水燿通信とは |
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367号1970年代の馬場あき子の短歌から――鬼を詠った歌以外で―― |
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馬場あき子の『鬼の研究』(1971年刊)に出逢って深く共感し、その後に出た『飛花抄』(1972年刊)、『桜花伝承』(1977年刊)の馬場の歌集を繰り返し読んだ。これらの歌集には、『鬼の研究』で論じられている思考が花開いた時期の鬼に関わる素晴しい作品が数多く収録されていたからである。 |
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その後、私はしばらくこれらの歌集から遠ざかっていたが、最近久し振りでこの2歌集の全体を虚心に――つまり鬼に関わる歌にとらわれずに――読んでみた。これまで目に留まらなかった作品のなかにも、心惹かれる歌がいくつもあった。 |
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なお1969年刊の『無限花序』には、『鬼の研究』にまとめられた思考が形作られる過程の作品が数多く収められており興味深いが、鬼についての作品以外には六〇年安保反対闘争の体験を詠んだ歌が多い。 |
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昭和35(1960)年春から安保闘争(日米安全保障条約改定反対闘争)は最大の山場を迎えるが、反対デモが国会を取り巻く騒然とした中で、岸内閣の自民党は5月19日同条約を単独強行採決し、1ヶ月後の6月19日自然承認となった。 |
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だが当時、私は東北の田舎の高校生であり、社会的関心も薄い環境の中で“なんだか東京で大騒ぎしているようだなあ”程度の貧しい認識しかなかった。 |
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従って、この歌集に関してはこの時期の馬場あき子の関心の在り処を感じさせる次の歌を紹介するにとどめておこう。 |
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安保以後・戦後・愛恋の後の夜・すぎては悔しまわりどうろも |
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馬場あき子にとって、夏は単にこの安保闘争敗北の夏に限らず、馬場が深く関心を寄せている式子内親王(注)を襲った悲劇が、治承4(1180)年5月の兄以仁王の叛乱などいずれも夏に起こっていること、さらに敗戦の記憶も夏であるなど、夏に集中して起こっている。またひとつの恋の終焉もあるいは夏だったのかもしれない。それらのことがこの作品には集約して表現されているといえる。 |
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以下は『飛花抄』の中で注目した作品のうち、私の極めて個人的な理由からいくつかの作品を選んで、考えてみたいと思う。なお、今回は『桜花伝承』からの引用は、偶々ない。 |
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ゆきちがう心というにあらねども何の終焉かふいにいまくる |
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読者は、これまで親しくしていた友人が、ある日なにげなく発したちょっとしたひとことに急に心が冷えた、といったような経験をしたことはないだろうか。 |
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全く何の悪意もなく発したちょっとした言葉、なのにその人の他人に対するやり方の一端がはしなくも出てしまったように感じられるひとこと。それまで気がつかなかったその人の他人に対する悪しき、あるいは傲慢な対応が感じられ、激しく争った時と違ったショックを受けてしまうのである。 |
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若い頃の私は、友人に求めすぎるところがあったのかもしれない、その人の長所とだけつき合うことが出来なかった。考え方だけでなく全ての面で気のあう友人であってほしかった。どうしても合わないところが出来ると、よく「もうあなたとは付き合えない」という手紙を出した。そうやって関わりを断った友人が何人いるだろうか。 |
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そして長い時が流れ、私も老いた。時々、かつて親しくつきあった友人を思い出すことがある。今どうしているのだろう、元気だろうか、今もあの場所に住んでいるのだろうか。そして懐かしさすら感じてしまうこともある。ある人とはふところ深いやさしさで、ある人とはすぐれた感性の持ち主として、また別の人とは魅力的な生き方に惹かれて付き合うということが出来なかっただろうか、などと未練がましい気持ちになることもある。 |
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それでは、今の私はそれらの経験から学んでもっと柔軟に人と関われるようになっただろうか。否である。相変わらず、相手の中にいささかでも他人を軽んずる態度がみえると、すっと身をひいてしまう。 |
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というわけで、私にとって大勢の人と親しく付き合うことはとても難しい。最近では、気持ちのいいつき合いが出来れば少数の人との関わりだけで十分ではないか、などと自分を慰めている。 |
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執ふかきことを不徳といわれいつ季(とき)うつり空も土も花咲く |
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執着を持つということは悪いことなのだろうか。どうも日本では、とことん議論して納得するということがなく、固いことは言わず適当なところでみんな水に流して、仲良くシャンシャン、というのがいいことになっているようだ。私はこの雰囲気に、小さいころからどうしても馴染めなかった。 |
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小学校の頃、疑問に思うことがあると何度も何度も質問してしまう子どもだった。私は単に納得したいだけだった。なのになぜか、きちんと説明してくれる先生はいなかった。周囲からはくどいと思われることが多かった。そして通信簿にはいつも「協調性がない、我を張る」と記された。 |
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これは私の育った田舎だけのことかと思ったら、そうではなかった。都会地でも協調性は大切なものらしい。十分議論してみんな納得しての協調なら、大いに結構だ。しかし、議論は常に十分に行なわれないで、程ほどのところで水に流すのが日本の社会の習いのようだ。こういう風潮が、先の戦争が敗戦で終わったときも「だまされた」だけで戦時中の自らの行動をきちんと省みることもなく、後は嫌なことは速く忘れようという姿勢を多くの国民に取らせたのではないか。その結果、日本人はあの敗戦から何も学ばなかったことになったのではないかと思う。 |
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話がそれた。歌に戻ろう。下七七の〈季うつり空も土も花咲く〉であるが、ここは〈執ふか〉くひと処に留まっている自分と、季節が来ればあやまたず美しく変貌してあたり一面花を咲かせる自然界とをくきやかに対比させ、己れに対する悔しさを強調しているのだろうか。いずれにしろ、馬場あき子にも私と似た資質があったのだろうかなどと思えて、無視できない歌になっている。 |
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衰えし魂ひとつさすらわん夕日浄土のふるさとの山 |
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この歌は、若い頃から知っており、鬼を詠った哀しくて美しい歌だとずっと思っていた。だが40年も経った今、私はこの歌を随分違ったものとして味わうようになってきている。 |
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この歌を初めて知った時分は、実家には両親も健在で、姉夫婦やその子供たちと一緒に住んでいた。だが今は、両親も姉夫婦もすでに死去し、姪や甥もみんな家を出た。今故郷に帰っても私を迎えてくれる人は誰もいない。しかも私自身、現在は故郷に帰れるような体調ではなく、この先老いていく一方で回復の見込みもない。そしてだめ押しのように、3・11以後、故郷は放射能に汚染されてしまった。 |
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つまり、私がふるさとに帰れるいかなる方法も失われてしまっているのだ。だからいまの私にとってこの歌は、実景を詠った作品のように感じられる。 |
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ふるさとを恋して、老い衰えた私の魂が体を抜け出してふるさとをさまよっているのだろうか。そのふるさとの山河はたとしえようもなく美しい。夕日に染まったときなどは特にそうで、それはあたかも浄土のようだ。美しくて哀しくて、ひどく切ない歌だ。 |
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(注) | 馬場あき子は1969年『式子内親王』(紀伊國屋新書)を上梓した。馬場が秘かにまとめていたものを、あるきっかけから村上一郎の目にとまり、世に出ることになったという。 |
| 後白河法皇の娘として生まれ以仁王を兄に持った式子が、平安末期の平家の興隆と没落、鎌倉幕府の台頭の時代にどのように生きたか。馬場は『山槐記』『玉葉』『愚管抄』『明月記』などの記録を丹念に調べて、式子を取り巻く時代的・政治的状況や人脈を浮かび上がらせ、そこから歌に込められた式子の心情をさぐっている。歌を詠み謡いや仕舞いの修練を通して得た視点も交えて、著者独自の式子像を描いている。 |
| 以下に『無限花序』中の「齋の贄(いつきのにえ)」と題された式子に関する作品の一部を紹介しておこう。 |
| 不思議なる記憶の中の帝の手青白し別れの櫛を賜えり
御息所・女御相つぎ逝く晩夏 癌細胞生きつげり暗き朱
いちにんのひめみこまもり朽ちゆかぬ心なまなまと恋えり謀叛も |
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(2017年12月1日発行) |
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※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |