水燿通信とは
目次

371号

『この世佳し―桂信子の百句』

宇多喜代子著

 本著は、句誌「草苑」主宰者であった桂信子の身近に在って、彼女をよく知る宇多喜代子が、桂信子の生涯を語るにふさわしい百余句を、代表句、秀句にとらわれずに選び、それらの句にまつわることがらを交えて語ったものである。以下、いくつかの事柄に焦点を当てて、その生涯を見ていきたい。
日野草城との出逢い
 桂信子は大正3年大阪生まれ。昭和13年、大手前高等女学校(現在の大手前高校)を卒業した頃、阪急百貨店の書籍売場で「旗艦」を見つけ、日野草城の作品がそれまでの俳句と明らかに違うことに惹かれ、当時の草城や「旗艦」について殆ど何も知らずに昭和13年の暮れからここに投句し始める。
 翌14年夏、「旗艦」にできた「新人クラブ」という句会に、知る人もなく相当な覚悟で出席、日野草城に初めて会う。その時の彼がいかに眉目秀麗だったか、桂信子の周囲の者は散々聞かされたという。その時出した〈短夜の畳に厚きあしのうら〉が草城選に入る。〈畳に厚き〉という身体の感触を表したところがわかってもらえた嬉しさは格別だったという。以来、信子は書くときも話すときも〈草城先生〉を崩すことはなかった由。
桂七十七郎(なそしちろう)と結婚
 昭和14年、桂七十七郎と結婚、神戸市に住むことになる。桂七十七郎は明治44年7月17日生まれ、名はその誕生日に由来する。京都大学を卒業、神戸の汽船会社に勤めるサラリーマンで、信子は夫に全幅の信頼を置いていたようである。この時期に作られた〈ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ〉といった句は、最後の〈煮えぬ〉以外はひらがなばかりの表記で、人妻になった幸せ、初々しさが見事に表現されている。
 七十七郎は写真で見るとたくましい体格の人のようであったが、テニスをしている最中に急な雨に打たれて全身びしょぬれになり、持病の喘息発作であっけなく死去、子どものいないまま、信子は結婚2年目にして未亡人となり実家に戻る。
 桂信子は、後年、周囲の人たちに「ご主人ってどんな方だったのですか」などと訊かれると決まって「昔のことで忘れました」と言っていた。ところが桂家を去ったあともひとりで亡夫の忌日のつとめを果しており、五十回忌には粗供養として七十七郎の甥に扇子を送ったりしており、心中では依然として七十七郎の妻であり続けたのである。
 桂信子の没後、事後の用事のために宇多喜代子が信子の甥に会ったとき、「叔母は再婚することもなくひとりで生きてきて、もし入るお墓がないようでしたら七十七郎のところに一緒に」との話があった。信子は生前自分の墓を用意してあったのでその旨を伝えたが、喜代子は「胸がつまった、今思い出しても涙があふれそうになる」と語っている。戸籍上は丹羽信子だったが、周知のように俳号は桂信子のままで通している。
 この年の12月8日、太平洋戦争が始まり、20年3月14日には空襲で実家が全焼、「旗艦」に出した句稿のみを懐にねじ込み避難した。これが第1句集『月光抄』となる。
寡婦が生きるむつかしさ
 桂信子の俳句には〈ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜〉〈ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき〉〈窓の雪女体にて湯をあふれしむ〉〈いなびかりひとと逢ひきし四肢てらす〉など、艶な感じの句が幾つもある。このような句を作ると、必ずこの〈ひと〉とは誰だ、誰と逢ったんだとか、熟女の孤閨のさみしさを表現したなどと話題になる。果てはカストリ雑誌(現代のポルノ雑誌)に取り上げられ、信子の周囲では“俳句を冒涜している”と裁判を起こしそうになる、すべてこれ、信子が寡婦だということが原因である。
 信子の話によれば、これらは事実を詠んだというよりはそういう息苦しさを俳句表現で発散したのだとのこと。晩年の信子は「俳句もむつかしかったけれど、それ以上にむつかしかったのは、後家が後ろ指を指されずに暮らすことでした」としみじみ語ったという。
 山口誓子と会う 昭和21年、山口誓子の『激浪』が刊行されてこれを読んだ信子は、平明にして詩精神の漲った句に感動、この句集の勉強を始め「『激浪』ノート」を作った。そのうち、自分が草城の抒情面ばかりをよしとしていたことに気づき、山口誓子に学びたいと思った。草城にそのことを話すと快諾してくれ、伊勢で療養中だった誓子のところに行った。こういった用事のときは常に母と一緒だった。その理由は、寡婦がひとりで男性のところに行くというと厄介な誤解の種になる、それを避けるためだったという。
 師草城は昭和21年に倒れ、10年間病臥のまま31年に亡くなった。その10日前見舞いに行った信子に、誓子の話をしていて「あまりにも手を見極めていると掌の筋がどうの、皮膚がどうのということばかりが気にかかって、もとの人間を忘れてしまうんだ」と語ったという。
 桂信子の若い時代、子を産まぬ女の肩身の狭さは、現代では想像もつかぬ厳しさであった。昭和30年に出た句集『女身』は、社会性俳句全盛時代にあって“社会性のない句は俳句を駄目にする、女を売り物にしている、だから第二芸術などと蔑まれるのだ”と厳しく叩かれた。「桂信子はいまのままでいい」と評してくれたのは、平畑青塔のみだった。しかし寡婦が自活、自立して生きてきた感慨を基調に句作を続けてきた信子は、外部の空気によって右顧左眄することはなく、自分の軸を変えなかった。
桂信子の自立、キャリア人生
 昭和19年、結婚前から知遇を得ていた生島遼一の力添えがあって神戸経済大学予科図書館(現在の神戸大学)に就職した。20年3月に大阪の空襲で実家が全焼となり仮寓生活を続けていたが、その関係で神戸大学への通勤が無理となり、昭和21年、近畿車輛に勤めるようになる。
 仕事の内容は重役専属の受付、客の接待、社長、専務などの役職の世話係で、早朝から9時近くまで腰をおろす暇もない忙しさであった。信子の細やかな気遣い、身の軽さ、抜群の記憶力などで重宝され、定年まで働き続けた。
 この特質は、「草苑」を主宰するようになってからも発揮され、年刊予定、月刊予定など一切が頭の中に入っており、予定表とか手帳を見るということが一切なかったという。
 戦後転々としていた住まいは、昭和27年箕面に落ち着き、母、兄夫婦と共に暮らすようになる。
「草苑」創刊
 桂信子は昭和39年から東綿(後の「トーメン」)の俳句部に出講していたが、その俳句部や豊中、箕面の指導句会を中心に、同45年3月、「草苑」を出発させた。
 48年4月6日、寡婦になって戻ってきた娘の身を案じ続けてきた母が死去した。住まいのある箕面市の桜というところは、どの道筋にも桜が並木を成している。その満開のときで、花の雲の中にいるような中で柩を見送った。
 信子は子どものころは虚弱体質だったが、成人してからは元気で「草苑」創刊以降、体調不良ということがなかった。歩くのも早く、月数回の句会もカルチャー教室の講座も無欠席だった。ひとりで荷を持ち誰の助けも借りず、ひたすら徒歩でどこへでも出かけた。
 吟行にもしばしば出かけ、京都の涌泉寺では〈涅槃像の肉色の足伏しおがむ〉という句を作った。入滅直後の釈迦の生々しい足の色に焦点を当てた痛快な(?)作品である。
 信子はまた、いわゆるグルメとも違う「うまいもの食い」であった。肉も鰻も大好きだった。また茨木和生に山野の珍品食いに誘われたりするといそいそと出かけ、熊肉や猪肉なども喜んで食べた。
親しい俳人の相次ぐ死、大震災、そして信子の怪我
 平成6年3月26日、山口誓子が亡くなり、西宮山手会館でその葬儀が行われた。ところが会場入口の看板に「山口誓子翁」と大書されており、信子は「先生は翁ではありません」といたく憤慨した。さらにある人が弔辞で〈樺太の天ぞ垂れたり鰊群来〉の句を「からふとのてん」(正しくは〈あめ〉)と読みあげたこと、弟子の女性が柩をまたぐ格好で誓子の顔を接写していたことなどが続き、尊敬していた誓子へのあまりにもひどい扱いに、最後には口をへの字に閉ざして帰途についた、と同道した喜代子は語っている。
 翌年1月、阪神淡路大震災が発生、桂信子の家のあった箕面も大きく揺れ、命は助かったもののしばらくは身辺修羅場つづきであった。
 平成10年には日野草城の「青玄」で共に研鑽を積んだ林田紀音夫が死去、翌年の1月は高屋窓秋の訃報が届いた。
 桂信子は80歳を過ぎても元気だったが、周辺の強い勧めもあって遠出の時は誰かが同行するようになった。
 80代後半、平成11年の早春に自宅で転倒して胸をしたたかに打ち、大阪駅からも新大阪駅からも自宅の箕面からも近く居心地のいい新阪急ホテルにしばらく滞在することになった。この時は「いつの間にか治りました」で済んだ。ところが7月、ホテルから物を取りに自宅に帰った際石に躓き、大腿骨骨折という大怪我をして入院、手術後、リハビリが始まった。担当医が驚くほどこれに務め、2ヶ月でさっさと退院してしまった。カルチャー教室や句会にすぐ復帰、骨折はたちまち完治した。
 平成16年12月9日早朝自室で倒れ、間もなく意識が無くなり、12月16日に永眠した。主宰する「草苑」は“信子の「草苑」であって「草苑」の信子ではない”ということで、4ヶ月後に出た「追悼号」で終刊した。
 本著のタイトル「この世佳し」は〈大花火何と言つてもこの世佳し〉(平成14年)からとられた。最後になって、完全に生を納得したわけである。
 桂信子という俳人は、俳句を作る女性が多く活躍するようになった現在からは想像もつかないような困難な時代を生きたといえるが、一本筋の通った強い女性の生涯だったと思う。感動的であった。
*
 桂信子は力量のある俳人だと思うし、幾つかの作品には大いに魅かれているが、私は特別なファンというわけではない。私はむしろ、著者の宇多喜代子に関心があって本著を読んでみたというのが実際である。
 私は宇多喜代子の著書には学ぶところが多く様々な示唆も受けた。当通信でも何回も取り上げている。当然、喜代子の俳句作品にも興味を持ったのだが、正直なところ、私には彼女の俳句はとても難解なのだ。その難解さが、本著を読むことによっていささかなりとも理解できるようになるのではないかと期待したのである。しかしこの本を繰返して読んでも、その目的は殆ど果たされなかった。
 私は相変わらず、難解な宇多喜代子の句と向き合っている。
本著21ページに〈鷲老いて胸毛ふかるる十二月〉(昭和22年)が取り上げられているが、解説の文では〈鷲〉ではなく〈鷹〉となっている。〈鷲〉が正しいので、解説の文は明らかに誤植ではないか、と思われる。
*
〈今月の一句〉
身の不遇託つ快楽よ花の下宇多喜代子
 初出は平成18年7月号の『俳句』、後に句集『記憶』に収録された。宇多喜代子の句だが、これならよくわかる。
 女というものは、友だちと話をするとき、自分の私的なことを露悪的に語って話を盛り上げるところがある。満開の桜の下、さぞかし話は弾んだことだろう。でも心の中ではしっかりと計算して、“結局、私が幸せだな”という落ちになるようにする。私はそういう女性性は正直嫌いだ。しかし、作者はそのあたりを十分に理解しながら、そういった女の特性をも含めておおらかに楽しんでいるような気がする。きっと大人なのだろう。
 私はこの〈快楽〉を、仏教的な意味もほのかに感じさせるために「けらく」と読みたいのだが、いかがだろうか。
(2018年4月6日発行)

※無断転載・複製・引用お断りします。
発行人 根本啓子