水燿通信とは
目次

359号

帝室博物館総長としての森鴎外

『鴎外「奈良五十首」を読む』から考える

はじめに 森鴎外は、大正6年(1917)12月に帝室博物館総長兼図書頭に任じられた。帝室博物館総長の仕事の一部には、当時毎年11月に行なわれていた正倉院の開閉封に立会い、その期間の事務を監督するという役割があり、彼は翌大正7年から同11年にかけて5奈良に行っている。ここで鴎外はそれまでの総長が受けていた仰々しい扱いをいっさい拒否して博物館官舎に寝泊りし、万事簡素にしかも精力的に勤務を行なった。
『鴎外「奈良五十首」を読む』 森鴎外はまた、この期間中に「奈良五十首」を作った。彼の文学的活動の幅があまりにも広いこともあってか、鴎外の短歌はこれまであまり注目されていなかったが、平山城児はこれらにもう少し光をあててみたいと考え、『鴎外「奈良五十首」を読む』をまとめた(中公文庫 平成27年10月刊)。
 この本では、「奈良五十首」がまとめられた大正という時代の特質、鴎外の奈良での生活、奈良の寺社や町の様子などが綿密に調べられており、そこから歌に込められた鴎外の想いを推測し、作品を鑑賞している。さまざまな逸話やこれまで明らかにされていなかったこと、思いがけない事実などが多数語られていて興味深い。そういった中からいくつかの短歌・逸話を選び、鑑賞に限定せず私の感じたことを気ままに述べてみたいと思う。なお、引用してある短歌のルビは、発表時に鴎外自身が付したものである。
夢の国燃ゆべきものの燃えぬ国木の校倉(あぜくら)のとはに立つ国
 正倉院の建物は、森鴎外が初めて開封に立ち会った大正7年から遡っても、すでに千年以上の歳月に耐えて存在していた。石造りや鉄筋などと違って、燃えやすい木で造られているものであるにもかかわらずである。しかもその間、強風により蔵が破損する、宝物が度々盗まれる(なんと僧が関わっていることが多い)、南別蔵が焼ける、落雷により扉と柱を破損する、屋根が大破するなどの災禍に遭っている。また治承4年(1180)には平重衡の軍によって南都が焼き払われ、東大寺も壊滅的な被害を受けたし、永禄10年(1567)に大仏殿が焼かれ大仏が熔解した時も、正倉院は焼けなかった(大仏殿から正倉院までの距離は直線にして220bくらいしかない)。戦後間もない頃には、浮浪者が数人正倉院の縁の下で焚火をし、校倉の床の裏側が焦げたりもした。
 奈良の文化を何とか後世に残したいと心から願っていた鴎外は、当時の荒廃していた奈良の寺々の中で、さまざまな災禍を乗り越えて今に存在している正倉院を目のあたりにして、素直に感動したのであろう。
 また正倉院の扉が開けられていくつかの器――中には遠くシルクロードから中国を経て日本に伝わった、異国文化の匂いのするものもあっただろう――を目にした時の感動を、次のように詠んでいる。
戸あくれば朝日さすなり一とせを素絹(そけん)の下(した)に寝つる器(うつは)に
唐櫃(からびつ)の蓋(ふた)とれば立つ■(あしぎぬ)の塵もなかなかなつかしきかな
恋を知る没(いり)日(ひ)の国の主(ぬし)の世に写しつる経(きやう)今も残れり
 正倉院にはいくつかの倉があり、その中の聖語蔵は古経巻を納めてある経蔵である。もとは東大寺のものであったが、維新後、帝室に献納された。隋・唐の将来経はじめ天平12年の願経から奈良・平安朝に亘る写経など、五千巻近くを蔵している。中国本土で写された経巻が、遣隋使、遣唐使などの苦難に満ちた航海によってわが国にもたらされ、一千年もの歳月を経てこの聖語蔵に在るという事実にも、鴎外は深く感じるところがあったのかもしれない。
 私はこの歌の中の〈没日の国〉の語を目にし、とっさに〈日出づる国〉という言葉を思い出した。この言葉は日本人なら大抵の人が知っているものだろう。それもずっと昔、日本が小国ながらも大国隋に対して毅然とした態度で接したという、日本民族の誇らしい記憶として。この事件の真相は、しかし我々が学校で教えられたものとは大きく違っていたようである。
 隋書倭国伝の大業3年つまり推古天皇15年(607)の条に、次のようなことが書かれている。
 推古天皇は遣隋使小野妹子に託した国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや、云々」と書いた。隋の帝はこれを見て激怒し、激烈な調子で書いた返書を妹子に渡した。「当時の国際情勢からすれば、推古天皇の国書は狂気の沙汰としか考えられない。(略)当時の日本人がいかに国際感覚に乏しかったかを物語っている」((『鴎外「奈良五十首」を読む』からの引用。以下同じ)(注)。
 「ところが、明治以後、極端な国粋主義による中国蔑視の思想が教育界をも支配したために、この隋書のエピソードは、日本国が小国ながらも大国隋に対して、いかに毅然たる態度をとったか、という点にのみ力点が置かれ、日本の皇室ならびに国家の尊厳を強調するために専ら利用された。戦前の義務教育の段階では、当然そのような意味をこめて教育されていた」という。
 だが、戦後に教育を受けた私などにも同じような記憶が残っているということは、教育の現場では戦後も長くそのように教えられたのではないだろうか、という感じもする。
 元禄元年(1688)年に成立した松下見林著『異称日本伝』は「中国本土の史書を博捜し、中国側の資料に日本がどう映っていたかを調べ、明治以後の歴史家たちにも高く評価されている」ものだが、これによればこの事件の真相は日本人が長く教え込まされてきたものと大きく違っていることは明らかである。
 なお、〈恋を知る〉については本稿では触れていないが、『鴎外「奈良五十首」を読む』で詳しく解説されている。
はやぶさの目して胡粉(ごふん)の註を読む大矢(おほや)透(とほる)が芒(すゝき)なす髪
 大矢透は明治35年(1902)に元石山寺蔵の経巻を借りた。経巻には赭と朱の訓点が施されていたが、それをやや斜めにすると白点が見えてきた。この白点が奈良時代に付された3種の訓点中もっとも古い時代の訓点だった、という貴重な発見につながることになり、以後、彼は仮名の研究に一生を委ねようと考えたという。鴎外より12歳年長の大矢は、大正8年、鴎外の勧めによって奈良に移住し、明けても暮れても聖語蔵の訓点資料と取り組むことになったのである。
 鴎外は、総長に任じられると早速、それまで位階官などで制限されていた正倉院の拝観の資格制限を拡張し、研究者の利用が容易にできるようにした。曝涼の際、この時期だけのこととて集中して懸命に正倉院文書を調査している学者たちをつぶさに見た鴎外は、彼らに尊敬の念を抱き、彼らを讃える短歌をいくつか作っている。ほかに、学者のひとりが問わず語りに語った言葉をとらえて詠んだ〈見るごとにあらたなる節ありといふ古文書(こもんじよ)生ける人にかも似る〉といった歌もある。
 興味深いのは、これらの歌とセットになる形で「拝観者の資格を有しているというだけのことで、ほとんど正倉院の何たるかも理解せずに」素通りしてゆくだけの拝観者を罵倒した〈主(ぬし)は誰そ聖武のみかど光明子(くわうみやうし)帽(ばう)だにぬがで見られんものか〉などといった歌も作っていることである。
晴るる日はみ倉守るわれ傘さして巡りてぞ見る雨の寺寺
 奈良滞在中の鴎外は、雨の日以外は終日正倉院事務所に勤務した。ところが雨が降るとその日の仕事は休みになるので、彼の奈良見物は専ら雨の日となった。鴎外が見て回った奈良の寺々はかなりの数にのぼる。鴎外は奈良の遺産を何とかして後世に伝えたいと切望していた。
 幕末維新期の奈良は荒廃の極みにあった(「水燿通信」346号「悠久の歴史の中の今」で言及)。本著で紹介されている、興福寺の五重塔を払い下げられた者がその金具だけを取り去って焼こうとしたが、類火の危険を感じた地域の反対にあって取り止めになった、などという逸話は、その荒廃の様をより生々しく伝えている。「春日社境内すら荒れた。荒野と廃墟、その背景は老樹叢の凄寥というさまになった」。鴎外が奈良へ行くようになった大正初年頃に至っても、奈良は依然として荒廃と忘却の中にあった。
 そんななかで、大正8年、和辻哲郎の『古寺巡礼』が出版され、若い人たちに大きな影響を与えたという。この本の出版は、時期的に「奈良五十首」が作られたのと重なっている。白樺派の人々が古美術に関心を持ち始めるのもこの頃、會津八一が奈良の寺々を巡りながら数々の歌を詠んでいたのも同時期である。
 大正年間というのは、国を挙げて金儲けに狂奔する一方で、「放置しておけば、すべてが荒廃し烏有に帰してしまう寸前にきていた奈良の寺々に、心ある人々が、ようやくその眼を向けはじめた時期」だったのである。
白毫(びやくがう)の寺かがやかし癡人(しれびと)の買ひていにける塔の礎(いしずゑ)
 鴎外が奈良郊外にある白毫寺を訪れたのは大正7年11月である。他の大半の寺と同じくこの寺も屋根に穴が開いたり見事な多宝塔も破損したままという惨状で、鴎外はこの日の日記に「頽敗甚矣」と記している。
 関西四大富豪と称された藤田家の祖伝次郎の長男平太郎は、この建造物が「空シク朽廃スルヲ惜シミ」(多宝塔由来)寺からこの塔を買い取り(礎石は寺に残した)、大正6年、本格的な工法によって解体、宝塚市の山荘に移築した。残念ながらこの多宝塔は平成14年に山林火災によって焼失したが、平太郎が修理移築しなければ、この多宝塔は大正の初め頃には崩落するなどして遠からず消滅する運命にあっただろう。「このように心を籠めて移築した平太郎を、鴎外は「痴人」と罵倒しているのである」。
 大正時代は第一次世界大戦の戦争景気によっていわゆる戦争成金が生まれた時代であり、彼らはその財力を使って美術品蒐集を盛んに行なった時でもあった。藤田家は戦争成金ではなかったが、荒廃する奈良の寺々を何とかしたいとねがっていた鴎外にとっては、金持ちや成金はすべて[悪]であり、逆に、崩壊寸前の白毫寺ですら〈かがやかし〉と詠まずにいられなかったようである。
いにしへの飛鳥(あすか)の寺を富人(とむひと)の買はむ日までと薄(すゝき)領せり
 現在、ならまちと俗称されている興福寺南部に当たる地域一帯は、もともと元興寺(がんごうじ)の境内だった。この寺の前身は、明日香村にある飛鳥寺。同寺は蘇我氏によって建てられた日本最古の寺だが、寺の名はその後法興寺となり、平城京に都が遷るとき強制的に移築させられて元興寺となった。だが平城京に馴染めない人々は、飛鳥を懐かしんで元興寺のことを“平城(なら)の飛鳥”と呼んだのである。
 元興寺はかつては東大寺に次ぐ大寺だったが、平安期からしだいに衰え、遂には見るかげもない状態になった。現在では本堂や極楽房などは国宝に指定されて管理が行き届いている感じだが、昭和の半ば頃までは築地塀は崩れかかり、夕暮ともなると魑魅魍魎でも現われそうな妖気がただよっていたという。
 鴎外がこの寺を訪れたときには、極楽房は残っているもののあとは東塔址くらいしかなかった。元興寺の境内だったこのあたり一帯を回った彼は、寺の衰退のあまりのひどさに心を痛めたらしい。しかも鴎外はある金持ちが近々この東塔址を買う予定だということを聞いていて、このような歌を作ったのだろう。ここでもその金持ちは[悪]になっていて、荒廃した奈良の寺や古き奈良、飛鳥時代などはすべて[善]になっている。
 実際のところ、鴎外が愛した「奈良の寺々は、天平の最盛期に多くの人々が厳しい苦役に従事するという多大な犠牲を下敷きに完成されたものであ」り、人々にそのような犠牲を強いた「ほんの一握りの奈良朝の貴人たちは、働かずして享楽的な生活を送っていた」(語順は多少変えてある)のである。それでも、鴎外にとっては古き時代のものはすべて [善]になってしまっていた。〈落つる日に尾花匂へりさすらへる貴人(うまびと)たちの光のごとく〉などまことに美しいイメージで「さながら鴎外の奈良町に対する挽歌である」。
 だが『鴎外「奈良五十首」を読む』の著者は、こんなことも書いているのだ。
明治の大半と大正初期へかけて、常に政治の中枢に座して巨大な権力を維持しつつづけた山県有朋と、所謂維新後の成金であった藤田家との接点が椿山荘である。その山県の邸宅で行なわれていた歌会常磐会のメンバーの一人が鴎外であり、その鴎外が大正7年にこの(39)首(〈白毫の寺かがやかし癡人の買ひていにける塔の礎〉のこと)をよんでいるのである。こうしたところに、人は、歴史のからくりの面白さを感じないだろうか。
(注)入江曜子著『古代東アジアの女帝』には、この出来事に対して『鴎外「奈良五十首」を読む』とかなり違った記述をしている。
 遣隋使小野妹子が帰国する際、送使として妹子とともに日本に来た裴世清が隋の煬帝から託された国書には、「隋はヤマトを藩属国とみなす」という通告とも取れる内容のものだった。これを見た女帝推古は、裴世清を儀礼を尽くしてもてなして彼にヤマトの文化水準の高さを印象づけさせ、彼の帰国に際しては、返書に「ヤマトは文明化した新しい国である」として隋からの一方的な宗属関係を訂正するという外交姿勢を示した、として推古の業績を高く評価している。
 奈良では、土地柄、古代の女帝についての講演が時折りあるが、私の知るかぎりでは、これらの多くでは推古天皇に関する評価は概ね肯定的である。長く日本人が受けた伝統的な教育が、今に至るまで脈々と活きているのだろうか。それとも奈良という地域性だろうか。なお昨年は「日本国創成のとき〜飛鳥を翔(かけ)た女性たち」として日本遺産(平成27年度に文化庁が新たに創設したもの)に指定された。
(2016年12月10日発行)

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発行人 根本啓子