創作 幌別村男爵伝 高森 繁
序 章
吹雪がやむと、藁靴の踏み跡や馬橇が残した二本の線条、エゾシカやキタキツネ
の足跡など、雪原に刻まれた命の痕跡はすっかり掻き消され、雪の大地はたちまち
無垢の銀世界を取り戻した。カタカタと粗末な掘っ建て小屋を震わせ、かすれた笛
の音を響かせては板壁の隙間や節穴から忍び込む風もいつしか止み、あらゆる存在
が白い静寂の世界に再び閉じ込められる。近くを流れる幌別川の水音も、川面を覆った
氷の下で凍えていた。
新雪の地平に浮き立つ明瞭な彩りといえば、向こうに広がるトドマツやエゾマツ
などの針葉樹林、その足下にたくましく広がる黄緑色の肌つやを光らせる熊笹の群
れぐらいか。
(そう、北の大地を拓(ひら)く者にとって最も手強い真の敵は、どう猛なヒグマ
や千古斧を知らぬ大木ではなく、地面を覆い尽くす熊笹だった)
根元から刈ると浮き出てくる地下茎。野性をむき出しにした強靱な茎の網が、貧弱
な力加減で打ち込まれる鍬の刃先を、せせら笑うように簡単に跳ね返す。
はいつくばり、鋭く研いだ鎌で勢いよく断ち切るか、頭上に高く振り上げて、
力いっぱい何度も鍬を振り降ろさなければ、そう易々(やすやす)と無限に広がる
網目は解きほぐせないのだ。
日も暮れかかるころ、人力の熊笹退治で手に入れた領地はせいぜい数畳ほどの広
さだ。その後、雨が続いて作業がしばらく中断すると、せっかく切り開いた地面の
下に四方八方から地下茎の妖しく光る触手が忍び寄り、元の支配者に返り咲こうと
攻め込んでくるから、何とも手に負えない。
(それでも、父に連れられ入植した頃に比べると、農耕馬や西洋農具のおかげで
土起こしは、ずいぶん楽になった。小作人の頑張りもあって、最初に計画した畑地
千坪の五分の一は耕作地に生まれ変わった。いよいよ今年の春には、本格的な種まき
が出来る。秋には待望の収穫が…)
厳冬二月の幌別村小平河岸。跳ね上げ窓をあけ、雪の下で春を待つ川沿いの開墾
地をじっと見つめる片倉景光(かたくらかげみつ)がいた。ひとつ屋根の下で暮らす
家族は四人。妻の竹子は、藍染めの色褪せた刺し子の野良着のほころびを、丹念に
繕っている。もうすぐ七つになる長女の幸子は囲炉裏のそばで、三つ年下の次女節子
を相手に、手遊びに興じている。葡萄蔓で編んだゆりかごの中で眠っているのは、
赤ん坊の三女貞子だ。
いつしか夕闇が忍び寄っていた。竹子は炉端にひざを折り、細く短い粗朶(そだ)
を手にした。居住まいや身のこなしなど、もんぺ姿の農婦の所作には武家育ちを
うかがわせる、凛とした振る舞いがあった。
くすぶる小枝の先が、ほのかな火種に変わった。天井から吊したランプの覆いガラス
を外し、ちらちら燃える枝先をかざすと、灯心はパッと目覚め、広間は光の温もりを
取り戻した。これから一家の、つましい夕餉が始まる。今宵も膳に上るのは麦に大根、
干し菜や小豆をまぜた糅(かて)飯(めし)だ。
景光が、かつて行き来したこともあるこの地に、家族を引き連れ室蘭から乗りこんだ
のは明治二十一年八月半ばだった。
はた目には、北海道幌別村の一開拓農民にすぎない男の血筋や往日をたどると、
もどかしくも運命としか言いようのない苦難と忍従の道のりがあった。
(あの時は、まだ十二歳。何も分からないまま、故郷白石を離れ、この北海道
にやってきた)
あの時とは、父景(かげ)範(のり)に寄り添い片倉家の新たな支配地、幌別郡の土
を初めて踏んだ明治三年七月初め、まだ幼名の三之助を名乗っていた頃のことだ。
何不自由ない御殿暮らしから一転、荒涼とした未開の原野に放り出されるまで、
二年も要さなかった。
慶応四年正月三日に勃発した鳥羽伏見の戦いが、戊辰戦争へと歴史の歯車を
大きく回し始めた。「幕府軍は朝敵、会津憎し。奥羽は皆敵」。錦の御旗を掲げた
薩長軍は怒濤の勢いで、上野戦争、東北・北越戦争に勝利し、一年足らずで政権の
座を確固たるものにした。
伊達政宗の片腕として摺上原の合戦で大きな戦功を立てた景綱の入城以来、
百六十年にわたり片倉家が居城としてきた磐城国刈田郡白石城の歴史にも、
終焉(しゅうえん)が訪れた。奥羽越列藩同盟の軍議所となったこの城も、
当然のことながら仙台藩降伏の一カ月後、官軍総督府へ明け渡され、
十一代小十郎邦憲(くにのり)や嫡男景範、景光親子らは追われるように、
仙台城の片倉屋敷に身を寄せた。
しかし、家来、とりわけ上級武士たちは土着帰農という、宗藩の冷徹な御沙汰
にあらがい、新たな活路を求めた。その結果が、武士の身分を保ったままの
片倉主従による北地跋渉だった。
(もう二十年近い、月日が流れた。客馬車の御者に始まり、室蘭での郵便配達夫、
戸長役場の臨時雇員、そして牛飼い仕事…)
囲炉裏の炎をじっと見つめながら手酌で酒をのむ景光は、どれをとっても名家を
継ぐ男の生業とは言い難い職歴の数々を思いだしながら盃を傾けた。
たちまち、困惑のただ中に置き去りにされた出来事が、脳裏を走った。幌別郡
支配罷免で片倉家再興の足掛かりを失った父景範の、札幌への転居だった。
旧臣の数では、幌別郡に比べ圧倒的に多い北海道の首府へ。郡民は動揺し、
景範を慕い一部が相次ぎ道都に移転した。
この窮地を脱する手立ては? 元家老たちが額を寄せ合い、見出した一筋の光明
が「旧主君の尊孫」だった。その人に、この幌別村に戻って頂ければ、旧臣の離村は
治まる。ただちに仙台の邦憲に、東京修学中の景光帰村を願い出ると、
あっさり認められた。
まだ十五歳だった。世情も満足に知らない自分が郡民の希望の星と仰がれ、
推戴されることに戸惑いがなかったといえば嘘になる。おまけに開拓途上のこの
村で、衣食住のなにもかもが、潤沢に用意されているわけでもない。
その景光に生きる希望を与えたのは、室蘭病院長の長女竹子だった。
景光二十二歳の年に二人は結ばれた。
(そして、見栄も外聞もかなぐり捨てて、生き抜く覚悟を決めた)
八年後、旧臣らの骨折りで払い下げされた三万坪の原野が、景光の眼前に
広がった。
(己の手で、己の意志で、この原始林を豊饒の地に生まれ変わらせてみせる)
片倉家臣団の幌別郡入植から二十年の時を超えて、小平河岸の地に新参のひと鍬
を入れた景光の心に、先陣を切って荒ぶる大地に立ち向かった侍たちの凛々しい姿
がよみがえった。