水燿通信とは |
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353号水について思うこと「水 限界集落と水源涵養林」を読んで |
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昨年5月まで『俳句』誌に50回に亘って宇多喜代子の「俳句と歩く」が連載されたが、その48「水 限界集落と水源涵養林」の中で、「シンガポール在住の外国人が、山形県最上川の源流の森林一〇ヘクタールを購入した」という2011年2月20日付けの奈良新聞の記事が紹介されていた。これに関して現地では NPO法人「水源地を守るネットワーク」を立ち上げ、現地調査、米沢市役所や所有者の聞き取り、山間部の現状(林業を続けることの困難さ、過疎化、高齢化)などの調査を行なったようである。なお、当該地は2012年8月のこの調査の後、変化はない模様である。 |
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しかし正直なところ、この記事を読んで、私は「山形県内全域の豊かな水資源は大丈夫だろうか」と大きな不安を感じた。 |
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最上川 |
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この川は、吾妻山(米沢市)を水源とし、山形県のみを流域とする一級河川。流路延長229km国内最長である。最上川といわれて多くの人がまず思い浮かべるのは、『奥の細道』で松尾芭蕉が詠んだ〈五月雨を集めて早し最上川〉の句だろう。 |
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私は大学時代の帰郷の折、日本海側の羽越本線を通り、鶴岡経由という方法をよく取ったし、1970年代初めには黒川能を見たりしたこともあるので、最上川に沿って走っている陸羽西線には何度か乗ったことがある。車窓から眺めたこの川は、線路を浸さんばかりの豊かな水量で、対岸にそそり立って重なる山々の樹木のぶ厚さ、山頂から一直線に落ちる滝の見事さなどには、いつも見惚れてしまったものだ。あの景は今でも健在だろうか。 |
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限界集落と山の荒廃 |
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前掲の文の中で、宇多喜代子は限界集落にも言及している。限界集落というのは、今では国民の間に広く知れ渡っていることだが「六十五歳以上の高齢者が住人の半数を越え、冠婚葬祭をはじめ田役道役などの社会的な共同生活ができなくなった集落」のことだ。この状況は全国的に起こっており、2008年の調査では凡そ八千に近い集落がこの限界状態にあるという。 |
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その結果として起こってくるのは、村人たちが護っていた山が放置されたままになり、荒廃が進むということである。宇多は祖父母が「山は大きな水の塊」と教えてくれたことに言及しつつ、「保水力の低下した山が、渇水、水害を発生させ、磯枯れした海をつくり出し、下流域の都市住民や漁業者の生活に大きな打撃を与える。」(大野晃『限界集落と地域再生』)という文を紹介している。全国的なこの現象を、自然の成り行き、戦後の教育を受けた若い世代の生き方の変化などといって済ませていいものだろうか。 |
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金の卵 1950年代後半から70年代前半の頃、中学校を卒業した人は金の卵などという美名のもとに、廉価な労働力として都市部に次々と送り込まれていった。農家の長男はともかく、次男、三男などの彼らには地元に残ってもまともな生活を送れる可能性は少なく、国の施策に従う以外に選択肢はなかったといえる。経済的にいくらか恵まれて高校、大学に進むことができた人も、卒業後、地元で働きたくなるような魅力的な仕事もなく、大半がやはり都市部の住民になった。 |
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高度経済成長の影の部分 こういった国を挙げての労働力都市部集中化政策の結果、日本は短期間で世界にも類のない高度経済成長を遂げて世界の大国になり、人々の生活は物質的にとても豊かになった。だが、若い人材を地方から奪ったこの政策は、地方の疲弊をもたらした。限界集落や山の荒廃といったものはここから必然的にうまれてきたものであり、高度経済成長のいわば影の部分といえるのではないか。 |
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経済成長のあと 高度経済成長期に培われた効率最優先、お金が何よりも大切という日本人の心性は、バブル経済も崩壊して経済の停滞期に入り、さらにグローバリズムが日本中を席巻して国民間の経済格差が増大するようになった現在でも、大きくは変わっていないように感じる。「棚田を守れ」などといった動きもないわけではないが、このような草の根的、都市部住民の趣味的な動きだけでは、到底どうにかなる問題ではない。パソコン関係の仕事の多様化で住む場所を選ばない仕事ができるようになったり、これまでの生き方を根本的に変えようとする若い世代も育っているようだが、全体から見ればまだ少数派だ。 |
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おいしかった故郷の井戸水 |
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私が子どものころ、故郷のあの地域ではどの家も井戸(大抵は家の台所に作られていた)を使っていた。実においしい水で夏は手が切れるほど冷たく、冬はほんのり温かくかすかに湯気が立った。 |
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私が大学入学のために故郷を離れたのは一九六四年。大学の周辺には食べるところも少なく昼食はたいてい生協食堂でとったが、おかずはともかくご飯はひどく不味かった。故郷で食べた白くてピカピカ光る粘りのあるご飯がひたすら恋しかった。そこで実家からお米を送ってもらい、炊飯器で炊いて大学に持っていくようにした。炊く量、洗ってからスイッチを入れるまでの時間など色々工夫したが、どのようにしても実家で食べるご飯のようにはいかずがっかりしたが、それでも生協のご飯よりはましだった(大学時代、私は教材だけでなく、ご飯ばかりのお弁当と、硬い木の椅子対策に作った小さい座布団などを入れた大きなバッグを持ち歩いて、周囲の学生に呆れられたものだ)。ところが、そのうち、実家に帰って食べるご飯も、以前のようにおいしいと思えなくなった。 |
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井戸が枯れる 1975年頃、生家から300bほど離れたところで、田んぼを掘って太いヒューム管を埋める工事が行なわれた。月山山麓の西川町から、県中央部に位置する天童、山形、上山、さらに楯岡方面に送水するためである。この工事のあと、生家付近の井戸水が出なくなってしまったのだ。我家の井戸も徐々に水の出が悪くなり、結局枯れてしまった。以来、水道水を使っている。実家のご飯の味が昔ほどおいしくなくなったのは、米作りの機械化、農薬の使用などで米そのものの質も変わったのかもしれないが、水の変化も見過ごせない原因の一つなのではないかと私は思っている。 |
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昔、信州の駅で飲んだ水 |
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1960年代の終わりの頃、夫と初秋の信州を訪れたことがある。小諸から清里に向かう小海線は単線で、途中、信濃川上駅(だったと思う)で列車交換のために30分ほど停車することになった。線路をはさんで駅舎と反対側には切り倒された材木がごろごろと並べられていて、その先は緩やかな上りになりそのまま山になっていた。ちょうどその山の端に太陽が沈もうとしていた。空全体を埋め尽くすほどの多くの赤蜻蛉が、その陽の光を受けてきらきらと光りながら飛び交っていた。圧倒されるような光景だった。 |
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発車時間までまだまだ時間があった。のどの渇きを覚えた私たちは、駅舎の入口にある蛇口を見つけ、そこの水を飲ませてもらおうと思った。駅員にお願いするとわざわざ出口のところまで出てきて「どうぞ、どうぞ」とすすめて下さった。とても冷たくあまく、渇いたのどを通る心地よさといったらなかった。あまりのおいしさに、発車まで一度ならず二度まで飲んでしまった。9月ともなれば訪れる人もほとんどなく閑散としていた、そんな時代の信州の水の憶い出である。 |
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山頭火の水の句 |
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全国を放浪して歩いた自由律俳句の作者種田山頭火には、水を詠んだ句にいいものが多い。独り歩いて旅する山頭火にとって、おいしい水や川は美しい自然や厚い人情に劣らずうれしいものであったのだろう。 |
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へうへうとして水を味ふ
分け入れば水音
岩かげまさしく水が湧いてゐる
こんなうまい水があふれてゐる
行き暮れてなんとここらの水のうまさは
みずに聲ある山ふところでねむる
水にそうていちにちだまつてゆく |
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宇多喜代子は冒頭で紹介した「水 限界集落と水源涵養林」の文を、次のように結んでいる。 |
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私どもはこの七十年、砲声を聞くこともなく、天与のいい原水を平等に飲むことのできる環境の中で暮らしている。平和な時間と水があるという至福。どんなことがあっても、この賜りものを無にしてはならぬ、心から、心から、そう思う。 |
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私も、心から、心から、そう思う。 |
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(2016年7月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |