水燿通信とは
目次

252号

放哉の〈見果てぬ夢〉?

子供を詠んだ放哉の句

小浜・小豆島時代の放哉句稿から

 自由律俳句の作家尾崎放哉の作品としては〈咳をしても一人〉〈入れものが無い両手で受ける〉〈墓のうらに廻る〉といった、多分に思索的、哲学的な感じのものが一般には知られている。したがって放哉はこんな感じの俳句ばかり作っていたように思われがちだが、1996年鎌倉の荻原海一氏(荻原井泉水長男)宅で発見された小浜・小豆島時代の放哉句稿(「水燿通信」251号で詳述)を見ると、そのような感じの作品からは遠く隔たった句もたくさん存在していることを知る。そんな中でとくに私の関心を引くのは、子供を詠み込んだ句の多さとそれらの句の持つ感じが一般に喧伝されている放哉句の雰囲気と大きく異なることである。今、発見句稿の中から、子供を詠んだ句の多くを紹介し、そこから得られた事柄について考えてみたいと思う。
句稿1
障子のひくい穴から可愛いゝ眼を見せる
児の対手をして絵本を面白がつてる
どんどん泣いてしまつた児の顔
雨があがつたらしい児等が遊んで居る声が近い
句稿3
遊びつかれた児に寐る灯がある
小さい布団で児がふかふかと寐てゐる(註)
笑ふ時の前歯がはえて来たは
お寺の青梅落ちる頃を児等は知つてゐる
句稿6
葉桜の下で遊びくたびれて居る
何くれとなく母の手助けをして女の子である
なぜか一人居る小供見て涙ぐまるゝ
わが歳を児のゆびが数へて見せる
橋までついて来た児がいんでしまつた
母の無い児の父であつたよ
句稿7
風が落ちたやうだ小供の泣く声
叱られた児の眼に蛍がとんで見せる
句稿8
海風たんとたもとに入れ晩を遊びに出る児等
句稿9
叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る
句稿10
少し病む児に金魚買うてやる
日なたに筵を持ち出して里の児がかたまつてゐる
句稿11
小さい臍が一つあつた赤ン坊の腹
小供四五人で足音を揃へ
赤ン坊に邪魔されて新聞よんで居る
松原松のなかから可愛いゝ児が出て来た
句稿12
お祭り寐てゐる赤ン坊
句稿13
木槿の花と遊ぶ児よ手がかゆいぞ足がかゆいぞ
てんぐるまして児に葡萄をとらせる
ひつそりさしてゐる児よいたづらしてゐるな
ぴしやりと児を叩く音も暮れてしまつた
句稿14
赤ン坊がほり出されたまんまで太つて行く
蛙釣る児を見て居るお女郎だ
子供をあやす顔で泣かれてしまつた
句稿15
みんなわしが産んだ児等を集めて居る
句稿16
悲しいことばかり云ふ児である
句稿17
渚遠く走り行くわが児の夏帽
朝学校へとんで行つた風の子
草花たくさん咲いて児等が留守番してゐる
句稿18
秋陽さす石の上に脊の児を下ろす
ぺたんと尻もちついて一人で起きあがる
句稿19
児に赤い足袋はかせ連れて出る
たくさん児を連れてブラブラ行く
屋根にあがつた児が大声あげとる
どこへ行つてしまつたのか日曜の小供
くりくりよく太つた児がようころぶ
句稿20
小供遊ばす蟹がたくさん居ること
赤ン坊たらひの湯気を立てゝ泣いとる
小供等がよつてお祭の提灯ともす
児のちいさい手に椎の実拾はれ
手のひらにゆびで字を書いて教へる
船の窓ことりとあいて小さい児顔出す
かたわの児は暗い部屋に居るらしい
句稿21
昼は小供が番をしてる島の雑貨屋
句稿22
出べその児も居てあつい砂浜
小さい手足を動かして眼を覚ました
遠くから例の小供の納豆売が来るよ
がらり障子をあけた小供であつた
裏の小供と仲よくなつて菊が咲いて
犬が小供をうるさがつて居る
句稿23
小さい児が雪の小さい道つける
雪の障子をあけた美くしい児だ
小供が来る犬が来る町中のあき地
句稿24
山路花あればつむ小供
句稿25
はだかの脊なから寐た児をはぎとる
をんなじ事を云つては泣いとる
小さい児が夜中一人でいんだ
小供と落葉焚きあげる昼すぎ
小供と二人山の上でうたふ
句稿26
かけ出した児が蜻蛉見つけた
寐た児を炬燵に置いて来る
小さい手から蜜柑をくれた
句稿27
今日も夕陽となり泣いてる児ども
こどもの赤い鉛筆で絵をかいてやる
小供は小供同志のお祭
麦藁吹いて遊ぶよ盲目の児
句稿29
墓原小さい児が居る夕陽
赤ン坊ころがして大根が煮えた
ふた子かなし似て居る
赤ン坊一と晩で死んでしまつた
わが家近くなり児が駆け出す
朝眼がさめた児が唄つてる
おはぎを片寄らして児が掲げて来た
児を連れて城跡に来た
小窓の外から小供に呼ばれる
句稿30
墨つけた顔でもどつて来た
なにかこわした音もしてたそがれ
蛙をつぶし蟹を殺した児がくたびれて居る
児等が未だ遊んで居る一つの窓
戻つたらすぐ竹馬に乗つて居る
絵のうまい児が遊びに来て居るよ
コヽア呑む腕がはち切れそうだ
雪に小便する児等は並び
留守番の小供は寝とる
句稿31
雪国の元気な子供等だ
夕づつ妻から児を抱きとる
脊中で泣く児わが児よ
水たまりをとんで行つた児だ
子どもが好きだった放哉 ざっと見てみただけでも、いかにも子供らしい愛らしい子供が、ほのかなユーモアとともに描かれている句が目白押しである。しかもそれをみつめる放哉の相好を崩したまなざしのやさしさ。ここにいるのは、子供が好きで好きでたまらなかった心優しい放哉である。庵に引き籠り誰にも会いたがらず〈咳をしても一人〉〈入れものが無い両手で受ける〉〈墓のうらに廻る〉といった句を作っていた放哉はここにはいない。
井泉水に採られなかった子供を詠んだ句 子供を詠みこんだこれらの作品の大半は、句稿の発見によって初めてその存在が知られたものである。荻原井泉水はこれらの作品の殆どを選ばす、従って井泉水主宰の俳誌『層雲』に掲載されることも放哉句集『大空』に収録されることもなかったからである。
 それではこれらの作品は価値のない作品というべきなのだろうか。私には到底そうは思えない。たとえば6の4(前の数字は句稿の番号、その後の数字は句の頭につけた番号。以下同じ)、7の2、11の3、13の3、19の5、22の6、23の3、25の2、29の2など愛らしい子供の姿がいきいきとが描かれているが、その中で
〈叱られた児の眼に蛍がとんで見せる〉
〈赤ン坊に邪魔されて新聞よんで居る〉
〈くりくりよく太つた児がようころぶ〉
〈小供が来る犬が来る町中のあき地〉
〈をんなじ事を云つては泣いとる〉
〈赤ン坊ころがして大根が煮えた〉
などは句としても高く評価できるものだと思う。なのにこれらの句は採られなかった。
井泉水は孤独な放哉を創り上げたかった? もしかしたら井泉水は、庵に籠って無言独居を貫く孤独な放哉を創り上げたかったのではないか。そんな放哉には子供を詠みこんだ作品は必要なかった。いやむしろ、邪魔だったと言ったほうがいいかもしれない。そしてその井泉水の試みは大方成功したようにみえる。だが、放哉がやさしい子供好きの側面を持っていたことは確かである。
最悪の体調で作られた「わが子」俳句 放哉の体調は、南郷庵入庵当初から激しい咳や痰に悩まされる思わしくない状態であったが、入庵後は極端に貧しい食生活がそれに加わって、痩せに痩せ、急速に悪化していった。年が明けて大正15年になる頃には衰弱はさらに進み、医院まで歩いていけないほどになって2月はじめには往診を頼んだりしている。井泉水に送られた最後の句稿31には井泉水の手で「二月二十五日着」と朱書きされているから、正月の句が見える句稿25の後半あたりから後の作品は、最悪の体調の中で作られたことになる。これらの句の大半は回想、想像の句と思われるが、そういった中に「わが子」を詠ったものがいくつかある。句稿の後半になると子供を詠んだ句が目立って多くなるが、「わが子」俳句もそれに沿うように多くみられるようになるのである。
〈わが家近くなり児が駆け出す〉
〈朝眼がさめた児が唄つてる〉
〈夕づつ妻から児を抱きとる〉
〈脊中で泣く児わが児よ〉
 子供のいない放哉が、近い将来の自らの死を予感できるような状態の中でこのような句を作っているのだ。これは一体どういうことなのか。
放哉の見果てぬ夢? あるいはこのような情景は放哉の〈見果てぬ夢〉だったのではないか。放哉が望んでいたのは、子供が居てそれを中心に夫婦が睦みあっているごく普通の家庭だったのではなかったか。そんな気がしてくる。放哉が実際に生きた「普通」とは対極にあるような生涯を思うとき、彼の求めたものとのあまりの大きな差に、いたましさの思いを禁じえないのである。
(註)句稿には、正しく表示できない記号が含まれているため、一部異なる表記を使用している。正確な表記は、自由律俳誌『随雲』1997年8、9月号の「放哉未発表句稿」に掲載されている。
(2008年6月28日発行)

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発行人 根本啓子