水燿通信とは
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325号

尾崎放哉とふるさと鳥取

放哉忌によせて

 自由律俳句の俳人尾崎放哉は故郷鳥取を徹底的に嫌ったと言われている。平成7年7月号の『俳句』に載った森澄雄・平井照敏・佐佐木幸綱の鼎談「孤独の旅人・尾崎放哉」の中で、この点に触れた部分があり、3人は次のように発言している。(筆者が内容を要約しており、発言通りではない)
佐佐木 この人の句には雪が多いです。鳥取はけっこう雪が多い。雪と海というのは、鳥取なんじゃないかという気がします。表立ってはふるさとのことは言わないけれど、心のどこかに鳥取がある。でも帰らないで、遠ざかろうとする。この人は絶対戻るまいという、ある意志みたいなものがあって、それが結果的に虚無へ向かっていくみたいなかたちになっているのではないかという気がします。
 海が好きなんだ。故郷への思いがずーっとある。『放哉評伝』を書いた村上護は、放哉の〈春の山のうしろから烟が出だした〉の句を、鳥取時代のことを思い出しながら作った、という書き方をしている。
平井 近づくまいとしていたみたいですね、自分がこういうことをしちゃったから。放哉は、お姉さんのご主人ととても親しかったらしい。だけど、その人たちに迷惑をかけるといけないからというので、ことさらに会わないようにしていた。
 ここで述べられているように、故郷を嫌ったように振舞った放哉の心のうちを、「ふるさと鳥取に対する思いはとても強かったが、自分が〈こういうこと〉になってしまったので故郷には近づくまいとした」と解釈することは、とても納得できる感じがする。また〈こういうこと〉つまりエリートの道を外れ、寺々を転々として、最後には極貧の生活をするようになった原因については、澤芳衛との恋が駄目になったこと、酒癖の悪さ、病気、もともと有していた虚無的な性格など、様々な理由をあげる見方がある。これらに関して、私なりに考えたことを、年代順に述べてみたいと思う。
恵まれた環境、優秀な資質 幼少時の放哉は家族中の深い慈愛に囲まれて育ち、時代の持つ「立身出世」の期待を周囲に持たせるに十分な優れた資質の持ち主で、高等小学校を飛び級で鳥取中学に進み、さらに一高、東京帝国大学へととんとん拍子に進む。中学までは寡黙ではあるが大変な本好きでまじめな勉強家であり、彼が故郷を嫌う理由など何もなかったように思われる。
大変なエリート 東京帝大法学部卒というだけでも大変なエリートだが、放哉の場合、それに加えて時は明治時代であり、しかも東京から遠く離れた山陰地方の出身だったことを念頭に入れる必要がある。このことは、国民の多くが大学に進学するようになった現在ではなかなか正確に認識できないほどのものであったと思う。つまり尾崎秀雄(後の放哉。本稿では、幼時から一貫して「放哉」と表記した)は郷土の注目を一身に受けて上京、一高、東京帝大法学部に学んだ筈で、彼は都市部出身の秀才には想像もつかないほどの強い自負心、自意識、エリート意識を有していただろうと思われる。いきおい、放哉自身、故郷の人々の目を強く意識せざるを得なかった。
明治末期の日本の社会的状況 だが、放哉が一高に学んだ頃は、日露戦争下で社会全体に一種の閉塞感が漂って、それまでの立身出世主義の風潮は翳りを持ち始めており、学生たちの間にも「天下を取る」といった勢いは無くなっていた。放哉が東京帝大に入学した明治38年に日露戦争は終結、卒業する同42年頃になると戦争後のさまざまな社会問題が相次いで出てきて、学士といえども易々と就職できるというわけにはいかなくなっていた。東京帝大法学部卒の威力も絶対的ではなくなっていたのである。しかも、禅寺に通いつめたり連日の深酒などで法律の勉強にも身の入らなかった放哉は、追試験を受けて2か月遅れで漸く卒業するという有様だったから、満足の行く就職先もすぐにはみつからなかった。
幻滅的な仕事の実態 卒業後1年あまり経って、放哉は生命保険会社に入社、積極的な気持ちで仕事を始めた。しかしその内実は必ずしも満足のいくものではなかったようで、間もなく放哉は、依然持ち続けている強いエリート意識と地元の人々の熱い視線に比して、幻滅的な現実に絶望的になることが多くなり、ますます酒に溺れるようになっていく。
社会から降りる気のなかった放哉 だが、放哉はこの時点では社会から降りようなどとは考えていない。不愉快な出来事が続きついに生命保険会社を辞め、しばらくはすさんだ気持ちで浪人生活を送るが、友人に朝鮮に作る新会社の支配人という就職口を斡旋されると、大いにやる気になるのである。
 再起を期してわたった京城(けいじょう。今のソウル)での仕事では、背水の陣の思いで頑張りかなりの業績を挙げるのだが、またもや酒癖の悪さがたたり馘首される。この後は肋膜炎になったこともあり、依然持ち続けている強いエリート意識や故郷に錦を飾りたいという思いがあったにもかかわらず、坂を転げるように転落していくことになる。
放哉の資質、傾向 放哉はまた上京して以来ずっと、社会を覆う閉塞感といったもののなかで、哲学や宗教に深く親しむようになっていた。しかしそういった資質では社会に出てからの人間関係を勝ち抜く図太さは持ち得ず、またエリート意識ゆえの他人を見下したような態度などもあり、一般社会で自分の能力を存分に発揮し出世するには、ひどく困難が伴ったのではないだろうか。放哉はとても心やさしいさびしがりやの側面も有していたが、その一方でこのような性格を持っていた事実も、放哉を理解するためには必要だろうと思う。
 そしてそんな中でも見逃せないのが酒癖の悪さ、これは尋常の酒癖の悪さというにはいささか度を越したものがあったようで、『尾崎放哉の詩とその生涯』の著者で医師でもある大瀬東二は「嗜酒症(デプソマニー)だったのではないか」と指摘している。かくして社会から脱落してしまった放哉には、故郷を単純に懐かしむことなど出来なくなってしまったのである。
一族の「おちこぼれ」だった放哉 大正5年、従兄姉の銀婚式祝いで一族のいとこが集合し東京上野の精養軒で撮った写真がある。中央に銀婚を迎えた中谷初(放哉の従姉)とその夫義蔵が座り、その両脇に招待された夫婦の妻たちが座っている。後列には前列に座った妻の後ろにその夫に当たる人物が立っている、という構図。前列は向かって右より尾崎馨(放哉の妻)、中谷ふゆ(義蔵の弟愛八の妻)、中谷初夫妻を挟んで中野薫(初夫妻の長女)、澤さえ(澤静夫の妻)、和田芳衛(旧姓澤)、後列は右から尾崎放哉、中谷愛八、中谷一雄(初夫妻の長男)、中野次郎(薫の夫)、澤静夫(芳衛の兄)、和田善平(芳衛の夫)となっている。初の夫義蔵は鳥取藩士、長女薫の夫は東京帝大医学部出身の医師、夫妻の長男の一雄は当時は東京帝大法学部の学生(後に三菱銀行頭取となった)であり、さらに澤静夫は東京帝大医学部出身の医師、和田善平は京都帝大電工科に学んだ人物と、いずれも錚々たるメンバーである。また、放哉が芳衛との結婚を深く望みながら静夫の反対にあって断念した経緯のあることを考えれば、この写真には写っている個々人の複雑な思いが秘められていたであろうと想像することは、それ程誤まっていないと思われる。
 こういった事情だけでなく、私はこの写真を目にすると、昭和28年に澤芳衛が伊東俊二に宛てて書いた手紙の中にあるひとつの挿話を思い出す。この銀婚の祝いのために、馨が初子(放哉の姪)から裾模様を借りに来たが、借りたことを知られないように空のボール箱を持ってきた、「その借りに行った時の智恵がおかしいといってみんな笑ひました」という内容のものだ。そのことを知ってこの写真を見ると、この集まりにおける放哉と馨の居心地の悪さが表われたように、2人だけが心なし全体から離れた位置にいるように私には感じられるのだが、どうだろうか。このとき放哉はまだ生命保険会社に勤めてはいたが、すでに放哉と馨の生活が一族の噂に上るほど安定からは程遠いもの、敢えて言えば貧しいものに思われていたこと、また仕事もさほど評価されていなかったことが推測される。つまり、放哉は鳥取という地域全体の中では大変なエリートだったかも知れないが、一族の中では特に目立つような存在ではなかったのである。
 ただし、この写真に写っている馨の着物の裾模様を見ると、新婚の頃に放哉と写したという写真のそれと同じものになっており、馨が裾模様を初子に借りたという芳衛の話には、いささかの疑念が残るのだが。
 ましてや、放浪生活を始めるようになってからの放哉に対する一族の見方は、推して知るべしだろう。そして放哉自身にしても、彼らのことはおのれの人生に対する無念さや口惜しさを増幅させるだけのもので思い出したくもない、関わりたくもないものになっていたのではないか。このことも、放哉が故郷を嫌った理由のひとつになっているように思う。
鳥取の土地柄 ここで鳥取の土地柄に目を向けてみよう。明治の廃藩置県で鳥取県が無くなったことで鳥取町に不穏な空気が漂ったことから、同県再置を行なうことになり、それに先立って参議兼参謀本部長だった山県有朋が県下を巡視したが、その際、山県はこの地が士と民の尊卑が隔絶して居ることに驚いたという(村上護『放哉評伝』)。この話からも推測されるように、三方を山で囲まれた陸の孤島のような鳥取は、保守的で因習の強い土地柄だったといわれている。この土地柄に放哉は必ずしも馴染めなかったのではないか。おそらく懐かしさと同時に、複雑な思いも残る故郷だったのではないかと思われる。
 放哉は死の四日前、つまり大正15年4月3日、野坂青也(註)に宛てて次のような手紙を認めている。
放哉なるもの、今少し生れる可からざりし「時代」と「土地」とに生まれ出で、狂、盗、大愚、とのゝしられ遂に夢の如くに去らんとす……之も、コウ云ふ時代の一個の産物なる可し
 さすがに、放哉は自らのことがよく視えていたというべきか。彼は自分の転落のもっとも基本的なところに在る理由が何かを、正確に理解していたということなのだと思う。
放浪生活ゆえに生れた名句 だが、放浪生活に入ってから死までのわずかな期間に、放哉の俳句はどんどんよくなっていった。特に南郷庵時代の作品は、自らを見つめて極北まで行ったという感じの作品が多い。南郷庵で死を待つのみの病いと極貧に対峙しながら、無言独居・門外不出の生活を続けるうちに、放哉の句境は急速に研ぎ澄まされたものになっていった。これは、種田山頭火の作品が庵に定住している時期よりも、行乞放浪している時のそれの方に、断然惹かれるものが多いのとどこかで通じるものがある。これも自由律俳句というもののひとつの宿命であろうか。
(註)青也は俳号。本名野坂寛治。1889(明治22)年生れ。後の米子市長。父茂三郎は衆議院議員。放哉との関わりに関する詳細はわからないが、放哉の死の直後、4月9日に、
「昨日北朗兄に会つて初めてご病気の事をきゝました。先生にも御目にかゝりました。早く治つて桃のある京都へお越になる日を御まちします。是非よくなつて下さい。スリーキヤツスルを送りました」
という葉書を出している。放哉の棺に散らされた金口の烟草は、このスリーキャッスルを指していると思われる。
村上護はその著『放哉評伝』で鳥取一中卒業時に撮ったと思われる写真を紹介し、「この中に確かに放哉も写っているはずだが、どうも特定できないでいる」と書いている。だが私には、かなりの確信を持って放哉を特定することが出来る。
 放哉が鳥取高等小学校の頃に撮った集合写真があるが、彼は最前列の中央(向かって左側が少し切れているので、正確に中央とはいいがたいが)にいる。このことを念頭において鳥取一中卒業時の写真を見ると、最前列中央に学生服を着た人物がいるのに気づく。さらに後年の第一高等学校ボート部の写真を見ると、放哉はこの学生服の人物とまさしく同じポーズで写っている。ということで、私は最前列中央の学生服の人物が放哉だと確信している。
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〈放哉句は陳情撃退のツール?〉
 前鳥取県知事片山善博氏は、在任当時、知事室に〈一本のからかさを貸してしまつた〉という放哉の句を掲げていた。片山氏は、鳥取が生んだこの俳人を地元の人たちがあまり知らなかったので、県民にもっと知ってもらいたい、さらに片山氏自身への戒め、つまり常に質素で清貧でなければならないという思いがあったこと、また氏自身この句が好きだったこと、さらに放哉の考え方や生活環境、経済状態やメンタリティーが、非常によく合わさっていると思ったことなどから、この句を選んだと語る。片山氏の在任当時の県の財政はとても厳しいときだったが、あれをやってくれ、これをやってくれと、いろんな人が知事室に金のかかる陳情をしに来る。……そういう時は、「そちらに掲げているものを見てください。今は県の財政もこういう状況なんです」と言うと、自ら要望を取り下げる人もいたという。それを意図したわけではなかったが、陳情撃退のツールとして大変効果的だったという。
(「佐高信の甘口でコンニチハ! 片山善博前鳥取県知事」『俳句界』2013年6月号)
〈放哉大賞の募集終了〉
 小豆島尾崎放哉記念館を擁する「放哉」南郷庵友の会では、平成11年から毎年、自由律俳句を募集し、優れた作品に4月7日の放哉忌で放哉大賞を授与して、放哉の顕影と自由律俳句の普及に努めてきたが、本年で終了することになった。
 放哉大賞の選は自由律俳誌『層雲』の代表和久田登生氏、編集人鶴田育久氏ということになっているが、募集から賞授与までにわたる雑務は友の会の幹事で『層雲』の同人でもある井上泰好氏が担当し、選にも加わってきた。ところが井上氏は昨年体調を崩して入院、退院後この任に堪えられなくなったということで、辞任することになった。後継者を捜し求めてきたが、雑務はともかく、句の選などというものは実作者としての長い修練と文学的センスが必要であり、頑張りや努力だけでどうにかなる問題ではない。また地元には定型の俳句を作る人は少なくないが、残念ながら自由律の作者はいない。ということで、放哉大賞の募集は今回で終了することに決定したという。残念なことではあるが、今はそれを嘆くよりも、井上氏の労をねぎらう時なのではないかと思う。
 以下に、第1回からの放哉大賞受賞作品、および平成14年から島内の小学校および鳥取修立小学校の協力で始まった放哉ジュニア賞優秀賞のうち、特に私の目に止まった作品を紹介しておきたい。
放哉大賞
第1回鍵無くしている鍵の穴の冷たさ木村健治
第2回砂ばかりうねうねと海に落ちる空坪倉優美子
第3回人間を脱ぐと海がよく光る篠原和子
第4回おのれ失うたものさらしている冬の残照藤原義久
第5回波からころがる陽に足跡がはずむ高田弄山
第6回無人駅の窓口は 風の音売ります高木和子
第7回空いたままの指定席が春を乗せている黒崎渓水
第8回薄れゆく夕焼過去が立止まっている富田彌生
第9回語りはじめそうな石の横富永鳩山
第10回闇へどうんと島が目の前伊藤夢山
第11回一本の向日葵と海を見ている木下草風
第12回ボーツと言って船が空に向かう遠藤多満
第13回風が歩いて春を充電する佐藤智栄
第14回言葉の花束そろえる陽だまり野谷真治
第15回昭和一桁の頑固さ いっきに師走中村みや子
第16回倒れたコスモス夕焼けをみている井上敬雄
放哉ジュニア賞優秀賞
第7回おらはおら蓮池朋希(土庄小3年)
第12回バカヤロー夕日に向かって走り出す飛多央弥(土庄小5年)
本稿をまとめるにあたって、放哉南郷庵友の会幹事の井上泰好氏より、様々な資料の提供を受けました。ここに記して感謝の意を表します。
(2014年4月7日発行)

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発行人 根本啓子