水燿通信とは
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378号

歌集『ふぶき浜』から

 歌集『ふぶき浜』は、昭和56年に刊行された馬場あき子の第7歌集。
 馬場あき子は、昭和41年に出た平凡社『太陽』の特集「雪国の秘事能」(山形県東田川郡櫛引町大字黒川(現鶴岡市黒川地区)に伝わる民俗芸能黒川能を特集したもの)を興味深く読み、また昭和43年、東京の水道橋能楽堂で行なわれた黒川能上京公演に感銘を受けた。昭和47年には黒川能を現地で初めて観、以来40年ほどの間、主にその中心となる王祗祭の行なわれる2月1、2日に、黒川に通いつめた。東京から黒川へは、たいてい羽越本線を使った。歌集の名であるふぶき浜は、その際、車窓から見える越後の浜の景色からとったという。
 今回は、この歌集から幾つか選んで味わってみたい。
 捨て船と捨て船結ぶもがり縄この世ふぶけば荒寥の砂
 吹雪いてひとっこひとりいない浜辺、古びて顧みられなくなり捨てられた船が一艘ならず二艘もあって、縄でつながれている。いかにも寒々しい荒寥とした光景だ。
 今野寿美は『鑑賞現代短歌十一 馬場あき子』のなかで、“馬場あき子がいま目の前の浜辺に見ている「荒寥」は、そこに老耄の母を介在させることで、「この世」に限りなく繰り返される現実としての人生の「荒寥」となる”と語っている。
 しかし高齢に達した読者にとって〈捨て船〉の歌は、そのような解説がなくても自らのやがて迎えるであろう情景に重なる切実さをもって訴えてくるものがある。痛切さを含みながらしみじみとした味わいもあり忘れがたい作品と感じられるのは、そのせいだろうか。
 つばめ賢し雀みにくしもろともに夕映えおりてかなしまれける
 確かに馬場の言うように、つばめは姿も身のこなしもスマートだし、雀はというとずんぐりしていて色も冴えない地味な鳥だ。それにしても雀に対しては随分辛辣な評価を下したものである。
 だが馬場は次いで、そのどちらも〈もろともに夕映えて〉いるのをみて〈かなしまれける〉と詠んでいる。この〈かなし〉は〈悲し〉というよりも〈愛し〉の意味ととるのが相応しいだろう。つまり作者は、その景を見てなにか名状しがたいせつなさ、やさしさを伴った想いにとらわれて、立ち尽くしてしまったのだ。こんなところに目を留めた馬場の感性には『鬼の研究』の著者ならではの非力で哀しいものに対する心寄せがあり、とても魅力的だ。そして読者――美醜に限らず何らかの理由で自分を否定的に考えている者はとくに――にとって、この歌はやわらかく温かい空気に包まれたような幸せ感をもたらしてくれるのではないだろうか。
(山崎十生主宰の俳句結社『紫』2018年10月号で、次のような句をみつけた。)
 いぬふぐり雀にまでも踏まれけり  大久保白村
 あれはなじょの翁ぞ面(おもて)脱ぎすてて男となりしそののち知らぬ
 馬場あき子は昭和47年、初めて現地で黒川能を観た。馬場はその時のことを「魂が震えるような出会いだった。……能を舞う農民のごつごつした肩や手、体から謙虚正直誠実があふれているのよ。故郷の村社・春日明神に対する拝礼の美しさに、初めて本物の魂を見た」(注)と語り、以来40年以上にもわたって黒川に通いつめた。
 黒川能では翁(白式尉)と三番叟(黒式尉)はとくに重要視されている。それを無事演じ終えて面を取った演者は、普段の顔に戻ってくつろいでいる。大半は農耕に携わっている男たちだ。〈なじょ〉は「いかなる」の意。馬場は観能を楽しんだのち、演者らと共に酒を酌み交わしながらついこんな言葉が出たりして、くつろいでいるのだろう。もしかしたら、馬場は自作のこの短歌を即興の節をつけて謡ったのかもしれない、そんなことを想像したくなるような楽しい歌だ。馬場は次のような歌も作っている。
 唇に人語を甦(かえ)す羞しさに直会(なおらい)の酒熱くありたり
 焚く火ありてうれしき冬の寒さかな心は問わず対い合わまし
 馬場あき子がこの歌集収録の作品を成した時期は、もしかしたら心の奥に深く思いを寄せている人がいたのではないだろうか、身近にあってしょっちゅう逢うということは出来ないけれど、少なくともその人の存在を考えただけで心が温まるような人物が。『ふぶき浜』には、そのように感じさせられる短歌がいくつもある。少し例をあげてみよう。
  君ゆきし越中平野わが果つるあずまざがみのなかぞらの秋
  脳葉の片すみにいてすういっちょ鳴きやまぬゆえ君は恋しき
  遠き日の小春やわらに葉ごもれる椿つやつや逢いたかりけり
 年譜を見てもそのようなことを推測させる出来事は見つからない。
 だが、馬場は「短歌研究」(昭和54年3月号)に「主題としての『恋』」を書き、「和歌史の中に厳として存在する思想としての『恋』のことを、私はもう少し尊重して考えてみたい」と語っている。和歌史を考察する上で『万葉集』を『古今集』に対置する考え方は根強く受け継がれてきており、釈迢空も和泉式部について述べる中で「このころの人達の考えた文学的な生活と恋愛とは、ほとんど距離がない」(「女流短歌史」)と語っている。
 馬場はそのような和歌史を考察しながら、現実の自らの体験を時にダブらせていたのではないだろうか。
 いずれにしろ、相手とふたり黙って焚火を挟んで暖まりながら、それのみでかぎりなく充たされているとはまた、何たる純な想いだろう。ここには初めて恋をしたような初々しい恥らいがある。(この歌は、何かに仮託されてつくられたか、純粋に作者の想念の中から生み出された可能性も大きいと私は考えている。また和歌史に関する記述には、今野寿美著『鑑賞・現代短歌十一 馬場あき子』の解説に多くを負っている)
 こぼれたる心の色とみてあれば萩に暗しも実朝の月
 「実朝の月」5首のひとつ。この歌の背景には、源実朝の『金槐和歌集』にある〈萩の花くれぐれまでもありつるが月出て見るになきがはかなき〉があるのは確かだ。「庭の萩わづかにのこれるを月さしいでて後見るに散りわたるにや花の見えざりしかばよめる」という前書きがあり、いかにも実景をありのままに詠んだといった感じだ。しかしこの歌を味わう人のなかには前書きを素直にそのままに受け取る人はまずいない。大半の鑑賞は、この歌は実朝の心の裡を表現しているというように理解している。実朝の歌は、実景を詠んでも心中を詠んだ歌になってしまうということだろうか。
 源実朝は源頼朝の次男という貴種性を持つ故に、建仁3(1203)年、わずか12歳で将軍職に就き武門勢力のトップに据えられた。しかし政治的権力は専ら北條一族に握られ、しかも鎌倉幕府の象徴として、自らの意に染まぬ事件や殺戮に対してもすべて実朝の決裁によるものとされるという事実を引き受けなければならなかった。建仁4年兄頼家が修善寺で惨殺されたり、父頼朝時代からの忠臣畠山重忠が殺されたり、とくに実朝自身が深く愛していた和田義盛やその一族が壊滅されていった事件は、ひとり北條一族が力を得ていく段階で起こった事件であり、裏で同一族が動いていることは確かだった。そういった事件に何度も遭遇しているうちに、実朝は「自分もそのうち変死するだろう」と確信するようになったようである。吉本隆明はこのような実朝の境涯を「まるで支えのない奈落のうえに、一枚の布をおいて座っている」ようなものだったろうと述べている(日本詩人選12『源実朝』筑摩書房刊)。
 源実朝がこのような境涯を生きた人物だったことがあって、先の〈萩の花〉の歌に関しては、大半の人が実朝の心中を反映しているものとして味わっている。例えば、塚本邦雄は「夕闇の中には『在』り、月明と共に『無』に歸した萩とは實朝自身である」(『稀なる夢』中の「萩の右大臣考」)と述べている。
 馬場あき子も源実朝には少なからぬ関心を有して、実朝をしのぶ仲秋明月伊豆山歌会に参加したりしており、昭和53、54、56年には同会に献歌したりもしている。
 調べの美しい作品であり、実朝に関心のある私には心に留めておきたい作品である。
(注)馬場あき子の聞き書きである「語る――人生の贈りもの――」(2018年10月9日〜26日にわたって朝日新聞に連載)からの引用。
(2019年1月25日発行)

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発行人 根本啓子