水燿通信とは |
目次 |
375号遠き遠き補陀落海の月の出に こおろぎ鳴けり暗舟(くらぶね)にして題材に魅かれて選んだ馬場あき子の短歌(1) |
|
第6歌集『雪鬼華麗』(昭和54年刊)所収。 |
|
かつて日本では、南方海上はるかに観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が住んでいる補陀落山(ふだらくせん)があると信じられ、舟で単身そこを目指す補陀落渡海なるものが行なわれたことがある。扉も窓もない小さな四角い箱舟にわずかの食糧と共に入り、北風に乗せてそれを海に押し出してもらうというもの。渡海者は生きて補陀落山に着くことを信じていたというよりも、程なく舟は壊れて波間に投げ出され海の藻屑となることを薄々感じていたが、その死はそのまま観音浄土への生まれ替わりを意味していると信じていたようだ。身を屈めて舟に乗っている格好はまさしく胎内にいる時の姿であり、再生を意味しているという説があるのも十分うなずける。 |
|
“生活上の理由によらない自殺、つまり思想死ともよぶべき死は仏教渡来以後において徐々に増加していった”(馬場あき子『穢土の夕映え』)が、渡海者は補陀落渡海を決意発表した時から否応なく人々の注目や尊敬を受け、位牌の携行を依頼されたりして人々の現世での幸せを託されることになった。だから舟を押し出す側の人々も「舟が陸を離れ、渡海者が現世からいなくなってしまった」事実によって、渡海の成功を信じようとしたのだろう。中には、元の場所に漂着してしまったという例もあったらしいが、人々は自分たちの幸運を託した渡海の失敗を認めず、渡海の意志が消滅してしまった場合でも、再び同じような四角い舟に入れて海に押し出したという。 |
|
また沖縄に流れ着いた例も伝えられている。一旦補陀落渡海を志しながら、その浄土再生が異風の土地・言葉の中でその後の人生を生きることになってしまおうとは、彼はどのような心的葛藤の末に納得したのだろうか。いや納得するも何も、目の前に横たわっている現実に屈する以外に成すすべはなかったのだろう。そして逆に、捨ててきたはずの海の彼方の故郷を恋う姿などを想像すると、なにかしらひどく物哀しくなってくる。 |
|
また、別の目的があって補陀落渡海を決行した者も居たようだ。例えば現世で大きな失敗や恥を犯してしまったとき、その負の記憶と共にそれからの人生を生きるよりは、補陀落渡海という立派な目的を掲げ、死を賭して今生に訣別するという道を選んだということもあった。つまり補陀落渡海を演出した態のいい自殺である。『吾妻鏡』には、元鎌倉将軍家直属の射術の名手、下河辺六郎秀行・智定坊の、そのような例が載っている。 |
|
これは補陀落渡海ではないが、同じように水をくぐって至りつく浄土の思想に入水がある。 |
|
ある上人は入水宣言をした後、百日間の法華懺法など極楽浄土に迎えられる資格を得るために専念した。そして人々に尊敬されながら群衆の見守る前で桂川に投身した。ところが実際に水の中に入ってみると、ひどく苦しいものでごぼごぼと水を飲み溺れてもがき、結局助けを乞うて引き上げられた。人々は「だまされた」とばかり石礫を投げつけて追いかけたが、上人は血だらけになりながらも必死で逃げ何とか逃げ切った、などという話もある。『宇治拾遺物語』に載っている話だが、馬場あき子は『穢土の夕映え』でこの話を紹介したあと、“この上人は、その後、大和に住んだらしく、特産の瓜を京の人に贈る時、半ば自嘲的にであろうか、「先の入水の上人」とかいてよこしたということだ。だが、これこそ哀しい悟りのことばでなくて何であろう”と書いている。 |
|
いずれにしろ補陀落渡海が行なわれた時代というのは、権力闘争の絶えない世の中の変転の激しい時であり、そのような時代には、庶民にとっては殊の外生き難い世の中であり、現世の貧苦・病苦などから、箱に入らない補陀落渡海ともいうべき入水による自殺も少なからずあったのではないかと思う。 |
|
最後に、前掲の歌を味わってみよう。 |
|
小さな窓なし舟に幾らかの食糧を積んで舟出してからどのくらい経っただろう、今は昼なのか夜なのか、窓のない舟の中ではわからない。ふと、こおろぎの鳴き声がした。渡海の時に舟の中に紛れ込んだのだろうか。こおろぎはこの生きもの独特の本能によって、今は月の出の時だということがわかったのだろう。 |
|
狂おしいほどの不安と孤独の中で辛うじてまだ生きている渡海者、そんな中で食べるものはどんな味がしたのだろう。そして否応なく襲ってくる排泄行為。そんな地獄さながらの中で聴こえたこおろぎの声に、彼はほのかな光明を幻視(み)たように思い、それはそのまま彼にとっての浄土となったのではないだろうか。 |
|
残酷で非情で汚濁に満ち、同時にかぎりなくやさしく極上の美すら感じさせる歌である。 |
|
(2018年9月15日発行) |
|
|
※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |