水燿通信とは |
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307号雑煮あれこれ |
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俳人の櫂未知子は『季語、いただきます』(講談社刊)の「ルーツ雑煮」という文のなかで、次のように述べている。 |
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新年のテレビ番組を観るたびに違和感をおぼえることがある。それは、私の郷里の北海道の雑煮を紹介されることだ。画面に出てくるものは、たいてい、大きな鮭の切り身が椀の真ん中にあり、イクラがたっぷりとトッピングされている。……あの映像が私にとっては不思議でならない。私の周囲では鮭だのイクラだのを雑煮に用いるという話は聞かなかったし、実家でももちろんそんなのは作らなかったから(実家はそのルーツの一つである東京風雑煮だった)。 |
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北海道は、開拓地である(開拓といえば聞こえがいいが、先住民族からの土地の収奪だったことは誰もが知っているだろう)。明治初期以降、東北地方や関東地方から、あるいは四国などからも、続々、北海道へ渡った。……北海道には出身地の雑煮がダイレクトに「輸入」された。特殊な出汁や具は故郷とそっくり同じように再現するのは難しかっただろうが、出来る範囲で懐かしい味を、各家庭で作り出したのだろう。……雑煮は、基本的に外で食べるものではない。家族だけがいる場所で、その家の作り方で作り、家族だけが食べるものである。一椀の雑煮の中にわが家のルーツがさり気なくおさまっている……。 |
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これと同じような思いを抱く人は少なくないのではないか。かくいう私もそうだ。年末年始の雑誌の特集号などでは、よく日本全国の雑煮が紹介されるが、たとえば私の故郷山形の雑煮として紹介されているものでも、「大根・人参・里芋・こんにゃく・葱・豚肉。しょうゆ味」などとあり、子どものころ食べた雑煮とは違うなあ、大体、あのあたりで雑煮に豚肉なんか入れる家はあったのだろうかと思う(註)。 |
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わが家の雑煮は、鶏肉・牛蒡・こんにゃく(時に山菜も入る時があった)を入れるしょうゆ味で、餅はつきたてのやわらかいものを手でちぎって雑煮の鍋に入れ(椀に直接目の前で切って入れてもらうこともあった)、それをよそった熱いお椀にせりと葱を散らして食べるというものだった。そのほかに、小豆餅、納豆餅があり、時には大根おろしに餅をからませたもの(辛味餅という語は使わなかった)、胡桃を擂って甘く味付けしたたれに付けて食べるくるみ餅などが加わった。納豆餅は納豆の量は少なく出汁をたっぷり用意し、これに鰹節を入れ、せりと長葱を散らして食べるのが我が家流だった。 |
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(私が調べたところによると岩手では雑煮の餅を甘く味付けした胡桃だれに付けて食べる食べ方をするとあったが、わが家のくるみ餅は雑煮の中の餅ではなく、餅を直接くるみだれに入れた。また、奈良、京都、和歌山などの関西圏には雑煮の餅にきな粉を付けて食べる食べ方があるとのこと) |
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わが家では、年末はいつも鶏を1羽つぶして鶏肉を調達した。捌いたあとの骨は何度も叩いて細かくし戻した大豆を混ぜて「たたき」と称する団子にして汁に放ちスープを作ったが、あの汁は雑煮用の出汁に使ったのだろうか。雑煮の汁には「たたき」は入ってなかったと記憶して居るが、あの「たたき」と雑煮の関係はどうだったのか、今ではどうしても思い出せない。 |
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このように、故郷のわが家ではお餅は色々な食べ方をしたが、おせち料理風のものは食べた記憶がない。なますくらいはあったかなという感じで、あとはたっぷりの漬物だけだったと記憶している。 |
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それでは、あの地域のほかの家では、どんな雑煮を食していたのだろうか。中学の同級生だった故郷の友達に尋ねてみた。牛蒡、里芋、山菜、きのこ類、油揚げ、焼きちくわ、鶏肉と具沢山の雑煮だったとか、牛蒡、人参、せり、ちくわ(あとは思い出せない)くらいだったとのこと。たまたまそのとき友人宅に居あわせた友だちに訊いてみたら、秋田出身の人は雑煮用としてわざわざ用意するというよりはたまたまある物、つまり人参、牛蒡、せり、鶏肉、筍、ほうれん草などをいれたとのことだし、九州の人は汁以外で入っていたのは白菜だけ、中にあんこの入った丸餅を入れたという話だった。雑煮にあんこ餅をいれるという食べ方は、私が調べたところでは香川県でやっているとあったが、他の地域にもあったわけだ。また三陸地方出身の友人のご主人は鶏がらでだしをとり、具は鶏肉、凍み豆腐、人参、牛蒡、大根、せり、はらこ(いくらのこと)など、いかにも海が近いことを思わせられる彩りのいい豪華なものを食べていた由。わずか数人の話なのに実に多彩だ。 |
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私の幼いころは戦後の貧しい時期で、餅を食べるということ自体がご馳走だったし、それぞれの家庭の経済状態なども、中に入れる具に影響したのではないかと思う。 |
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故郷の友人の話で共通しているのは、どこの家でも年末に餅を搗き、したがって雑煮の餅は搗きたてのやわらかいものだったということだ。わが家でもこれは同じ。「新しい年が来るぞ〜」といった雰囲気の中で皆が忙しく働いていた、そのひとつの景として庭先での餅つきがあった。雪が積もっている時も多かったはずだが、降っている時は屋内でついたのか、それとも興奮していたせいだろうか、寒かったという記憶はあまり無い。餅のつき手は通常の2人ないしは1人のほかに、3人が掛け声とともにリズムに乗ってつき、その間隙を縫ってもうひとりが餅をひっくり返す、などということもあった。手がつぶされないかとはらはらしたものだが、案外そういったことは起きなかった。 |
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餅は、わが家では大きな器に入れさらに大きなお釜(か鍋)にお湯をはって入れておき、何日かやわらかいものを食べた。友達の家では、2日、3日となると少し固くなるので焼いたとのこと。 |
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家での餅搗きが無くなったのは、わが家では私が中学生あたりからだったろうか、あまりはっきり覚えていないが、大家族だったのが夫婦と子どもだけの普通の家族構成になり、餅をつけるような人が居なくなったことも関係していたのかもしれないが、近くの電気屋さんに餅つきを頼むようになったからだ。「電気屋さん?」といぶかる人もいるかもしれない。あのころ、新しくて便利な文明の利器はみんな電気屋さんを通して入ってきたもので、電気餅つき機をいち早く取り入れたのも電気屋さんだったのだ。そういえば、テレビを早々に取り付けたのも電気屋さんで、なにか大きな事件があると隣近所の人たちはみんなその電気屋さんに見に行ったものだ。 |
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いささか話がわき道に逸れたが、ともかく故郷の山形県内陸部では、以前はそれぞれの家で餅をつき、やわらかいものを雑煮に入れて食べたものだ。だが、雑煮について調べても、餅は丸か画か、焼くか煮るかといった説明だけで、やわらかいつきたてのものがあることに触れたものはたったの一例だった。 |
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冒頭の引用文で櫂未知子がいみじくも述べているように、○○地方の雑煮などという共通したものがあるわけではなく、幼い頃自分の家で食べた雑煮の記憶を持った二人が結婚し、夫婦のどちらか、または両者の記憶(ルーツ)や好みを反映させた、新しいその家独自の雑煮というものが出来る、それがその家の雑煮になるというのが、実際の姿なのではないだろうか。 |
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(註) | 山形地方で行なわれる秋の行事芋煮会では、肉は牛肉を用いる内陸地方に対して、庄内地方では豚肉を用いると聞いたことがある。そのことから推すに、この雑煮は庄内地方のものを紹介しているのだろうか。 |
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〈今月の1首〉 |
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最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも |
齋藤茂吉 |
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歌集『白き山』(昭和21年〜22年の作品)中の絶唱といわれている作品である。私も、齋藤茂吉に関して山形出身ということ位しか知識がなかった時分からこの歌は知っていて、大好きだった。 |
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雪と言っても、深々と降りこめられたような場合には、その中に居ると抱きとめられているようなほのかな暖かさすら感じさせられるような気がする。逆に、体の芯から凍えるような寒さを感じさせられるのは川岸の雪ではないかと思う。吹雪いていればなおさらのことだ。茂吉の歌からは、横なぐりの雪が川面に当ってパシッパシッと音がしてはね上がるように見える感じがよく伝わってくる。川のそばで感じさせられるこの体中が凍えてしまいそうな類の寒さは、寒冷地で近くに川のある地域で育った者でないとわからないだろうなあと、いつも思う。 |
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この歌に関して、大石田に疎開中の茂吉を世話した人物で歌の弟子でもあった板垣家子夫の書いた『齋藤茂吉随行記』に面白い話が載っている。 |
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茂吉、歌人の結城哀草果、地元の二藤部兵右衛門(茂吉は二藤部邸の離れ家に住んだ)・板垣の4人で最上川に架かる大橋に行く角を曲がってすぐ、板垣が『先生、今日は最上川にさか波が立ってえんざいっす(「立っていますね」の意)』といったのを耳にした茂吉が、『君、今何と言った』と尋ね、板垣が『何が?』といった感じではかばかしくない対応をすると茂吉は次のように言ったという。 |
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『それだからいけない、君は。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ。それを少しも大切にしない。粗末にしてしまうから、人に取られてしまうんだ。それから後悔したんでは遅い。その時はもう君のものではなくなってしまう。今の君の言った言葉は哀草果に聞かれてしまっている。見らっしゃい。哀草果は必ず作ってよこすから。造語は一生に一度、使って二度ぐらいに止めるもんだっす。大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないっす』 |
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言われて私もやっと解ったものの、この地方では、『さかさ波』『さかさま波』と常に言っており、それを私が『さか波』と言っただけで、至って軽い気持から言ったのである。 |
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果たせるかな、哀草果はやがて〈横ざまに吹雪はいよいよ吹きつのり最上川の流逆波たつも〉という作品を発表する。だが、塚本邦雄著『茂吉秀歌 「霜」「小園」「白き山」「つきかげ」百首』によると、茂吉はその時点ですでに次のような歌を詠んでいたという。 |
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東風(ひがしかぜ)ふきつのりつつ今日一日(けふひとひ)最上川に白き逆波(さかなみ)たつも |
『ともしび』 |
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秋に入るみちのく山に雨降れば最上川(もがみがは)のみづ逆(さか)まき流る |
『たかはら』 |
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また、中村憲吉は大正10年に「逆(さか)しら波」という語を使っているとのこと。 |
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なお、この歌に関する挿話は、茂吉の次男で作家の北杜夫が著いた『茂吉晩年』から引用した。この『茂吉晩年』は、『青年茂吉』『壮年茂吉』『茂吉彷徨』に次ぐ北杜夫の茂吉評伝4部作の最終本である。この巻の前半では、山形県大石田に疎開中の茂吉が戦後の食料事情の悪い時期にも拘らず、地元の人に大切にあたたかく遇され、茂吉もそれに深く感謝し心置きなく山形弁で話をし(ただし、茂吉のふるさと金瓶村(今の上山市)あたりの言葉とは大石田で使われているそれは大分違っていたらしく、茂吉は地元の人に馴染もうと努力して大石田弁を吸収したようだ)、体調はあまりよくなかったものの、静かで穏やかに過ごしている様子が描かれている。それでも中央などでは、戦時中、戦争協力歌を作ったということで茂吉に対する非難はかまびすしかったし、桑原武夫の第二芸術論が出たりして苛立つことも少なくなかったようである。弟子の山口茂吉に「先生を戦争協力者に挙げているものが居りますから、十分気をつけて下さい」と言われた時、茂吉は次のようなことを言っている。 |
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戦争を勝たせたいという国民感情から、歌を作ったのがなぜ悪いんだ。戦争中は作りたくないときでもジャーナリズムや軍が、無理に作れ作れと言い、作らなければ非国民扱いにする。そして今度は戦犯者だ。ひどいときは、夜十一時頃新聞社から電話が来て、○○が陥落したから十分間で祝いの歌をすぐ五首、電話口で作れなんて言ってよこしたりしたもんだ。こんな無理をさせて作らせたくせに、戦争協力者呼ばわりなどと片腹痛い。癪に障る奴らだ。 |
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好戦的な気分が国の隅々まで溢れていた時代の雰囲気、歌を作れ作れと強要するメディアなど、茂吉にも言い分はあろう。だが茂吉のこの言葉を聞くと、この時点では彼は、戦時中の自らの作品がもたらした意味について思考したような形跡は殆ど見られない。 |
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『茂吉彷徨』の中で北杜夫は、五・一五事件を詠んだ茂吉の作品に関して次のように述べている。 |
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茂吉が五・一五事件の真の背景をどれほど認識していたかは明らかではない。ごく覚束ない庶民的な感情に支配されたのではないか。こうした単純な感情が、やがては無批判な戦争詠にもつながるのである。 |
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実際、茂吉評伝4部作などを読んでみると、斉藤茂吉という人物は到底1、2の言葉だけでは括れない多様な面を有しており、繊細で弱々しい神経の持ち主だった一方、ひどく感情的で癇癪持ちで、論戦などには絶対に負けたくないといった側面もあり、また思考などは時に驚くほどの単純さを示していたことがわかる。北の父茂吉を見るこの視点は、身近なところに居た人間のものとして、真実をついているように私には思われる。 |
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(2013年1月5日発行) |
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発行人 根本啓子 |