水燿通信とは |
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256号『赤土色のスペイン』(堀越千秋著 弦書房刊) |
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スペイン在住三十余年の画家で、カンテ(フラメンコの唄)の名手でもある堀越千秋のエッセイ集である。2001年4月〜2002年12月まで読売新聞に「赤土色のスペイン」のタイトルで週1回、2005年9月〜11月にかけて西日本新聞に「人の上は空である」と題して毎日、連載したのを収録したもので、カラー88点、モノクロ50点の絵を付している。 |
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のっけからとんでもないスペイン人が出てくる。読んでいて「何たるいい加減さ、図々しさ!」とあきれ、「それに比べると我々日本人はなんと正確で手際よくて、万事きちんとしているのだろう」とひどく自己肯定的な気持ちになってくる。 |
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様々なスペイン人やヒターノ(いわゆるジプシー)、外国からの移住者や出稼ぎ労働者などが登場する。スペイン人は総じて絶対謝らず、自説を曲げず、都合の悪いことはみんな他人のせいにし、平気で嘘をつくようなめげない人間ばかりだ。そんなスペイン人と似たようで微妙に違う移住外国人、そして彼らを相手にする著者も、彼らに一歩も譲らずがんがんまくし立て、自分を主張する。その激しいやりとりにはユーモアもあって、なかなかの迫力だ。 |
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ところが、最初は恥知らずとしか思えなかったスペイン人が、本著を読みすすんでいくうちに印象が変わってくる。彼らのやり方、考え方、生き方が少しずつわかってくるのだ。彼らのやさしさ、人間くささすら徐々に感じられてくる。著者は決してスペイン人を美化したりしていないし、結構悪態などもついたりしているのだが、にもかかわらず、その語り口からはスペインをスペインに住む人々を愛している著者が浮かびあがってくる。たとえば、バル(居酒屋)で主人がお釣りを少し多くよこしたりすることについて。 |
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別に老主人はもうろくしておつりを余分によこしたのではない。まず、端数をこまごま勘定するのが面倒なのである。そしてその面倒を、五ペセタ(多くよこした分、約5円 根本註)の十字架として自ら背負う、という心意気なのである。 |
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これぞ、真の気っぷの良さではないか。 |
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わが人生は金に左右されるものではない! しみったれた節約の日々を、おれは受け入れるものではない! と確認するには、常に多少のヤセ我慢と自己放棄が必要なのだ。貧乏生活には欠かすことの出来ぬ“パフォーマンス”であり、気合いである。 |
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値段は五十、百円程度なのに、四、五円を客にやってしまうという心意気を、深く私は愛する。 |
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何? ケチな心意気ですと? |
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じゃ、一円が足りなければ、パンひとつ売らない日本人のケチ臭さはどうだ? その、一見日本の美風とみえる潔癖さと正確さは、本当は弱い者いじめが習慣化したものだ。見たまえ。一円たりとも容赦しない消費税を、権力を持つ強者である政治家や役人は、何とどんぶり勘定で使うではないか。弱い者である庶民だけが、消費税五円でござい、四円じゃ売れません、と互いにいじめ合っているのである。 |
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「この心意気を見よ」 |
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しばしば日本に帰国する著者は、日本や日本人についてもよく言及する。その筆致は日本を客観的に見る視点も加わって鋭く辛辣だ。 |
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たとえば京都国立博物館で行われた「雪舟展」について。この展覧会は著者がわざわざそのために日本にやってきた期待の催しであったが、博物館側の対応の拙劣さに驚き立腹し、そのような博物館側の対応に文句ひとつ言わないで諾々と従っている日本人にひどく苛立って言う。 |
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そもそも何時間も雨の中を、家畜のようにぎっしり並ばされた衆は、なぜ文句もいわずにかくも従順なのか? 私はまずそっちの方に腹を立てていた。不思議でもあった。自由にトイレにも行けず、腰もおろせず、沢山の老人までが濡れて耐えているのである。 |
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庶民だからか。仕方ないからか。館側が番号札さえ配ればもっと人間らしく待てるのに。 |
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私は庶民が嫌いだ。平気で並ぶからだ。愚かな制度にも従順だからだ。 |
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「雪舟と馬鹿野郎」 |
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著者の苛立ちが直接読者に伝わって来るような文だ。しかし私は、末尾の「愚かな制度にも従順だ」の部分に、かつて石川啄木が「時代閉塞の現状」の中で述べた「我々日本の青年は未だ嘗て彼の強権に対して何等の確執をも醸した事が無い」という考えに通じる視点を感じた。つまり日本人はお上や強いものには逆らったりせず従順だということなのだろう。 |
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更にまた、時の首相小泉純一郎や社会党(現在の社民党)党首だった村山富市などの政治家も、容赦なく批判されている。 |
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闘牛、パエージャ、生ハムなど、スペイン独自のものに関する文は、さすが在スペイン三十余年の体験があるだけに中身の濃さが違う。それらについて本書に沿いながら、私の何度かのスペイン旅行の体験を少し語ってみよう。 |
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闘牛 何度もスペインを訪れていながら、闘牛を見ようとはついぞ思わなかった。牛が殺されるのなんか見たくないというのが主な理由だった。闘牛士のナルシステックな(と写真などを見て感じた)衣裳や雰囲気も馴染めなかった。夫も、30〜40代の頃スペインに夢中で何十回となく訪れていながら、「日本を訪れたら歌舞伎を見ないと駄目か? そんなことはないだろう。街中を歩いているほうがずっと興味があるよ」と言って、全く関心を示さなかった。でも本著を読んでみて、闘牛を一度も見なかったことを少し悔いた。少なくとも、それを夢中になって見ている人々を眺めるだけでも見る価値はあったのではないか、と今は思う。 |
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パエージャ(パエリャのこと。ここではこの本の表記に従って、スペイン語の発音に近いこの形にした) 著者は、スペインの大抵の主婦はパエージャを作るのが得意で、おいしいパエージャを食べようとしたら家庭料理に限る、この国では庶民の行くようなレストランでおいしいパエージャを食べるのは無理だと語っている。確かに著者の言うように、セビージャの観光客相手のレストランで食べたパエージャ(信じられないことだが、注文してすぐに供された)は形容するのも不快なほどの不味さで、私は殆ど食べられなかった。近くの席にアメリカ人の夫婦もいたが、夫のほうは食べるとすぐにひどく不機嫌になり、挙げ句に夫婦で口論となった。 |
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しかしマドリッド、ソル広場のそばにある特に高級でもないレストラン(夫のひいきの店)でいつも小一時間待たされて食べるそれは本当においしいし、お店はスペイン人でいつも大にぎわいだ。夫は常々「以前、モナコのグレース妃が訪れたことがあるという高級レストランで食べたことがあるが、そこのパエージャよりここのほうがずっとおいしいよ」と言っている。 |
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生ハム 生ハムは私の大好きな食べ物だ。それをレタス(のような野菜)などとともに丸い固いパンにはさんだものは、長時間列車で移動するときなどよく食べた。私にとってはヨーロッパを思い出させる代表的な味のひとつである。 |
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マドリッドのバルに行ったとき、若い店員が生ハムを大きな塊からスライスしていた。私が珍しがって傍らで眺めていると、彼は私に向かって“Come on!”と言った。私は、「えっ、何? どうかしたの。何かいけないの? それともどっかに案内でもしてくれるのかしら?」などと思いながら、彼の次の言葉を待った。しかし店員はその後何も言わず、生ハムをスライスし続けた。 |
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若い店員の言った意味がわかったのは、旅行が終わってしばらく経ってからのこと。彼は「これはハモン(スペイン語で生ハムのこと)っていうのだよ」と教えてくれたのに違いない。それを私は英語の“Come on!”(カモン)だと勘違いしたのである。 |
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画家としての著者のセンスが光る文があるのも本著の魅力だ。辛辣な文、威勢のいい文に混じって、「地平線の町」のような何かしんとしたさびしさの漂う一編があったりするのもいい。多数収録されている絵も、ユーモアに富んだ独特の味わいがある。 |
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※ | 『赤土色のスペイン』 弦書房刊 税込み2520円
弦書房 福岡市中央区大名2−2−43 ELK大名ビル301
(〒810−0041)
電話 092(726)9885
FAX 092(726)9886 |
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(2009年2月14日発行) |
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※無断転載・複製・引用お断りします。 |
発行人 根本啓子 |