無我はすでに隠居の身。傘寿間近の母や妻ともども、白石の親戚筋に身を寄せる道 がなかった訳ではない。しかし、硬骨の侍魂はなお枯れず。息子家族が挑むのなら この儂(わし)も、と怯むことなく蝦夷地行きに名乗りを挙げた。
 (老いたりといえど、まだ、まだ、主君のお役に立ちますぞ)
 お家再興の熱い思いを胸に、無我は道の左右に果てしなく広がる原始林を 不敵な面構えで睨んだ。
 列の中ほどを家族とともに歩く佐野源蔵の胸中にも、行く手の風景と重なる 記憶が去来した。共に歩みを進める父甚内定路から明治元年早々、二十四歳で 家督を譲り受けた。禄高四貫七百三十六文の筆頭武頭として、先祖代々、戦さと なれば先陣を切ってきた名門の出だ。
 (白石では、仙台領南境の斎川宿から越河宿にかけての奥州街道が難所と 言われたが、峻険さにおいて、このモロラン道もひけをとらぬ)
 その山道が、東北戦争の残像を浮かび上がらせた。
 (七月末、邦憲さまの陣頭指揮のもと総勢百二十人余が、あの斎川宿の甲冑堂 から鐙摺(あぶみずり)を抜け、白石城から南に二里の越河口に陣を敷いた。 数日後には、上戸沢口にも景範さまの一隊二百人も出陣し、いよいよ戦ぞと 覚悟したが、ついに官軍と銃火、刃を交えることなく、おめおめとお城に引き返し たのだ)
 そして秋には宗藩の降伏。線香花火にもならなかった口惜しい記憶を振り払い、 振り払い、新天地を求めて彼らは、山道を踏み越えていく。
 「これより、我等が領地内の鷲別村。ついに来たぞ」
 鷲別川を越えたあたりから一行は、すでに片倉家支配地の幌別郡に足を踏み入れて いた。湿地帯を抜けて海岸近くまで来ると、三叉路に突き当たった。 そこには太平洋の潮騒を背に立つ、朽ちかけの標木が彼らを待ち受けていた。 回り込んで見ると「追分 右モロラン 左ヲイナウシ」のかすれた文字が、 新領地の境界点であることを告げていた。
 樹林を縫って進んだ山越えの風景から一転して、ハマナス咲く砂浜沿いに 約一里半歩いて幌別村の永住人、東海林栄蔵宅に一行が到着したのは戌の刻 あたり、今の暦で七月下旬、日暮れ時の午後七時ごろだ。道々続く風景から 大方の察しはついていたが、移住旅の終着点に待っていたのは未開の原野に 点在する永住人や先住民の萱葺き小屋、つい数ヶ月前に拡張を終えた会所など、 数棟の建物だった。
 何はともあれ旅の終わりの落ち着き処に、武士家族二十一戸六十七人と 職人ら十三人は、やっと人心地ついた。

2.海峡越え

 流れの速い津軽暖流の三本の潮流が、行く手に待ちかまえている。下北半島大間崎 から、弁財船・長栄丸に乗りこんだのは、片倉邦憲の嫡男・豊七郎景範と長男で まだ幼名三之助を名乗っていたのちの景光、そして盟主の名代を護衛する家老 佐藤孝郷(たかさと)と従者八人。船頭や水主(かこ)を除くと、およそ二十人程度は 乗船できる帆船だ。水押(みよし)から船尾の戸立までの航(かわら)長は、 およそ三十尺の百石船。松前稼ぎや旅人の海峡送りに往復するが、 ふだんは廻船として海峡や半島回りで物資を運搬している。
 移住本隊とは別に、彼らは六月二十二日仙台を出立し、奥州街道を北上して 大間から日和待ちすることなく、函館への渡海に臨んだ。船の手配はというと、 前日、宿をとった佐井から、用人の一人を大間に差し向け、長栄丸を確保した。 海峡を挟んで大間は函館まで最短距離の位置にある。船賃は合わせて三円五十銭。
 (足元を見おって。しかし、致し方ない。日和待ちで幾日も足止めされるよりは ましだわ)
 日野愛憙(なるよし)と並んで弱冠二十代の家老職にあった俊英、佐藤孝郷は 船に乗りこむとき、愛想笑いする潮焼けした船頭に一瞥をくれ、腹の中で苦笑 した。
 船出を前に景範、景光親子は、近くの見晴らし台に立った。海峡の約四里半先 に、亀田半島の汐首岬が間近に見える。上陸する函館港は、左手にかすむ臥牛山の ふもとだ。
 「三之助、あれが蝦夷地だ。片倉家の新しい領地となる幌別郡へは、この海 を渡らねばならぬ。よいな」
 片倉家当主、邦憲の代理として支配地に乗りこむ父の言葉に、景光は「はい」 と頷いたが、心なしか語気に勢いはなかった。
 城を出てこのかた、初めて味わう何もかもが、心身に緊張と疲労をもたらして きた。幼少期と少年期の端境にある十二歳の心は、新領地開拓に勇躍する大人たち のそれと同列には語れないのだ。
 景範や孝郷らは前年の十一月、支配地受領の出張旅で津軽海峡を往復しているが、 景光にとっては、当然ながら海峡越えは初めてだ。行く先々に、未知なる試練が 待っている。
 早朝、東風を帆に孕ませた長栄丸が、ゆっくり大間崎を離れた。波穏やかな 渡海日和に、帆船は悠然と波を切って進んで行く。(これなら未の刻前には、 函館に着くか)。孝郷らが胸算用する。しかし、半時もすると潮目の難所に 差し掛かり、逆立つ波に船体は徐々に上下左右に揺れ始めた。
 裁着(たっつけ)袴にぶっさき羽織、腰には小脇差しと、子どもながらにも一人 前の武家装束で奥州街道を馬の背に揺られてきた。その旅の疲れが、舳先の上下動 に誘われるように滲み出てくる。
 少年期のぷっくりした頬が、こみ上げる吐き気とともに蒼白く変わり始めたのを 見たお付きの者が「三之助さま、これを」と、酔い止めの丸薬と竹水筒を差し出した。 薬を水とともに飲み込んだ景光に、従者は「さあ、お体を横たえ、舟に身をまかせ 一心同体になれば、楽になれますぞ」と言い添えた。
 微かに明かりが差し込む屋倉部屋。景光は仰向けになり、黒光りする床板に 身を委ねた。
 八歳から剣術を学び、体は鍛えてきた。稽古に私情を挟まない指南役からは、 いつ、いかなる時も、武士の心構えを忘れずにと教えられてきた。どのような 苦難に遭っても、最善の対処をすべしと。そうしたいが、船酔いだけは、 どうにも処しがたい。五体を繰り返し揺らす波のうねりが、お城暮らしの おぼろげな思い出を誘い出した。
 白石盆地の中央西寄りを、南北にのびる独立丘陵。その北側に白石城が そびえる。慶長七年、仙台城の支城として、初代片倉小十郎景綱が入城。 代々片倉家の居城として威容を保ち、江戸の方角ににらみを利かしてきた。 徳川幕府の一国一城令後も解体されず残ったのは、仙台領南境を守る要害堅固 な城として伊達家が重視し、幕府もこれを認めざるを得ないほど、仙台藩の力が 強かったためといわれる。
 本丸の北西方向には三階櫓(やぐら)が配され、最上階天守の広さは東西五間、 南北三間。南西の角に未申、南東に辰巳の隅櫓を配した守備面で強固な平山城だ。 武家屋敷や商家、旅籠などを見下ろす先には、悠然と流れる斎川の水面が きらめき、さらに遠望すると阿武隈山系が広がる。西に目を転じれば、熊野岳を 主峰とする蔵王の山並みがどっかと横たわっている。
 明治元年十月九日、白石城が維新政府の白川口総督府に明け渡されるまで、 景光は父母が住むニノ丸御殿で育った。本丸には仙台藩主が参勤交代の途中に 宿泊する御成御殿や、城主の祖父邦憲が起居する奥向御殿、祖母のための 奥方御殿などが配されている。

 船の揺れに促されて広がる夢うつつの世界に、屈託のないお城暮らしの記憶が 現れては消える。
「母上…」
 白石城を追われ避難した青葉城内にある片倉家の川内屋敷。祖父邦憲らと ともに、今もそこに住む母親の顔が浮かんだ瞬間、その一言が、思わず口を 突いて出た。

 「さあ、もうひと息じゃ。風よ、変わるな」
 烈風、凪のどちらもご免こうむる、と念ずる船頭や楫師(かじし)の願い通り、 竜飛の汐、中の汐に続いて、長栄丸は函館側の最後の潮流白神の汐を乗り越え、 日没前に一行は函館に上陸した。


3.曲 折

 「蝦夷地」から「北海道」へ。明治二年八月十五日の太政官布告によって地名 が改められた北の大地は、和人と先住民族アイヌの人々を合わせても、人口 わずか六万人弱の広大無辺の地だった。
 新政府の御沙汰によって片倉家が支配経営することになった幌別郡は、北海道 の南西部に位置する。太平洋に面した長さ約四里の海岸線に注ぎ込む河川は、 大小合わせて二十本弱、ほぼ菱形をした支配地の広さは二万町歩にのぼる。 内陸部には丘陵地帯が連なり、西北方向にはカムイヌプリや鷲別岳、北東には オロフレ岳や来馬山などの山々が鎮座する。西隣は仙台藩伊達家一門の筆頭、 角田・石川家の土地となった胆振国室蘭郡、さらにその先の内浦湾を望む 有珠郡の主は同じ伊達家一門に名を連ねた亘理伊達家、反対の東隣白老郡は 一ノ関・田村家が治めることになった。
 いずれも東北戦争の末、官の側から賊軍の烙印を押された仙台藩支藩。 しかし、維新政府にとって、蝦夷地進出を虎視眈々と窺うロシアへの防壁を早急 に築くには、打ってつけ侍集団でもあった。同時に手つかずの広い北の大地は、 失業武士たちが新たな生活の道を開く別天地にもなり得る。
 そこを突いて、箱館に開拓使が置かれた明治二年七月二十二日、太政官は 「今後諸藩士族民に至るまで志願次第、申出候者は相応の地割渡開拓仰せ付けら れるべく候事」と布告した。移住開拓する者には、十一国八十六郡に分割した 北海道の土地を分け与える。領地俸禄を失った藩主や家中の者には垂涎の誘い 文句と、「北門の鎖鑰(さやく)」という武士の面目も保たれる言辞に、諸藩 はこぞって北地跋渉に名乗りをあげた。
 一門、一家、一族、着座、宿老と下る伊達藩の門閥序列において、一家の 家柄にあった片倉主従もまた、失った領地を北の地で取り戻す千載一遇の機会 として、この移民政策に乗った。
 太政官布告から間もない八月中旬、
 「士道一途ニ相嗜居候者共一旦農商ニ混シ徭役親ラシ候事ニ而ハ到底生活之 見詰更ニ無之」
 「老幼男女取合千余人眼前流離凍餒ニ立至…」 「而人蝦夷地ニ赴キ相共ニ励精尽力艱難苦楚ヲ不厭或ハ耕作ヲ務メ或ハ漁猟 ヲ為シテ生活ヲ計リ」
 などと嘆願書をしたため、按察府に願い出た。
 六百余字に及ぶ書面には「武士道一筋に心がけてきた者たちが、いったん 農業、商業者に混じり徭役(ようえき)についても生活の見通しが立たず、老幼 男女千人余が目の前で流浪し寒さと飢えに立ち至ること必定」と哀訴し、 「よって蝦夷地に赴き、相共に励精尽力艱難苦楚を厭わず、或は耕作を務め、 或は漁猟を為して生活を計り」と、移住への意欲を押し出している。
 事態はそれほど、切迫していたのだ。維新前まで足軽や半農半士だった徒小姓、 鉄砲、鷹匠など軽格の組士は旧領にとどまり、農民や商人、職人などに 身を置き替え自力で生きる道を選んだ。一方、俸禄を失った士分格の者たちは、 武士としての威儀を正して見せる以外、生きるすべを持ち合わせていなかった。 三百年の長きにわたり、農民や出入りの商人を常に下に置いてきた者たちに とって、立ち位置が高ければ高いほど、その矜持をかなぐり捨てる訳には いかなかった。
 「蝦夷地ニ赴キ」と覚悟を決めるまでの、士籍に固執する旧臣らの執念と しか言いようのない動きは、目を見張るものがあった。
 「殿、朗報ですぞ。近く、諸藩に蝦夷地開拓奨励のお達しがあると…」
 明治二年六月初旬、仙台城内の川内屋敷で暗鬱の日々をおくる片倉邦憲の元 へ、家老の斉藤理左衛門(のちの良知)が吉報をもたらした。
 斉藤は同じ家老職にある日野愛憙らと春先から上京し、新政府に救いの手を 差し伸べてもらう方途はないのか—と、家臣団生き残りの道を模索していた。
 「我らと同じく、東京で奔走されておられた亘理の田村殿から、有力なお話を 伺いました」
 この言葉に、邦憲の曇り気味だった眼に、光が宿った。
 田村とは、伊達家一門亘理伊達藩の家老、田村顕允(あきまさ)。藩主伊達邦 成(くにしげ)の有能な右腕だった。
 「田村殿が申すには、あちらでは既に広沢参議に蝦夷地移住の願いを出して おり、『近く蝦夷地開拓の勅命が下るから、その時に請願せよ』との話を内々に 得ているとのこと」
 「貴殿らも熟考の上、北地跋渉に臨んでは」と、田村から助言されたという。
 前年九月、一戦も交えず官軍にひれ伏し、暗雲立ち込める行く手に家中の者たち は戦々恐々としていた。そして宗家から言い渡されたのは「片倉の家来は全員、 土着帰農せよ」との、厳しいお達しだった。
 当主邦憲は、事ここに至っては、受け入れはやむなしーと、いったんは腹を 決めた。片倉家自体、一万八千石あった禄高を剥ぎ取られたのだ。
 しかし、上級武士を中心とする一部家臣の強硬な反対に押され、断ちがたい 君臣の情にも心は揺れ、立ち往生していた。
 その眼前に一筋引かれた、新たな活路。ただし、蝦夷へ移り住むための資金は、 国からは出ない。「自費」の二文字が、今や禄高五十五俵の落ちぶれた片倉家に、 重くのしかかる。
 (ともあれ、漁労や畑作など拓殖経営で借財返済の道が、ないわけでもない。 この話に、はやる家臣らを押しとどめるのは、もはや限界か)
 「前向きに、談合せよ」
 邦憲は意を決し、斉藤や日野らに命じた。
 白石城から南へ九丁下った常英山傑山寺。六月二十八日、斉藤は早速、ここ 片倉家の菩提寺に家中の者たちを集めた。「邦憲さまの下命である」と。政府が 諸藩に移住を督励する半月前の行動だった。
 「蝦夷へ渡り、主君の下で新領地を切り開こうではないか。汚名をそそごう ではないか」
 傑山寺の本堂に顔をそろえた八百人は、斉藤良知が説く壮大とも、無謀とも 思える計画に、まずは驚き、沈思黙考した。
 (近々、政府が官員を募るという噂もある。その時まで堪え忍び、役人の道へ)
 (いかなる時も、主君とともにあるのが家臣の務め。蝦夷地でも、どこへでも、 行こうぞ)
 (時代は変わった。もう、腰の大小を振り回す世ではない。商人にでもなるか)
 (父祖代々の土地、墓を捨てて行くのはどうにも耐え難いが…どうする)
 さまざまな思惑や迷い、不安や決断がそれぞれの胸に去来する。
 誰が煽ったというわけもない。議論沸騰のうちに、場の雰囲気は次第に 北地跋渉へと傾きはじめ、二百四十人が眦(まなじり)を決し「北辺に骨を うずめる」と名乗り出た。その後の五日間で、移住開拓盟約者は約六百二十戸、 二千人余りに達した。
 「満山ノ光景 活トシテ昂然ノ気 堂外ニ溢ル」
 日野愛憙は目に焼き付けたこの日の場景を、のちの移住顛末記にこう 書きとどめた。


4.小屋掛け

 「景範さま、三之助君(ぎみ)、ご安着」
 明治三年七月一日、佐藤誠率いる開拓移住団が幌別村に到着して間もなく、 別ルートで北上した景範ら一行も、幌別入りした。
 老齢病弱な片倉家当主邦憲の代理として、これから采配を振るう景範親子に 用意された住まいは、幌別会所の一角を板壁で仕切った仮屋敷だ。幌別川左岸 のすぐ傍に建つ会所は、北の首府サッポロと函館を結ぶ室蘭道に面している。 これから始まる開拓の拠り所だ。
 前年の支配地受領後、幌別村に残った斉藤理左衛門や熱海勝らは、永住人の 東海林栄蔵や地元のアイヌなどの力を借りて当初あった長さ二十三間、幅七間 の会所を、十倍の広さに拡張した。その一角を景範親子の屋敷として整えたが、 二人がつい一年足らず前まで暮らした白石城の御殿とは、天と地の開きがある 簡素な住まいだった。
 寄せては砕け散る波の音が、二町ほど離れた浜辺から繰り返し、聞こえてく る。仮屋敷に到着後、食事にほとんど手をつけないまま床に就いた景光は、長旅 の疲れもあって潮騒の子守歌に誘われ、早々、深い眠りに入った。
 移住家族や職人らは、会所や通行屋、永住人宅に分散し、寿司詰め状態で異郷 の地の、最初の一夜を過ごした。武士としての鍛錬を重ねた男たちは、すぐさま 眠りについたが、妻女たちの中には噂に聞くヒグマかエゾオオカミかと、深い闇 の向こうから時折聞こえてくる獣の遠吠えに耳を澄まし、浅い眠りのうちに夜明 けを迎えた者もいた。
 振り返ると、何かと慌ただしい旅立ちだった。とりわけ、筆頭家老本沢浩斎 (のちの直養(なおやす))以下重臣たちは第一陣出立の二カ月余り前、移住後の 村落運営を揺るぎないものにすべく、十年先を見据えて規律、掟づくりに腐心 した。移住開拓に勇躍するほかの旧臣たちも、厳しい試練を乗り切るための下 準備に知恵を絞った。
 「住まい造りや食料・調度品の調達、農耕や漁労の企図、病人の手当。いずれ も、指揮、監督する者がいなければ」
 ただちに庶務、開墾、監察、会計、病院の五つの係からなる「幌別開拓役所」 が設けられ、それぞれの係に二、三人の責任者を置いた。
 かつての家格は重視しない。知行高は低くても「これぞ適材」と認める人選 を優先した。時代は変わったのだ。
 総裁には景範を据え、重要な庶務、開墾、会計を束ねる開拓執事を担ったの は主席家老格で、維新前まで知行十貫文の本沢、ともに家老で知行六貫文の斉藤、 日野愛憙の重鎮。入植後の幌別郡における片倉家の三賢として、誰しもが一目 置く存在だ。
 朝日が、広漠の樹海を照らし出した。故郷白石の家々では、朝餉の炊煙が立 ち上りはじめる頃だろうが、今の彼らにとって、そんな時間的ゆとりはない。 大人たちは、起きて早々と冷えた握り飯や干物をのどに押し込み、これから 共同住宅とする「お長屋」造作や道路開削を前に、自らを奮い立たせていた。
 幌別開拓役所の総裁宅でもある第一番屋敷こそ造られたが、二番、三番と続く 旧臣家族それぞれの屋敷は、まだ無い。いや、最初から戸建ての住まいを望む のは無理な話だ。今は、吊り下げた筵一枚を隣家族との壁代わりにしても、 雨露をしのぐお長屋の増設が急がれるのだ。
 「まずは、下草刈りと、梁や柱用材木の切り出しが肝心。各々のお役目に従い、 お勤め願います」
 まだ薄暗い会所の集会部屋に、幌別開拓役所の開墾係を命じられた伊藤仲五郎 の声が響いた。移住家族の仮住まい部屋を兼ねる大広間を埋めたのは、二十一戸 の戸主や単身者、大工や鍛冶職人たち。伊藤の隣には、開拓執事として開墾係を 束ねる本沢直養、中央には景範、景光親子の姿があった。
 これから、海岸沿いの濱丁や、来馬川の周辺を開墾地に選んだ十四戸は七十五 坪の長屋を、鷲別村に入る六戸もやはり三十坪の長屋を造り、そこを生活の仮の 拠点として各戸の住宅建設を進めていくのだ。もちろん、開墾も並行して。
 第一陣の到着前に開拓役所が、長屋の予定地に定めていた濱丁と東来馬丁の 境目。そこから山側には熊笹や根曲がり竹、葦などが群生し、胸高の直径三、 四尺、高さ六、七丈はゆうにあるカツラやミズナラ、センノキやエゾマツなどの 大木などが天を突き、思わず口を開けて見上げる新参者たちをあざ笑うように 睥睨(へいげい)していた。
 熊笹などを茎ごと刈り取っては燃やす道づくり班に先がけて、大鋸や斧を 手に樹林に分け入った伐りだし班が、巨木を相手に格闘を始めた。ただし、 重心がどこにあって、倒すべき方向はどちらかを見極め、切り口や追い口を どの角度からどの程度切り込むのか、決めるのは引き連れてきた職人たちの 仕事だ。にわか木こりに変じた侍たちは、そうした技術や知識を持ち合わせて いない。
 旧領白石から持参した彼らの道具は、あまりにも貧弱だった。おまけに木の 周囲には、油分を帯びてテラテラ光る熊笹が、足場を不安定にさせている。
 「まずは憎々しい笹めらを、茎ごと退治いたす」
 何事にも慎重な性格の遠藤震三郎が言うとおり、足元を確かなものに しなければ、伐採中に怪我人を出しかねない。ただ、笹藪の上っ面は草刈り 鎌でそぎ落とせるが、地中を縦横に走る茎根を断ち切るには、十分に研ぎ 澄まされた鍬の刃の助けを借りるしかない。道具蔵から持ってきた鍬一丁 では、いつ倒木作業に取り掛かれるものやら見当がつかない。
 「新しい鍬を! 道具小屋に戻って、鍬をもっと。砥石も忘れずに」
 誰にというわけでもなく発した遠藤の言葉に、若い細田省三が「それがしが…」 と草刈り鎌を仲間に手渡すと、根曲がり竹をかき分け藪の中に没した。 片倉家中にあって、先祖代々二十石取りの廟所役を継いできた遠藤は 四十代半ば。開拓役所の庶務係を任命されたが、何はさておき雨露を しのぐ長屋造りが急務と、杣夫(そまふ)仕事に自ら名乗り出たのだ。
 「手強い。蝦夷の大木どもは一筋縄ではいかぬ」
 枝払いの手間が少なくて済みそうな、高さ七丈はあるエゾマツ。受け口も 整い灰褐色の幹に切り込み鋸が入ったのは、昼の腹ごしらえを終えてから 半時も過ぎたころだ。
 カーン、カーン。
 追い口に楔が打ち込まれ、森の静寂を切り裂くカン高い音が響きわたる。 千古斧鉞(ふえつ)を知らぬ大木も観念してか、ゆっくり、ゆっくりと、 なだらかな斜面に叫び声ひとつ上げず身を傾け、ついにはドドッと突っ伏した。
 もう、日暮れが迫っている。
 (熊笹の上を滑らして運ぶのは、明日だ。しかし、六、七町先の木挽き場まで、 うまく運び出せるものか)
 笹の斜面に横たわるエゾマツを見やりながら、思案顔をのぞかせる遠藤の背 をひんやり、山の冷気がなでた。


5.アイヌたちの厚情

 巨木が枝葉を広げて日差しを遮る薄暗い林の、そこだけぽっかり空がひらけた 場所で進められるお長屋造りは、入村から五日たっても、はかどらない。 屋台骨の梁や柱の原木搬出に難渋し、やっと木挽き場に運び込んだまではいい。 いざ大鋸や釿(ちょうな)を振るっての荒削り作業に入ると、つい昨日まで山野に 君臨していた主たちは、ごつごつした樹皮の削ぎ落としを簡単には許して くれない。
 「何と身持ちの堅いことよ。自慢の宝刀も、鈍刀に成り果てたわい」
 大木のごつごつした樹皮を剥ぎ取ろうと、躍起になっていた国分善右エ門が 冗談まじりに、切れ味がすっかり鈍くなった釿の刃に目を凝らし、ため息を ついた。
 巡視と督励に回る父の傍で、景光は旧臣たちが繰り広げる原木との格闘風景 を興味深げに見つめていた。作業場の周りでは、アイヌの人々が何やら囁き合い ながら、成り行きを見守っている。景光は初めて見る先住民の目鼻立ちや風体に、 目を見張った。
 すると白い顎髭をたっぷり蓄え、陣羽織を着た長(おさ)とおぼしきアイヌの 老人が、集落の若い男たちに何か指図している。そして、屈強なアイヌの青年 たちは浜の方に駈けだした。
 半時が過ぎたころ、入植者たちのそれとは明らかに違うか掛け声が響き、 数本の丸太を担いだアイヌの若者たちが長屋の建設予定地に現れ、地べたに 並べた。微かに潮の香りが漂っている。そう、彼らは魚の干場に使っている 漁場の丸太を使えと、無償の行為に及んだのだ。

「いや、いや、それほどまでに。かたじけない。誠に相済まぬ」
 佐野源蔵が、国分善右エ門が、佐藤誠が、虚心坦懐に頭を下げた。
 新参者に対する先住民たちの無言の善意は、これにとどまらなかった。 長屋普請とは別に、粗末でも我が家を、と渇望する家族の一部は、割り当てら れた屋敷造作地に簡易な掘っ建て小屋や拝み小屋を建てたが、これらの梁や柱 にもアイヌの住民が提供する丸太が使われた。
 女たちは屋根や壁を葺く、葭の刈り取りにこまめに働いた。頭にあるのは、 故郷白石の整然とした造りの武家屋敷。葡萄蔓で束ねると「葉は無用」と切り そいだのが徒(あだ)になった。
 壁代わりに幾層にも重ねたが最初の冬が訪れと、猛吹雪の日には隙間から 雪が容赦なく吹き込み、朝起きると、枕もとにうっすら積もった白いものに 驚かされた。
 つい半年前まで過ごした白石では、たとえ雪が降り積もっても、数日たてば 溶けて消える。その軟らかな粉雪に比べ、ここでは時に、トゲで刺すような 猛々しい風雪が頬を打つ。
 「葉は切り離さず、そのまま重ねて束ねる」
 酷寒の冬を生き延びてきたアイヌたちの知恵に、我流の家造りはこの大地 では通用しないことを女たちは身をもって知った。
 「一 旧土人ノ耕地ハ決シテ侵ス可ラス 若シ彼我懇成地ヲ交換セントスル 場合ニハ農業世話係ニ申出テ双方検査ヲ受 役所ノ許可ヲ受ル可シ」
 幌別開拓役所が第一陣入植から三カ月後に定めた農事規約に、こうした一文 がきっぱり盛り込まれた。数ヶ月前の小屋掛けで、アイヌの人々から受けた 有形無形の好意に背くことは人に非ず、との戒めがこの文言に息づいている。
 酒好きな男たちの習性につけ込み、まんまと土地をだまし取ったり、数字を ごまかしての交易など、和人によるアイヌからの収奪横行を耳にしない訳 でもない。
 維新前なら彼らも、文盲の卑賤と見下し、二本差しの威厳をもって先住民 の好意を至極当然と受け止めていたかもしれない。
 しかし、幌別川の渡船にしても、奥地の探索案内、荷駄馬の扱い運搬、 自然の恵みを巧みに取り込んだ生活の知恵など、先に住み着いていた彼らの力 を借りて、共存共栄の道を歩まなければ、開拓の道のりはいっそう険しい ものになる。
 「『カンナリキ』は『金成喜蔵』がよろしいかと。土地に詳しい『チリバ』は 『知里盤蔵』、『トウビ』は雄壮遠大な『遠飛』としては、いかがでしょうか」
 明治五年春、幌別戸長役場で書記の佐野源蔵が書面に目を落とし、日野愛憙 と何やら確認しあっている。前年四月に戸籍法が施行され、翌年にはアイヌの 戸籍が全道にわたって作られた、同時に、彼ら先住民や平民にも漢字による 姓名もあてがわれることになった。文字を持たない世界で生きてきたアイヌの 人々にとって、戸籍簿に載る苗字や名前に何の意味があるのか、と問われれば、 どうにも答えようがないが、佐野らにとっては捨てておく訳にもいかない仕事 だった。
 「何はともあれ、好ましい、あるいは勇ましい、その人柄や人望などにあった 良い姓名をつけよう」
 漢学にもたけた父の甚内定路に相談し、決めていった。それもこれも、 二年前の幌別郡入植時、何かと世話になった彼らの厚情に少しで報いようとの 思いからだった。


第2章

1.長吉丸事件

 「なに! 買い込んだ食糧が海に消えた?」
 明治四年五月下旬、開拓に奮闘する片倉家臣団にとって死活問題ともいうべき 大事件が起きた。幌別開拓役所会計係の熱海勝が函館で買い付けた越後米や支那 米合わせて二百七十俵をはじめ日用品や建具、敷物などが、運搬船の海難事故 で海中にことごとく没したのだ。函館から届いた知らせに、日野愛憙らは色 を失った。
 熱海は主食米などを帆船長吉丸に積み込み五月二十二日函館を出航、室蘭を 目指したが、恵山岬を回航するころ暴風雨が襲い、積み荷の多くをやむなく海 に捨てたという。帆柱を切り倒した船体は暗礁に乗り上げて破損、人命だけは 失われなかったが、残る貨物も流失した。
 幌別には二カ月余り前、日野と斉藤良知が取締役となり移住の第二陣となる 四十五戸百七十七人、職人十五人が汽船猶竜丸で室蘭に到着、幌別村に入った。 それら後発組を合わせて郡内の片倉開拓団は七十戸前後、女子どもを含め 二百四十人余に脹らみ、入植地はようやく村落の体をなし始めていた。
 最初の入植時から、翌年にかけて片倉家臣団が墾成した土地は二十一町歩 程度。豆や麦、大根などを試作したところ、生育よく、大いに希望を抱かせた が、稲作に適した土地は見当たらず、結局、函館などへ出向いて買い付け、 運ぶしか手立てはなかった。
 最初の一年間、十五歳以上の者には一日玄米五合と塩代八厘、十四歳以下と 六十歳以上には玄米三合塩代五厘が、開拓役所から移住人家族に支給されて きたが、その貯蔵米があと三日足らずで底を突く。
 「うむ~、どうする!」
 役所に駆けつけた本沢直養や斉藤良知、日野愛憙らは渋面を突き合わせ、 難局打開の方策を探った。
 「背に腹は代えられぬ。ここは恥をしのんで開拓使におすがりするしか 手立てはあるまい」
 剛直な面差しの本沢が、こう切りだし、うなずく日野に札幌出張の大役 を命じた。
 コメはお上から貸与してもらうしか、難局打開の策はない。愛憙はただちに 岩村通俊が開拓判官を努める札幌開拓使庁に出向き、窮状を訴えた。 「かかる災難の元凶は、そちらの不手際からであろう」と最初は、にべもなく 門前払いしようとはね除けた役人も「このままでは郡民ことごとく、餓死を 待つのみ」と粘る日野らに根負けし、函館にある開拓使倉庫の米百俵を三年 の期限を付して貸し与えた。
 「今度こそ失敗は許されない」
 函館に残った熱海や、急きょ応援に駆けつけた鈴木助治らは、より安全な 陸路の運搬を選択し、命の綱のコメ俵が幌別に届いたのは、函館から送り出 して十日余りもたったころだ。
 この間、狩猟の技ではるかに及ばない、先住民のアイヌたちにも助けを求 めた。彼らが仕留めた獲物はヒグマ八頭、エゾシカ六百三十頭、ウサギ五十匹 などにのぼった。
 片倉家旧臣家族の主立った者も、代用食の鹿肉や野ウサギ、野鳥や川魚など を追い求めて山野に分け入った。移住者のほとんどが、鹿肉を口にするのは 初めてだったが、その味や栄養分の高さが舌になじんでか、以降、常食にする 一家も徐々に増えた。
 「いやー、なかなかの美味ですぞ、若殿。若君も、ぜひ」
 旧臣らと同様に、米びつが空になった片倉屋敷に、佐野甚内がエゾ鹿の肉 を夕餉の膳にと持参した。
 従僕が竃(かまど)の火で、山菜とともに薄めた海水で煮込んでは、鍋から 木製の椀に盛りつけ、ホタテの貝殻にのせた煮コンブを添えて景範、景光親子 の膳に供した。
 父に倣って、禽獣の代用食を初めて口にした景光は、予想に反して臭みも なく、軟らかい肉の味に思わず舌鼓を打った。
 日野らの機転で、開拓使から借りた米の代金は、幌別出産のアキアジやコンブ などの売り上げで三年以内に返済する約束だったが、実際に完済にこぎつけたの は七年先になってからだ。


2.支配罷免

 それは、まさに青天の霹靂(へきれき)というべき布達だった。
 「片倉小十郎
 胆振国幌別郡室蘭郡乃内 支配被仰付置候処 今般被免候ニ付地所開拓使ヘ 引渡可申事 辛未八月  太政官」
 長吉丸事件から三カ月後の明治四年八月、政府は突然、藩や士族、寺院による 北海道分割支配を廃止し、開拓使が直轄運営すると宣言した。
 四年前の悪夢再来か、またもや有無を言わせぬ支配地の召し上げだった。 代理とはいえ景範は、わずか二年足らずで領主の座を降ろされた。
 処遇は士族などの身分を保ったまま、住む所の戸籍を別の場所に移すことを 意味する北海道貫属。旧臣らと同様に景範も、開拓使庁の下で働く一貫属士族 となった。
 こうもしてまで、前罪の償いをしなければならないのか。懸崖に掛けられた 梯子を外され、荒れ地に半ば捨て置かれた景範の落胆は大きかった。
 景光もまた、元服にはまだ年数が足らないものの、父親の沈痛な面もちを見るに つけ、漠然とした不安や怯えを抱かずにはいられなかった。
 資金調達の手立てとなる、領地の支配者が持つ信用手形の効力を失った片倉 主従はこの先、やはり開拓使に泣きすがるしか道はなかった。 領主の権威と信用力を剥奪されては、御用商人も当然、金を貸してはくれない。
 「黒沢さま、もはや、お上のご助力なくして拓殖は前に進みません。なにとぞ、 なにとぞ、お聞き届けを」
 幌別郡支配罷免を通達されてから三カ月後の十一月、幌別開拓役所の開墾係、 矢内信任とともに札幌開拓使庁に出向いた日野愛憙は、顔なじみになった黒沢 正吉大主典に嘆願状を差し出し、一千円の借金を願い出た。
 箱館戦争では新政府軍大砲隊の隊長を務め、榎本軍と渡り合った黒沢だけに、 敗者の哀訴に心動かされなかったわけでもない。しかし、片倉家に貸し付けを 許せば、同様に借用願いを申し出ている有珠と石狩当別の両伊達氏にも出金 せざるを得ない。「何としても、情けをかけるべからず」との上層部の指示に、 心を鬼にして従うしかなかった。
 日野もまた、おめおめと引き下がる男ではなかった。
 「一日保護ヲ緩フセバ、人民一日ノ困難ヲ増加シ…今ニシテ此拓殖組織ノ 瓦解スルアラ者、容易ニ挽回スルノ期ナカルベシ」
 移住者への生活扶助を一日も緩めると、開拓の鍬も放棄しかねない。河・海 漁業と山野獣猟の収税期にあたっているものの、この徴収権を失い、「進退窮 まれり」としたためた嘆願状を四回にわたり出し続けた。
 憐憫の情に訴える日野らの粘り腰に、開拓使もついに根負けし、希望額の 半分の五百円を貸し付けた。同時に、「明五年を期し、函館より室蘭、札幌を 経て小樽に通じる国道の大造成計画がある。移住者は奮ってその仕事に従い、 貸付金を返済せよ」と申し渡した。

 空をまたいで、南へ百二十里。支配地罷免のおふれが出る約半年前、旧領白石 では第三陣移住の道筋が、大きく曲折した。
 第二陣が旅立った翌日の三月十七日、「さあ、我等も」と元家老の佐藤孝郷を 統率者に旧臣家族百五十六戸六百十二人が移住の準備を始めた矢先、角田県知事 らが彼らを北海道移住開拓使の貫属に任命した。彼らもまた、開拓使の配下とな り北海道の拓殖に励めというものだ。
 突然とも思える太政官布達は、移住費用の工面に苦労し、離郷に躊躇する彼ら の姿を見かねての救済措置といえる。貫属となれば、旅費や家財道具の運搬費 など諸々を官費でまかなえる。さらに三カ年にわたる食料等の支給が約束されて いた。維新前までの家禄高百三十三石、家老家の要職にあった孝郷らの、按察使 府への必死の訴えもあって、自費による片倉武士団移住の資金調達は到底困難、 と判断しての救いの手だ。同時に政府にとっても北海道開拓を進める上で、学が あり組織の修練にたけた移住希望の武士たちは欠くべからず存在でもあったのだ。 ただし、手放しで喜べる支援とも言い難かった。目的地は幌別郡ではなく、石狩 国とあるのみで具体的な入植地は決まっていなかった。
 「イシカリ? 幌別とは、あまりに遠すぎるではないか」
 「大地の侍となって旧主の下で開拓の鍬をふるう。そのための大事な紐帯が  断ち切られるではないか」
 「いやいや、いくら広大無辺の地といえども、同じ蝦夷地。それに石狩国から 幌別までおよそ三十余里とか。まずは移住が先決だ」
 それぞれの胸に不安や希望が交錯するなか、意を決し、二班に分かれた約六 百人の集団は明治四年九月、ほぼ半月の間をおいて白石を出発した。途中、 第一班が乗った咸臨丸が函館出港直後に座礁し、荷物もろとも沈没する災難に 見舞われたが、それぞれの命だけは取り留めた。
 一行は合流した二班とともに十月十八日、ようやく石狩に到着。開拓判官へ の粘り強い交渉の末、最月(もさ)寒(っぷ)、のちの白石村に入植することが できた。


3.東京修学

 明治九年初冬、昼下がりの幌別駅逓。飼い葉桶の馬草をのんびり食む南部馬の 傍らで、若い御者が鉛色の空を見上げていた。開拓使庁がある北の首府まで、 ここを中継点とする札幌本道はおよそ三十里の砂利道が続く。
 開拓使が明治五年春から翌六年にかけて建設した、日本で最初の西洋式馬車 道・札幌本道。函館と森間約十里半、室蘭と札幌間三十三里に幹線道路を設け、 森と室蘭間は海路でつなぐ新たな北の大動脈は、幌別の開拓民にとって天祐、 救いの神ともいえる一条の輝きを暮らし向きにもたらした。
 「明年、大きな道路工事がある。お主らも現場で働き、労賃を得て借財を返済 せよ」
 片倉家の幌別郡支配罷免で金策に行き詰り、開拓使から五百円を借り受けた際、 日野愛憙ら幌別郡民に黒沢大主典はこう諭した。
 海産物や畑作の恵みだけでは、とても衣食住のすべて満たすことは難しい開拓 地にあって、現金収入の道は厚く垂れ込めた雲のすき間から差し込む、燦然たる 陽光といえた。
 室蘭のトキカラモイに仮桟橋の一番杭が打たれた明治五年三月、胆振国地域 一帯にも寒空を吹き払う景気の波がじわじわ押し寄せ始めた。この年の十一月 までに東京や伊豆、木曽地方などで雇われ、送り込まれた人夫は延べ十万人、 指揮を執る官吏も延べ二万五千人余にのぼった。当然、幌別郡内の男たちも それら本州からの作業員に混じり、道路工事に汗した。何より嬉しかったのは 米一升、味噌三十匁、沢庵半分か梅干し三個が与えられる一日の食事と、五十 銭の日当。一カ月働くと十円金貨二枚が手に入った。
 女たちは、沿海でとれる昆布を煮付けしたり、餅をついたりして、休泊所や 人夫小屋を回り売り歩いた。「商人などに、なり下がりおって」と武士気質が 抜けきれない老人たちの反発を押し切って。
 山道で幅五間、駅逓や人家のある地域は八間に開かれ、四輪仕立ての客馬車が 駈け抜けるこの馬車道には、移住民家族の命をつなぐ汗と涙が染みこんでいた。

 幌別駅逓から六里先にある次の白老駅逓に向けて、これから手綱を操るのは、 やがて片倉家第十三代当主となる景光。室蘭からの乗り継ぎ客を待ちながら、 景光は我が身に起きたこの数年の出来事に思いを巡らせていた。
 三年前の明治六年春、元服を迎えた景光には、いずれ片倉家を継ぐ嫡孫にそれ 相応の学問を—と、東京での修学生活が用意された。資金は前年から、本沢や 日野らが「若君、ご遊学のために」と、苦心し出し合いこつこつ貯めてきた。
 村民の浄財をもとに、付き人の若い旧臣、田副彦左衛門とともに住み込んだのは、 大井町にある仙台藩の旧江戸藩邸。屋敷のあるじは奥羽越列藩同盟の総督を務め、 敗戦後は東京での隠居生活を強いられた藩主伊達慶邦。景光にとっては、仙台藩 家臣団の立場から仰ぎ見る存在以前に、幼少期の記憶に強く残る人物だった。
 東北戦争で同盟軍の敗色が濃くなった明治元年八月七日、列藩同盟会議の拠点 となった白石城の御成御殿に慶邦は入った。同盟諸藩との戦局打開に向けた 話し合いが目的だったが、すでにこの日、政府軍に降伏した中村藩の城に 仙台追討総督が入城し、岩城の浜通りは制圧された。この一カ月後、仙台藩も 白旗をあげる。
 (顔つきからして、豊七郎景範に比べると、どこか粘り強い天性の資質を宿している)
 慶邦は仙台へ出立する九日朝、まだ三之助と名乗っていた十歳の景光を召しだし、 菓子と併せて歌を一首与えた。
 「タレカレモ鬼トヲソルゝ家ニ生ル サンノスケ エエカナボウニナレ」
 鬼とは、独眼流政宗の名参謀ともいわれた二代目片倉小十郎重長の異名、鬼 小十郎を指すが、歌の奥に秘められた「良い金棒」とは何を意味するのか。 同盟諸藩敗戦の報が相次いでいる。戦況から察して容易に想像される官軍への 全面降伏、領地の削封あるいは召し上げなど、仙台藩やその支藩の前途には 測りがたい暗雲が垂れ込めている。その逆境を乗り越え、初代藩主政宗の片腕 となった名家の血脈を無敵の金棒で守り続けよ、と託したのか。
 しかし時代の荒波は、その願いをことごとく打ち砕き、維新後の唯一の望み であった幌別郡支配によるお家再興の道さえも、わずか二年足らずで潰えた。 廃藩置県の行政改革が実行された翌月のことだ。伊達家など知藩事として 領地を治めていた旧藩主は失職し、徳川時代の残滓(ざんし)は完全に拭き払 われた。
 だが、新政府によるネコの目政策に翻弄されながらも、移住を果たした 片倉主従の絆は簡単には断ち切られなかった。
 「明治六年九月二十一日晴 金十二円六十五銭。これは旧主片倉家へ献上の金。 幌別郡移住人一同が取り揃え 旧領白石に出張する武藤弘済に持参させた」
 開墾の成果が目に見え始め、ようやく大豆や小豆、ソバや粟などを産出 できるようになったころ、幌別郡副戸長の任にあった本沢直養は自身の日誌 にこう書き留めた。当時の巡査の初任給は四円ほど。その三倍にあたる金は、 幌別郡の旧家来たちが極貧生活にありながらも蓄え捻出したものだ。三百年 続いた紐帯の証しは、これにとどまらない。
 「明治六年十一月十四日晴 勇三郎君(きみ) 御学費 金八円也 右は 指し替え白老詰 熱海勝方へ回す」
 三之助から勇三郎に名を改め東京で修学中の景光への送金も、忘れてい なかった。
 ともすれば一日中、静寂の中に身を置き、言葉を交わす相手もなかった 幌別村。かたや人と人、馬車や荷車、人力車がせわしなく行き交う大都会 東京。上京の半年余り前には新橋—横浜間に陸蒸気が走り、花の都に文明開化 の靴音が響いて、見るもの、聞くものすべてが田舎育ちの若者の知的好奇心 を刺激した。理由のない勝手な移住転居が許されなかった時代ではあったが、 いずれ貫属という鎖が解かれれば、景光も日本の中心地を安住の地として、 政治や経済の世界に踏み出したかもしれない。
 東京に来て一年が過ぎた明治七年夏、何の前触れもなく運命の分かれ道が やってきた。父景範が札幌白石村に落ち着いた旧臣の招きに応じて、度々幌別 を留守するようになったのだ。旧領からの移住者は数の上で札幌組が圧倒的に 多く、「いずれ景範様は、あちらに移り住むのではないか」との憶測が交わ されるようになった。
 景範とて、忸怩たる思いはある。父邦憲の名代として北の地でお家再興に 乗り出してわずか二年での支配地罷免。残されたのは、片倉主従の自費移住に つぎこんだ膨大な借財だった。事ここに至って、身の置き場をどこに求め ようか、と思いを巡らせば、旧領白石への帰郷。明治四年十月、景範は開拓使 貫属から角田県貫属への配転を願い出た。
 しかし、一貫属に成り下がったとはいえ、厳然とした指導者に変わりない 景範を旧領に戻せば、なだれを打ったように旧臣らが離散する。開拓使の思惑 に配慮した角田県は、ついに故郷への移住を許さなかった。
 「景範さまが、暮らしに難儀しておられる。是非、こちらに住まいを移さ れて家中の者を督励していただこう」
 跋渉組合の副リーダー格だった札幌手稲の三木勉らが、白石村の仲間にも 旧主招請を呼び掛けた。景範が幌別を留守がちになったのは、この頃からだ った。
 「このままでは、幌別の郡民は動揺し開拓も挫折する」
 危機感を抱いた本沢直養をはじめ、斉藤良知、日野愛憙らは「勇三郎君には、 東京での修学を断念していただくことになりますが、ただちに帰郡し 幌別開拓の先頭に立っていただきたい」と、旧領白石刈田嶺神社で 神官の職にあった旧主邦憲に懇請、ついに願いは聞き届けられた。


4.主従逆転

 (また幌別か…)
 血筋の糸が手足を縛るかのように、再び、北の荒涼たる風景の中に引き戻そう としている。
 明治七年師走、祖父邦憲からの手紙に目を通した景光は、片倉家に生まれた 者の宿命と己に言い聞かせても、なお残る鬱屈した思いをうち消すことは出来 なかった。
 幌別に舞い戻ってから二年後、邦憲から家督を継いだ父景範は、すでに札幌 郡上手稲村の副戸長として幌別を離れた。同時に、景範を慕って幌別郡の 旧臣三十戸ほどが、札幌に移り住んだ。
 景光はというと、幌別郡に残った旧臣らを慰撫督励する御輿に乗せられた ものの、「ただただ郡民の心に寄り添うて頂ければ」と進言する斉藤良知らの 言葉に甘んじることなく、労働に汗した。当時、村内の若者の役割と定められ ていた御者の仕事もその一つ。現金収入を得るには手っ取り早い仕事だったが、 景光にその自助努力を促す理由がもう一つあった。
 「景範様は生活苦から、札幌に移られた」という噂が、景光の耳にも自然と 入ってきた。
 各々自費での北海道移住ではあったが、幌別郡入植までとその後二年間程、 旧臣たちの開墾、生活用具や米穀などを買うために開拓役所総裁として片倉家 が持ち出した費用は、借財を含めて膨大なものだった。その苦しい台所事情を 見かねて、上手稲村や白石の旧臣らが札幌に景範を招き、名家の威光を盾に 戸長役場の要職に就かせることで、旧主安泰の道を開こうとしていた。
 「そちは、本沢、斉藤らの助けを借り幌別開拓に率先垂範せよ」
 父はそう言い残し、札幌本道のはるか先、北の首府に立ち去った。

 「お出でに、なったぞ!」
 父との別離の追憶を掻き消す駅逓取扱人の声に、景光はピクッと体を反応さ せた。
 幌別川の右岸船渡場で室蘭からの客馬車を降り、アイヌの操る渡し船でこちら 側に上がった一人の旅人の姿が次第に大きくなる。
 「さあ、さあ、どうぞ中でお休みください」
 革手袋に握られたステッキ、肥満気味の体を包む厚手の外套、シルクハット の下には威光をまぶした口髭と、その服装はひと目で政府の役人と分かる流行 の官員スタイルだ。数間離れた場所で馬の手綱を握り待機する景光も、それと 分かったが、その人物が休憩所の建物に入ると、すぐさま出立準備に追われた。
 馬車の床板に据えられた股火鉢に、新しい木炭がくべられた。黒い粉塵が パチパチとはじけて、火力は勢いを取り戻した。あたりを覆う冷気にひれ伏す まいと、火鉢は抵抗の炎を揺らめかせている。そしてもう一度木炭がくべられ ると、粉塵は一層パチパチと弾けた。これから起きる一瞬の覚醒を暗示する かのように。
 小半時も経たぬうちに、東京から来た官員は駅逓場を出て客馬車の乗降口 に向かった。
 踏み台を置いて無言で待つ景光の前で官員が立ち止まった瞬間、二人の間 にかすかな緊張の火花が散った。
 (? 確か一番座の…)
 乗客の横顔を何気なく目にすると、おぼろげな記憶の中から片倉家のかつての 重臣が甦り、景光の前に現れた。
 (まさか、旧主人の孫が御者?)
 一方もまた、馬喰姿の若者の驚きを秘めた眼差しを横目で見やりながら、 直感的に浮かび上がった幼少期の面影を重ね合わせた。
 東北戦争の火ぶたが切られる直前、単身脱藩し、官側に走ったと伝え聞く 片倉家の元重臣だった。邦憲の傍らで雑務をこなしてきた人物だけに景光 も十二歳まで、何度か顔を合わせることがあった。高い鼻梁や三白眼が、 くっきり記憶に残っている。
 十年前なら、それぞれの立ち位置は完全に逆転していた。
 狼狽と羞恥心が入り混じった、気まずい雰囲気が二人の間に流れた。
 ほおを赤らませ御者台に上る若者と、素知らぬ体(てい)で馬車に 乗り込んだ官員。股火鉢に両手をかざし「出せ!」と男がひと声発 した瞬間、かつて侍(はべ)らした側と仕えた側の、主従逆転の構図 が北の殺伐とした風景の中から切り取られた。
 (時代は変わったのだ、終わったのだ)
 景光は己にそう言い聞かせながらも、ジワジワ湧き出る憤りのやり場を鞭先に求め 「ピシッ!」と馬車馬にひと鞭くれた。


5.櫛風沐雨

 片倉家の幌別郡支配が決まった年から数えて十年目の明治十一年秋、開村 十カ年記念のささやかな宴が幌別村の会所で催された。
 紋付に羽織、袴姿で主賓の席に座るのは、この春二十歳になった景光。背中 と羽織に施された九曜紋は、初代小十郎が伊達政宗から与えられた、片倉家 のもうひとつの家紋だ。一張羅の仙台袴には、三百年続く名家の誉れが縫い 込まれていた。
 入植したころのふっくらした面影は消え、浅黒く引き締まった頬や太く濃い 眉毛、キリッと引き締められた唇。その精悍な面構えは、すべてを吹っ切り、 農耕に、牧畜に肉体を駆使して立ち働いた無欲の歳月によって、知らず知らず のうちに整えられた。
 祝いの膳を前に部屋の中央に相対して居並ぶのは、幌別郡の副戸長として 村内の指揮を執る本沢直養、幌別郵便局六等郵便取扱役に就いた日野愛憙、 鷲別村のリーダー黒沢源一郎ら幌別郡残留組の面々。明治三年に始まる 旧臣家族の移住は、五年以降もぽつぽつ続き、札幌や旧領、他郡への転出組 を差し引いても、三十戸余りの白石同郷団が幌別や鷲別、登別村で畑作や 養蚕、漁労にと拓殖に奮闘していた。
 この年の幌別郡は六十五戸二百五十人余と、まだ小規模共同体の域を 脱してはいなかった。しかし、三村の中で、最も戸数が多い幌別村は 濱丁の札幌本道沿いや来馬川を挟んだ東西来馬丁などに家々が並び、 街村形式の集落を形成しつつある。隣の室蘭郡との境にあった鷲別村 もまた、かつての幹線モロラン道沿いに、屋敷と呼べないまでも、 板囲いの一戸建て住まいが立ち並んだ。
 片倉家による幌別郡支配の罷免で、幌別開拓役所は解体されたが、翌 五年には移住民らの自主組織共全社が発足。開拓使が募った農業現術生 として高橋詠帰や伊藤仲五郎ら五人を、東京芝増上寺の仮学校へ送り込んだ。 そして土起こし用のプラウや土を砕くハロー、うねり機のスペードなど 西洋式農具の導入とともに幌別、鷲別両村に開墾農社の看板も掲げた。 稲作こそ実らなかったものの、大豆や小豆、麦、菜種、麻糸などを 産出し、自生する山桑は天与の財宝、と養蚕に励んだ。
 そうした道のりの末に、それぞれの顔ほころぶ開村十周年記念の 集まりを持つことができた。
 (それにしても、初めは武士の商法ならぬ、武士の農法。難儀したわ)
 移住第二陣で幌別入りし、開拓役所の執事を務めた斉藤良知は、入植当時の 我流土起こしの術を思い出し、口元を緩めた。
 片倉家臣団の中で家格が最も高い一家(いっけ)の座にあった斉藤にとって、 仙台鍬を手にするのは初めて。農民のすることだが致し方あるまいと、 多少の農作業に侮蔑の念を抱きながらも見よう見まねで鍬を振るったが、 どうにも疲れてならない。
 ある日、自宅を訪れた佐野源蔵に「うなうのは、こうぇ~」とお国言葉で 愚痴をこぼした。「うなう」とは耕すこと、「こうぇ」とは疲れという 意味で、現代の道産子にも「疲れる=こわい」の北海道言葉は引き 継がれている。
 移住歴では一年先輩になる当時二十七歳の源蔵は「畑打ちが疲れるのは、 あたりまえのことだが、はて?」と、数日後、良知の野良仕事を観察して みて「ははぁ~」と納得した。
 土に食い込ませた鍬の刃先を、腕力まかせにそのまま手元に引き寄せて いるのだ。これでは、いくら力自慢の男でも、疲労困憊(こんぱい) するのは当然だ。
 「斉藤さま、ほれ、こうして一度、手首を使って、土をほぐしてから 引き寄せると楽ですぞ」
 源蔵の助言に、斉藤良知は思わず「なんと! こんな簡単なことが」と 鍬使いの基本を知らなかった自分に恥じ入るように、照れ笑いした。
 己の大刀や槍は近くの木に立て掛け、小脇差しを腰に据えて、各々最初 に割り当てられた五千坪の原野を切り開く大地の侍たち。移住者の大半が 武士の身分を保ったまま、お家再興を目指す志があったからこそ、 維新前までは無縁だった農具を握ることに些かのためらいもなかった。
 片倉家の元三家老の中で入植時、弱冠二十六歳ともっとも若かった 日野愛憙も、過ぎ去った十年の歳月を振り返った。
 (あの時ほど追いつめられた事はなかった、しかし、熱海もよく耐えた)
 移住二年目に起きた長吉丸事件。愛憙の目線は自然と、近くに座る熱海勝の 勝ち気な横っ面に向けられた。
 飢餓の危機を乗り切ったが、追い打ちをかけるように下ったのが幌別郡支配 の罷免と翌明治五年の支配地引き渡し、秋には旧家来たちの民籍編入、 すなわち士族剥奪と、開拓移住者たちの処遇は、ますます冷淡に 目まぐるしく変わった。
 (ともあれ、ついにここまで来たのだ)
 幕末期、東北諸藩があれほど「ともに天を戴かず」と唾棄した薩摩藩士。 維新の勝ち組となり開拓使庁でふんぞり返る、その彼らの面前で、「救済米を」 と床板に額をこすりつけた恥辱の嘆願も、今となっては武勲に値する振る舞い だったと笑い飛ばせる。
 宴も佳境に入ったころ、本沢直養が景光の前に進み出て、「主家の明星が この地に残ってくれたからこそ、なし得た幌別郡開拓。どうぞ、お納め 下さい」と、一通の目録をうやうやしく差し出した。

「一、幌別村東来馬丁二十二番地 西東勇吾耕作地 一町
一、鷲別村九番地 草刈三左衛門耕作地 六反
一、登別村三番地 橋元久八 耕作地 一町三反
………………
  贈 片倉勇三郎君へ」  
 書き込まれていたのは彼らがこの十年近く、笹を刈り、大樹を倒し、切り株 をえぐり起こし、鍬を入れ開墾した畑地合わせて二十町歩。飛び地ながら景光 の資産に、と寄贈を申し出た。当時の景光にとって、財産や収入といえるもの は幌別郡三村戸長役場の借家として賃料を得ていた幌別村三番地の屋敷や、 室蘭郡イタンキに父親が開いたサケ・マス漁場の水揚げぐらい。暮らしにそれ ほど余裕はなかった。
 だが景光はかぶりを振り、中国の史書「晋書」の一節を引用してこの申し出 をやんわり断った。
 「明治の初め、率先して移住し、曠漠無人の境に入り 櫛風沐雨 (しっぷうもくう)の辛酸を経て得たる場所なれば、申出者各自の財産とすべし」
 風に髪をすき、雨で体を洗う如く、苦心惨憺の末、各人が切り開いた土地ゆえ、 自分たちの財産にせよ。
 決して、暮らし向きに余裕があっての断りではない。事実、この十年後、贈与 を申し出た土地の半分に相当する十町歩の官有地を得るのに、景光自身が 辛酸をなめるはめになる。
 しかし、明治維新から十年余のときを経ても尚、「若君」と仰がれ、 開拓民の心の拠り所として尊ばれるほど、景光はますます旧臣あって こその己の立ち位置を自覚し、謝絶をもって主従の結束をより太いものにした。


第3章

1.結 婚

 「片倉家御典医の赤城先生が、地元の若者を集め講話をされておられるそう です。景光さまも一度行かれては」
 明治十二年春、景光は日野愛憙らの勧めもあって隣の室蘭郡にある札幌病院 室蘭出張所の責任者、赤城信一の自宅に月に何度か、足を運ぶようになった。
 天保十年生まれの元会津藩医師、赤城もまた波瀾の人生を生き抜いてきた男 だった。京都・鳥羽伏見で戊辰戦争の火蓋が切られた慶応四年正月三日、会津 藩砲兵隊付医官として京都にいた赤城は戦列に加わったが、敗戦によって帰郷。 続く会津の戦いでも戦陣医療に従事、その後は榎本武揚率いる旧幕府軍に加わ った。箱舘戦争では函館病院の高龍寺分院で、担ぎ込まれてくる戦傷者の治療 に奮闘したが松前、津軽兵に襲撃され負傷。東京に護送された後、久留米で 幽囚の身となったが、明治三年に許され翌年上京した。
 赤城は新天地を再び、北海道に求めた。今度は新政府に楯突く輩(やから)では なく、開拓使に仕える身として。明治五年、札幌本道の建設工事が始まると 事故による怪我や細菌感染、リュウマチ、梅毒などの患者の治療に当たる医員と して赤城は室蘭病院に勤務。仕事の傍ら、地元の若者たちを相手に、漢詩や史書 などを題材に人としていかに生きるべきを自宅で講話するようになった。
 わずか二年足らずで東京での修学を断念せざるを得なかった景光にとっても、 幌別郡に戻ってからこの方、新時代の知識を吸収、深耕する機会が乏しかった だけに、赤城塾での研鑽は青年期の知的好奇心を刺激する格好の場となった。

 「嫁ぐなら、あの御方のもとへ」
 室蘭に通い出して半年、十六歳になった赤城家の長女竹子が景光に恋心を 抱いた。目鼻立ちの整った才色兼備の竹子を目当てに集まる若者も少なからず いたが、身なりは粗野でもどこか品のある口数少ない景光に心ときめき、 父母に意中の人であることを打ち明けた。決して彼の出自に惹かれての恋慕 ではない。意志の強そうな、それでいてどこか人を包み込む優しさを感じ取 ったのだ。竹子もまた、武家の血を引くだけに芯の通った素養のある女性だった。
 明治十三年十月七日、二十一歳の景光は片倉家の家督を継ぎ第十三代当主 の座に就いた。当時、父景範は上白石、手稲、白石三村戸長の座にあったが、 室蘭での景光の婚姻が整ったことから家督を譲ったのだ。その二十日後には 竹子と結婚、赤城家に寄寓するかたちで室蘭と幌別村とを行き来する生活が 始まった。
 義父宅での新婚生活も一年が過ぎた明治十四年夏、明治天皇の北海道御巡幸 にあたって蘭法華小休所から室蘭郡に至るまで乗馬による先導役を片倉夫婦 で務めよ—と、開拓使は家筋に照らして景光に下命した。皇族や大隈重信、 大木高喬ら政府高官など合わせて三百人もの行列を導く栄誉ある大役。当然、 室蘭や幌別の郡長や戸長などの職責にあった亘理伊達家や片倉家の旧臣らが、 「この人こそ適任」と進達したからこそ実った話だが、この人選を承諾する 側にも「片倉の子孫」と聞いて、十四年ぶりの邂逅に心動かされる人物がいた。

 供奉(ぐぶ)者の一人、北白川宮能(よし)久(ひさ)親王。伏見宮第九子として 弘化四年に生まれ、仁孝天皇の養子となったが幼少時に出家し輪王寺宮を相続。 公現法(くげんほう)親王(しんのう)として上野寛永寺住職・日光輪王寺門跡を 継いだが、江戸・上野戦争では彰義隊の、さらに会津では奥羽越列藩同盟の 盟主に担ぎ上げられた。その上野輪王寺宮公現法親王と景光が、最初にまみ えたと想像される場所は、列藩会議が開かれた白石城だ。いや、直接顔を合 わせなかったにせよ、三之助を名乗っていた当時九歳の景光の存在は十分 承知していたはずだ。
 「あの片倉の十三代目が、この北海道で…。さぞや、苦労を重ねたであろう」
 自身も官軍への降伏後、実家伏見宮家での蟄居を命じられ、仁孝天皇猶子と 親王の身分も剥奪された。処分を解かれ、伏見宮に復帰するのに約二年の 歳月を要した。それだけに、今、御巡幸先導の大役を果たすまでに成長した 景光の姿に北白川宮能久親王は目を細め、慰労のお茶代を自ら下賜した。
 一行が幌別入りしたのは九月四日。三十歳の明治天皇を乗せた御馬車を中心に、 行幸の列が登別村に入ると、紋付き羽織姿で正装した景光と袴をはいた竹子が 乗馬し先導した。このとき、竹子は第一子を身ごもり妊娠四カ月の体だったが、 「晴れのお目見えを成してこそ片倉の誉れ」と愛馬の手綱を握った。
 室蘭に到着すると明治天皇は山中旅館に、ほかの皇族や政府高官、随行員は 六十戸余りの民家に分散宿泊した。室蘭の全戸数百三十戸の時代。札幌病院 室蘭出張所の要職にあった赤城信一宅も、当然、皇族の宿泊所に充てられた。
 「はて? 先ほど幌別で見かけた先導役の若い夫婦がこの屋敷に来ている が…。確か、片倉の子孫と聞いていたが、なぜここに」
 御巡幸の供奉者、有栖川宮熾仁(たるひと)親王が今宵の宿となる赤城宅に 到着後、当主の赤城信一に尋ねた。
 室蘭との境界でお役目を果たした景光夫妻は颯爽と馬を走らせ、一行に先がけ 赤城の家に駆けつけていた。竹子は母親のキサとともにお茶の接待や給仕に 勤しみ、景光もまた湯殿や夜具の準備など、賓客のもてなしに向け立ち 働いていた。
 「当家の娘が、片倉に嫁いでおりまして」
 信一の言葉に、有栖川宮親王の胸にも、忘れかけていた十四年前の記憶が 甦った。
 まだ十五歳だった明治天皇が王政復古の大号令を発した慶応三年十二月九日、 有栖川宮は維新政府の総裁に就き、翌年正月四日には徳川慶喜追討令により 東征大総督に任命された。
 片倉家といえば白石城主、その白石城とくれば奥羽越列藩同盟なる言葉が 自然と口を突いて出てくる。自らは東北諸藩との戦いに出向かなかった ものの、日本という国の歴史を大きく画した十四年前の戦渦が浮かび上がる。
 食事も終わり、一人入ればザザ~ッと湯が溢れ出る風呂桶に身を託した 有栖川宮は、八月末の小樽上陸に始まる北海道御巡幸の、先々に広がる 風景を思い出していた。そこには賊軍の烙印を押され「蝦夷地に赴き、 前罪の万分の一も償いたく」と北海道開拓に身を投じた東北武士たちの、 苦闘の歴史が息づいていた。
 (そうか、片倉の子孫がここで生きていたか…)
 維新戦争後、兵部卿や陸軍大将、左大臣を歴任した有栖川宮の険しい表情が、 湯気の中でほんわり弛緩した。


2.牛飼い

 景光と竹子との間に第一子となる長女幸子が生まれたのは、明治天皇御巡幸 から半年後の明治十五年三月のこと。六月には景光ら六人が幌別村の官地四万 坪を村有林として払い下げるよう、やはり幌別郡を所管する札幌県令、調所 広丈に願い出た。鷲別村でも旧臣の黒澤源一郎ら四人も七万坪払い下げを 出願し、いずれも許可された。
 こうして手に入れた土地で、父親として、一家の柱として景光は生計を立 てるべく妻子を室蘭に残し幌別村での畑作に奮闘した。
 鍬を肩に、共に朝に星を戴いて出て、夕に月を踏んで帰る。旧主従、手を 携えて大豆や小豆、粟、ソバのほか野菜類の生産に汗した。ただ、産額となると、 自家食料の範疇にとどまり、海の恵みにすがる度合が高かった。
 景光にそれ相当の蓄財があるわけでもなく、実質的には赤城家に頼る、ある 意味肩身の狭い暮らしが続いた。そんな中、「少しでも主家の現金収入の手立 てを」と算段したのは幌別郡の旧臣たちだ。
 「一金二円二十五銭 筆耕九人雇入料 是は十六年十一月十五日から二十三日 まで 日数九日間 片倉景光雇入料」
 幌別郡各村戸長の本沢直養は「右支出書面の通 御渡に相成度候」としたため、 室蘭郡役所に支出願いを出した。本沢らによる苦肉の救援策だったが、 これにとどまらず「片倉勤所」として旧臣が管理していた幌別村の片倉屋敷を、 「幌別郡各村戸長役場」として毎月七十五銭の借り上げ料を届けるなど、 景光の暮らしを支えるさまざまな知恵をめぐらした。当時の一円が、 今の価値にして二、三万円に相当する時代の話だ。

 そうした中、「牛乳をつくってみてはどうか」と、義父の信一が景光に勧めた のは乳牛飼育による牛乳の生産、販売だった。明治の前期まで、牛乳は薬 として既に病院で用いられており、その後の一般家庭への普及も見越してか、 医者の赤城が提案したのだ。
 このころ、亘理伊達家の第十四代当主・伊達邦成が数百人の家臣を率いて 入植した胆振国有珠郡(現伊達市)は、幌別郡とは異なり土地が肥沃だった ことも幸いし、一大農業生産地としての地歩を着々と固めつつあった。
 リーダーとして活躍したのは、北地跋渉を邦成に進言した家老の田村顕允。 田村もまた邦成の右腕として手腕を発揮し、家臣団を束ねて農業技術の改革 に率先した。新しい知識の獲得にもどん欲な田村は明治十年春、札幌農学校 教頭を辞し、帰国途中に有珠郡に立ち寄ったウイリアム・スミス・クラーク 博士から、甜菜の作付けや牛の導入拡大などを奨励された。
 有珠郡では既に明治八年、有珠農社が牝の南部牛四十頭を購入し、黄金蘂 (おこんしべ)に牧場を開設、本道における民間牧場の先鞭をつけたが、 クラーク博士が示唆したのは地力再生の堆肥生産にとどまらす、現金収入 を得るための搾乳販売による商品作物の生産拡大だった。その助言を受けてか、 農社は開拓使から資金を借り受け、岩手県の南部地方から牝牛百頭を購入して いる。しかし、牧場経営にはなお隘路が多い時代、黄金蘂牧場は経営難に陥り 明治十七年、田村顕允に譲渡された。

 「田村さま、片倉家のため、何とぞ、お力添えを」
 室蘭郡書記だった斉藤良知が、乳牛二頭の借用を景光に代わり申し出た。
 農業全般において、北海道内でも先進地の色合いが濃かった伊達地方だが、 搾乳が本格化するのは明治三十年代。農耕牛としてではなく、乳牛を金に換える 先取の精神がキラリ光る挑戦だ。
 牛飼いを始めた場所は、公立室蘭病院にも近い西小路。前年の暮れには、 父景範も札幌県御用掛の職を辞し、邦憲の病気見舞いを理由に旧領白石に 帰郷しており、まさに片倉家当主として独り立ちする出発点に立った景光は、 朝まだ陽の昇らぬうちから赤城宅を出て飼育から搾乳、販売に—と独り、 夜遅くまでなりふり構わず働いた。
 当時の室蘭郡は戸数約百二十戸、人口は七百人足らず。丹誠込めて育てる 南部牛がのんびりと丘陵の牧草地で草をはみ、白鳥湾を背景に広がる牧歌的 風景に景光はしばし癒されたが、牧夫を雇い入れる余裕ができた翌年、 田村との間に予期せぬ楔が打ち込まれた。
 「あの殿さまは、周りにひどいことを……」
 搾乳量も安定しはじめ、販路も徐々に拡大しはじめた一年半後、景光に牛を 貸していた田村の耳元で、競争相手の牛飼い仲間が景光を中傷した。義父の 後ろ盾で、病院への牛乳供給に安定経営の道筋をつかみ始めた景光。 それをやっかむ輩はどこにもいるものだ。もとより正義感の強い田村は この讒言(ざんげん)を疑うことなく、有無を言わさず牛二頭を黄金蘂の 牧場に戻させた。
 武門の将たるもの、軽挙の振る舞いは厳にこれを慎まねばならぬ。弁明、 あるいは反論は、潔しとしない。景光はそう教えられた。この渦中でも、 それを貫いた。「昔の殿様の末裔なんて、ちょろくて甘いものだ」と、 陰で囁かれる嘲笑にも泰然として。
 あらぬ誹謗中傷に無礼討ちの刃を向ける時代は、はるか彼方に去った。 そして、足元をすくわれた。
 ひとに使われるのではなく、己の努力と才覚で事業経営の礎を築きたい。 そんな希望を抱かせる一筋の光もあえなく消えた。当時の牛一頭の値段は 三十五円。今の金に換算すると少なく見積もっても七十万円は下らない。 資力の乏しい景光には牛を買い取る手立てもなく、酪農の道を諦めた。 もちろん、その中傷は数ヶ月後、つくり話だったことを田村も知ったが、 よじれた糸を戻すタイミングはすでに失われていた。
 安定した収入を得るための次の一手を、室蘭港郵便局取扱人の任に あった斉藤良知が打ってくれた。当時、駆使と呼ばれた集配人の仕事を 景光に世話したのだ。最初に手にした一カ月分の給与は数円だったが、 何よりも月々一定の収入が約束されただけに、嫁入りのとき持参した 着物などを処分して家計をやり繰りしてきた竹子も一息つくことができた。
 とはいえ、韮山笠をかぶり、郵便鞄を下げて地域を回る景光を、かつて の名家当主と伺い知る人々は少ない。隣人に耳打ちされて「えっ、あれが 白石の殿様の孫?」と、同情混じりにささやき合う住民もいた。


3.士族復籍

 「特別ノ詮議ヲ以テ士族ニ編入候事 札幌県令従五位勲四等 調所廣丈」
 景光が郵便集配業務に汗していた明治十八年暮れ、片倉家の旧臣一人ひとりに 室蘭郡長の田村顕允から士族復籍の辞令が手渡された。
 ここにたどり着くまで、十数年の歳月を要した。
 片倉家臣団が幌別郡に入って二年目の明治四年八月、政府は手のひらを返す ように、華士族による北海道支配を廃し、開拓使が管轄することに決めた。 翌五年九月には片倉家を除き、旧臣たちすべてを平民籍に編入。士族剥奪の 仕打ちは幌別郡にとどまらす、亘理伊達家や岩出山支藩の家臣団にも及んだ。 明治九年三月には、廃刀令が発布された。
 「これでは、ただの農民ではないか!」
 武士の身分を保ち、支配地開拓に旧主とともに歩む、大地の侍像を心に 描いていた旧臣たちにとって、平民籍編入のショックは大きかった。士族 という括(くく)りに、何か法的な特典があったわけではない。しかし、 北の風雪に耐え抜いてきた男たちは、ただちに士族復籍の願いを政府に出した。 片倉旧家臣団にとどまらず、亘理伊達や石狩当別の岩出山支藩旧臣らも、 根気強く復籍を願い出た。何度、突き返されても。
 明治十八年春、彼らは再び一致結束して士族復籍運動を展開した。
 「士族復籍の義願」の標題で明治十八年四月五日付で札幌県令に出された 片倉家旧臣らによる書面には、明治元年の知行地召し上げから、 北海道移住の決断に至る経緯、その後の入植状況を綴った上で、突然の 民籍編入に「最初の志願は水泡に帰すところとなり、移住者の精神は そのために気力を失い」開拓事業は退歩、衰退していくはず。対ロシア 政策からも「士族復籍が果たされれば必ずや北海道警備に努めます」と誓い、 斉藤良知を代表に外二百十八名連署で願い出た。
 この願書には、一通の証明書が添えられた。
 「明治三年七月以降、幌別、鷲別、登別村、札幌郡上白石、上手稲村へ 移住した斉藤良知外、二百十八名について、いずれも旧家来に相違ないことを 証明いたします。胆振国幌別村百三十番地 士族片倉景範総代理 片倉景光」
 士族復籍をかなえる必須の書面ではなかったにせよ、旧主の代理が幌別 にとどまっていた事実は大きな意味を持っていた。父景範はすでに一年半前、 札幌県御用掛を辞し邦憲の病気見舞いを理由に旧領白石に帰郷、二度と 北海道の地を踏んでいない。伊達紋別の亘理伊達家や岩出山旧支藩の ように、旧主人もその地にとどまり、かつての家来とともに開拓に励んだ 歴史があったからこそ、政府は翻意した。
 「景光さまの証明書がなければ、果たして他家同様、我らの願いは 聞き入れられたか、どうか」
 署名集めに東奔西走した斉藤良知や日野愛憙らは復籍辞令を手に、 ほっと胸をなでおろした。同時に武士としての連帯意識を保つため、 この年の暮れ、士族契約会をつくり「士籍復籍ノ栄典ヲ永遠ニ保持 セン為片倉氏ヲ盟主トナシ」と六カ条から成る盟約を結んだ。 会場となったのは幌別町三十番地の西東勇吾宅二階。まずは、 と開いた祝宴には臨席を請われた景光の笑顔もあった。
 居並んだ面々が実印を押し、保管を景光に託した士族盟約書とは

第一「朝廷ヲ尊奉スル事」、第二「片倉氏ヲ保護スル事」、第三 「同盟親睦産業ヲ勉励シ節倹ヲ勉ムベキ事」、第四「禮義廉恥ヲ守リテ 士節ヲ全フス可キ事」、第五「子弟ヲ教育シ人材ヲ養成ス可キ事」、 第六「盟約諸氏ハ之レニ背ク者ハ同盟者説諭シ除名スベキ事」とあった。
 最後の六条細目では、盟約に背いた場合、除名とし平民籍編入を願い 出させる、と厳しい措置を取り決め、覚悟のほどを表明した。


4.キリスト教

 結婚から六年の歳月が流れた明治十九年十二月十六日、景光は竹子とともに 室蘭にある日本基督一致教会の仮講義所でキリスト教の洗礼を受けた。この年、 胆振地方でキリスト教の普及に最も力を入れたのは、室蘭郡外三郡長の要職に あった田村顕允、室蘭郡で布教活動に熱心だったのは竹子の父、赤城信一だった。
 日本で最初のキリスト教会・日本基督公会が明治五年、横浜に設立されて以降、 日本の青年クリスチャンたちによる布教活動は次第に広まりを見せた。担い手と なったのは、武家社会の崩壊で経済的、政治的、社会的特権を奪われた青年士族 たち。彼らは、新たな価値体系を外来の宗教に見いだした。西洋文明の基礎に キリスト教があると理解し,日本を文明国にするためには宗教はキリスト教 でなければならぬと心に決めたのだ。
 アメリカ人宣教師ジェームス・ハミルトン・バラらに導かれた日本基督公会 のメンバー、いわゆる横浜バンドや熊本洋学校の生徒による熊本バンド、そして 札幌農学校の学生集団・札幌バンドなどがその象徴といえる。とりわけ、 弱小藩だったり、旗本や維新戦争で敗れた藩の若者の間に伝播していった。
 その流れは、年を経るごとに開拓士族の住む北海道にも広がり始めた。 明治十九年には新潟教会の信徒から伝道者・牧師になった吉田亀太郎が 室蘭入りした。吉田の祖父が旧亘理伊達藩士という関係からか、当時室蘭 外三郡長だった田村を訪ね、熱心にキリストの教えを説いた。
 「実に素晴らしい宗教だ」
 キリスト教信仰による開拓精神の発揚は、元武士たちの新たな共同体理論に 結びついた。そして、プラウのいち早い導入やビート栽培、精糖工場建設など 西洋農法の取り入れに積極的に挑んできた田村の展望するところとも重なった。 感銘を受けた田村は、函館に来ていた吉田の先輩格ともいえる押川方義の 来蘭を要請。横浜バンドの出身で、のちに東北学院の創設者となる押川は 二度にわたり室蘭に足を運び、士族に返り咲いて間もない亘理伊達家や 片倉の旧臣たちに洗礼を行った。その数、七十人余。田村はもとより 旧主伊達邦成、斉藤良知、日野愛憙ら士族の指導者となる人物が大半だった。
 (家中の主立った者も含め、何故、これまでに耶蘇教に心酔傾倒するの だろうか)
 竹子とともに洗礼を受けた景光自身、義父の影響が大きかったとはいえ、 十字架を前に、ふと戸惑うことがある。日照りの大地に突如降り注いだ恵み の雨のごとく、家中一同の心に沁み込んでいく西洋の宗教とは何か。
 系譜の源流をたどれば、初代小十郎景綱の父片倉式部景重は出羽国置賜郡 の米沢八幡神社の神主だった。二代目重長や馬上の家臣たちは、甲冑の前立に 「愛宕山大権現守護所」の札を掲げ、勝軍地蔵を本地仏としている京都・ 愛宕神社に向かい、かしわ手を打った。時代をもっと手元に引き寄せるなら、 父や旧臣家族ともども景光が幌別村に入った明治三年、会所の傍らにあった 妙見稲荷社に旧領奥州刈田嶺神社に祭祀していた 日本武尊(やまとたけるのみこと)を合祀し「刈田神社」と改めた。
 しかし、景光をはじめ、旧臣らの心を支えてきた神道、あるいは 神仏習合の信仰心は、それほどの時を要さずに、キリスト教に置き換わった。
 このころ、日野愛憙の長男が、十八歳の若さで夭折した。妻の喜久子は、 当然のように仏前に供え物を並べたところ、愛熹の案内で日野家を訪れた 牧師が、供え物をすべて下げさせた。
 「なんと、無慈悲な」
 先祖代々受け継がれて宗教儀礼と異教のそれとの大きな違いに涙した 喜久子は牧師が来訪するのを疎んじたが、その後、熱心なキリスト 教信者に転じた、と愛憙は語っている。

 士族という知識層の魂を共振させたキリスト教だったが、一方で漢学の 素養がなく漢訳聖書や伝道用の漢文書籍を読むことができない農民や職人、 人夫などを改宗させるまでの勢いはなかった。さらに、黙っていなかった のは地元の仏教界だ。かつて権威を振りかざしていた元武士集団の耶蘇教 など何するものぞ—と、室蘭では弁士を雇ってキリスト教を攻撃する演説 会を開くなど、伝道師や信徒らの排斥運動を繰り広げた。
 そうした地域の宗教戦争の波紋は赤城信一の身にも及んだ。明治二十年 十二月、赤城は自ら病院長の職を辞し、追われるごとく室蘭から西紋鼈村、 のちの伊達に移り住み、個人病院を開業した。田村が室蘭外三郡長を辞任 して西紋鼈村に去ったため、室蘭での布教活動が下火になったのも一因 だった。
 赤城がこの地を選んだ理由は、只々信仰のためだった。押川らが室蘭 を訪れた明治十九年、田村顕允らが発起人となり同村西小路に教会堂を 建設することを提案、旧主邦成をはじめ景光、赤城、日野愛熹など三十四人 が合わせて八百円を献金。二年後の明治二十一年暮れには完成し、 献堂式を迎えた。赤城は室蘭時代に続いて、この教会でも長老として 信仰の道を歩み続けた。

 赤城が西紋鼈村に移った翌明治二十一年、景光はいよいよ独立独歩の道 を模索し始めた。室蘭で事業を起こす財力はない。といって一生郵便配達夫 で終わるわけにもいかない。あくまで糊口を凌ぐ急場しのぎの生業だ。
 「さて、どうする」
 熟考の末に行き着いた先は、やはり父祖が片倉家再興へと挑んだ幌別村 での本腰を入れた開拓だった。頼みとする日野愛憙や西東勇吾、 佐野源蔵ら主立った旧臣もそこにとどまり、鍬を振るっている。 景光の針路は決まった。


第4章

1.小平河岸の地

 先住民のアイヌがオ・ピラ・カシ(川尻の・崖・の上)と呼ぶ幌別村小平河岸。 浜側の戸長役場から内陸部へ半里たらずの、台形状に広がる平坦地の西側を 幌別川が悠然と流れている。上流の右手に連なる切り立った断崖の岩肌は、 この川が溶結凝灰岩の台地を悠久の時をかけて浸食してきたことを物語っ ている。
 洪水のたびに広がる川幅は、河口近くで四十間。鬱蒼とした樹林地帯を自在 にうねり飛沫をあげ、時にはコブシやカツラの木々を根元からすくい取っては 押し流し、自由奔放に川筋を描き変えてきた。札幌本道を寸断するこの川に 橋が架けられたのは、明治天皇御巡幸の明治十四年になってからだ。
 川沿いの土地は谷地低地で砂礫や粘土層の泥炭質土、崖側の地域は火山山 麓地で水はけは良いが栄養分は少ない。
 北西に目を転じると、やはりアイヌたちが神の山とあがめる高さ二百五十丈 (七五〇メートル)のカムイヌプリが、どっかと腰を据えている。麓から頂に 向けて重なりあう三段の海岸段丘は、大地の胎動とともに大きな隆起を繰り返し てきた山の生い立ちを描き出している。
 ひたすら天空を目指して競い合うカツラやエゾマツ、地下水脈に根を張り 巡らしたミズナラや栗の木などがときに領分を争い、また棲み分けしながら、 咎めるものなき自由の天地で樹海を創生してきたのだ。少なくとも、明治の 世が来るまでは—。
 景光が北海道庁から、この小平河岸の官有地三万坪の貸し付けを受け、 家族を伴い開拓に入ったのは明治二十一年八月のことだ。これより数カ月前 の春先には、希望した小作人二人を先発移住させて、土作りや一部作物の 栽培に取り組んだ。
 片倉家による幌別郡支配を罷免されて十数年。「お家再興の夢は破れた」 と早々に旧領白石に戻る家族や、父景範とともに札幌白石村に移る者も相次ぎ、 このころ幌別郡に残った旧臣は入植時の半分に減った。一方、明治十五、六年 ころからは静岡や兵庫、香川などからの入植者も増え、耕土の主役は武士集団から本家本元の「土の人」に入れ替わりつつあった。 にも関わらず、景光が室蘭からあえて幌別村に戻ったのは、それなりの理由が あった。
 何かと頼りにしてきた義父、赤城信一はキリスト教排斥運動に遭い明治二十 年十二月、室蘭から隣の西紋鼈村(現伊達市)に移り開業した。そこは旧 亘理藩主、伊達邦成が農業振興の陣頭指揮を執り、繁栄しつつある、 いわば亘理の領土。時代は変わったとはいえ、片倉家の当主たる者が 義父とともに、そこに住まいを移すことを、十三代続く名家のプライドが 許さなかった。
 いよいよ自らの力で生計を立てなければならない。景光は一家の大黒柱として。 同時に父祖の果たせなかった北海道での片倉家再興を、己の手で成し遂げる 決意を固めたのだ。

 ただし、難なく小平河岸に移住できたわけではない。
 「片倉小十郎の孫が、官有地の貸し付けを願い出ている? して、相応の 資力はあるのか」
 北海道庁の担当官吏は、願書に添えられた景光の財産調べに一瞥をくれ、 にべもなく「不可」の印を押した。願い出た三万坪の土地を切り開くだけ の資産や財力がなければ、お上の土地をたやすく貸すわけにはいかぬと、 最初は規則を盾に許可しなかった。
 明治三、四年の自費による集団移住で片倉家が地元の按察府御用達の 商人山崎屋から借りた金は三千両。その返済に幌別産の鮭や昆布などの 売り上げを充て、七年間で二百両は返済したが完済への道は遠く、結局、 政府に肩代わりしてもらい借財の重荷は解き放たれた。しかし、その後 の父景範に、身の丈にあった慎ましい生活はなじまなかった。手稲や 白石の旧臣らから「殿」と呼ばれ慕われるほど、戸長の月俸を上回る 遊興などの出費が重なり、結局は自ら札幌県御用係を辞職。五年前、 祖父邦憲の病気見舞いを理由に旧領白石に帰ったまま戻ってはこない。 祖父の邦憲も二年前の明治十九年二月、病没した。北海道に残された景光に、 父祖から引き継ぐ格別の財産は残されていなかった。
 「景光さまが、難儀しておられる」
 「士族に復した時の誓いを今こそ、果たすとき」
 窮状を知った本沢直養や日野愛憙ら、幌別郡の主立った旧臣が動いた。 誓いとは、盟約書に記した「片倉氏保護」の一文。
 「今、我らが尽くさねば、あの盟約書は絵空事になる」
 「手をこまねいていては武士の恥だ」
 君(きみ)辱(はずかし)めらるれば、臣死す—。徳川の世が終わりを告げ、 二十年の歳月が流れたとはいえ、つい先年の士族復籍運動にみられるように、 旧主と家中の絆はなお堅く結ばれていた。
 とりわけ日野は「片倉家ノ尊孫残ラズバ、今日ノ村勢成シエズ」と、 景光の存在が開拓に重要な役割を果たしたと訴え、貸し付けを渋る 道庁をついに翻意させた。


2.白石城の面影

 片倉家臣団の中で小平河岸に最初に入植したのは、移住組第二陣に名を連ねた 今崎久太郎だ。かつては二十一石取りだった久太郎は当時二十五歳。最初は 西来馬丁に住んだが、明治五年七月、開拓使が農業現術生徒を募集している のを知り、医師の高橋詠帰や伊藤仲五郎、渡辺順、佐藤弥平らとともに東京 農業仮学校へ入学。東京官園で学んだ後、明治七年に、小平河岸に細木や 草葺きで組み立てた拝み小屋を根城に開拓の鍬を下ろした。
 明治十五年には片倉の旧家来で、お城勤めをしたことのある斉藤弥太郎が 一万五千坪の土地払い下げが認められ、入植した。斉藤は明治五年、札幌へは 行かず、幌別に自費移住した組だ。
 後発組の景光は三万坪の貸し付けを受けると小作人とともに、野良着姿で 畑作の開墾に励んだ。この頃になると馬に引かせて土を起こすプラウや、 その土塊を砕くハローなどの西洋式農機具も普及し、片倉家主従が開拓に 入った明治の初めに比べると、作業は格段と効率的になった。亘理伊達藩 の田村顕允と並んで、西洋式農法を積極的に取り入れた片倉家の元筆頭家老、 本沢直養の指導がこの幌別郡でも実を結んだのだ。
 妻竹子と六歳になった長女の幸子、次女節子、入植の前年三月に生まれた 三女貞子との五人家族が最初の住まいとしたのは、幌別川沿いに伸びる 農道脇の掘っ建て小屋だ。度重なる川の氾濫を耳にしていたためか、最初から 家造りに金はかけなかった。まずは質素倹約を旨として財力を蓄えることだ。
 暴れ川への懸念が現実のものとなるまで、月日を要さなかった。
 入植初年の九月と十月、相次いで台風が襲った。とりわけ十月十九日から 翌二十日にかけては幌別川の水かさが平常時より四尺(一二〇センチ)余も 増し、伐採後に上流河畔に積み置いていたエゾマツやカツラ、ヒバなどの角材 や柾木材が流出した。材木は濁流に揉まれながら小平岸里通に架かる橋で 立ち往生し、水をせき止めた。
 「橋が流される」
 「材木を取り除け!」
 しかし、必死にこらえ続けた橋梁も奔流の破壊力には抗し切れず、橋脚ごと もぎ取られ押し流された。橋の中央から両岸にかけた流失した部分およそ七間。 このときの状況を幌別郡各村戸長の日野愛憙は「川上ニテ伐採シ川岸へ積置 タル角材及柾木用材続々流出シ来タリ為メニ幌別村字小平岸里通ノ橋梁ニ突当 リ其勢猛烈ニシテ村民ノ防禦スルニ拘ハラズ中央オヨソ七間程陥落セリ」と 幌別郡長の福原鉄之輔に報告した。
 豪雨予報など、まだまだ山村に伝わらない時代。なぜ、早めに木材を上流から 下ろさなかった、と責任者を叱責するのは酷な話である。
 「材木で済んだからまだ良かった。土石流が橋でせき止められたら、 畑作物は水害で全滅したかも知れぬ」
 こうした幌別川の洪水、氾濫が繰り返されるたびに、家屋は崖側へ、崖側へ と移り寄って行った。

 「おばんでござりす。また、すっしょ(風呂)、お借りします」
 小平河岸一帯に夜のとばりが降りる頃、片倉邸の玄関戸を開けて、旧臣の 斉藤弥太郎が遠慮がちに入ってきた。一家の入浴が済んだ頃合いを見計らって、 今晩も五、六町川下の開拓小屋から、もらい湯にやって来たのだ。
 天保十二年生まれの弥太郎は明治五年、開拓使貫属の道を選んだ札幌組 とは異なり、自らの意志で白石から幌別村に乗りこんだ。独身の身軽さも あって、誰にはばかることなく村内や室蘭で農業や漁労に孤軍奮闘したが、 景光一家の入植より六年ほど前の明治十五年、小平河岸に官地を借り受け、 耕作を始めた。
 家格は十石取りと軽輩ではあったが、お城勤めでは主君の部屋に近い間で 「御〆切」なる役目に精勤した。そして、あの明治維新。皮肉にも弥太郎 たちは、官軍が接収した白石城引き渡しまでの間、城番を勤める羽目になった。 番頭(ばんがしら)を筆頭に脇番頭、番士ら一組十六、七人、計十一組で編成 された「白石舛岡城番次第」の六番組に「番士 斉藤弥太郎」の名がある。 明治三年、移住組の第一陣として鷲別村に入った黒沢源一郎も三番組の脇番頭、 須田弥平左エ門は五番組番頭として名を連ねている。
 番士は無役で十八歳以上、武芸練達の侍格の者。「城番之次第」には、 こう書かれていたが、今や、弥太郎ら若い拓殖者に求められるのは、大地と 格闘する強靱な意志と体だった。
 「本丸の大手一ノ門、二ノ門をくぐりますと、正面に表御殿、その向こう に奥向御殿や伊達様の御成御殿がそれは優雅に並んでおりましてな。そして 三階櫓の天守が天を突くかのごとく、堂々とそびえて…」
 弥太郎は明治七年の廃城令により民間に払い下げられ、とうの昔に解体 されてしまった白石城の面影を、まだ十歳に満たない長女の幸子に とくとくと語って聞かせたが、頭に描いてもなお、今の質素な暮らしと 結び付かない過去の栄華は、幸子の心におぼろげに浮かんでは、 たちまち消えていった。
 心地良い一杯の酒が、一日の農耕作業で疲れ切った体に染み入る。 景光は父親に似て酒好きだった。しかし、小平河岸入植後間もなくして、 大小二本あった徳利のうち一本を「うっかり落として、割りました」 と謝る竹子に、景光は察したのだ。一層、倹約しなければ三万坪の開墾は 成し遂げられないと。身の飾りは不要と、髪飾りを慈善事業に寄付したり、 筒袖の野良着姿で愚痴ひとつこぼさず、畑仕事小や家事にいそしむ竹子に、 それを教えられた。
 「白い御飯が食べたい」
 板の間に敷かれた琉球茣蓙に、折り目正しく座る幸子や節子が竹子 にせがむ。小作人の家で、白米だけの粥飯が椀に盛られているのを 見知ったのだろう。入植時から片倉家の食膳にのぼったのは、小豆に 大根や粟などを混ぜ嵩(かさ)を増やす糅飯やソバ団子、芋団子など、 倹約生活は続いた。贅沢をせず、日々の糧に感謝の祈りをあげる敬虔な キリスト教信者の家族が、そこにいた。

 小平河岸入植から一年が過ぎた明治二十二年十月、札幌郡の白石、 上白石、上手稲の三村が開村二十年の節目を迎えた。これを記念して 三木勉や実弟の管野格が代表して、旧臣らが開いた計三十五町歩の田畑 を景光に寄贈したいと申し出た。飛び地を合わせた総面積とはいえ、 十万坪の広さは貸し付けを受けた官地の三倍以上。財産も乏しく未だ 開拓の道半ばで鍬を振るう片倉家十三代目当主の姿を見るのは忍びない、 というのが「開村二十周年」に名を借りた贈与の意図するところだった。
 しかし幌別郡開村十周年を記念した畑地三万坪寄贈の時と同様に、 旧臣各自が辛酸をなめ切り拓いた土地なれば—と、丁重に断った。
 そして、自らの力で農耕の成果をあげていった。


3.鶴の味

 「片倉景光 明治二十一年八月有珠、虻田、室蘭、幌別四郡農産物競優会 ニ出品セシ葉藍 二等ニ賞ス 競優会会長 伊達邦成 副賞 農具」 移住前からの作付けが実を結び、景光は早々に亘理伊達家旧主名の墨痕鮮やか な褒状と開拓に挑む新たな武器を手にした。
 いかなる境遇にあろうとも、全身全霊、事に処すべし。父祖代々受け継がれて きた教えは、大地に生きる侍としての心に、今やしっかりと根を張っていた。 その証しが明治十七年、当時はまだ先駆けともいえた室蘭で挑んだ搾乳業だ。 結果として資力が乏しく、夢叶わぬ戦いではあったが、小平河岸入植後も 土壌改良や種子選定、作付け時期や手入れなどに腐心し、探求してきた。
 翌年八月の「有珠、虻田、室蘭、幌別、白老、勇払 六郡農産物競優会」 では瓜哇薯(ジャガイモ) が三等に、明治二十五年八月の「北海道物産共 進会」では小豆が一等賞に選ばれ、北海道長官北垣國道から金牌を受けた。 入賞理由には「子粒、農實、色澤、調整共ニ佳良ニシテ、産額亦少ナカラス。 平素撰種培養ノ注意、周到ナルヲ見ルニ足ル。其功特ニ顕著ナリトス」と あった。
 長女の幸子がマチ場の学校に通うころには、庭先で鶏が走り回り、屋敷 の周囲には梨や苹果(へいか)、梅やスモモなどの果樹が枝をしならせ食卓 に上るほど、景光は栽培技術のコツを会得していた。
 苹果とは、和リンゴと区別する西洋リンゴのこと。明治に入り、開拓使は 米国やカナダから現在の基幹品種でもある国光や紅玉、紅魁をはじめとする 七十種余約八万本の苗木を輸入して生産を督励。一時期、北海道から中国 やロシアに輸出するまでになった。景光もまた明治三十四年十一月、 室蘭外五郡水陸産物品評会に苹果を出品し褒状を授与されている。
 小平河岸入植から三年が過ぎ、開拓小屋暮らしにも多少の余裕が生まれ てきた。
 味噌も自家製で貯蔵できるまでになった。貯める大樽は明治天皇巡幸の折、 室蘭の赤城家に泊まった有栖川宮が心地良さそうに浸かった風呂桶だ。
 「宮様がお入りになった風呂桶を、こんな風に使っていいものかしら」
 最初は竹子もためらいがちだったが、生き抜くための糧食貯蔵がまず大事と、 夫や小作人が力を合わせ育てた大豆を、煮ては潰し麹や塩を混ぜながら、 食膳の重宝品に仕立て上げた。
 しかし豆腐や醤油だけは入植当初自賄いできず、景光が口にしたのは このころになってからだった。
 「鶴の味がした」
 舌先に伝わるまろやかな豆腐の風味が、よほど新鮮だったのだろう。 景光は後日、日野愛憙らに、こう洩らした。
 「鶴の味? はて、鶏や鹿肉は食するが、鶴を引っ捕らえ潰すなど、 この辺りではあまり聞かぬ話だが」
 確かに、明治期、北海道で丹頂鶴を狩猟し、食べた人がいなかった 訳ではないが、決して美味とはいえない代物だ。愛熹は、首を傾げつつ、 「景光さまも入植三年にして地固まり、ようやく口に出来た喜びを丹頂鶴 のよき縁起になぞらえて、つい例えで発した言葉か」と解した。
 片倉邸の居間に飾られた共進会入賞状の中で、出入りする旧臣らの心を とりわけ揺り動かす一枚の賞状がある。明治二十八年の春から夏にかけて、 京都市岡崎公園で開かれた第四回内國勧業博覧会。景光は大豆を出品 し褒状を手にした。「審査総長ノ申告ヲ領シ茲(ここ)ニ之ヲ授与ス」 と表彰したのは博覧会の総裁を務めた小松宮彰仁親王。そう、歴史が 大回転したあの明治維新における鳥羽伏見の戦いで征夷大将軍となり、 会津征討では越後口総督として奥州鎮定に当たった宮家の一人だ。
 「おお、あの小十郎の孫が育てた大豆か」
 「褒状を授与する者一覧」に見入り、「片倉景光」の名に目をとめた 彰仁親王は、早三十年近く歴史の彼方に置き去りにしたはずの、戦塵の 記憶を呼び起こした。あのとき、奥羽討伐の先頭に立った者と、 討たれ敗れた者の末裔が、北の大地で育まれた作物を介して邂逅した。
 (そうか、子孫が元気に北辺の開拓に汗しているか。よきこと、よきこと)
 陸軍参謀総長の目元が緩み、彼の脳裏にかつての白石城の優雅な姿が 浮かび上がった。


4.授爵運動

 明治十七年の華族令制定から八年が過ぎた明治二十五年十月、北海道開拓に 功労があったとして、政府は旧亘理藩主伊達邦成と、邦成の兄で前年死去した 旧岩出山藩主伊達邦直の孫、正人らを華族に列し男爵の爵位を授けた。
「なぜだ! なぜ我らの主人だけ除外された」
両家の授爵を知った本沢、斉藤、日野をはじめ旧臣たちは、こみ上げる憤りと 無念の思いをかみ殺しながら、人目のないところで慟哭した。武士団を率い 北海道を切り開いた旧藩主への爵位授与の件を今、この時まで知らなかった こと。同じ北海道開拓に功績をあげたのに、まったく蚊帳の外に置かれたこと。 静内の徳島藩稲田家のように、当主が翻意してクニに帰ったわけではない。 幌別郡や札幌白石の家臣団が残り、拓殖に励んだ事実は消えない。亘理伊達 や岩出山と比して、彼我の違いにどれだけのものがあろうか。
 それは旧主に仕える者としての、恥以外の何ものでもない。憤怒の切っ先は、 同時に家中それぞれの胸に突きつけられた。
 ただ日野らは、華族の栄典に浴するには、片倉家にそれ相応の資産が 必要なことも知った。受爵後、華族の地位身分を守るため、戸主で二十 歳以上の者には、毎年五百円以上の純益を生む資産がなくてはならないのだ。 その額一万円程度。巡査や小学校教諭の初任給が七円前後、庶民の立場から すると、雲の上の存在だった大臣級でも月俸五百円の時代だった。
 景光の前に立ちはだかった華族世襲財産法の高い壁。これを乗り越えるには、 我らが財産をつくるしかないと、この日を境に、片倉三賢の中で最も若い 日野愛憙をはじめ、主立った旧臣らが六年に及ぶ受爵運動を始める。
 初めに手を着けたのが、金を集めるための組織づくり。幌別郡には日野愛憙 を代表とする報恩義会、札幌郡に彰功義会、宮城県白石町には報徳義会、 東京では医師の安藤卓爾が中心になって同郷義会を結成した。
 しかし、明治維新で無禄となった士族が、三十年近い歳月を経たとはいえ、 蓄えた財産の中から拠出できる金は底がしれている。なおかつ、旧領白石では 「今更、旧主を敬う時代でもあるまいに」「戊辰戦争前まで、片倉の家来たち には随分いじめられた」と反発する旧臣や商人もいて、日野らは長期戦に なることを覚悟した。
 そうした中で、身内に「片倉の子孫を、必ず華族にする」と言い放って、 東奔西走する人物が白石町にいた。大学出の医師としては、この町で先がけと なった亘理晋。亘理家は代々、片倉家の祈願所であった千手院の別当、 京都聖護院に属する家柄で、晋は安政二年生まれ。与謝蕪村に 「後世の俳諧、此の人に起こる」と言わしめた、奥羽俳壇を代表する 刈田郡白石の俳人、松窓乙二は曾祖父にあたる。
 晋は「医は仁術」を旨とする佐々木東洋に弟子入り。東大医学部の前身、 大学東校で東洋から学費を出してもらい学んだが、明治十三年二月に帰郷し 松窓療院を開業した。気性は激しいが一徹なところがあり、東洋の教え通り、 人の為に射利を捨てることを心がけた。そうした信念が景光の授爵運動に 駆り立てたのだろう。
 その亘理晋から明治三十年九月二十九日、日野愛憙の元へ、 「ソツコク、シロイシヘ」と招請の至急電報が届いた。
 既に本沢直養はこの年の七月鬼籍に入り、仙台に移り住んだ斉藤良知 も病床に伏していた。すべては五十代半ばの、日野の双肩にかかっていた。 愛憙はこの日午後には幌別を立ち、汽車や船を乗り継ぎ、祖先の地を目指した。 出発から三日目、仙台で乗り込んできた旧臣の代議士から、意外な朗報を 伝えられた。愛宕山にある片倉家の旧領地内保安林を政府から戻してもらう 請願権があることを知り、これを華族世襲財産に組み込む方策が見えた。 かつ愛宕山の杉林が水源保安林の役目を果たしており、水利組合から相当の 利用料を得られる目途もついたという。
 (これぞ、天祐!)
 重く閉ざされていた扉をこじ開けられそうな予感がした。
 各義会の寄付金集約状況の報告や、愛宕山の杉林や地所引き戻しに向けた 請願書の作成などを経て十月二十六日、白石町の岡崎楼を会場に報徳義会総会、 世襲財産保管会の報告会が開かれた。
 日野愛憙の白石町滞在は一カ月近くに及んだ。
 翌明治三十一年三月一日、幌別郡と札幌の二義会は片倉景光旧家来で 北海道に移住した二百三十九戸の総代と、日野愛憙以下六人が連署して、 北海道庁長官安場保和に宛て「旧主片倉景光へ爵位御授与の義願書」 を提出した。
 三千六百字に及ぶ義願書には、明治二年の支配地拝命から、三百戸の 旧臣が旧主とともに北海道移住の道を選択したこと、巨額の費用を投じて 自費移住したのも、すべては国事に尽くすための行いだったことなどが 綴られていた。ほかに景光の財産目録や素行調べも、提出書類に加えられた。
 これを受け、北海道庁は内務部地方課長名で「片倉景光祖父以来  北海道拓殖事業ノ功労ニ依リ、特ニ華族ニ列セラル度件ニ付、 旧家来日野愛憙外六名ヨリ請願書提出、篤ト取調候處、事情至当ノ事 ト奉存候」と、国に上申した。
 しかし、義願書提出から二カ月を過ぎても、授爵の報は届かない。
 「資産条件を満たしても、首をたてに振らないのはなぜだ」
 業を煮やした亘理晋は、上京して同郷の医師安藤卓爾とともに最後の手段 に出た。貴族院議長の要職にあった近衛篤麿(あつまろ)を自宅に訪ねたのだ。 もちろん、面識はなかったが、亘理らは片倉家の家来であることを名乗り、 授爵の力添えを懇請した。
 「そうか、片倉は、まだ華族になっていなかったのか。俺はもう華族 になっていたものとばかり思っていた」
 ちょうど馬車に乗りこむ途中だった近衛は、「よし、おれはこれから 宮内省に行く。ちょうどいい。総理大臣の伊藤博文に会って、話をして やろう。それまで待っておれ」と言い残し官邸へ向かった。
 門前払いも覚悟していた二人は、近衛の力強い約束に、長かった運動 がようやく実を結ぶ確信を得た。早速、近衛とのやりとりを手紙にしたため、 日野愛憙らに送った。


5.念願の華族に

 「片倉景光 授男爵 明治三十一年七月二十日 宮内大臣 正三位勲 一等子爵 田中光顕」
 授爵証書とともに、特旨をもって男爵の爵位を授ける旨の書簡が、 上京し宮内省に赴いた景光の手に渡された。

 胸に金製のボタン、萠黄の羅紗で飾られた領章(えりしょう)と袖章が男爵 の位階を示す上衣を着用、腰には剣を下げ燕尾服型の大礼服をまとった景光が、 授爵記念の写真におさまった。口回りから顎下に伸びた黒々とした髯が、 大礼服に負けず劣らずの威光を放っていた。
 もう一枚の記念写真の中央に座る景光のすぐ隣には佐藤孝郷の姿が。 前列左端には、獅子奮迅の活躍をした日野愛憙も紋付羽織袴の正装で居並んだ。
 (本澤、斎藤が生きておれば、ともにこの栄典に浴せたのだが…)
 景光の受爵を知ることなく、元筆頭家老の本澤直養は前年の七月二十八日、 享年七十七歳で死去。斎藤良知も半年ほど後の一月三日、仙台で息を引き取った。
 かくも長い道のりをともに歩み、西方浄土へと旅立った重臣たちに、 景光は心の中で手を合わせていた。

「ここに片倉男爵のご臨席を賜り、開湯式典を執り行われることは誠に…」
 明治三十二年八月六日、幌別郡登別村カルルス温泉に新築された寿館旅館の、 玄関前広場に設けられた開湯記念式典会場の主賓席に、羽織袴で正装した景光 の姿があった。
 幌別村とカルルスの二カ所で催された式典に幌別、鷲別、登別三村を はじめ札幌や小樽などから集まった関係者は三百人余。来賓からの式辞や 祝歌の披露、オカシベツ住民らによる神楽獅子舞の舞踊などが式典を 盛り上げた。
 幌別村から北へ三里余り、札内台地を上り、アイヌの人々がペンケネセ (小川の床)と呼ぶ盆地で、最初に温泉を発見したのは日野愛憙だった。 明治十九年九月、室蘭、虻田、有珠、幌別四郡の書記だった愛憙は、幌別、 登別両村にまたがる札内原野を屯田兵予定地と見立てた。 実地踏査の命を受けた愛憙は道庁の測量技師を案内し登別川上流を十日 余りにわたって調べているうちに、この温泉を見つけたが、開発までには 至らなかった。
 それから三年後、木材業を営んでいた愛憙の養子、日野久橘がこの地域で 伐採樹種を調査しているうちに奇しくも温泉を発見。かつて養父が見つけて いたことを知らないまま「字ペンケセネにおいて温泉を発見」と日記に記した。 同時に、北海道庁に温泉開業の免許申請を行ったが、「不可」の裁定に終わった。
 湧き出る鉱泉が、温泉保養地として陽の目を見たのはそれから 十年後のことだ。室蘭郡輪西村で薬局と運送業を営む市田重太郎が温泉開業 の免許状を取得して、日野久橘との共同開発に乗り出した。まずは 幌別村からカルルスと改称した字ペンケセネに至る、 幅四間三里余りの馬車道を八十日間の突貫工事で開通させた。
 「カルルス」とは泉質がチェコスロバキアのカルロヴィ・ヴァリ、 ドイツ語ではカルルス・バードという温泉地の鉱泉と試験の結果似ていた ことから、名付けられた。
 客室五部屋と共同浴場からなるカルルス温泉初の入浴宿泊施設・寿館旅館の 大広間には、この日のために景光が詠み、自ら筆を執った和歌一首と、 妻竹子の絵が上下に表装された掛け軸が飾られた。歌は、広場での式典でも 披露された。
 「開湯式に招かれて 其のことほぎに 片倉景光」の詞書(ことばがき) に続く祝歌とは。
 強かりし やまひの根さへ かるゝすの いで湯の道も 開きそめけり
 その祝宴会場に列席した佐野源蔵は、流麗な筆運びの一首を前にして思わず ほくそ笑むだ。授爵にあたって宮内省に提出された景光の「素行調」。 戸長役場の書記などを務めた源蔵は、その中に書かれていた 「只文事ニ於テ少敷深カラスト雖(いえど)モ」の一文を思い出した。 絵画や詩歌などの「文事」については正直なところ浅い、と景光を評 していたが、(病もカルくなるカルルス温泉? どうして、どうして、 こんな言葉遊びが出来るお方とは)と、もう一度読み返し、普段は見せない 景光の遊び心に顔をほころばせた。
 思い起こせば二十五年前、景光の父景範は旧臣らが多く住む札幌白石村など に度々赴くようになり、斉藤良知や日野愛憙らは浮き足だった。このままでは、 幌別郡に残る旧臣たちの動揺は抑えられない。斉藤は主君邦憲に東京修学中 の景光の帰郡を懇請し、願いは聞き届けられた。
 祖父の厳命に逆らう術はない。家中の嘆願をかなえる事こそ、主家の血 を引く者の務め。その一点に身を置いてきた景光が、伊達邦成の子息のよう に慶應義塾などで勉学をまっとうしていれば、「文事深カラス」などと 評されなかったろうに。景光が歩んできた折り目、節目を思い起こしつつも、 源蔵は(万事、塞翁が馬よ)と中国の格言をつぶやいた。
 カルルス温泉の開湯記念式典が行われた翌三十三年暮れ、景光の授爵運動 に一命を賭した日野愛憙が約一年の闘病生活の末、帰らぬ人となった。
 幌別郡に居残ったさまざま旧臣たちが、陰になり日向になり景光を支えて きたが、この男がいなければ景光のその後の人生は大きく変わっていたかも 知れない。
 その勲功の極みといえば、やはり景光の授爵運動にほかならない。
 伊達邦直と、兄邦成の孫が男爵に列せられたのを知り、愛憙はただちに 筆をとり「片倉家北海道移住顛末」をしたためた。
 その緒言では「而シテ特(ひと)リ我カ片倉家ハ此栄典ニ浴スルコトヲ 得ス 旧臣ノ遺憾何ヲ以テ之ニ譬(たとえ)ルニ足ランヤ」「両家ノ偉業 片倉一家ニ比シテ超絶セシ處(ところ)アリシカ 否 決シテ然(しか) ラザルナリ」と語句を荒げて、旧臣らに行動を促した。
 そして明治維新による領地没収から、按察府への北地跋渉嘆願、幌別郡 や札幌白石への家臣団移住、その後の開拓の歩みなどなど、片倉家を柱に 据えた二十五年間にわたる大事業の顛末を書き綴った。
 思い起こせば、第一陣到着の翌明治四年秋、移住者たちが乏しい懐から 金や現物を出し合い、村に教育所を開いた。書棚には「日本外史」や「四書」 「君臣言語録」がそろえられ、その中には中国の歴史読本「十八史略」 も五部並べられ、元家老の斎藤良知や医師の高橋詠帰らが読書科 の教鞭を執った。そこに学ぶ子弟らによって、幌別村がのちの世 も一層栄えんことを願って。
 (中国三千年の、あの壮大な歴史書の万分の一にも及ばずとも、 我らが残した艱難辛苦の足跡は、しかと後世に伝えなければならない)
 その一途な執念でしたためた「北海道移住顛末」が授爵運動の 引き金となり、念願成就した。
 (満足、満足。俺の役目は終わった)
 知略を駆使して大地の侍として生き抜いた男の、五十八年にわたる 生涯は閉じられた。


6.幌別川鉱毒

 (鮭が、まったく上らなくなった…)
 晩秋の夕暮れ、西日に揺れる川面に目を凝らしながら、景光はこれから の身の振り方を思案していた。
 明治三十九年秋、異変は起きた。カムヌプリの山肌が黄色く変わり始 める季節に、あれほど先を争うように波しぶきを上げ幌別川を上ってきた 鮭の群れが、さっぱり姿を見せない。
 明治二十年代から、幌別川には約一里の流域に北海道庁の許可を得て 区画された漁場が設けられ、鮭の捕獲が行われていた。河口から遠飛 サンケウク、カネ〆、金成漁場と続き、仙台漁場、シケクル、 田代漁場の主たちが漁獲争いの陣を張った。仙台漁場とは片倉家の旧臣 らによる持ち場で、千両場所とも呼ばれていたが、ともあれ先住民のアイヌも 移住組もそれぞれ組合をつくり、母なる川に回帰する鮭の 群れを我が物にした。
 当たり前のように恩恵に預かってきた、その自然の恵みが枯渇した。
 理由は明らかだった。この年の二月、小平河岸上流約二里先の幌別鉱山で 金、銀、銅の精錬所が操業を始め、鉱毒が幌別川に流れ込んだ。当然のごとく、 漁場の持ち主たちは騒ぎ立てたが、北海道庁に握りつぶされ、 公になったのは大正時代に入ってからだった。
 (旧領白石から、帰郷の誘いもきている。財産も入植時に比べると、 だいぶ増えた)
 幌別村字小平河原
 一 畑 拾町歩 一カ年小作料七拾円 見積価格 金千貳百円
 同村字タンネビョウカ
 一 畑 九町四反五畝十七歩 山林トシテ 見積価格 金四百七十円
 同村字ライバ
 一 畑 壱町三反貳畝八歩 見積価格 金七十円……
 ほかに鷲別村字イタンキの漁場貸付料や室蘭の札幌通宅地貸付料などを 合わせた総額は六千貳百貳十円。
 これが、明治三十六年に日野愛熹の養子、久橘が依頼を受け書き出した 片倉家の総資産だった。当時、大学卒の初任給が三十円の時代、景光の蓄えは それ相当のものになっていた。
 そして財産の多寡以前に、景光を安堵させたのは、片倉家の血脈がつな がったことだ。
 結婚以来、竹子との間にできた六人の子供はいずれも女だった。 三女と四女はすでに他界し、幌別墓地に眠っている。
 家督を継ぐ男子がいない。男爵継襲の道も途絶えるのか。そう煩悶して いた片倉家に、旧宇和島伊達支藩の伊予吉田藩主、伊達宗孝の七男、 健(たけ)吉(よし)と長女幸子との、縁談が持ち上がった。それも、 婿養子として片倉家に入るという、この上ない結婚話だった。
 明治三年生まれの健吉は、三歳で上京。学習院に学び、軍務に就いたのち、 水産講習所卒の経歴から明治三十五年、北海道庁に技手として勤め始めた。 そして翌年一月、とんとん拍子で縁談は実を結んだ。
 明治四十年秋、片倉邸の縁側に正座した景光をはじめ、十人の家族が庭に 据えらえた三脚台の写真機のレンズを凝視していた。景光の両脇には長女幸子 と婿の健吉、さらに妻の竹子とまだ幼い五女潔子や六女の邦子、 健吉夫婦の間に授かった長女照と長男景明の顔が並ぶ。婿夫婦に先んじて、 もうすぐ、この地を去る記念の一葉となるのを意識してか、 とりわけ景光夫妻の面持ちにピリリとした緊張感が漂っていた。
 「閣下故アリ今般旧領地白石ニ帰ラルルト聞キ郡民一同離別之情ニ堪 ヘス涙禁スル能(たま)ハサルモノアリ…」
 暮れも押し迫ってきた十二月八日、数日後に宮城県白石町に転居する 景光夫妻と、幌別郡住民との別れの宴が開かれた。「閣下カ其旧臣諸士ヲ 率ヒテ本郡ニ移住セラレシハ実ニ明治ノ初年ニ在リ」で始まる感謝状には、 かつての家臣ともども耐え抜いた戴星踏月の、開墾の労苦を偲ぶ思いが 綴られていた。そして「郡民一同より」と差し出された一個の銀盃に、 景光は眼頭を熱くした。
 十二歳で白石を離れ、室蘭時代を合わせると三十七年間、この北辺の 大地で生きてきた。父祖代々の地に戻っても、あと何年生きられるか。
 心の中で、幌別の地が真の故郷に置き換わっていた。
 白石転居後、景光は伊達政宗公を祭神として祀る青葉神社の宮司を勤めたが、 胃病で床に伏せる日も多くなり明治四十三年八月、健吉に家督を譲り隠退。 翌年九月三日、病状が悪化し帰らぬ人となった。享年五十三歳。その人物像 を想起させる法名「一陽院殿景徳放光大居士」は、四十年余り前、北地跋渉か、 土着帰農か—で、集まった家臣たちが喧喧ごうごうの渦を巻き起こした 片倉家の菩提寺、常英山傑山寺の墓所に眠っている。


終 章

 明治、大正、昭和、平成と元号は移り、新しい令和の幕が開いて二年目。 片倉景光が幌別村を去って、百十年の歳月が流れた。
 旧臣の斉藤弥太郎や西東勇吾らとともに景光が農耕に励んだ小平河岸は、 昭和四十九年の町名改正で片倉町に名が変わった。この地名と同様に、 幌別小学校近くの刈田(かった)神社を「かりたじんじゃ」と呼び、名前の 由来や意味するところを知らない登別市民は意外と多い。
 片倉町の西側を、ゆったりと蛇行して流れる幌別川に鮭が戻ってきた。 明治の終焉期、遡上を阻む元凶となった幌別鉱山は昭和四十八年に閉山。 河清を待ちわびた魚たちは、母なる川を忘れていなかった。しかし、 その数といえば、八つの漁場が栄えた百年前には遠く及ばない。 河口から二キロ半上流に昭和四十二年、工業用水専用の幌別ダムが完成 したためだ。ともあれ、ダムより下流には自然の産卵床が生まれ、 毎年秋にはオジロワシやカラスが使命を終えたホッチャレを啄(ついば)む光景も 見られるようになった。
 道を挟んで向かい側の、幌別ダムを見上げるようにして建つ登別市 郷土資料館。白石城を模したという白壁のミュージアム二階のガラスケースに、 ニ枚の野良着が飾られている。景光と竹子が、小平河岸で農作業時に着ていた 藍染めの刺し子だ。資料館が開館した昭和五十六年九月から、 常設展示されている。
 おそらく、夫妻が幌別を立ち去る直前まで使い込んだものだろう。 色褪せた藍色の厚い木綿地のあちらこちらに擦れ跡が浮き立ち、 竹子のそれには継ぎ当ての布模様がクッキリと見てとれる。
 市外、道外から訪れた学芸員や研究者は、かなり使い込んだ 一対の作業着が宮城県白石の片倉家で大切に保管されてきた ことに驚嘆する。そして、「貴重な歴史資料だ」と、その希少性を挙げる。
 甲冑や刀、槍などの武具、古文書や書画、骨董のたぐいなら、それほど 驚くに値しない。百年以上の時が過ぎ、とっくに捨てられていても 不思議ではない粗末な野良着が残されていたことに、胸打たれるのだ。

白石町への転居が決まり、身の回りを整理していて「これだけは」と、 北の大地に生きた証しとなる衣類を柳行李に納めた景光の心情とは、 いかなるものだったのか。
 (片倉家の十三代目は旧臣ともども明治半ばから土まみれ、汗まみれに なりながら小平河岸で拓殖に努めた。そのことを子々孫々にいたるまで、 語り継いでほしい)

 時代の荒波に翻弄されながらも生き抜いた村の男爵が、今も幌別川のほとりに 佇んでいる。
(了)

【主な参考文献】
登別町史 (登別町史編纂委員会)
市史ふるさと登別(登別市史編さん委員会)
片倉家北海道移住顛末(登別伊達時代村師匠評定会)
片倉代々記(片倉信光)
菅野円蔵翁郷土史物語(高橋直亮)
佐野家家誌稿(佐野甫)
戊辰戦争 敗者の明治維新(佐々木克)
奥羽盛衰見聞誌(白石市史編纂調査会)
ぷやら3号(登別郷土文化研究会)
イザベラ・バードの通った道(井口利夫)
寒菊(助川徳子)
研究紀要 札幌白石開拓史(札幌市立白石中学校)
研究ノート 北海道における農村自治体の形成(蓮池禳)
よみがえる白石城(清水淳郎)
赤城信一について(北海道医師学研究会)

  「のぼりべつ文芸39号」(2020年9月発行)に掲載






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