水燿通信とは |
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260号妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか大西民子(『印度の果実』昭和61年刊) |
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〈ユトレヒト〉という地名が詠みこまれていることに目が止まった。それというのも、以前ヨーロッパに旅行したとき、ひょんなことから縁が出来た町だったからである。 |
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1998(平成10)年10月のはじめ、理由もはっきりしないまま3時間半遅れで成田空港を離陸したKLMオランダ航空機は、11時間のフライトを終えて午後5時40分(現地時間)にアムステルダムに到着した。中央駅で翌日のベルリン行きの列車の切符を買うとすっかり疲れを覚えた夫と私は、ともかく一刻も早くホテルで寛ぎたいと思った。ところがいつもは予約無しでもすぐに見つかったホテルが、その時はどこも満室、散々歩き回って探した挙句、私どもは諦めて駅構内のインフォメーションに最後の望みを託した。ところがここでも窓口には「fully booked」(全て予約済み)の貼り紙がしてある。「たったの一室もないのか」と何度訊いても、答えは素っ気ない“No”のみ。疲れて困り果てている私どもに、しばらくすると窓口の女性が「ここから電車で30分弱のところにならあるが」と切り出してきた。30分と聞いて膝ががくがくするほどの疲れを覚えたが、きちんとしたホテルで駅前にあるというし、ほかにどうするすべもないので、そこに予約を入れてもらい電車に乗った。そして夜の9時、降りたところがユトレヒトだったのである。ホテルの料金はアムステルダム市内に比べて随分安いにもかかわらず、清潔なきちんとした感じのところだったし、朝食は充実したバイキング方式で、大いに満足した。夜遅く着き、翌朝はベルリンに向かう列車に乗るために早々にチェックアウトしたので、この町がどういうところなのか知る機会には恵まれなかったが、以来ユトレヒトという地名は私どもには忘れられないところとして記憶されることになった。あとになってわかったのだが、このときアムステルダムは欧州サッカー大会開催中で、大騒ぎの最中にあったのである。 |
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冒頭の歌に戻ろう。歌の意味は何の説明もなしにすぐわかるだろう。だがこの歌をよりよく味わうためには、作者大西民子(大正13〜平成6)が深く愛していながら繋ぎ止めることが出来ず別れるに至った夫のことを詠んだものだという作歌の背景を知っておくのがいいと思う。 |
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昭和56年に刊行された『大西民子全歌集』の栞の中で、大西の師である木俣修は彼女と夫について次のように述べている。 |
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彼女は深く夫を愛していた。夫は同人誌などに小説を書いたりしていたけれども、その作家として芽を出す日のことなどはとても考えることはできなかった。だから明敏な彼女は夫を作家に仕上げるなどというようなことに、夢を託そうなどとは思っていなかった。夫が好きで小説を書くならいつまでも書かせてやりたい。たとえ無名作家のままで終わってしまったとしても悔いるところはない。ただ二人の間に平安がつづき、ながく生きてくれればよいというような地味な愛情で夫を包みながら生きていこうとねがっていた。 |
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だがこのような形の愛情は、実際のところ夫たる人間にはかなり辛いものだったのではないだろうか。彼はいつしか小説を書かなくなり生活が荒れてゆき、そしてある日突然居なくなる。結局二人は別れるに至るのだが、皮肉なことにその一方で、彼女のほうは豊かな感性と知性とを駆使して孤独な心の傷を叙情的にうたった短歌を作り、歌人として名を成していくのである。 |
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冒頭の歌は、昭和61年刊『印度の果実』に収められている。 |
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〈ユトレヒト〉という地名がとても効果的に用いられていると思う。世界中の至るところに日本の企業が進出し外国旅行など珍しくもなくなった現在においても、ユトレヒトと言われてどこの国のどんな町なのかすぐにわかるような日本人は、それほど多くないのではないか(1713年にここで締結されたユトレヒト条約を知る人もあろうが、だからと言ってこの町を熟知しているとはいえないだろう)。ましてや昭和の終わりころのことであってみれば、それはなおさらである。 |
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どんなところともよくわからないはるけき土地での元夫の生活を想像し、雨の降る空を眺めながら「彼の地でも雨は降っているのだろうか」などと想っているのである。それが現実味を帯びて浮かんでこないだけに悲痛さはかえって胸の奥深くに沈みこみ、夫の失踪から30年以上経ったその時点でも、作者の心の傷は癒えていないことがわかる。と同時に、元夫がこのような国、土地を生きる場所として選んだということは、彼が大西と別れた後も如何に深く悩み苦しんだかを証しているように思われてならない。 |
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〈今月の一句〉 |
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インカの遺跡 ウォールストリートの遺跡 |
新城宏(『層雲自由律』100号 2009、3・5月合併号) |
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明治44年、荻原井泉水が創刊した自由律俳誌『層雲』は井泉水の没後しばらくして、会員同士の意見の対立から『随雲』(後に『層雲』と改称 和久田登生主宰)と『層雲社通信』(後に『層雲自由律』と改称 伊藤完吾主宰)に分裂し、今日に至っている。『層雲自由律』は本年4月に100号を迎え、その記念に会員の2000年以降の作品の自選集を特集したが、その中で見つけたのがこの作品である。 |
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ウォールストリートをかつて繁栄したが今は死せる遺跡となったものとみなし、インカの遺跡と同列に置いているのがすごい。いや、そのようになることを望んでいるということか。リーマンブラザーズの経営破綻に端を発した世界的規模の深刻な経済危機の最中にある今、この作品の衝撃力は特に強い。作者のコメントがまたいい。 |
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今まさに金融帝国主義の発祥地が大崩落している。この句の作が二〇〇一年だからウォールストリート全盛の時期である。当時どんな気持ちでこの句を作ったのだろうと考えてみた。今日を予感していたなんてかっこいいことは言えないが、日本がバブル崩壊で大打撃を被った直後だっただけに、「驕る平家は久しからず」という目で見ていたのかもしれない。金融工学なるまやかしによって世界中が大混乱に巻き込まれた。ウォールストリートは歴史に残るだけでいい。 |
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最後の一文に特に共感する。『層雲自由律』は、全体として社会や政治などに対する批判の精神が旺盛な印象を受ける。その姿勢は評価したいところだが、俳句、特に自由律の俳句の場合、主義主張をあまり強く押し出すと、作品のふくらみがなくなり、単なる言葉の端切れのようになる恐れが出てくる。そんな中でこの作品は成功した例ではないかと思う。 |
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(2009年7月10日発行) |
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発行人 根本啓子 |