水燿通信とは |
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335号仏像の展示空間について奈良の諸寺の仏像拝観を通して |
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奈良に移住して、仏像を寺で見る機会が多くなった。いくつかの寺を廻った後、奈良国立博物館の仏像館に初めて訪れた。高い天井、明るい会場で、ガラスのケースに収められて展示されていた仏像の数々が、何だか随分味気ないものに感じられた。 |
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私は半世紀もの間ずっと東京に住んでいて、「○○展」などと銘打って開催された展示会でガラスケースに収められた仏像を目にすることが多く、他のさまざまな展示品と同様、仏像もこのような形で展示されるのが一般的なのだろうと思っていた。 |
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ところが奈良の諸寺で、それぞれの仏像が寺の薄暗い金堂(本堂)、講堂などに置かれているのを度々目にしているうちに、仏像とは本来このような形で置かれているのが自然であり、より心に響くように見えると感じるようになったのかもしれない(註1)。ただ、奈良で収蔵品を多く有している寺のいくつかは、それぞれの展示施設を設けて所蔵品の多くをそこで見られるようにしているのが、実際である。そこで、そういった施設をいくつか訪れた印象を以下に語ってみたいと思う。 |
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法隆寺大宝蔵院 ここには百済観音像をはじめ、夢違観音像、玉虫厨子、橘夫人厨子などが展示されている。百済観音像は一室にこの像だけ置かれ、蓮台や花も添えられており、多くの照明が当てられて特別扱いという感じだ。ところがガラスケース内の観音像のあちこちにその灯りが反射し、見ている人間の姿もガラスに映ったりして、静かに像と向き合うといった雰囲気にはなれそうもない。 |
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はじめて見る像のはずだが、この像の展示に対する私の印象と似たようなことを書いた文を、以前どこかで読んだような気がして調べてみた。亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の中にあった。その部分を引用してみよう。 |
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……百済観音は仕切った一室にただひとり安置されてある。新しい天蓋と蓮台もつくられた。すべては美々しく粧われ、花もささげられている。……しかしほの暗い金堂のうちに佇立して、白焔の燃え立ったまま結晶したようなあのときの面影はみられない。金堂の内部では何の手も加えられず、実にそっけなく諸仏のあいだに安置されてあった。ただ一体安置されるにしても、おそらくいっさいの装飾を去って、薄闇の中にすらりと立たしめるのが最もふさわしいであろうと私は考えていた。……宝蔵殿は新築されたばかりで木の香りも高い。設備も実に至れり尽くせりである。そういう新しさが、千年を経た金堂の陰翳になずんだ私にこんな思いをさせたのかもしれない。…… |
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法隆寺の宝蔵殿は昭和14(1939)年に建設された。亀井勝一郎は完成して間もない昭和16年にここを訪れ、その印象をまとめたのが前掲の引用文である(註2)。その約半世紀後の1998年に完成したのが大宝蔵院で、私が目にしたのはそこに展示された百済観音である。現在の大宝蔵院におけるこの像の展示方法は、宝蔵殿のそれを踏襲しているといっていい。 |
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私は、ガラスケースが無かったらどんなによかっただろう、それがどうしても叶わないというのならせめて照明をもっともっと落としてほしい、すばらしい像だけにそのように思わずにはいられなかった。 |
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私はここには2度訪れているが、どちらも小中学生の団体と一緒になった。特に1回は大変な混雑と喧噪の中で見ることになった。私の法隆寺大宝蔵院での印象が厳しくなったのは、このせいもあるのかも知れない。 |
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東大寺ミュージアム 2011年に出来たばかりの新しい美術館で、千手観音立像、誕生釈迦仏立像、金銅八角燈籠などを展示している。館内の光量をかなり落としているので全体に落ち着いた雰囲気があり、長い年月を経た仏像たちも違和感なく会場の中にしっくりと溶け込んでいる。 |
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このミュージアムには何度か訪れているが、これまではもっと明るく、たとえば日光・月光菩薩像など灯りがガラスに反射して気になっていた。だがこの文をまとめる直前に訪れた時の印象では大きく違って、前述のようなものだった。照明の仕方に変更があったのか館員に尋ねてみたが「変更していない」とのこと。どうしてこんなに印象が違うのか、自分の事ながら未だに解せないでいる。 |
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東大寺は豊かな自然の中にあって、若草山、御蓋山(三笠山)がすぐ目の前に迫り、その奥には春日奥山が控えている。諸山を含むこのあたりが、大仏建立以前の奈良仏教の現場だったことを改めて思う。 |
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興福寺国宝館 明治時代の廃仏毀釈で取り壊された食堂(じきどう)などの遺構の上に昭和34年に建てられたもので、国宝館の名に恥じない名品が数多く所蔵展示されている。 |
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2010年春に、開館50周年を記念して建築内部の大幅な改修を行なった。その基本理念となったものは“展示空間は魅力のあるものでなければならない”というもので、仏教的な真、善、美が宿る「美の仏殿」を目指したという(金子啓明著『仏像のかたちと心』岩波書店刊参照)。 |
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現在、私たちが目にすることのできる国宝館は、館長金子啓明のこの理念が見事に反映された展示空間となっている。ガラスケースに入っているものも少しはあるが(これも間接照明にして作品に直接照明が当たらないように工夫されている)、大部分の仏像は直接それもわりあい近い場所から程よい明るさの中で見ることが出来る。天井の高さ、背景の色なども、個々の作品にあわせて工夫されている。 |
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展示されている作品自体もすばらしいものが目白押しだ。これらの中でも私がとくに魅かれているのは、山田寺仏頭(註3)、阿修羅像を含む八部衆、天灯鬼・龍灯鬼像、金剛力士像などだ。 |
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山田寺仏頭は、関裕二著『大和路の謎を解く』(332号)にその悲劇的な歴史について述べられているが、その史実もこの仏頭の魅力を増すように感じられる。 |
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天灯鬼・龍灯鬼像は、「西金堂の鎌倉彫刻」のコーナーに、阿吽の金剛力士像にはさまれるような感じで並べられている。このふたつの像のところに来ると、私はいつも自分の心が和らいでくるのを感じ思わず「こんにちは! また来たよ」と心の中で挨拶してしまう。 |
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天灯鬼像は口を大きく開けて牙をむき出しにし褌を締めた形で、また龍灯鬼像は口をきつく結んだ上目遣いの目をし、よれよれの革を腰に巻くという形で、ともに威嚇しているように踏ん張っているが、実際のところちっとも怖くない。むしろ太く短い脚で立つ四頭身のその姿は、どこかユーモラスですらある。しかも造形的に実にすばらしい。これらの像を挟むような位置に阿吽の2体の金剛力士像がある。このタイプの像としてはどちらも決して大きくはないが(150センチ前後)、筋肉の付き方が実に逞しく、緊張感のみなぎった見事な美しさだ。 |
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そして順路の最後に、阿修羅像を中心に一列に並べられてあるのが八部衆だ。この部分は天井をかなり低くしてあって、照明もとくに工夫のあとが窺える抑えた感じのものになっている。 |
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阿修羅像はあまりにも有名で、大衆化したことで眉をひそめる向きもあるが、やはりこの像はすばらしいと思う。この像は本来守護神でありながら、怒りや威嚇の表情がなく、自らの内面に向かって思考しひたむきに悩む繊細な表情をした少年像となっており、多くの人をひきつけている。しかも全体の姿が華奢で均整が取れており、美しい。 |
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この八部衆のうち、沙羯羅(さから)像、五部淨(ごぶじょう)像、乾闥婆(けんだつば)像は阿修羅像と共に少年像になっている。 |
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この少年像に関して、金子啓明は『仏像のかたちと心』の中で、光明皇后がこれらの像にこめた意味を考察し、興福寺西金堂(八部衆は元々ここに置かれていた)は光明皇后が実母橘三千代の一周忌供養のために建立したものであるが、興福寺曼荼羅(京都国立博物館蔵)の図柄から、これは光明皇后が「母の菩提供養と合わせて、夭折したわが子其王の供養も果たそうとしたからではないだろうか」と推測している。さらに金子は、八部衆のうち半数の4体までが少年像であることに注目、皇太子誕生の時期と八部衆像完成の時期を考慮すると、光明皇后は生きていれば6歳になる皇太子の姿を、もっとも年少な沙羯羅(さから)像に重ねたように思われると語っている。確かにこの像は「幼さ、ひたむきさ、純粋さ、あどけなさがとりわけ強く表されている。母親が小さなわが子を愛しみ、思わず手を差し伸べたくなるような可憐さである」と述べ、また年齢や心理描写が微妙に異なる他の少年像も、皇后が「誠実な仏教徒として次第に成長することを期待した、今は亡きわが子の姿を見ているようだ」と推測して、「この視点で八部衆の少年像を見直してみると、そこには人間的で現実的な母親像がみえてくる」と語っている。興味深い見方で、八部衆のとくに少年像4体の魅力を大きく増してくれるように思う。 |
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国宝館を出ると、目の前に五重塔が、左手東側には春日の山々が近くの木々の間から垣間見られる。さらに五重塔を過ぎて猿沢池に至る石段近くまで進むと、東南方向に低くなだらかな山並みが遠望できる。大和の豊かな自然の真ん中にいる自分を感じる時だ。 |
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(註1) | 残念ながら、寺で見る仏像も、時に失望させられることがある。多くの場合、普段見られないものを期間限定で特別公開する場合にそうなることが多いように思われる。 | | たとえば唐招提寺の鑑真和上像。普段はレプリカしか見られないが、特別公開するというので期待して出掛けたが、像そのものがそれほど大きくないのに、見学者から遠い位置に灯りを落として置かれ、しかも「特別公開」ということで上から幌のようなもの(天蓋)をかけているため、全体像はおろか肝腎の表情もほとんど見えないのである。 | | また法隆寺の夢殿に安置されている救世観音、これも年に2回、期間限定で公開されているが、中央の薄暗い位置に在る像を、夢殿の外廊から見上げるようにして見るので、腰あたりは見えるのだが、表情はあまりよくわからない。この問題に関しては、ある寺で「信仰と観光の釣り合いが難しい」と聞いたことがある。 |
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(註2) | 亀井勝一郎はこの『大和古寺風物誌』のなかで、信仰心を持たずに研究や教養のためにもったいぶった顔で仏像を見る人びとに対して、初めて仏像に接した頃のかつての自分を顧みつつ、批判的な目を向けている。しかし、私のような信仰心は全くないが、仏像に接して心的な安らぎをいだいたり、美術品を賞玩するような感じで接したりする者を、無下に否定することもないように思うのだが。 |
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(註3) | やまだでらぶっとう。元々は飛鳥の山田寺講堂の本尊(薬師如来)だった。関裕二は『大和路の謎を解く』で“文治三年、…興福寺の僧兵が…まるで罪人を引きずるように、興福寺に持ち去ってしまった”事実を明かし、その後この本尊が辿った無惨な歴史のなかで首だけになったと説明、にも拘らず“興福寺のホームページには、山田寺の仏頭は、「迎えられた」と書かれ、興福寺の貫首は雑誌の中で、「移された」と述べ、「盗んできた事実」を否定し、何も反省していない”と厳しく批判している(332号)。国宝館の説明でも名称は単に「仏頭」とし「飛鳥の山田寺から移された」となっている。なお、『大和六大寺大観』増補版第8巻「興福寺」(岩波書店刊)では、グラビアの冒頭でこの仏頭を紹介し、解説ではっきりと「強奪した」と記している。 |
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※ | 奈良国立博物館の新館で2014年7月19日から9月15日まで行なわれた「醍醐寺のすべて」の展示空間は、諸像はガラス越しではなく直接見ることができ、照明も抑え気味のもので、従来の博物館的展示とは大きく違ったなかなかいいものだった(「展示品を守るために照明を抑えた」との断り書きがあった)。 |
| また仏像館(奈良国立博物館は仏像館と新館から成る)は改装のため2014年9月から2016年3月まで休館する(予定)。これによってどのように変わるのか、もしかしたら従来の博物館式の展示方法が変わるのではないかと、私はひそかに注目している。 |
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(2015年2月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |