水燿通信とは |
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348号『生きた、臥た、書いた 淵上毛錢の詩と生涯』前山光則著 |
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淵上毛錢(ふちがみもうせん)は、大正4(1915)年、熊本県葦北郡水俣町(現水俣市)に生まれた詩人。彼の生誕から去年でちょうど百年経ったが、それに合わせるようにして、昨年11月『生きた、臥(ね)た、書いた 淵上毛錢の詩と生涯』が刊行された。 |
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淵上喬(喬は毛錢の本名)は小さい頃から悪童(悪ゴロ)振りを発揮、東京に出てからもそれは続き、無頼の生活を繰り返した。昭和10年、結核性股関節炎(カリエス)になり、以後、郷里で病臥の生活を余儀なくされる。昭和13年頃からはほとんどベッドに横になったままの生活になる。 |
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詩は親友の働きかけで作るようになったが、本格的に作るようになったのは昭和14年、同人誌『九州文学』の編集発行人原田種夫との文通が始まってからという。 |
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第一詩集『誕生』 昭和18年1月に刊行されたこの詩集にある作品ひとつ。 |
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『約束』 |
今日も
夕まで
なにごともなく
生きた
この分では
明日といふ日は
たしかに
約束されてゐる
いま
私は静かに待つてゐる
静かに
待つてゐる者には
きつと
約束は果たされる |
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“自らが置かれた境遇の中で思索を重ね、その果てにたどりついた、信仰心にも似た確信だったと思われる”と著者は述べている。この詩では病気には何も触れていないが、作品の背後には確かに病臥生活に耐える作者がいる。 |
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『淵上毛錢詩集』 昭和22年7月には『淵上毛錢詩集』(毛錢のペンネームは、画家の小川芋銭を敬愛していたことと「戦争はもうせん」の意味を込めたという。昭和21年頃から用いるようになった)を出版する。戦後間もない物資の不足していた時期だが、菊版でフランス装、表紙、扉などに、友人高橋輝男の味わい深い木版画を11枚あしらい、印刷には上質の手漉き和紙を用いたぜいたくなものであった。序文、跋文、あとがきなど一切ない、作品だけを見てほしいと言わんばかりに自信作60点を厳選して収めている。300部限定で“毛錢はこれを全国の著名な文学・芸術関係者、たとえば伊東静雄・岩下俊作・初山滋・西脇順三郎・蒲原有明・永瀬清子・村野志郎・山口誓子・西条八十等々に寄贈している。反響は続々と届いた”(第六章「淵上毛錢の誕生」)。高く評価する好意的なものが多く、本著ではフランス文学者辰野隆、文芸評論家古谷綱武、詩人小野十三郎、詩人安藤一郎、作家井伏鱒二、作家三島由紀夫などからのものが数ペ―ジに亘って紹介されている。それ以外の54人分は、八代の古川嘉一とはじめた雑誌「始終」別冊に「書牌集」として載せ、さらに紙数の関係で掲載できなかった57人分は名を列挙して謝意を表した。 |
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毛錢の詩風は、土地の習俗などに通じた土着的なしかも洗練された感じの作品(注1)、わかりやすい言葉を用いながら様々な解釈の可能性を有する意味深長な作品、水俣の土地の言葉で書かれたもの(注2)、またほとんどベッドに横になったままの生活だったにも拘らず、自然を詠った作品も多くある。いずれも知的で切り口は斬新、感性もきらきらしい感じのものばかりだ。 |
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毛錢は戦時下の昭和20年2月に結婚、3人の子供をもうけた。痛みや辛さから逃れられない病臥生活の中で、詩や俳句を作るだけでなく水俣文化会議を興し詩誌を創刊するなど、さまざまな活動をやった。昭和25年、35歳で死去。 |
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「毛錢の詩ごころ」 この本の最後に置かれた「毛錢の詩ごころ」で著者は、毛錢の代表作をいくつか選び“虚心に読み、感じ、考え”毛錢の「詩心」を汲みとろうと試みている。 |
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『寝姿』 |
流れには 奥山の雪がにほひ
ゆふべの石に 魚は眠り
まつ暗いなかに
鉄橋だけは 待つてゐた
やがて 夜行列車の窓から
たらたらと 蜜柑の
しぼり汁のやうな灯が
魚の寝姿のうへに
宝石の頸飾りとなつて落ちた
魚は 眠かつたが
もういちど ゆつくり
寝床をかへてみた
頸飾りはすぐ消えた |
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毛錢の生家近くにある水俣川の土手に立ったとき、著者は思わず「やあ『寝姿』に描かれた景だ」と声を漏らす。だが現実の景にとらわれなくてもいいのではと思い、最初のフレーズを見たって雪の匂いを含みつつ流れる川なら、南国水俣の川よりもむしろ遠い北国のそれの方が似つかわしいかもしれないなどと考え、自在にのびのびと味わってみる。するとそこに、鉄橋を渡っていた夜行列車の窓から“「蜜柑の/しぼり汁のやうな灯」がたらたらと魚の寝姿の上に「宝石の首飾り」となって落ち……魚がゆっくり寝姿をかえるとたちまち消えてしまう”という一瞬の光芒、かけがえのない小宇宙が浮かんできたという。上々の鑑賞ではないか。 |
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また鰯の悲哀に心を寄せて作られた『鰯』という詩でも、著者は“作者の目配りは世界の森羅万象を眺め渡している”と語る。小さなもの、弱いもの、悲しいものに対する毛錢の眼は、あくまでもやさしい。 |
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『柱時計』 |
ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二
鳴るのかい
苦労するなあ
まあいいや
しつかり鳴つて
おくれ |
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この作品でも毛錢は“自分が生きていようと死んでしまおうと関係なしに時計の針は回るし鳴りつづける”(この部分、第六章から引用)、世の中も自然も何も変わらない、と語る。これは死を意識した者の覚醒ではないか。この詩は亡くなる3年前に刊行された『淵上毛錢詩集』に収められている。毛錢はかなり早い時期から自分の寿命について考えていたのだろう。「まあいいや」などという余裕を示しているが、毛錢の意識はすでに生の世界からははみだしている。 |
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『或ル国』 |
悲シイコト辛イコトヲ
堆ミ積ネテ
山ヨリモ高ク
心ヲナセバ
風ノ音モ
鳥ノ鳴ク声モ
マアナントヨクワカルコトヨ |
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ここでも“生命の消滅の間近さを実感した者にしかわからない感覚”である、目に映るもの全てが鮮やかにくっきり見えるようになることが描かれている。著者である前山光則自身も、医師に癌の告知をされた時、同じように視力と聴力が異常に冴えたことを告白している。 |
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『或ル国』は強烈な衝撃を与える惹かれる作品だが“病人の真情吐露としてはきわめて核心を衝いているものの、詩としては熟していない。あまりに生まであるから、詩集を造るための作品選びをする際に詩人・毛錢は厳密に外したのだろう”と著者は語っており、『淵上毛錢詩集』には収められていない。 |
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毛錢は亡くなる直前〈貸し借りの片道さへも十万億土〉と口ずさみ、これが辞世の句となった。〈貸し借り〉と言いながら、毛錢は〈借りっぱなし〉といいたかったのではないか、と私には感じられてならない。毛錢の深い深い徒労感が想われる。 |
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毛錢は病苦を生まの形では表現したりしなかったが、後の2作品を仔細に見れば肉体的だけでなく精神的にもやはり随分苦しんだことは、よく理解できる。 |
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毛錢の周囲にいた人々 ところで特異な境涯を送った人に対しては、人々はその作品よりも境涯そのものに目を向けがちだ。淵上毛錢の場合も多分にそのような扱いを受けている感がある。しかし私にとっては作品そのものに対する関心が主で、その境涯は作品理解の際に参考にする程度の従的な要素に過ぎない。従って本稿も詩作品に焦点を当ててまとめてあり、その他のことにはあまり触れなかった。 |
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しかし毛錢の生涯の時々に出会った人物には、魅力的な人が多く見られることも事実である。著者前山光則は、そのあたりにも丁寧に光を当てている。東京での無頼生活のなかで知り合った不定職インテリゲンチャの詩人山之口貘や、毛錢(当時の名は喬)が入り浸った喫茶店ハンローの主で芥川龍之介と深い関わりのあった小野八重三郎とのこと、毛錢の関わった『九州文学』が火野葦平はじめ多くの逸材を出したこと、また毛錢の活躍した前後の時代に、水俣やその界隈出身の人々、例えば徳富蘇峰・蘆花兄弟、谷川健一・雁兄弟、丸山豊、石牟礼道子等などが活躍したことにも触れており、読んでいるとこの地域はなんと人材の豊富なことかと溜息が出るほどである。このあたりも読み物としては興味深い。 |
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(注1) | このタイプの代表作として、174号で「縁談」を紹介している。 |
(注2) | 著者はこの範疇に入る作品を高く評価しているが、水俣弁は他地域の人間には大変難しく、特に語の持つ独特のニュアンスはほとんど汲み取ることができないのが実際であり、残念である。 |
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◎ | 淵上毛錢の俳句作品については174号でかなりの紙幅を割いて言及しているので、本号では触れていない。俳句に限らず174号で書いたことに関しては、本稿では原則として述べていないので、毛錢に関心のある読者にはぜひ同号も併読していただきたいと思う。 |
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* | 16年前に刊行された石風社版『淵上毛錢詩集』の増補新装本も、昨年出ている。 |
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* | 『生きた、臥た、書いた――淵上毛錢の詩と生涯』前山光則著(2015年11月30日発行 弦書房刊 2000円+税) |
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(2016年2月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |