水燿通信とは |
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277号 |
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(ヴィクター・セベスチェン著) |
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1989年11月9日夜、東西両ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊した。その日、夜から深夜にかけて東西両ドイツの境界線上にある6つの検問所が次々に開かれ、人々が歓声を上げながら壁によじ登って踊ったり歌ったり、またハンマーなどで壁を壊したりした。壁の西側にも大きな群集ができ、東側から来る人たちを迎え、路上で大騒ぎとなった。この様を伝える映像はたちまちビッグニュースとして世界中に流れ、ベルリンから遠い日本で私も興奮してこの映像に見入り、「世界がこれから大きく変わる。それも必ずやいい方向に」、そんな確信に満ちた期待を抱いた。 |
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そのベルリンの壁崩壊から20年経った昨2009年、このベルリンの壁崩壊に象徴される東欧革命(註)を再構成した本が出版された。豊富な取材と多くの関係者からの丹念な証言収集に加えて、その後公表された公文書類を渉猟して書かれた迫真のドキュメンタリーで、東欧革命に関する本としては、現在のところ最もすぐれたものと言っていいだろう。著者ヴィクター・セベスチェンはイギリスで活躍しているジャーナリスト。ハンガリーで生まれ、幼少時に難民として母国を離れた過去を持つ。 |
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本著はまず東欧革命の前史に触れ、それから本題に入る。モスクワ、ワルシャワ、グダニスク、プラハ、東ベルリン、ブダペスト、ブカレスト、ソフィアなどの東欧諸国の各都市や、ワシントンDC、アフガニスタン、バチカンなどで起こった出来事を年代記風に記述し、はじめはばらばらに見えたそれらの出来事が徐々に結びついて大きなうねりとなり、ベルリンの壁崩壊で頂点に達するのだが、それらを描く筆致には、まるでひとつの壮大な物語を読む思いがする。 |
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ソ連の共産主義を救うことを最優先目標としたゴルバチョフのさまざまな施策が、何よりもソ連崩壊を促進することになった皮肉、一旦権力を握った独裁者やその周囲の者たちが、その座に居続けるために行なう政策は、民衆のことなど全く忘れた醜悪なものになってしまったという現実、1978年に選出されたポーランド出身の新法王ヨハネ・パウロ2世が母国に対して果たした役割、またポーランドの自主管理労組「連帯」のレフ・ワレサの政治的駆け引きや戦術などでみせた驚嘆すべきしたたかさや見事さ、更にアメリカ大統領ジョージ・ブッシュが示した東欧の激しい動きに対する思いがけない対応などなど、息もつかせない面白さ、興味深さである。 |
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そして1989年の半ば頃から年末にかけて、ポーランドに「連帯」主導の政府が発足、ハンガリーのヤノシュ・カダル、チェコスロバキアのミロシュ・ヤケシュ、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー、ブルガリアのトドル・ジフコフなど衛星国の独裁者が次々と権力の座を追われたり老衰で死去し、その間にベルリンの壁が崩壊、年末にはルーマニアのニコラエ・チャウシェスクの処刑があり、東欧革命は終息した。 |
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そのあと、ソ連の衛星国が次々とソ連を中心とする社会主義体制を離れ、東西両ドイツの統一が成り、ソ連邦が崩壊するといった出来事が怒涛のように相次いで起こった。そしてこの頃までは、世界中の多くの人々(私もそのひとりだが)が期待を込めながら予測した「世界がこれから良き方向に大きく変わるだろう」ということも、決して夢ではないように思えた。 |
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だが、ソ連の重石がとれ冷戦構造が終結すると、それを待っていたかのように民族紛争が頻発するようになり(独裁者が政権を維持する為にやった例もあるが)長い間平穏に共存していた異民族同士が、民族浄化の名の下に残忍な殺し合いをやるようになった。単独大国になったアメリカは国連の意思も無視してあちこちの国の政治に対する介入を更に強め、戦争状態の地域を広げている(最近になって、米経済の行詰りからその方向性をいささか変更するムードが出てきてはいるが)。しかも、世界のあちこちに常時紛争をもたらすことによって自らの利益を得ようとする巨大な力の存在も近年になって目立ち始め、それがことの解決をますます困難にしている。特に今日の中東地域での民族や宗教間の果てしない争い、殺し合いは、ソ連やイラクの独裁者フセインの重石が取れて世界が大きく変貌し、更に9・11の連続爆破事件で世界情勢がますます複雑化した結果なのではないだろうか。 |
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この20年の間に金融工学なるものが巨大な力を得てきて世界の金融市場を操るようになり、ひとつの国の命運までも左右するような状況を生むようになったことも見逃せない。その影響もあって、長年の理想が実現したとの評価の高かったヨーロッパ連合体(EU)にも、最近になって綻びが出始めている。世界的に貧富の格差が拡大し、失業者は増大、人々の心の荒廃も大きくなってきている。しかも現在、世界規模での金融危機の最中にある。 |
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本著を読み終えて、私は壁崩壊の頃の出来事を再体験することができ興奮したが、同時にこれからの世界に殆ど希望が持てなくなった現在の世界情勢を、改めて認識することになった。「世界が大きく変わる、それも必ずやいい方向に」といったベルリンの壁崩壊時の興奮も、いまや遠い懐かしさで思い起こすしかない夢物語のようになってしまった。人間とは結局、強大な力で抑え込まれないと駄目な存在なのだろうか、自由というものを良きように使うことを人間に求めるのは、所詮無理なのだろうか、そんな悲観的な思いすら出てくる、昨今の世界の在りようである。 |
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本著の日本語版は、英語版の出版後まもない2009年11月に発行された。三浦元博、山崎博康の共訳。両者とも東欧革命当時、通信社で東欧担当の記者として働き、さまざまな事件を多くの現場で眺め続けたという。訳者あとがきで「眠っていた歴史が突然目覚め、暴れ出したような日々だった」と回想している。文章はよくこなれており、読みやすいいい訳である。唯一、誤植の多いことが惜しまれる。 |
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なお、本著の出版に10年先立つ1999年に『過去と闘う国々 共産主義のトラウマをどう生きるか』(T.ローゼンバーグ著 新曜社刊)が刊行された。これは東欧革命後のドイツ、ポーランド、チェコ共和国、スロバキアで、民主化と脱共産主義がどのように行なわれたか、共産主義政権による全体主義に何らかの形で関わった人々が、如何にその過去を克服しようとしているかを検証した力作である。これらの国で過去を清算する幾多の試みがかえって逆効果になり過去を繰返す第一歩となっている実態を鮮やかにあぶりだし、それでもこのような円環を断ち切ることが如何に大切かを説いている。両著の刊行された時期の差を考慮にいれつつ併読すると、東欧革命や旧ソ連の衛星国、ひいては人間というものや世界全体に対する複数の視点が得られ、興味が深まるのではないかと思う。 |
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(註) | ソ連の衛星国だった東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアにおいて、1989年、共産党政権が次々に崩壊した出来事を指す。 |
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(『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』 2009年11月、白水社刊 4000円+税) |
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(2010年11月9日発行) |
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発行人 根本啓子 |