水燿通信とは
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312号

奈良の地名諸々

『奈良 地名の由来を歩く』を読む

 奈良に移住して間もない頃、住所で示された様々な機関や商店の位置がなかなか特定できず、苦労した。というのも、奈良市には大きな地域を○○町とし、丁目を設けて区分するといったかたちの地域が少なく、大半はごく狭い地域だけの町名になっており、しかも名前で場所が判断できるような類の地名はあまりなく、読み方も難しいのだ。つまり、個々の名前と場所を単純に覚えるしか術がないのである。そんなことから逆に、奈良(県)の地名って何だか面白そうだなと思っていたのだが、そんな矢先に、それに関わる本を見つけた。『奈良 地名の由来を歩く』(谷川彰英著 ベスト新書)がそれである。著者はこの本を著すに際して、歴史の深い奈良のどこまで踏み込めるかという不安を解消する策として、「徹底して〈歩く〉こと」を基本方針としたという。本著には、その成果として判明したり確信するに至った事柄が数多く報告されている。
「飛鳥」はなぜ「あすか」と読むにいたったのか 著者は従来から言われてきた「「飛ぶ鳥の明日香…」と歌に詠まれていたのだが、いつの間にか「明日香」が「飛鳥」に変わった」という説を紹介、これだけではわかったようでよくはわからないと語った後、「三輪山を中心にした山容説」を提唱する(同じ著者による前著『京都奈良「駅名」の謎』によると、この視点は『三輪山と日本古代史』という本にヒントを得たものとのこと 根本註。以下の括弧も同じ)。確かに本著に載っている写真(飛鳥の里にある橘寺の近くで撮ったものという)を見ると「明日香から見ると、三輪山を中心に置き、向かって左側に龍王山、右手に巻向山が、あたかもこちらに向かって飛んでくるような形を見せている」というのが納得できるような気がする。
 JR奈良駅から桜井市に向かって南に桜井線(通称「万葉まほろば線」)が走っているが、その途中に巻向(まきむく)駅がある。この駅を囲む一帯は古墳群や天皇陵などがあって古代ヤマト発祥の地と言われている。この駅を降りて東に1キロほどゆるやかな上り道を行くと、大和の古代道路である山の辺の道(大和平野の東側に連なる山々の山すそを通る)になるが、その近くに『万葉集』巻7にある次の歌が刻まれた碑がある。
三緒のその山なみに子らが手を巻向山はつぎのよろしも 柿本人麿
(意味 三輪山の山並びに巻向山があるが、その並びかたがまことによろしい。)
 この歌を知ったとき、私は「ああ、いにしえ人にもこれらの山容を愛でる気持ちが強かったんだなあ」と思い、著者の説に組みしたい気持ちが強くなった。なお、山の辺の道には、他にも数多くの万葉歌碑がある。
「春日」をなぜ「カスガ」と読むようになったか 著者は『万葉集』に詠まれた40首以上もの歌を参考に、「春日山が「春の美しさ」をイメージした山であって、その意味で「春」の「季節」「自然」のシンボルであった…「霞」は「春」の代名詞のようなものであって、この「霞んで見える山」即ち「霞山」が「春日山」になったと考えるには、少しも無理はない」と語る。私は奈良に住んでまだ一年未満だが、確かにこの地はよく霞が立つように感じられる。低い大和の山々の稜線が霞んで見えなくなる景は、やわらかなやさしさに満ちていてなかなかすてきだ。ちなみに秋にも同様の現象は起きるのだが、秋の場合「霧」と称して霞と区別している。
 明治36年、奈良県南葛城郡忍海村(現北葛城郡新庄町忍海)に生まれた歌人前川佐美雄に次のような歌がある。
春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ(『大和』昭和15年刊)
 佐美雄の代表作のひとつで多くの人に愛唱されている有名な歌だ。私も大好きな作品だが、その意味はと訊かれると、「イメージがとても美しくすてきだ」というくらいで、なかなかうまく答えられない。でも実際に大和に住んで春日山などに霞(や霧)がかかるのを始終眺めていると、何となく肌でわかる感じがしてくる。
 この歌について、吉野に住んで晴林雨読の生活を送った歌人の前登志夫は、その著者『山河慟哭』で次のように述べている。
『なにも見えねば大和と思へ』というのは、先ずおのれに言いきかせているのでなければなるまい。たんなる大和案内の歌ではない。この歌が秀れているのは、大和の実景と本質を一言にしてとらえ、同時になにも見えないという覚醒において原郷を見ているのであり、記念すべき自己発見を遂げた趣があるからである。(下線筆者)
 傍線の部分などはとても説得力があり、大和の住民には共感が持てることのように思われる。
春日大社について この大社が創建されたのは神護景雲2年(768)、東大寺の大仏開眼の儀式より少し後になるが、この神社の歴史をひもといていくと、神武東征の足跡を軸にした大化改新前後のおどろおどろしい権力闘争の様が、生々しく浮かびあがってくる。大和の各地に残る地名にもこういった闘争の残酷さ、生々しさを反映させているものが多い。かつて私は「葛城」という地名に憧れ的な想いを抱いていたものだが、本書ではこの地名の由来を『日本書紀』にある記事として、次のように紹介している。
 高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の為人、身短くして手足長し。侏儒と相類たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城と曰ふ。
(意味 高尾張村に土蜘蛛がいた。特徴は背が低く手足が長く、侏儒(背がひどく低い人)に似ていた。皇軍は葛で網を作り、不意を襲って殺してしまった。それでその村を名づけて葛城といった。)
 葛とはつる性植物の総称で、縄や紐などの代わりに古来多用されてきたという。それを敵を殺すために使ったというわけだが、なんともリアルで残酷な命名である。
 また蘇我氏と物部氏の争いの話も興味深く、著者はこの項の結びの部分で、次のような刺激的で魅力的な意見を述べている。
 常識的な歴史の教科書では、大化改新によって蘇我氏の横暴をストップさせ、天皇本来の政治に戻そうとしたと書かれているが、この大化改新の背後には物部戦争(仏教受容派の蘇我馬子が仏教受容反対派の物部守屋や守屋に組した中臣勝海を滅ぼした争い 根本註)があり、この戦争こそわが国の歴史を大きく変えた大事件であった。……私には、この大化改新は中臣氏の蘇我氏に対する復讐劇であったように見える。
峠を越える 四方を山に囲まれ、どの方向から攻め込まれても防げるような自然の要塞とも言える奈良盆地だが、第五章ではその周囲にある峠を取り上げている。いずれも「異界を体験するスポット」とも言える雰囲気を持つ峠だが、そのなかでも芋峠は芋洗いにちなむ峠道で、この「いも」はなんと「疱瘡」の意味なのだということが書かれている。東京などにもある芋洗い坂との関連においても、殊の外興味がもたれる。
奈良県にある旧国名の地名 最終章では『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などを参考にして県内にある数多くの旧国名の地名について考えているが、ここからは平城遷都の直後などを中心に、かなり大量の役民が西日本を中心とした地域から徴用され、何年もの間、大和で過ごした実態、同地域出身の人が同じ地域に集まりそこに自分たちの故郷の名を付したこと、また長年の徴用による国許に残された家族の疲弊振りなどが鮮やかに浮かび上がってくる。
 こうやって読んでくると、この本からは奈良という土地の持つ奥深さ、おどろおどろしさ、流された血の多さなどが思われ、魑魅魍魎などという言葉も浮かんだりして、興味は尽きない。同時に、山容を中心としたその自然のうるわしさ、素晴らしさも強く印象付けられる。奈良はいよいよもって面白いところだと痛感させられた1冊である。
 最後に、私がこれまで見つけた読みの難しい奈良の地名や駅名を、本著で取り上げたものも含めて、挙げてみたい。
京終(きょうばて) 神殿(こどの) 三碓(みつがらす)
栢森(かやのもり) 狐井(きつい) 佐名伝(さなて)
海石榴市(つばいち) 忌部(いんべ) 雲梯(うなて)
杏(からもも) 膳手(かしわて) 穴闇(なぐら)
井光(いかり) 枌尾(そぎお) 櫛羅(くじら)
蛇穴(さらぎ) 奉膳(ぶんぜ) 重坂(へいさか)
忍坂(おっさか) ヨ邑(よむら) 垣内(かいと)
谷尻(だんじり) 助命(ぜみょう) 土庫(どんご)
入野(しおの) 御所(ごせ) 浮気(ふけ)
鵲(かささぎ) 磐余(いわれ)
*
前川佐美雄の短歌(大和を詠ったものを中心として)
床の間に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いてみてゐし(『植物祭』昭和5年)
何といふひろいくさはらこの原になぜまつすぐの道つけないか
合はせては掌のなかに生まるわがこころこれを遠べの草木におくる
父の名も母の名もわすれみな忘れ不敵なる石の花とひらけり(『大和』昭和15年)
春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける
無為にして今日をあはれと思へども麦稈焚けば音立ちにける
野のはてにいつの世よりぞ住みつきてもはや平たき岩となりゐる(『白鳳』昭和16年)
あかあかと紅葉を焚きぬいにしへは三千の威儀おこなはれけむ(『天平雲』昭和17年)
とぶ鳥もけもののごとく草潜りはしるときあり春のをはりは(『積日』昭和22年)
琅■(註)のみちに霰のたばしればわれ途まどひて拾はむとせり(『捜神』昭和39年)
夕焼のにじむ白壁に声絶えてほろびうせたるものの爪あと
葛城の夕日にむきて臥すごときむかしの墓はこゑ絶えてある(『白木黒木』昭和46年)
うしろより誰ぞや従き来と思へどもふりかへらねば松風の道(未完歌集『天上紅葉』)
紹介 「倭に棲む」から
 山ノ辺の道や葛城のふもと道などはいうに及ばず、観光とは殆ど無縁な村里や小さな丘の林を越えるだけでも安らぎをおぼえる。世間には古くから、〈奈良ぼけ〉とか〈大和ぼけ〉ということばがある。それほどにもどこかのんびりしているのである。大和国原の土を耕し、大和の村里の日々をすごしていると、いつしか呆けてくるという。今の世の中は過剰な情報に降りまわされ、右往左往して自分の心の在り処すら見失ってしまいがちである。こんな時代だからこそ、〈奈良ぼけ〉は不思議に輝いてみえる。けだし〈奈良ぼけ〉とは、暮らしのどこかに古代の時間が灯るように残されているということではあるまいか。
(前登志夫著『病猪の散歩』2004年刊所収)
(註)王へんに「干」。
(2013年5月10日発行)

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発行人 根本啓子