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276号あきかぜのふきぬけゆくや人の中久保田万太郎 |
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「銀座」と前書きのあるこの句を初めて知ったとき、まず感じたのは作者の孤独であった。雑踏の中にありながら作者は自分が全く独りだと感じている、人生の哀感の漂ういい句だと思った。そしてこの作品は万太郎の代表句〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉と前後して作られたものに違いないと推測した。 |
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久保田万太郎(明治22〜昭和38年)は、小説家、劇作家として知られた人物であり、多くの肩書きを持ち文化勲章も受章したりして社会的な名声には恵まれたが、家庭的には不遇な一生だったようだ。最初の妻と一人息子の親子3人での幸福な時期もあったが、妻は自殺、2度めに迎えた妻とは長い間不仲で結局別れ、また息子にも先立たれた。晩年は愛人の三隅一子の元に身を寄せいっとき安らぎを得たもののそれも長く続かず、一子の急逝によってあっけなく終わった。〈湯豆腐や〉の句は『流遇抄以後』(るぐうしょういご、昭和38年12月刊、万太郎の死後すぐに編まれた)のなか、「一子の死をめぐりて」の前書きのある10句のすぐ後に続けて置かれている。この前書きのある作品の中には〈死んでゆくものうらやまし冬ごもり〉などもある。 |
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〈湯豆腐や〉の句の後半〈いのちのはてのうすあかり〉については、「長い間、業を背負って生きた果てにあらわれたかすかな救いであろうか」(川名大『現代俳句』ちくま学芸文庫)といった類の見方が多い。そんな中で正木ゆう子は「一連の追悼の句から続けて読むと、まるで泣き疲れた人が放心しているような趣がある。……悲しみから回復したのではなく、悲しみのうちにそのまま居坐った否応のない安らかさが「うすあかり」の意味するものであろう」(『現代秀句』春秋社刊)と述べており、私はこの句の情景にいかにも相応しい味わい方だと感じ入った。さらに、このとき万太郎の心に在ったのはこれまでの人生に対する回顧といったものよりは、先に逝った人に対する思いだったのではないか、そして部屋のうっすらとしたやわらかい灯りがそれをやさしく演出しているとも思った。 |
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〈湯豆腐〉の句に関わりすぎたが、この作品を念頭において〈あきかぜの〉の句に接すると、この2句はまるで前後して作られたもののように感じられないだろうか。吹きぬけていく風を詠んでも、たとえば〈炎天の隙間を風の来たりけり 上田五千石〉などには作者の気力が漲っている。だが万太郎のこの句には、雑踏の中にありながら全く孤独なそして気力の失せた老年の姿ばかりが浮かんでならない。ひらがな表記が多いことも、作者の孤独感、寂寥感をやわらかく表現して効果的だ。 |
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実際のところ、この〈あきかぜの〉の作品は、最初の妻と一人息子の3人で幸せに暮らしていた日暮里時代の昭和5年に作られたもので、句集『草の丈』(昭和20年刊)に収録されている。したがって句のできた背景を重視する立場の人たちには、〈あきかぜの〉と〈湯豆腐や〉の2作品を関わらせて味わう味わい方は、到底受け容れられないだろう。現に、〈あきかぜの〉の句に孤独感などを感じる味わい方は見つけることができない。でも、私にはこの句にどうしても雑踏の中のひとりの孤独な老人の姿をみてしまうのだ。そして、短歌や俳句は基本的には作られた背景に関係なく作品それ自体を味わいたいと思っている私は、それでもいいのではないかと思っている。 |
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「風」を題材にした句はいずれの季節にも数多く存在しているが、やはり秋風を詠んだものがさわやかさ、しみじみとした味わいにおいて他の季節の作品を圧倒している。そんな中からいくつか紹介したいと思う。 |
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目を閉じて秋風聴くは訃のごとし | 安住 敦 |
銀杏が落ちたる後の風の音 | 中村汀女 |
秋風に上皇はじめみな流人 | 伊藤柏翠 |
秋風や水より淡き魚のひれ | 三橋鷹女 |
秋風の吹きくる方に帰るなり | 前田普羅 |
秋風の石が子を産む話し | 尾崎放哉 |
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俳句だけに関わって書いて来たが、最後に秋風を詠んだ私の大好きな短歌を紹介したい。 |
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われを知るもののごと吹く秋風よ来来世世(らいらいせせ)はわれも風なり |
伊藤一彦 |
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自分のかたほとりをふっと過ぎていった秋風にある懐かしさを感じ、いずれ自分もこの風のようになるのだろうというわけだ。この作品のように、現世だけでなく来世、来来世をも見据えた作品は、悠久の時間の流れの中では人の一生など何ほどのものでもない、生も死も思い煩うほどのことではないのだという想いを誘う。幾人もの懐かしい人をあの世に送り、自らの死も意識するようになった高齢者にとっては惹かれるもので、日々の生きる厳しさ、体の不如意なども心なし軽やかになるのではないだろうか。 |
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〈魅かれた言葉〉 「人さまの墓」 |
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石牟礼道子の著作を読んでいると、九州の水俣地方で使われている方言がたっぷり使われていて、それらは石牟礼の表現力もあってか豊かな情感を伴った美しい魅力的な言葉になっている。だからこの欄で紹介したくなるような言葉には事欠かない。だが私は『石牟礼道子全集』(藤原書店)の第2部『神々の村』巻末で「本全集を読んで下さる方々に」と題された石牟礼の文の中で、別の意味でのすてきな言葉に出会った。同文をそのまま紹介したい。 |
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わたしの親の出てきた里は、昔、流人の島でした。 |
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生きてふたたび故郷へ帰れなかった罪人たちや、行きだおれの人たちを、この島の人たちは大切にしていた形跡があります。名前を名のるのもはばかって生を終えたのでしょうか、墓は塚の形のままで草にうずもれ、墓碑銘はありません。 |
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こういう無縁塚のことを、村の人もわたしの父母も、ひどくつつしむ様子をして、『人さまの墓』と呼んでおりました。 |
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「人さま」とは思いのこもった言い方だと思います。 |
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「どこから来られ申さいたかわからん、人さまの墓じゃけん、心をいれて拝み申せ」とふた親は言っていました。そう言われると子ども心に、蓬の花のしずもる坂のあたりがおごそかでもあり、悲しみが漂っているようでもあり、ひょっとして自分は、「人さま」の血すじではないかと思ったりしたものです。 |
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いくつもの顔が思い浮かぶ無縁墓を拝んでいると、そう遠くない渚から、まるで永遠のように、静かな波の音が聞こえるのでした。かの波の音のような文章が書ければと願っています。 |
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(2010年10月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |