水燿通信とは |
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344号飛鳥時代の歴史の真ん中で甘樫丘(あまかしのおか)に立つ |
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蘇我入鹿の首塚や蘇我一族の邸宅が麓にあった甘樫丘周辺(奈良県高市郡明日香村)はぜひ訪れてみたいと思っていたところだが、今年の6月下旬にようやくその機会を得た。この地域には飛鳥寺や、現在興福寺の国宝館にある仏頭が元々置かれてあった山田寺の跡(桜井市)もある。 |
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奈良からJR万葉まほろば線で桜井駅まで行き、そこからタクシーで山田寺跡、飛鳥寺、蘇我入鹿首塚、甘樫丘と廻った。 |
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山田寺は曽我倉山田石川麻呂が造立を発願した寺。『日本書紀』によれば、石川麻呂は蘇我入鹿の従兄弟だが、中大兄皇子側に付き大化改新の立役者と言われた。だが翌年、石川麻呂は謀叛の罪を着せられて自害し、寺の造営は一時中断、天武朝になって再開され、講堂本尊が開眼された685年には天武天皇が行幸した、非常に高い寺格を有した寺である。 |
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明治時代の廃仏毀釈で廃寺になり、今は境内の跡は更地になっていて雑草が生い茂っている。その隣には「史蹟山田寺阯」(国特別史跡)という標識が立っている平らな原っぱ(塔の跡の土盛り)がある。方角によっては集落になっているところもあるが、その原っぱに立って東側をみると、畑仕事をしている人がちらりほらりと見え、その後ろには低い山々が幾重にも重なっているだけだ。この寺の本尊薬師如来像を、興福寺の僧兵たちはここから現在の奈良市にある興福寺までのはるかな道のりを、どのようにして運んだのだろうと想像したりした(注1)。 |
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桃源郷のようにも感じられる静けさと豊かな自然の中にある山田寺跡地周辺、しかし忘れられたようなどうしようもない寂しさを感じてしまうのは、この寺の無惨な歴史が念頭にあるからだろうか。 |
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そこから少しゆくと飛鳥寺だ。車はほとんど通らないのに、信号はなかなか青にならず、結構待つ。タクシーの運転手の話によると、つい無視して通りたくなるが、道が大変狭いのでうっかりそれをやって反対方向から来る車に出会うと、一方が広い道路に至るまでバックしなければならず、大変な時間と手間をかけることになるのだという(以前起きた、パトカーがやってきて、1時間ほどかかってようやく解決した例を話してくれた)。 |
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飛鳥寺(寺名は法興寺、元興寺ともいい、現在は安居院)は蘇我馬子が588年に創立した日本最初の寺。本尊飛鳥大仏(釈迦如来座像)は605年に鞍作鳥仏師によって作られた日本最古の仏像で、約3bの高さのある座像だ。飛鳥時代の仏像の特徴である銀杏の実のようないわゆる杏仁形(きょうにんけい)の目をしているが、左眼が少しつりあがっているのに対し右眼は下がり気味になっており、少しきつい表情の左側と穏やかな感じの右半分になっている。興味深いのは、正面ではなくやや右側を向いていること。これは聖徳太子を敬ってその生地である橘寺の方を向いているからだという(作務衣姿の寺の人の説明による)。 |
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この大仏は法興寺創建当時から現在の場所にあり、法興寺の伽藍が焼失した後も傷んだ姿で同地にとどまり、平城京遷都のあと、寺が強制的に移築させられた(それが現在奈良市ならまちにある元興寺だ)時も頑として動かず、その後も様々な災難に遭いながら、この地に留まっている。なんと気骨のある仏像ではないか。 |
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裏門を出て80b先に蘇我入鹿の首塚がある。その途中に西門跡が発掘された状態で遺っており、説明版が掲げられている。 |
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……寺の四方に開いた門の中では、この西門が一番大きい。寺の西に、飛鳥の檜舞台、「槻(つき、ケヤキの古名)の木の広場」があったからだ。中大兄皇子と藤原鎌足はここの蹴鞠の場で出会い、645年に大化改新をなしとげた。この時、二人は飛鳥寺に陣を構え、西門から甘樫丘の蘇我入鹿、蝦夷の館をにらんでいた(注2)。672年の壬申の乱の時には広場を軍隊がうめつくした。その後は、外国の使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、噴水がおかれ、歌や踊りが満ちあふれた。西門はそんな飛鳥の歴史をみまもってきたのだった。 |
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そして蘇我入鹿の首塚。『日本書紀』には蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮(いたがきのみや)で暗殺されたとある。だが、入鹿は飛鳥寺と甘樫丘にある邸宅を往復するのに西門を使っていたと思われ、寺から出たところで討たれたという見方もあり、こちらのほうがより説得力があるように私には思われる。 |
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首塚には、いつも地元の人々によって花が供えられていると聞いていたが、私が行った日も、鶏頭、桔梗、姫女苑、それに私の知らない細々とした花々が供えられてあった。そのすぐ後ろから田んぼが広がっており、ちょうど田植の真最中だった。そしてその先に見えるのが甘樫丘だ。 |
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丘の展望台からの眺めがいいということで、そこまではたかだか148bの高さだが、今の私の体力ではきついと思い、上までタクシーをお願いするつもりだった。ところが車は上には行けないとのことで、これは誤算だった。しかしここまで来て引き返すのはなんとも残念なので、がんばって登ることにした。幸い、夫が一緒だったので支えてもらい、休み休み、どうにか展望台まで行った。 |
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驚いたことに、私と同年代と思しき高齢者のグループが何組もいて、持参したお弁当を広げてわいわい楽しそうにやっており、あちこちのベンチやテーブルもみんな占領されていて、へたり込むことも出来ない。 |
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しかし、眺望はがんばって登った甲斐のあるすばらしいものだった。大和三山や遠く二上山も望め、逆の方向を見ると訪れたばかりの飛鳥寺や首塚も足下に見える。その奥に見えるのが多武峰だろうか、などと考えながら眺めていると、飛鳥時代の大事件の起こった現場のど真ん中にいるんだという実感がじんわりと湧いてくる。 |
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満足しての下り道は、体力も要らずすこぶる楽だった。麓で、30分に1本程度の割合でやってくるバスを待っている間、周囲の景色を見渡しながら夫が言った。 |
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「なんだか、このあたりの景色はどこもみんな同じ感じだな。ここも石舞台に行った時の景色と変わらないし、石舞台のそばの展望台に登ったときも、甘樫丘に登るのと区別がつかなかったな」 |
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夫は神社仏閣や日本の古代史には全く関心がなく、だから仏像を拝観するようなときはいつも私一人なのだが、今回はすばらしい自然がたっぷり楽しめるからと無理に誘ったのだった。なのにこの貧しい感想!! |
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だが、正直なところ、私自身、談山神社を訪れた時の文をまとめた時、山の中の細い径の感じが石舞台そばの展望台や室生寺奥の院に登った時の印象としばしば混同しそうになったものだ。私は飛鳥時代の歴史に関心を持ってこのあたりを訪れたから、大いに感じるところがあったし、それぞれの場所もまるで違う想いで眺めることが出来たのだが、そういったことに全く関心も知識もない夫がそのように感じるのは、あながち非難すべきことではないのかもしれない。 |
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あれからあれから3か月余経ってが過ぎて今はもう10月、田植の最中だったあのあたりの田も収穫が終り、そこで収穫されたお米は、すでにどこかの家庭の食卓に上っている頃ではないだろうか。 |
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(注1) | この薬師如来は、1187年興福寺に持ち去られた後、同寺東金堂の本尊となったが、1411年火災によって焼失、首の上だけになり、一時は所在がわからなくなったりした。昭和12年の東金堂解体修理の際、本尊の台座の下から発見され、現在国宝館に展示されている。 |
| 奈良国立博物館では、去る7月18日から9月23日まで「白鳳 花ひらく仏教美術」展が開催された。山田寺は「山田寺の創建」として一区画設けられ、瓦や金具類、金銅板五尊像などの出土品と共にこの仏頭も展示された(9日間の期間限定)。この展示で仏頭は前面だけでなく、左右、後ろなどからも見ることが出来たが、周囲を圧倒する存在感があった。 |
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(注2) | この説明だと、若干わかりにくいので、補足を少し。 |
| 645年、中大兄皇子と藤原鎌足は蘇我入鹿を殺害して(乙巳の変)、蘇我一族を
滅ぼし、それによって大化改新はその緒に就いた。だがそれが整備されるまでには、それから長い年月がかかった。なお壬申の乱は、672年、天智天皇が亡くなったあと、天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承をめぐって争いが起こり、大海人皇子が勝利し天武天皇となったことを指す。
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◎ | この文は、談山神社を訪れた時の文(341号)に触発されてまとめたものです。それも併せて読んでいただければ、幸いです。 |
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(2015年10月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |