水燿通信とは
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369号

會津八一歌集『自註鹿鳴集』から

後醍醐天皇と吉野

 『自註鹿鳴集』に収録されている「南京余唱」の冒頭には、奈良県吉野で作られた作品が6首収められている。そのなかに後醍醐天皇が埋葬されている塔尾御陵を訪れた時に詠まれた次のような作品がある。
すめろぎ の こころ かなし も ここ にして
みはるかす べき のべ も あら なく に
 『自註鹿鳴集』には〈かなしも〉は「いたまし。「も」は感歎」、〈みはるかす〉は「権威を以て遠く見渡す」の意味だと記されている。このほかには『渾齋随筆』(昭和17年刊。『自註鹿鳴集』中の作品理解に参考になる文が多数収められている)にもこの歌に関しては触れていない。従って前記の歌をこの語釈だけに頼って解釈すると〈この吉野ではみはるかすことのできるのべもなくて、そんな後醍醐天皇のお心を想うといたましいなあ〉ということになる。
 私は〈みはるかす〉の語釈を読んで、『日本書記』に載っている仁徳天皇の話を思い出した。天皇が難波高津宮から遠くをご覧になって、民が炊事をする煙が立つかどうかで彼らの貧富の様を判断したという話で、天皇の善政を語る場合によく用いられるものである。
 だが、後醍醐天皇の場合も仁徳天皇の場合と同じような意味に解釈していいのだろうか。
吉野という土地 古代大和の人にとって、山また山の吉野は異界として畏れ同時に憧れた土地であった。また奈良盆地東南の山岳地帯にある安騎野は、万葉の時代には格好の猟場だった。
 だが、その後の歴史を含めてここで強調しておきたいのは、吉野は、大和に戦いを挑もうと心ひそかに抱いて策を練ったり、その闘争に敗れた人物が再起を期して一時隠れ住んだり、また戦いに敗れた人が隠棲したりするなど、反逆、敗残の人たちを懐深く受け止めた歴史を一貫して持ち続けた土地であるということである。吉野は、単なる辺鄙な山村などではなく、大和や京の人にとって、更に鎌倉幕府成立後は東国の人たちにとっても、注視を怠ることのできない特別な意味を有している土地だったのだ。
後醍醐天皇と吉野 後醍醐天皇は天皇史上極めて特異な役割を果たした天皇だが、この天皇も吉野と深く関わった人物であった。
 後醍醐天皇が在位した(ただし、その間に廃位と譲位の時期がある)鎌倉後期から南北朝初期にかけての時代は、鎌倉幕府が成立、東国が幕府の統治権下に置かれるようになる一方、西国の統治権を有する天皇と貴族達つまり王朝内部には、旧慣墨守の淀んだ空気が流れており、古代以来の天皇制を瓦解させる可能性すらはらむ深刻な事態になっていた。この危機的状況を誰よりも鋭く感じていた後醍醐天皇は周到な用意をもって倒幕計画を進めたが、二度の敗北を喫し隠岐島に流されたりもした。しかしまもなくここから脱出し伯耆船上山で挙兵、これを追討するために幕府から派遣された足利尊氏の幕府に対する裏切りなどによって鎌倉幕府が瓦解すると、すぐに建武の新政を開始した。
 この新政は性急な改革、朝令暮改を繰返す法令や政策、広範な勢力の既得権の侵害などで間もなく崩壊、後醍醐は京都から吉野山に逃れてそこで南朝を起こし、自らその初代天皇になった。ここに京都朝廷(北朝、持明院統)と吉野朝廷(南朝、大覚寺統)が並立する南北朝時代が始まる。
 このようにして建武の新政はわずか3年で倒壊したが、室町幕府が遂に南朝を打倒しきることが出来ず北朝との合一によって動乱を収拾せざるを得なかったこと、国中に60年にわたる南北朝の動乱をひき起こしたこと、またこの動乱を境に天皇のあり方、権力の実質が大きく変わったことなどを考えると、建武の新政の与えた影響は、非常に広く深いものであったといえよう(注)。
 後醍醐天皇は延元4(1339)年、北朝方との戦いの劣勢を覆すことができないまま義良親王に譲位し(後村上天皇)、翌日吉野金輪王寺で逝去する。52歳であった。後醍醐は病いの床で次の歌を詠む。
身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん
 天皇の遺骸は遺言に従って南朝の政治を行なった勅願所如意輪寺の裏、塔尾に埋葬されたが、京都に対する思いを表すという意味で、天皇家の墓陵としては例外的に北向きになっている。だがこの遺言と辞世の歌では、吉野に対する後醍醐の思いはいささか矛盾しているように感じられないだろうか。
 このことについて、私は次のように推論してみた。
 後醍醐天皇の在位時の動きを念頭に置くと、彼の関心は専ら、日本における最高の権力者としての天皇の地位を確立すること、つまり磐石な天皇制を作ることだったことは確かだろう。仁徳天皇のように民の生活ぶりに大きな関心を寄せていたとは、到底考えられない。従って、周囲に〈みはるかすべきのべ〉があろうとなかろうとどうでもよかったのではないか。
 だが吉野は、倒幕計画に敗れた後醍醐を受け入れた土地であり、自ら初代の天皇になった吉野朝廷(南朝)の存在するところでもある。自分の遺骸がその地に埋葬されることには異存はなかったのではないか。それでも死に際して、果たせなかった夢、つまり朝敵討滅、京都挽回に対する執念を表明せずにはいられなかった、というのが実際だったのではないか、という気がする。
 今、會津八一が吉野で作った他の作品を見てみよう。今回紹介した〈吉野塔尾御陵にて〉の前書きのある歌は、第2首目に載っている。
   吉野北六田(きたむだ)の茶店にて
みよしの の むだ の かはべ の あゆすし の
しほ くちひびく はる の さむき に

   吉野の山中にやどる
はる さむき やま の はしゐ の さむしろ に
むかひ の みね の かげ の より くる

みよしの の やままつ が え の ひとは おちず
またま に ぬく と あめ は ふる らし

あまごもる やど の ひさし に ひとり きて
てまり つく こ の こゑ の さやけさ

ふるみや の まだしき はな の したくさ の
をばな が うれ に あめ ふり やまず
 これらをみると、全体として吉野はさみしい山里のように描かれている。したがって、八一が吉野という土地が有していた歴史的な独特の意味について知らなかった、と仮定すると〈みはるかす〉の語釈もすんなり受け入れられる。しかし様々な分野に通じ博識だった八一が、吉野に対してだけ無知だったと考えるには、いささか躊躇するものがある。
 とすると、會津八一は〈みはるかすべきのべ〉をどのような意味で使ったのだろうか。とくに難しい言葉が使われているわけではないが、じっくり考えてみるとこの歌は案外難しい。私は未だに迷っている。
今回取りあげた〈すめろぎのこころかなしもここにして〉の末尾は、本来は〈に〉と〈して〉の間を1字空きにすべきだと思われるが、昭和48年9月15日に出た8刷りの新潮文庫本では〈ここ にして〉となっているので、そのままにした。
(注)後醍醐天皇はその政策を行なううえで不撓不屈の姿勢で行なったが、それを行なう上での異形振り――自ら護摩を焚いて幕府調伏の法を行なう、天皇専制体制の樹立に向かって密教の呪法、「異類」の律僧、「異形」の悪人・非人までを動員するという可能な限りでのあらゆる権力を利用した――などもまた目をひくものがあった。
網野善彦著『異形の王権』(平凡社ライブラリー)は、この天皇の異形振りを新しい研究の成果を交えつつ論じた本である。本稿の後醍醐天皇像は、この『異形の王権』に拠るところが大きい。
(2018年2月15日発行)

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発行人 根本啓子